人知れぬ前哨戦
夜の王都を、紳士が歩いていた。
闇に溶けるような漆黒のスリーピースを身に纏った、初老の男である。
背の低い男を一人、供に従えていた。
紳士の流れるような足取りが不意に止まる。
供の男がつんのめった。
紳士は星ばかりが広がる夜空を見上げ、ぽつりと呟く。
「……にわか雨か」
そして、杖のように地面に突いていた黒い傘を、頭上に広げた。
供の男は首を傾げて空を見上げる。
「雨なんて――」
瞬間だった。
周囲の建物の屋根の上から、人影が躍り出た。
人影の両手から銀閃が走る。
降り注いだのはナイフの雨だった。
ひっ、と供の男が悲鳴を漏らした。
紳士は動じない。
ただ、くるんと傘を回す。
それだけで、降り注いだナイフの雨は、ことごとくが傘に弾かれた。
人影が石畳に着地すると同時、紳士は傘を閉じる。
供の男だけが、その場にヘたり込んでいた。
「ずいぶんと礼を欠いた挨拶だ。親に習わなかったかね? 朝は『おはよう』、昼は『こんにちは』、夜は『こんばんは』だよ、若者よ」
「そいつは初耳だな。次からはそうするぜ。こんばんは、『武闘紳士』ブラッドリー・モグリッジ。ご機嫌はいかがかな?」
「ふむ。あまり悪くはない。若者が一人、きちんと挨拶をしてくれたのでね。こんばんは、名も知らぬ若者よ。君は民主派の手の者かね?」
「そうだと言ったら?」
「答えるまでもない。挨拶には挨拶を返すのが礼儀だとも」
一触即発の空気が流れた。
次の瞬間、何かほんの少しでもきっかけがあれば、殺し合いの火蓋が落ちる――
そのきっかけを。
紳士でも、襲撃者でもなく。
背丈の低い、供の男が作った。
懐からナイフを取りだしたかと思うと、紳士の背中に突き刺したのだ。
供の男は、会心の表情を浮かべた。
ずっとこの機を伺っていたのである。
この紳士――
たった4人しか存在しない『九段』の一人である、この精霊術師の命を刈り取る機会を。
しかし。
「いただけないな。紳士のスーツに傷を付けようとするとは」
ナイフの刃は、スーツの生地にも届いていなかった。
紳士の左手が、親指と人差し指でナイフを掴み取っていたのだ。
驚いた供の男の手からナイフがあっさりと抜け、紳士の手に収まる。
「これは返却しよう」
ひらり、と。
供の男の目の前に、1枚のハンカチが舞った。
紳士が指だけで投げ放ったナイフが、それを貫く。
ハンカチを縫い留める形で、ナイフが男の眉間に突き刺さった。
白いハンカチが真っ赤に染まっていく。
男が断末魔代わりに弾けさせた鮮血は、ハンカチに遮られ、紳士のスーツには一滴も届かなかった。
「――さて」
さっきまで従えていた男を平然と殺害した紳士は、平静そのものの態度で振り返った。
そこには、チャンスと見た襲撃者が、手が届く位置まで肉迫していた。
「死ねっ……!」
ナイフが人知を超えたスピードで閃く。
目視不可能。
防御不可能。
回避不可能。
その刃をもってすれば、命は等しく灯火を散らす。
――ただし、敵の肌に届いたなら。
「かっ……!」
襲撃者の喉元に、紳士の指が軽く触れていた。
たったそれだけで、襲撃者は指一本動かせなくなっていた。
「なんっ……こ、はっ……精れ、術……!?」
「紳士の嗜みだよ」
紳士が指に軽く力を込めた。
たったそれだけで、襲撃者の身体が吹き飛んだ。
襲撃者は石畳に何度もバウンドしたのち、力なく転がって動かなくなる。
「やれやれ。王都も物騒になったものだ」
二人の襲撃者を容易に蹴散らした紳士は、呆れたようにそうごちた。
「霊王の座が欲しいのなら、正々堂々、霊王戦で戦えば良かろうに。
――君もそうは思わんかね?」
唐突に。
紳士は、誰にともなく問いかけた。
すると、路地にわだかまる闇の向こうから、声だけが返ってくる。
「思わないね! 霊王戦? あんなのはお遊びだ。戦いじゃあない!」
続いて、一人の女性が闇から姿を現した。
髪を紫に染め、大胆に臍を晒した、およそ王都の人間とは思えないスタイル。
両耳にぶら下げたアクセサリーをじゃらじゃら揺らしながら、女性は路地から歩み出てくる。
「斬っても殴っても傷一つ付かない。あの学院での戦いほどつまんねえもんはねえ。けど、厄介なことに、一番強ええ奴が集まるのはあそこなんだよな。ままならないったらねえぜ。なあ?」
「バトルマニアは相変わらずかね。そんなことだから嫁のもらい手がつかないのだよ」
「生憎と、もらってもらおうと思ったことがなくてね。もしこのあたしを組み伏せられるような奴がいたら、はン、ガキの1匹や2匹産んでやってもいいけどな」
にやあ、と、女は唇を吊り上げた。
双眸は獲物を見るときのそれ。
野生動物のような眼差しで、女は紳士を見据えていた。
「出るんだろ? 霊王戦」
「浮き世のしがらみというやつだ。古くより友誼を結んできた家々の頼みとあらば、無視するわけにもいくまい」
「『鉄の将軍』のジジイまで出張ってくるって言うじゃねえか。トゥーラの奴があたしに負ける前に辞めやがったのは心底ムカつくが、九段がこれだけ揃う霊王戦なんて何年ぶりだ? 今から武者震いが治まらねえよ」
「ってことで」と、女はさらに笑みを深める。
「この武者震い、止めるの手伝ってくんね?」
「……女性の頼みとあらば、聞かないわけにはいかないがね」
「簡単簡単。ちょっと殴り合ってくれるだけでいいからさ」
「ふむ」
紳士は手に持った黒い傘を、天高く放り投げた。
傘は遙か上空で展開し、ふわふわと落下を始める。
「傘が落ちるまでに終わらせよう」
紳士が優雅に構え、
女が獰猛に笑った。
『武闘紳士』ブラッドリー・モグリッジ九段。
『神滅鬼殺』メイジー・サウスオール九段。
霊王トゥーラ・クリーズに次ぐ精霊術師界の最高峰――
わずか4人しかいない九段のうちの2人が――
王都の闇で、人知れず激突した。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
翌朝。
王都の一角に、野次馬が集まっていた。
王都の治安を司る王国騎士が野次馬を押し留めている、その内側。
トゥーラはその有様を見て、苦笑を浮かべざるを得なかった。
「街中で派手にやってくれたものじゃ」
嵐でも通ったかのように石畳がめくり上がり、その下の地面には巨大なクレーターができている。
血痕らしきものが随所に見られ、ここで何者かが戦ったことは間違いなかった。
何者か――それも、九段以上の精霊術師だ。
トゥーラは騎士団の現場責任者に言いつける。
「霊王戦が始まるまで、同じようなことが何度か起こるじゃろう。大変じゃろうが、対応をよろしく頼むぞ」
「はッ! お任せください、霊王閣下!」
現場責任者は、怯みもせず綺麗な敬礼を決めた。
トゥーラは頷いて、再びボロボロになった道路を見た。
「それにしても、いきなりあやつらがぶつかるとはのう」
トゥーラが霊王の座に居座っていたことで押さえつけられていたものは、案外大きかったのかもしれない。
想定外の事態にも対応できるよう、準備をしておくべきだろう。
「まだまだ隠居はさせてもらえんようじゃな……」
かすかに苦笑を滲ませ、トゥーラはひとり呟いた。




