Too Late for Goodbye - Part1
気付くと、わたしは森の中をさまよっていた。
ここがどこなのかはわからない。
どうしてここにいるのかもわからない。
どこを目指しているのかも不明で――
――わかるのは、ただガンガンと頭が痛むことだけ。
ほとんど無意識のまま、痛みに衝き動かされるようにさまよい続け、やがて、開けた場所に出た。
木々が畏れたようにぽっかりと空いた、森の空白。
その真ん中に、大きな木があった。
屋根みたいに広がった梢の隙間から、きらきらした木漏れ日が降り注いでいる。
天国みたいだ、とわたしは思った。
だから、大樹の根元に銀色の髪の女の子の姿を見つけたとき、天使か妖精だと思った。
――こくり、こくり――
暖かな木漏れ日に包まれて、うとうとと船を漕ぐ、銀髪の少女。
その姿に吸い寄せられるようにして――
さく、と。
一歩、前に踏み出す。
『…………ん……』
伏せられた長い睫毛が、震えた。
そして、ゆっくりと持ち上がり。
宝石みたいに綺麗な瞳が、わたしの姿を捉えた。
『…………んん?』
ことり、と。
少女が小首を傾げると同時。
わたしの意識は途切れた。
◇◇◇―――――――◇◇◇―――――――◇◇◇
『珍しいのう。あんなところで行き倒れとは』
少女はトゥーラと名乗った。
当然ながら天使でも妖精でもなく、エルフとハーフリングのハーフだと言う。
見た目は少女だが、もう何百年も生きているそうだ。
頭痛のあまり意識を失ったわたしは、トゥーラの家のベッドで目を覚ました。
木組みのこじんまりとした家だ。
家族で暮らすには狭いが、トゥーラ一人なら充分すぎる。
『そう恐縮せんでもよい。昼寝が日課の単なるババアじゃ。ただただ時間を喰ろうて過ごす毎日じゃよ』
彼女はそう謙遜するけれど、わたしには『ただただ時間を喰らって過ごす毎日』というものが、途方もなく尊いものに思えた。
どうしてだろう?
頭の中を探っても、何も出てこないのに。
記憶を失っていたわたしに、トゥーラは親身に接してくれた。
『百年に一度会うかどうかの同族じゃ。蔑ろにしては精霊に愛想を尽かされてしまうわい』
彼女自身は、冗談めかしてそう言うけれど。
その表情に、本物の優しさがあることくらい……記憶のないわたしにだって、簡単に読み取れた。
◇◇◇―――――――◇◇◇―――――――◇◇◇
『もう少しゆっくりしておればよかろうに。エルフらしくない奴じゃ』
ずっと続いていた頭痛が治まるや、わたしはトゥーラのもとを離れようとした。
相変わらず、何も思い出せはしないのに……空っぽの頭の中に残った何かが、わたしを急き立てるのだ。
早く。
早く。
早くしないと。
目的地もわからないくせに、とにかく動かなければという気持ちが、わたしの中を満たしていた。
『ろくに記憶も残っておらんままでは危なかろう。俗世は一般常識だけで生き抜けるほど甘くはないぞ?』
わたしが押し黙ると、トゥーラは悪戯っぽく笑って、指を一本立てる。
『ならば、こうしよう。精霊術戦で儂から一本取ってみよ』
困惑するわたしに、トゥーラは一方的に告げた。
『「さようなら」は、それまでお預けじゃ』
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
胸の穴から大きな単眼を覗かせた学院長が、ラケルと対峙している。
その背後には、黒い触手に絡め取られた不死鳥。
ああして精霊のアバターが出ているということは……ただ、死体を操っているだけじゃないのか。
ここは【試練の迷宮】によって作られたダンジョン。
一種の異空間だ。
本来起こり得ないことだって、きっと術師の胸先三寸でいくらでも起こる。
最強の精霊術師、霊王トゥーラ・クリーズそのものが。
そこに復活していたとしても――不思議ではない。
ラケルが、一歩前に踏み出した。
腕を横に突き出して、俺たちを制する。
「あなたたちは退がってて」
「でもっ……!」
アゼレアが言い募ろうとしたが、俺が肩を掴んで制した。
振り返ったアゼレアに、俺は首を振って告げる。
「俺たちがついていけるレベルじゃない」
「っ……!?」
俺だって精霊術師の端くれ。
ラケルの実力を間近に見て――
そして、今の彼女の表情を見れば。
これから始まる戦いが、俺たちの手に負えるものではないことは、容易に知れた……。
俺は歯噛みする。
悔しい。
ラケルだって、俺が守りたい人間の一人なのに。
その力が、今の俺にはない。
今の俺は、むしろ守られる側の子供だった……。
俺たち6人は、黙ってステージの外に出る。
ラケルと学院長――否、パラトゥーラだけがステージ上に残った。
風が吹き渡る。
すべての床板が剥がされたステージから、土埃が舞い上がった。
「――――」
ラケルが何か、呟いたように見えた。
けれどその声は、俺たちのもとまでは届かない。
その言葉を聞いたのは、きっと――
もはやここにはいない、彼女の師匠だけ。
そして、異次元の戦いが始まった。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「――――、――――!!」
金属を擦ったような、声ともつかない声が響き渡る。
それはおそらく、歌。
以前の澄み切ったそれとは似ても似つかない、異形の歌だった。
ステージが蜘蛛の巣のようにひび割れる。
その奥底から溢れ出すのは、破壊神の舌のような紅蓮の炎だ。
――『紅焔』。
トゥーラ・クリーズの精霊術【清浄の聖歌】は、振動を操る。
その応用により、地面を大規模を破壊することも、分子を振動させて熱を生み出すことも思いのままなのだ。
紅蓮の炎がステージ上をあまねく舐める。
ラケルは地面を蹴って高く飛翔した。
そのまま高空に浮遊し、戻ってこない。
炎がステージ上を満たしたままなのだ。
「まずい……!」
「えっ? な、なにが……!?」
俺が呻くと、アゼレアが驚いた。
「師匠は精霊術を同時に二つまでしか使えないんだ。浮遊するのに【巣立ちの透翼】を使っている限り、精霊術を一つしか使えない……!!」
「あっ……!」
ラケルが使う精霊術は、ルーストに比べると出力の点で劣る。
その弱点を、彼女は術を二つ組み合わせることで補っていた。
だが、それができない。
足場を炎が塞いでいる限り……!
ステージ上を埋め尽くした紅蓮の炎は、パラトゥーラの周囲だけ器用に避けていた。
炎の海に一人佇むパラトゥーラは、鉄扇を取り出す。
永世霊王が持つ唯一にして最大の武器。
バンッ! とそれが展開された。
「――――、――――!」
今一度響き渡る異形の歌。
同時、パラトゥーラは空のラケル目掛けて鉄扇を扇ぐ。
そして巻き起こる突風は、ただの風じゃない。
触れた者をことごとく麻痺させる、不可視の振動波だ。
『王眼』を持つエルヴィスですら、この『空震』を躱すことはできなかった。
何せ、完全に不可視。
速度も範囲もまるでわからない。
それが『大気』という武器の最も厄介なところなのだ。
しかし――
ラケルは虚空を蹴り、『空震』を完璧に回避した。
高速で空中を走るラケルを、パラトゥーラは二度、三度と『空震』を撒き散らして捕らえようとする。
だがラケルは、そのたびに絶妙に軌道を変えて躱してみせた。
完全に見切っている。
風が目に見えているかのようだ。
一体どうやって……!?
「――ああっ……! 火の粉だ!」
エルヴィスが不意に声を上げた。
「炎から立ち上る火の粉の揺れを見て、風を見てるんだ……! 『王眼』でも読みづらい風の軌道を、そんな些細な情報から読み取るなんて……!!」
確かに、ステージを埋め尽くした炎からは、星のような火の粉がいくつも立ち上っていた。
でも、それらはすぐに燃え尽きて消えてしまう。
風の軌道を火の粉が教えてくれたとしても、一瞬のことだ。
その一瞬を、ラケルは一度として見逃さない。
空中からでは、炎から舞い上がる火の粉なんて砂粒ほどの大きさもないだろうに――決して見逃さないのだ。
パラトゥーラが鉄扇を振りかぶると同時、ラケルが真後ろに退がった。
火の粉が魚群のように一斉に靡き、すぐに散る。
鉄扇から放たれた振動波が、まっすぐラケルに襲いかかる……!
避けられない……!?
そう思った瞬間。
風が凪いだ。
ラケルが麻痺した様子はない。
当たらなかった――
否。
……届かなかったのだ。
「射程範囲まで読み切りやがった……!」
『空震』の射程外に逃れたラケルは、観客席の上に庇のように伸びた屋根まで退がった。
そして、その上に着地する。
空を覆う闇色のドームをバックに、ラケルはステージのパラトゥーラを見下ろした。
彼我の差は、直線距離で50メートル以上はある。
だが。
ラケルはもはや、【巣立ちの透翼】を使う必要がない。
チカッ、とラケルの両手が赤く輝いた。
直後、パラトゥーラが火炎の中に消えた。
何の縛りもない万全のラケルに、間合いという概念はなきに等しい。
【絶跡の虚穴】によるワームホールを使えば、どこへだって攻撃を届かせられるのだから。
ゴォウンッ!!
と、ステージ上を猛烈な突風が吹き荒れる。
ステージを埋め尽くしていた炎が一瞬で吹き散らされた。
中から現れたのは、服を一部焦がしたパラトゥーラだ。
彼女は初めて自らの足を動かし、ひび割れ焼け焦げたステージの上を走り始めた。
自分の逃げ場を確保するために、自ら生み出した炎を鎮火したのだ。
だが、逃げられるわけがない。
ラケルの【絶跡の虚穴】は、一つの入口に対していくつも出口を作り出せる。
それによる飽和攻撃には、どんなスピードも無意味なのだ……!
ラケルの両手が再び赤く輝く。
【黎明の灯火】によって生み出された炎が、ワームホールを通る過程で何倍にも分裂し――
――そのとき。
パラトゥーラが不意に立ち止まった。
そしてその場で、くるりと舞うように回転する。
ゴォウッ!!
と風が逆巻いた。
まるで竜巻。
パラトゥーラを中心に、猛烈な勢いで風が渦巻いたのである。
しかしそれは、すぐにぱったりと消えてしまう。
あたかも、どこかに吸い込まれてしまったかのように――
――吸い込まれた?
「師匠っ!!」
叫んで顔を上げたときには、ラケルは高く空を舞っていた。
カウンターだ。
ワームホールは単なる穴――こちらから通せるなら向こうからも通ってくる。
ラケルがワームホールの出口をいくつも開けた瞬間、そのすべてに『空震』を叩き込んだのだ。
いくつもの出口から同時に入り込んだ『空震』は、入口でひとまとめになって、ラケルの間近で炸裂する……!
まんまと誘われた。
逃げ場を作ってみせたのは、飽和攻撃を誘うためだった!
舞い上げられたラケルは、空中でピタリと制止する。
【巣立ちの透翼】で慣性を消去したのだ。
だが、それ以上は動けない。
『空震』の効果で全身が痺れているのだ。
ふわふわと空中を漂うのが精一杯。
まさに、俎板の上の鯉だった。
「――――、――――!」
異形の歌が響くと同時、ヴィン、と鉄扇が振動を始めた。
大気すら裂く高周波ブレード。
その威力が、ラケルのいる場所まで届くことは、エルヴィスとのエキジビジョンマッチで証明されている。
――スィン。
静かな音だった。
パラトゥーラが鉄扇を振り抜いた。
ガリガリガリガリガリッ!!!
エルヴィスのときの比じゃない。
鉄扇から放たれた不可視の刃は、ひび割れたステージにさらなる亀裂を刻み、観客席を両断し、壁を駆け上り、屋根をケーキのように斬り刻んで――
ラケルのもとまで、届いた。
力なく空中に浮かぶラケルの身体が―――
―――真っ二つに、両断された。




