一万尺♪
俺は目を覚ます。
意識はすっかり鮮明になっていた。
……あれ……?
ここ、どこだ?
周りを見回しても、見覚えのある景色ではなかった。
散歩ルートはいつも同じはずなのに。
俺はアネリの顔を見上げる。
彼女はまだ歌っていた。
鼻歌ではなく、歌詞のある歌を。
「♪ せっせーせーのよいよいよい ♪」
「♪ このまままっすぐ もーりを抜ければ ♪」
「♪ わたしと兄さんの 桃源郷 ♪」
「♪ ラーンラランランランランランラン ♪」
「♪ ラーンラランランランランラン ♪」
「♪ ラーンラランランランランランラン ♪」
「♪ ランランランランラ…… ♪」
……は……?
これは、まだ……夢……?
いや、違う……。
これは、現実……。
俺を腕の中に抱くアネリが――
上機嫌に、どこかで聞いた歌を――
――あの妹と同じ歌を、歌っている……?
不意に、さっきアネリが言っていたことが脳裏を過ぎった。
――家族水入らずで過ごすつもりなんです
――もうずっと……ずいぶん長い間……会えてなかったんですよ
どうして、それを今、思い出す……?
いいや、俺はきっと、もうわかっている……。
理解を、拒んでいるのだ……。
わかりたくないと、駄々をこねているのだ……!
家族って、誰だ?
ずいぶん長い間、会えてなかった家族って――
もしかして――
それは――
全身に怖気が駆け巡った俺の顔を、アネリが覗き込んできた。
「起きましたか?」
恐怖すら覚える、満面の笑顔で。
「ようやく、ちゃんと再会できましたね」
髪をツインテールに縛ったメイドは。
今年で15歳になる少女は。
この1年、俺の世話役を務めてきたアネリは。
声に目一杯の愛おしさを乗せて――こう告げた。
「15年振りですね―――兄さん」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
俺は、動けなかった。
驚愕と恐怖が、全身を縛りつけていた。
なんで?
なんで?
なんで?
意味がわからない。
わけがわからない。
だって、だってだって!
お前は――アネリは、俺が生まれる前からあの屋敷にいたはずだろ!
ってことは……え、え、え?
つまりこいつは、リーバー家に俺が生まれることを、あらかじめ知っていた……?
そして1年間、何食わぬ顔で世話役を続けていた……!?
なんだよ、それ……。
意味わかんねえよ……!
なんで、そんなことが可能なんだよ……!?
「ふふっ……『なんで?』って顔してますね」
アネリは――妹は。
艶やかに笑って、何でもないことのように語った。
「このわたしが――このわたしがですよ? たかが顔と名前と身分と立場が変わった程度のことで、兄さんのことを見分けられないはずがないじゃないですか」
…………は、ぁ……ああ……??
滅茶苦茶だ……。
そうだ、滅茶苦茶なんだ、こいつは……!
ああ、くそ!
なんて愚かだったんだ、俺は……!
顔も名前も違うからバレないとか。
変わったことをしなければ大丈夫とか。
そんな普通の考え方が、この異常な妹に通じるわけがなかったんだ!!
1年前――神が言った。
全知全能にして造物主たる、神をして言わざるを得なかった。
逃げろ。
隠れろ。
やり過ごせ。
俺はもっと、あの言葉を真剣に取るべきだったんだ。
神さえも逃げ腰にさせたというその事実を、もっと真剣に……!
「わたしは、いつも兄さんの傍にいるんです」
妹は恍惚とした声で、宣告する。
「病めるときも、健やかなるときも、雨の日も風の日も、いつ如何なるときも、兄さんの傍にいるんです。
ですから――逃げるとか、隠れるとか、やり過ごすとか、そういうことを考えちゃ……ダメ、ですよ?」
……くそ。
くそ! くそ! くそっ!!
俺はもがいた。
必死に必死に必死にもがいた。
だが、妹の腕から逃れることはできない。
当たり前だ。
今の俺は、わずか1歳の乳幼児。
まだ一人で歩くことすらできない、無力な赤ん坊なのだから……。
「ふふっ……もうひと眠りしててもいいですよ? 起きた頃には、きっともう着いてます」
……着いてる……?
……一体、どこに……?
「わたしたちの、新居です」
まるで俺の心を読んだかのように、妹はにっこりと笑って答えた。
「今度こそ、誰の邪魔も入らない、わたしと兄さんだけの理想郷で、穏やかに暮らしていくんです。ああ……夢が膨らみます……♥ こっちの兄さんはどんな風に育つんでしょう? ああいや、カッコよくなることはわかってるんですけど、いろいろあるじゃないですか。可愛い系ですかね? カッコイイ系ですかね? 筋肉質? それとも細身? できれば前世の兄さんみたいに、ちょーっと筋肉があったほうが好みなんですけど……ふふ、妄想が止まりませんっ。でも小さな兄さんも可愛くてステキです。丸っこくて柔らかくて、まさに愛らしさの権化! 今の兄さんに比べれば子猫やチワワ如き畜生は単なる獣毛の塊です。ねえ、兄さん。わたし、いつも兄さんのおしめを変えてましたよね? そのとき、わたしが興奮を抑えるのにどれだけ苦労したかわかりますか? あんなに可愛らしいおちんちんを目の前にして、触ることはおろか舐めることもできないなんて、酷じゃないですか! 砂漠に遭難したあと、ようやく見つけたオアシスに、私有地だから入っちゃダメって書いてあったようなものです! ああでも、もう我慢しなくていいんですよね? 触ってもいいんですよね? 舐めてもいいんですよねっ!? ああいやいやダメダメ、落ち着こうわたし。兄さんには第二次性徴が来るまで綺麗なままでいてもらうんだから。楽しみは10年後まで取っておかなきゃ。兄さんの初搾りを受け止めるっていう、前世じゃ果たせなかった夢の一つが叶うんだから、10年くらい大したことない! ああそうそうそう、そういえば。赤ちゃんの話です。赤ちゃん赤ちゃん赤ちゃん! 今の兄さんのことじゃないですよ? わたしと兄さんの間に、今度こそ赤ちゃんを作りましょう! 前世ではわたしか兄さんのどちらかに問題があったみたいで、5年かけてもできませんでしたけど、今度は大丈夫なはず! うざったい血縁だってもうないんです! 何の憂いもなく子作りに励めるってものじゃないですか! 兄さんは男の子と女の子、どっちが欲しいですか? ……あっ、ごめんなさい。これは愚問でしたね。男の子も女の子も、どっちも作ればいいんでした! 生まれたら名前はどうしましょう? 日本風? それともこの世界に合わせて洋風ですか? あの、あのですね。実はわたし、いろいろと案を温めてるんです。前の世界に置いてきちゃいましたけど、子供の名前ノートが三冊もあったんですよ? 本当です! こっちに来てからもたくさん考えたんです。3000個くらい? こんなに考えちゃったら意味ないなあって我ながら思うんですけど(笑) 決めるときは改めて意見を聞きますね。兄さんが考えた名前なら、わたしが考えたのなんかよりずっとステキに決まってますから! あ、それからそれから、子供はどんな風に育てましょう? 男の子でも女の子でも、わたしと兄さんの子供なんだから、可愛くてカッコいいに決まってますよね? 悪い虫がつかないように、家の中から出さないようにしないと! ずっとずっと家の中で、家の中だけで、家族水入らずで過ごすんです! ああ――兄さん、兄さん、兄さん、兄さんっ! もう離しません。もう離しません。もう離しません。もう離しません!! ずっと一緒にいてくださいね? ずっとわたしと過ごしてくださいね? もう――『お出かけ』なんて、しないでくださいね? もしあんなことをまたされたら、また独りぼっちにされたら、わたし、もう、ほんとに、寂しくて、寂しくて、寂しくて、寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて――――――――――――――――――――――――」
「―――――――――――――何をするか、わかりませんからね?」
あ。
あああ。
あぁあああぁあああああああああぁあああああぁあぁぁ……!!!!
今度は。
一体、何年になるんだ……?
前は5年も続いた、あの悪夢の日々が。
赤ん坊から始まって…………一体、何年…………!?
奪われてしまう。
俺の人生が……また、この妹に……!
嫌だ。
そんなの嫌だ。
せっかく、いい家族なんだ。
父さんも母さんも、いい人たちなんだ。
使用人たちまで総出になって、俺の誕生日を祝ってくれた。
そして。
アネリだって。
「……ぁ、ぁあぁあぁぁ……!!」
未成熟な声帯が、形容しようのない声を漏らす。
目の前にあるのは、確かにアネリの顔なのに。
この1年、献身的に、まるで本当の母親のように接してくれた、彼女なのに。
その中身は。
その中身は―――!!
――兄さんを愛していいのは
――目があるから
――わたしが、取ってあげますね?
5年間に渡る、闇と血に塗れた記憶が、走馬燈めいて過ぎ去った。
また、あのときのように。
また、あの日々のように。
妹は、俺から、近しい人を奪い去った……!!
二度と、させるものか。
もう二度と、やらせるものか!
お前の思い通りには、もう二度とッ!!
俺は今度こそ、自分の人生を送る。
成長して、仕事をして、結婚をして、子供を育てる!
だからっ……!
「おっ――――」
大きく息を吸い込み。
小さな胸に、空気と意志とを溜め込んで――
――一気に、解き放つ。
「――――っっっぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!」
自分の中身を丸ごと吐き出すような、それは、泣き声。
人間の赤ん坊が持つ、唯一の、そして最強の自衛手段……!!
人間には、聞くと不快になる周波数ってのがある。
代表的なのが黒板を引っ掻く音だ。
そして実は、赤ん坊の泣き声にも、その周波数が混ざっている。
全聾でもない限り、どんな人間であれ、この音が間近で炸裂すれば、身を竦めざるを得ない。
人間が持ちうる、天然の音響爆弾……!!
「あっ……!?」
ほんの一瞬。
妹の腕の力が、緩んだ。
俺はその隙を逃さない。
全力でもがき、妹の腕の中から――脱出する!
浮遊感が全身を包む。
地面が急速に近付いてくる。
このまま顔面から落ちれば、ひ弱な赤ん坊でしかない俺はただじゃ済まなかっただろう。
だが。
――浮かせろ、【巣立ちの透翼】!
約1メートルに及ぶ落下は、地面すれすれのところで停止した。
精霊〈アンドレアルフス〉の力。
自分および触れたものを浮かせることができる、俺の精霊術。
落下を回避するなり、俺は妹の足を全力で蹴った。
重さを失った俺は、その反動で等速直線運動し、横合いの茂みに突っ込んだ。
枝がちくちく当たって痛かったが、どうにか無事に通り抜ける。
距離を取るんだ。
まずは、とにかく、距離を……!
「…………言ったじゃないですか…………」
背中を追ってくる――かつて、妹だったものの声。
「何をするかわからないって――――言ったじゃないですかぁあぁああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!!!!」
その憤怒から逃げるように、俺は木の幹を蹴って森の奥へと進んでいった。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
充分に距離を取ったあと、あまり目立たなそうな場所で着地した俺は、赤ん坊らしからぬ荒い息を吐いていた。
こんなに長い間――それも激しく運動しながら浮き続けたのは初めてだ。
そのせいか、未だかつてないほど体力を奪われていた。
今まで精霊術を使って疲れを感じたことなんてなかったが、どうやら本気で使うと相応の体力を消費するようだ。
両親の言う通り、俺の精霊術の熟練度が大人のそれに匹敵するとしても、体力は赤ん坊のものでしかない。
精霊術が目覚めた頃から体重が増えたのもあって、浮遊しての移動には、結構な負担があるようだった……。
息が整ってくる。最大体力が少ないからか回復も早い。
これから、どうする?
このまま逃げるか?
屋敷に逃げ帰る――それが一番賢い選択か?
……いいや、違う。
思い出せ。
あの妹は、俺の目の前で、俺に縁のある人間を次々と苦しめて殺した。
今度も同じことをしないと、どうして言える?
倒すんだ。
あの妹という名の怪物に、他ならぬ俺が、立ち向かって――
「…………っ!!」
全身がぶるりと震えた。
恐怖という名の鎖が、どこからともなく湧いて出てきて、俺の心を縛る。
大の大人だったあのときの俺ですら、手も足も出なかった。
だっていうのに――この赤ん坊の身体で、何ができるって?
まだ掴まり立ちしかできない、未成熟も極まったこの身体で。
俺は手近にあった石ころに、なんとなく触れる。
そして、浮かばせた。重力から切り離して、ふわふわと。
【巣立ちの透翼】。
何ができるかと言えば――これができる。
そうだ、決めたじゃないか。
精霊術が目覚めたとき――この才能で、世と人を守るんだって。
多少、予定よりも時が来るのが早かったからって、それがなんだ?
このときのために、たった一つのこの武器を、磨いてきたんだろ……!!
俺は、膝に力を込めた。
小さな足で、大地を掴んだ。
倒すか、奪われるか。
これは、俺と妹との生存闘争だ。
俺の人生も、俺の大切な人の命も。
もう二度と――あの妹の身勝手で、奪わせはしない。
――記念すべき瞬間。
それを見ていたのは、たった一人、俺自身だけだった。
ジャック・リーバーが、人生で初めて己の足で立ち上がった瞬間を――
――ただ俺だけが、深い森の中で、目撃した。




