触手巨眼虫パラボール
ぞるぞるぞるぞるぞる。
真下の奈落から迫り来る巨大な触手の塊。
あれに捕まったらどうなるか?
考えたくもない。
死んだほうがマシと思えるような、おぞましい目に遭うことは目に見えている。
だから、選択肢は一つだった。
「上だ、エルヴィス!」
「うん……!」
逃げの一手。
もし俺の想像通り、臥人館が人間の如く立ち上がったのだとしたら、ひたすら真上に逃げ続ければ出口に辿り着く!
俺たちは虚空を蹴り、上へ上へとひた走った。
さっきまでは廊下だった縦穴を、まるで太陽を目指す鳥のように。
ちらりと下を見て、俺は舌打ちした。
「くそっ! あいつ速いな……!」
スピードはほぼ互角。
引き離すことはできていない。
それを確認して頭上に視線を戻すと、俺は苦々しく歯噛みした。
「腰の扉か……!!」
胴館と脚館を隔てる大きな観音開き。
それがピッタリと閉じ、俺たちの行く手を阻んでいたのだ。
「まずい! 悠長に開けてたら追いつかれる!」
「……こうなったら、気にしてもいられないか……!!」
エルヴィスの両手から数メートルの空間が、上下を反転させた。
蜃気楼の剣。
エルヴィスはそれをぐるりと螺旋状に振るった。
壁が轟然と破壊される。
無数の瓦礫が雨となり、迫り来る巨大触手生物に降り注いだ。
これで時間が稼げるか。
今のうちに扉を開けるんだ……!
そう思ったのも束の間。
無数の触手が振るわれた。
瓦礫という瓦礫を、弾き、払いのけ、あるいは砕く。
それはまるで、触手それぞれが意思を持っているかのようだった。
「牽制にもならないなんて……!」
エルヴィスが悔しげに呟く間に、触手がさらに動く。
「反撃来るぞ! 避けろ―――っ!!」
まるで嵐だった。
大量の触手が、空間全体を貫く。
俺たちはその隙間にどうにか身体を滑り込ませた。
標的を捉えられず、壁に突き刺さった触手は、先端に瓦礫をくっつけたまま引き戻されていく。
もう一度来る。
確信があった。
それと同時に、腰の扉に辿り着く。
「――ダメだ! 鍵がかかってる! 開きそうにないよ!!」
「壁は――無理か……! 煉瓦作りじゃない……!」
袋小路……!
このままじゃあの触手の化け物に捕まって終わりだ!
何か。
何かないか?
攻略法が、どこかに……!
半仮面の男は言っていた。
挑戦者が攻略可能なダンジョンしか作れないと。
なら、この状況も脱する方法があるはずなんだ。
どこかに、何か……!
俺は持てる観察力をフル動員した。
奈落から迫り来る触手生物を見る。
さっき触手の先端に張りついた瓦礫が、そのままになっている。
――そうか。
いけるか!?
「こっちだ化け物!!」
扉の前で挑発すると、触手が槍のように伸ばされてきた。
俺はそれを紙一重で回避する。
触手は背後の扉に張りついた。
それを確認しながら、俺は触手に手を触れる。
硬い。
頑丈そうだ。
これなら……!
【巣立ちの透翼】。
触手生物の体重を消去する。
なんて重さだ、こいつ……!
すべての重さを消し去るのに、1秒以上を要した。
だが、成功だ。
体重を支えていた触手が周囲の壁から離れ、ふわふわと宙に浮いている。
体重を戻した。
触手で身体を支えていない触手生物は、重力に引かれて落下する。
触手にくっついている扉ごと。
バッゴン!!
と、扉が触手に引っこ抜かれた。
触手生物もろとも、奈落の底へと消えていく。
「今のうちだ!」
「うん!」
壊された扉を通り抜ける。
それからしばらく経っても、あの凄まじい体重が底に激突した音は聞こえてこなかった。
腰の扉が奈落の底に霞みかけた頃。
凄まじい轟音を撒き散らし、触手生物が扉を周囲の壁ごと破壊してくるのが見えた。
「やっぱりそう簡単に諦めてはくれないか……!」
まずいぞ。
この先にはもう一つ扉がある……!
今度はどうやって突破するか考えながら、縦穴を這い上ってくる触手生物を見る。
目が合った。
メデューサの髪のように不気味に蠢く、触手の奥――
そこから覗く巨大な単眼が、こちらを見据えていたのだ。
「エルヴィス!」
「えっ……!?」
戦慄に駆られ、エルヴィスを突き飛ばす。
その反動で自分も横に逸れ――
直後。
閃光が目を焼いた。
青白い輝きの、熱線。
ビームだった。
触手生物の単眼から放たれたそれが、直前まで俺とエルヴィスがいた空間を貫いたのだ。
ちりちりと空気が焼ける音がする。
焦げ臭いにおいが鼻についた。
何より、刺すような熱が肌を焼く。
直撃したらどうなる?
考えるまでもない。
蒸発だ……!
「目を見ろエルヴィス! そこから出てる!!」
発射から着弾までのタイムラグはゼロに等しい。
視線の行き先から照準を読むしかない!
頭上へと逃げる。
下からのビームを避ける。
これを同時にやるのは、脳に凄まじい負担をかけた。
頭がぶっ壊れそうだ。
でもやらなきゃ、頭どころか全身が消えてなくなるのだ。
「ジャックくん! 扉だ!」
頭上に首の扉が現れた。
あれさえ抜ければ、あとは出口に一直線!
でもどうする?
学習しているのか、触手生物はもう不用意に触手を伸ばしてこない。
どうやって閉ざされた扉を突破する!?
「任せて!」
そう叫びながら、エルヴィスが矢面に立った。
触手の奥の単眼が、エルヴィスに向く。
ヤバい。ビームが……!
カッ! と単眼が光を放った。
青白い光線が一瞬にしてエルヴィスに届き――
曲がる。
まるで弾かれたようだった。
しかし、違う、と俺は理解する。
これは屈折だ。
エルヴィスが高気圧空間を生み出し、その気圧差によって、ビームを屈折させたのだ。
屈折させられたビームは、見事に首の扉に着弾した。
観音開きの大扉が一撃で吹き飛ぶ。
行く手を阻むものは、これで一つもなくなった。
俺とエルヴィスは用を為さなくなった首の扉を抜ける。
続いて、触手生物が壁を破壊して追ってきた。
しつこい奴だ。
でも……!
怒濤のように迫り来る触手と熱線。
それを、避ける、避ける、避ける。
光が見えた。
星と月の光だった。
俺たちはそこに手を伸ばし、最後の数メートルを全力で駆け抜けた。
伸ばされた触手は、しかし、届かない。
新鮮な空気の中に飛び出した俺たちの背中、そのほんの数十センチ手前で、止まった。
届かなかった触手は、諦めたように臥人館の中に戻っていく。
入口から充分な距離を取った俺たちは、空中に浮いたまま振り返った。
やはり、臥人館は立ち上がっていた。
ご丁寧に、両腕に両足と、人間めいた形に変形までして。
「ジャックくん……周りを見てくれ」
言われて視線を走らせれば、ここは異様な空間だった。
ドーム状の闇のようなものに囲われている。
広さは、実際のフィッツヘルベルト邸のそれと同程度だろう。
広大な闇のドームの中に、俺たち二人と、立ち上がった臥人館だけが存在しているのだ。
「……まだ帰れそうにないな」
「うん。もうひと仕事こなさなきゃいけないみたいだ」
人型に変形した臥人館の上に、小さな人影が見えた。
遠目だが、顔を仮面で半分隠した男であることは、想像に難くない。
「ダンジョンはボスを倒さなきゃ終わらない。そういうもんだ。誰が決めたのか知らねえがな」
言葉の直後。
臥人館に異常が生じる。
顔に当たる部分の窓が割れ、中から触手が溢れ出した。
それだけじゃない。
各部の窓が割れ、壁が崩れ、大量の触手が溢れ出す。
ズズッ、ズズズズズッ……!!
軋むような音を立て、手足がゆっくりと動き始めた。
操られているのだ。
内部を満たした触手が筋肉となり、骨となり、臥人館を傀儡として操っているのだ。
最後に、右目に当たる位置に、あの巨大な単眼が現れる。
そうして、触手と煉瓦でできたおぞましい巨人が、そこに生誕した。
「名付けて、≪傀儡巨人館パラガント≫」
男の声が淡々と告げる。
「我ながらなかなかの出来映えだ。――ま、適当に遊んでやってくれや、ガキども」




