臥人館の誘い
その屋敷は、奇妙な出で立ちをしていた。
向かって左端に入口があり、そこから右に伸びていくようにして、灰色の壁が続いている。
その出で立ちは、まるで横臥した人間のようだった。
だから、この屋敷は『臥人館』と呼ばれているという。
ラヴィニア・フィッツヘルベルトの居館である。
「おい、行くぞ」
門兵に手形を見せた男は、ぞんざいにそう言って門を抜ける。
俺とエルヴィスは無言でその後をついていった。
俺の左の袖が風に揺れる。
エルヴィスが右目につけた眼帯に触った。
扉を目指して歩きながら、俺は脳裏で目的を再確認する。
――王権派の貴族を、民主派との全面対決に踏み切らせるもう一押し。
それは大義だ、とエルヴィスは言った。
大義は自分たちにある。
自分たちこそ正義だ。
間違っているのは敵のほうだ――
そう思える何かがなければ、人はなかなか本気では戦えない。
ならば与えてやればいい。
ラヴィニアが悪である証明を。
子供を売買している以上、その会計に関する書類が、屋敷のどこかに必ずあるはずだ。
屋敷に潜入し、それを盗み出す。
ラヴィニアお好みの、五体不満足の子供に変装して。
なるほど、これは俺たちにしかできないことだった。
もちろん、そのためだけに左腕だの右目だのを生贄に捧げたわけじゃない。
ルビーに協力を仰いだ。
彼女の精霊術【一重の贋界】は、膜状の『偽物の世界』――彼女は『贋界膜』と呼んでいる――を一時的に作り出して、現実世界に貼り付けてしまうという、割ととんでもないものだ。
例えば、『誰もいない世界』を作り出してそれで自分を覆ってしまうと透明人間になる。
逆に、『傷一つない床』を作り出して床にある穴を塞げば、穴があるようには見えない。
プロジェクションマッピングやARみたいなものだと思えばいい。
ただし、ルビーの贋界膜は、映像だけではなく実体がある。
あるように見えるものは触れるし、ないように見えるものは触れない。
以前はまだ未成熟で、人間の身体みたいに動くものを贋界膜で隠しても、手で触れることができたり足跡が残ってしまったりしていた。
だがそれも2年半の間で克服され、今はこうして、贋界膜で覆ったものは触ることすらできない完全な透明になる。
その便利な能力で、俺の左腕とエルヴィスの右目を欠損したかのように見せかけ、顔も別人に見えるようにしてもらったのだ。
当然、事情を話したら止められたのだが、そこはひたすら頼み倒すことで事なきを得た。
代償として半端じゃないくらい奢らされる羽目になったが。
アゼレアならともかく、ルビー相手だと口先で丸め込むわけにはいかなかったのだ。
闇商人の男に連れられ、俺たちは扉を抜けていく。
屋敷が横たわった人間だとしたら、入口の扉は、ちょうど口の位置。
巨大な人間のような屋敷の口の中へと、俺たちは飲み込まれていくのだった……。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
老執事に出迎えられた俺たちは、屋敷の奥――入口から見て右のほう――へと案内されていく。
そちらに執務室があり、ラヴィニア・フィッツヘルベルトはそこにいるらしい。
絵画や彫刻が飾られた豪奢な廊下は、貴族としては何の変哲もないものだ。
この屋敷に五体不満足な子供たちがコレクションされているなんて、知っていなければわからなかっただろう。
逆にそれを念頭に置くと、窓と窓の間に何気なく置かれている少女をかたどった彫刻も、どこか不気味に見えてくるのだった……。
いくつもの扉の前を過ぎると、一回り大きな扉に突き当たった。
扉の上のプレートに『首の扉』と書かれている。
「ここまでが『頭館』でございます。これより先の『胴館』との間は、この『首の扉』を通ることでしか行き来できませんので、お気を付けを……」
老執事が言う。
人体になぞらえた名前が付けられているのか。
臥人館、というのは通称ではなかったらしい。
『首の扉』を抜けて、また廊下をまっすぐに歩いていく。
やがて、また大きな扉に突き当たった。
扉の上のプレートには『腰の扉』。
ここから先は『脚館』で、例によって『腰の扉』を通らなければ行き来できない。
『腰の扉』を抜けると、また長い廊下だ。
この廊下には、石像がいくつも置かれていた。
巨大な動物のようなものもあれば、人間と獣の狭間のような異形の石像もある。
それらに見下ろされながら奥へ奥へと進んでいくのは、まるで人が踏み入れてはいけない魔境へと誘われているかのようで、少し不気味だった……。
『脚館』の一番奥まで進んで、ようやく執務室に辿り着いたようだった。
老執事がノックをし、俺たちが到着した旨を報告する。
「ああ……入って」
ダウナーな印象の女性の声が、扉の向こうから返ってきた。
老執事が開けた扉を、俺たちを連れた闇商人が通り抜ける。
執務室に入った瞬間、俺は、ほんの少しだけ顔を歪めた。
この部屋――なんか、気持ち悪い。
特に異常なものがあるわけじゃない。
おかしな匂いがしているわけじゃない。
普通に、机やソファーや棚などが置かれているだけだ。
なのに、なぜか、落ち着かない。
イライラする。
どうしてだろう? と疑問に思って観察しているうち、理由がわかった。
この部屋……徹底的に、左右非対称なのだ。
机は正三角形でも二等辺三角形でもない歪んだ三角形。
ソファーは背もたれの高さが不均一で、置き方も平行じゃない。
棚は左端と右端とでほんの少し高さが異なり、斜めになっていた。
そもそも、部屋自体が綺麗な四角形になっていない。
微妙に歪んだ台形になっている。
そしてもちろん、部屋の一番奥にある執務机は、中央からほんの少し、左にズレた位置に置かれていた。
偏執的。
としか、言いようがない。
普通の人間が心地いいと感じる形や配置を、ことごとく裏切った部屋。
もしこの部屋に一日中いたら、俺ならイラついて物に当たってしまうかもしれない。
そんな部屋が、よりにもよって、執務室。
最も集中力が必要とされるだろう部屋を、あえてこんな風にしてしまうなんて……。
ただそれだけで、この屋敷の主の異常さが、伝わってくるようだった……。
奥の執務机に、女性が一人。
その傍に付き従うようにして、顔の右半分を仮面で隠した奇妙な男が佇んでいた。
俺たちを連れてきた闇商人の男が、揉み手をしながら頭を下げる。
「いつもお世話になっております。ジムズィルクス商会です。新入荷した商品をご紹介にあがりました」
女性はペンを置くと、男を見て微笑んだ。
この歪な部屋にあって、その微笑だけが、皮肉なまでに左右対称だった。
「待っていたわ。ええ、待ち望んでいたわ、このときを。ありがとう、今月も来てくれて。心から感謝します。『彼女』にも言っておいてもらえるかしら?」
「ええ、はい、もちろん。『王』からは、これからもご贔屓に、と……」
「そうさせてもらうわ。わたくしの美学をわかってくれるのは『彼女』くらいのものだもの。さて……」
女性――ラヴィニア・フィッツヘルベルトは立ち上がると、扉越しに聞こえたダウナーな声が嘘のように、上機嫌で俺たちの前までやってきた。
「これが今月の子たちね?」
ぞくりと、怖気が背筋を撫でる。
ラヴィニアは微笑を口元に貼り付けたまま、俺とエルヴィスの全身を、舐め尽くすように眺め回した。
「ふうん?」
無造作に伸ばされてきた手を反射的に払いそうになり、俺はぐっとこらえる。
細い指先でつつっと俺の頬を撫でたかと思うと、ラヴィニアはそのまま、欠損した(ように見える)左腕に手をやった。
断面をすりすり触られる。
左腕は空間ごと偽装されているので、感覚はない。
だが、自分の内側を触られているみたいで、やはり気持ちのいいものではなかった。
俺が終わると、今度はエルヴィスだ。
眼帯を外され、潰れた(ように見える)右目をつぶさに観察される。
やはりルビーの精霊術は完璧で、ラヴィニアが偽装に気付いた様子はない。
「ふふっ」
と思っていたら、ラヴィニアが不意に笑みを漏らした。
直後。
――ずぼっ!
ラヴィニアが突然、エルヴィスのズボンに右手を突っ込んだ。
「’%’&$#%$’&&#$っっっ!?!?!?」
エルヴィスは瞬時に顔を真っ赤にして声にならない声を発する。
たまらずラヴィニアの手を引き抜こうとするが、彼女は構わずズボンの中をごそごそまさぐり続ける。
うわあ……揉まれてる……直接……。
ラヴィニアはしばらくエルヴィスのアレをごそごそすると、満足げな表情でズボンから手を引っこ抜いた。
そしてその手の匂いをくんくんと嗅ぐ。
「いいわ……いい。まだ完全なオスになり切れてないこの匂い……」
さらに指先をぺろっと舐めた。
それを見て、へたりこんだエルヴィスがビクっと震える。
ひ、ひええ……。
「買うわ、二人とも。とても気に入りました。代金の受け渡しはいつもの方法で」
「毎度ありがとうございます!」
と、とても気に入られてしまった……。
いや、成功だけど……成功なんだけどさ……。
フィル……俺、頑張って綺麗なまま帰るからな……。
「アーロン。この子たちをコレクションルームに連れていきなさい。新しいほうね。前のはもういっぱいだから」
「やれやれ……。俺は召使いじゃないんだがな」
顔の半分を仮面で隠した男が、諦めたように溜め息をついた。
召使いじゃない……?
ボディーガードか何かだろうか。
「ほら行け、ガキども」
半仮面の男が、俺たちの頭を掴んでぐいぐい押す。
そんなんしなくても歩けるっつーの。
執務室を出る間際、俺は部屋の奥にある棚にちらりと目をやった。
……書類はたぶんあそこだな。
長い廊下を逆戻りしながら、俺は頭をぐいぐい押してくる半仮面の男をちらりと見上げる。
眠たげな印象を受ける左目と、仮面の奥の右目。
それらに宿る冷たい光を、俺は見逃さない。
その光から俺が連想したのは、かつて命を賭けて戦った女盗賊、ヴィッキーだった。
たぶん、その冷たい眼光は。
人殺しをすることを、日常にしている奴のものだ――




