少年少女
中学生の頃のこと。
俺に、初めての彼女ができた。
クラスメイトの子で、まあ、特段静かでもなければ騒がしいわけでもなく。
クラスで一番目立つ女子グループと時たまつるんでいることがあるくらいの、そのくらいのポジションの子だった。
クラス替えのときに流れでLINEを交換して、なんとなくメッセージをやり取りするようになり、あるときにふと、
『私と付き合わない?』
なんてメッセージが送られてきたのだ。
恋愛感情なんて上等なものが自分にあったという自覚はなかったけど、可愛いなと思うことはときどきあったし、断る理由は存在しなかった。
そんなわけで、彼女ができて。
3ヶ月後くらいに別れた。
なんでって。
フラれたからだよ、なんか知らんけど。
『やっぱなしにしない?』
それもLINEだった。
ポローン、と軽い音ひとつで、あっさりなかったことにされたのだ。
そのあとはまた友達に戻った。
戻れるもんなんだなあ、って思った。
まあ、やったことといえば手を繋いだくらいだし、そんなもんなのかな、って思った。
……いや、強がりはやめよう。
実は割と傷付いた。
『やっぱなしにしない?』に『そっか。まあいいよ』と送り返したあと、俺はぼふんっとベッドに倒れ伏した。
……男って単純だなあ。
好意を示されたら、すぐ靡いちゃうんだもんなあ。
捕らぬ狸の皮算用もするしさあ。
勇気を出して買ったコンドームの存在が、今となっては死ぬほど恥ずかしい。
『う゛ぁー』
枕に顔をうずめて唸り声を発していると、部屋のドアが控えめにノックされた。
『兄さん。ご飯です』
返事しないでいると、もう一度控えめにノックされたあと、
『兄さん? 入りますよ?』
ドアが開く音がして、妹が入ってきた。
俺は枕から顔を上げない。
『どうしたんですか、兄さん? 具合でも悪いんですか?』
『……大丈夫……』
『…………ご飯、持ってあがってきましょうか?』
小学校高学年になった妹は、人見知りが鳴りを潜め、とても気の利く出来のいい女の子になっていた。
『…………お前は優しいなあ…………。やっぱなし、とか言わないんだもんなあ…………』
『えっと……兄さん、もしかして、彼女さんと何か――あっ、すいません、話したくなかったら……』
『……うう……兄ちゃんお前に惚れちゃいそうだよ…………』
『えっ? ええっ!?』
妹は顔を真っ赤にして大仰に驚いた。
『に、兄さん、そ、それ、ほんと――』
『お前が妹じゃなかったらなー……結婚してたのになー……』
『え、あ……はい……そうです、よね……』
それは明らかにがっかりした声だったが、このときの俺にはわからなかった。
『……でも、兄さん、あの方のこと、そんなに好きそうに見えませんでしたけど』
『不思議なもんでさあ……好きって言われたら好きになっちゃうんだよなあ……小学生にする話じゃないか……何言ってんだ俺……』
なんか眠くなってきた……。
瞼が重い。
微睡みに身を任せようとしたとき、妹がそっと耳元で囁いた。
『だいすきです、兄さん』
『ん……俺も好きだぞ……』
くすっという笑い声を最後に。
俺の意識は眠りへと落ちていく。
―― ……でも、兄さん、あの方のこと、そんなに好きそうに見えませんでしたけど ――
俺が彼女と一緒にいるところを、妹に見せたことなどないことに、俺は最後まで気付かなかった。
それは、擦り切れた記憶の断片。
きっとあのとき、すでに終わりが始まっていた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
……暇だ。
私は朝から、ベッドを一歩も出ていなかった。
やることはたくさんある。
霊王戦に向けての訓練。
情報収集。
戦略の策定。
でも、暇だ、と思ってしまう。
やる気が出ない。
何をするにも億劫。
こんなんじゃいけない!
オースティン家の淑女ともあろう者が!
と気合いを入れ、ベッドを這いずり出たときには、もう太陽がだいぶ高くなっていた。
……おなかすいた。
何をするにも食事をしてからだ。
私は朝食兼昼食を摂るために、寮の食堂に向かった。
霊王戦の開幕が近付いているけれど、学院はむしろ解放感に包まれている。
級位戦の前期が終わったばかり、というのもあるし、夏の間は授業があまりない、というのもある。
何より、ほとんどの生徒は霊王戦に出場しないのだ。
霊王戦の会場はこの精霊術学院である。
入学以来、ほとんど学院の外に出ない学院生にとって、霊王戦は年に一度のイベント――
いわば、お祭りのようなものなのだ。
ほとんどの生徒は観戦するだけ。
諜報科や支援科の中には出店を出す人までいる。
だから、私みたいに出場する人間とは、ぜんぜん緊張感が違うのだ。
「あ、髪が赤いひと」
トレイに料理を乗せて席を探していると、フィルに見つかった。
珍しくジャックは一緒じゃないみたい。
「……その呼び方やめてくれる?」
「えー? やだ!」
「やだって……」
そうもあっけらかんと拒否されると、私としても食い下がる気がなくなってくる。
「席がないなら座ってもいいよ、ほらそこ」
フィルの向かいの席が空いていた。
わざわざ他を当たるのも変な話だし、「じゃあ」と私はそこに座る。
いつもやたらと噛みついてくる割には親切だ。
「なんか辛気くさい顔してるねー」
と思った矢先、失礼なことを言われた。
私はむっとして、フォークを取った手を止める。
「失礼ね。霊王戦も近いし、ちょっと気を張ってるだけよ」
「緊張してるの?」
「当然じゃない。家名を背負って戦うんだから……」
大師祖様の称号放棄宣言から程なくして、実家のオースティン家から霊王戦に出るようにと指示が来た。
盤上に置く駒は多ければ多いほどいい。
霊王戦に負けたところで死ぬわけじゃないし、ダメで元々、ということなんだろう。
「じーくんもね、最近は訓練ばっかりで相手してくんないんだよー。エルヴィスくんとばっかり練術場に籠もってさー」
ぶー、とフィルは頬を膨らませた。
「知ってるわ。普段、互いにライバル視してるあの二人が一緒に訓練なんて……それだけ、今回の霊王戦は特別なのね」
「んー?」
フィルがなぜか首を傾げた。
私、何かおかしなこと言った?
「なんか、他人事みたいだね」
フィルがあっさりと放ったその一言が、私の胸に突き刺さった。
「出るんじゃないの? 霊王戦。だったら、もっと焦るとか、難しそうにするとか、あると思うんだけど。……もしかして、やる気ないの?」
「あ、あるわよ! いい機会だもの、ジャックを倒してやるわ!」
「じーくんだけ? あの二人は、みーんな倒して優勝するつもりみたいだけど」
「あ……」
無意識のうちに志が低くなっていたことを突きつけられて、私は黙り込む。
……そうだ。
本当は、とっくに自覚している。
ただ、認めたくなかっただけだ。
私は、ジャックやエルヴィスさんより劣っている。
実力ではなく。
努力ではなく。
才能で。
事実、空元気で口にした志すら、彼らに届いてはいない。
わかっているのだ、そんなこと。
2年半もあったら……否応なく、わかってしまうのだ……。
「ねえ、髪の赤いひと」
「だから、いつまで言ってるのよそれ……」
「じーくんのこと好き?」
「ふぐっ」
突然何を言い出すのよこの子!
変な息出ちゃったじゃない! はしたない!
「……そんなんじゃないわ。何度も言ってるでしょ?」
「そっか。まあどっちでもいいけど」
「なんなのよ、いきなり……」
「いちおう先に確認しておこうかなーって」
「話が見えないわ」
フィルはフォークに刺したリンゴをかじり、当然のことのように言った。
「今度の霊王戦でね、じーくんのこと、みんな無視できなくなっちゃうでしょ?」
「……かもしれないわね」
過去、これほど注目度の高い霊王戦はなかった。
この大舞台で、学生の身ながら結果を残せば、誰も放ってはおかないでしょう。
ジャックの実力と才能なら、それは充分に有り得ることだ……。
「そしたらね、みんな放っておかないと思うの」
「縁談が持ち込まれる……ってこと?」
「うん」
ジャックは伯爵家の嫡男だ。
11歳という年齢のことも考えれば、その可能性は高いと思う。
「だからね、先に宣言しておくことにしたの」
まっすぐに私の目を見て、フィルは言い放った。
「――じーくんは、わたしのだよ、って」
私は息を呑む。
よく一緒にいる6人の中で、フィルは一番子供っぽく見えた。
けれど、もしかすると、一番強かなのはこの子なのかもしれない。
その表情には、強くそう思わせるものがあった。
「わたしたちが本当に結婚したら、みんな、喜んでくれるかな?」
「……ええ」
私は本心から頷いた。
「きっとみんな、思いっきり祝ってくれるわ。もちろん私もね」
「そっかあ……よかった!」
そう言って、フィルはパッと笑顔になる。
2年半経っても、その裏表のない笑顔だけは変わらない。
この子は一生懸命なのだ。
こうと決めたら絶対にブレない。
たとえどんな障害が立ちふさがっても、乗り越えていこうとするだろう。
それに比べて――
そうして、私は。
自分に足りないものを数え始めた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
自主訓練を終えた頃には、日が傾いていた。
今日もエルヴィス殿下はジャック・リーバーと練術場に籠もっているらしい。
日が完全に沈むまでお帰りにならないことも多いようだ。
ご無理はなさらないでほしいものだが、オレが言うのも僭越だろう。
オレは寮のロビーに入る。
ちょうど大浴場が開いている頃だ。
早めに汗を流してしまおう。
そう思って、寮1階の奥にある大浴場に足を向けようとしたとき。
ちょうど風呂から上がってきたらしい者が、姿を現した。
「ん。ようガウェイン。いま帰ってきたのか? 汗くせーなぁ。ははは!」
ルビー・バーグソンだった。
髪がしっとりと濡れ、薄いシャツ1枚で上半身を覆っている。
ふとした拍子に中が見えてしまいそうだ。
なんと無防備な……!
「貴様……」
「なんだよ。なに怒ってんの? ってかこっち見ろよ」
「ここは公共の場だぞ。そんな、その、破廉恥な格好で出歩くなど――」
「……ははあん?」
ルビー・バーグソンはにやりと口角を上げた。
ろくでもないことを考えているときの顔だ。
「へえ~。なに? あるんだ、そういうの? 騎士サマにも?」
「何の話だ!」
「そうだよなあ。騎士サマだって世継ぎを作らなきゃだもんなあ。ふ~ん。へえ~」
不愉快な……。
ここぞとばかりに鬼の首を取ったような顔をしている。
「土下座するなら見せてやってもいーけど?」
「貴様……オレを愚弄するのか……!」
「しますよ、してますよー。ほれほれ」
ルビー・バーグソンはシャツの襟元を引っ張ってみせ、オレを挑発する。
こいつにはいくら凄んでも効果がないのだ。
おのれ……。
このままでは奴のペースだ。
話を逸らさなければ。
ちらちらと覗く胸元から視線を剥がすと、ルビー・バーグソンの頭の上が気になった。
大きなベレー帽だ。
入学のときからずっと被っているものだ。
これを被っていないバーグソンを、オレは見たことがない。
「貴様……その帽子、風呂上がりでも被っているのか?」
思わず手を伸ばしかけた瞬間、
「触んな!」
バーグソンが帽子を両手で押さえ、身を守るように距離を取った。
オレは手を伸ばしかけた姿勢のまま硬直してしまう。
こうまで拒否されるとは思わなかったのだ。
「あ……いや、その、気に入ってるからさ! 汗だらけの手で触られっと困るしな! はは……」
我に返ったように、バーグソンは慌てて取り繕った。
依然、帽子は押さえたまま。
「いや……オレこそ、悪かった。無神経だった」
「わかりゃいいんだよ! わかりゃ!」
バーグソンは取り繕った声で笑い、ようやく帽子から手を離す。
あの帽子には……何かあるのだろうか?
……いや、やめよう。
相手がルビー・バーグソンだとはいえ、他人の秘密を無闇に詮索するものではない。
「それより!」
やや強引に、バーグソンが話題の転換を図った。
「霊王戦の準備は進んでんのかよ? やっぱりあんたも出るんだろ?」
「貴様こそ。『屑拾いのバーグソン』が弟子たちに召集をかけたと聞いたぞ」
「その屑に足元を掬われねーようにするんだな。慢心油断はてめーらの専売特許だろ?」
「ふん。級位戦ではオレに負け越しているくせによく言う」
「たった1勝差だろうが! 最初の初見殺しがなかったら同点だっつーの!」
「前期の勝率ではオレのほうが上だった」
「それも大して変わんねーよ! てめー、霊王戦で当たったら大観衆の前でボッコボコにしてやっからな!」
「やってみろ。どうせ無理だろうがな」
「へっ! ムッツリスケベが!!」
「なっ……!? 根も葉もないことを!」
「あたしのおっぱいちらちら見てただろー?」
「見てない!」
「見てましたぁー! ほれほれ!」
「ばッ……! よせっ! こんなところで胸元を引っ張るなあっ……!!」




