月下の取引
「何が欲しいんだ?」
俺はルビーに付き合って座ることはなく、そのままの距離を保って尋ねた。
すでにこの場のイニシアチブは彼女にある。これ以上、彼女のペースに乗るには避けたかったのだ。
「それを言う前に、先に確認させてほしいね。あたしの取引に応じる気が、ほんの少しでも、あんたにあるのかどうか――つまり、あんたが本当に、王子の精霊術の痕跡を調べたがっているのかどうかをさ」
……慎重なことだ。
ガウェインに負けたのが相当堪えたんだろうな。
それにしたって、たった半日でここまで意識を切り替えられるのは、間違いなく才能だ。
「……お前の出す条件による。エルヴィスの精霊術を調べているのは確かだ」
「オーケー。信じてやるよ」
ルビーはあくまで自分主導の態度を崩さない。
「あたしの条件は二つだ。あんたの知恵と、そっちの妹弟子ちゃんの力を、あたしに貸してほしい」
「…………」
俺はしばし黙考する……。
無茶な条件ではない。だが……。
「あたしには諜報科へのツテがねーんだ。これから級位戦を戦っていくには、諜報科の協力が不可欠。そこへ行くと、諜報科Aクラスのそいつはうってつけだ。そうだろ?」
フィルは黙って俺の判断を待っていた。
……決断にはまだ早いな。
「期間と条件を設けよう」
「ん?」
「俺たちはいつまでお前に協力すればいいのか。俺たちはどんなときお前に協力すればいいのか、あるいはしなくてもいいのか。その辺りを決めない限り、条件は飲めない」
「こまけーなぁ。心配しなくても、級位戦で当たったら八百長しろとかは言わねーよ」
「そもそも、この取引は成立してないんだ」
ルビーはかすかに眉をひそめた。
「お前の手札はこの場限りの使いきり。対して、俺の手札はこの後も永続的に続く。お前から情報を聞き出すだけ聞き出して約束は反故にするって可能性もあるだろ?」
「そんなことはしねーって信じてるぜ。友達だろ?」
「いや、いくらなんでも薄っぺらすぎるだろ、その台詞」
「ひっでーなぁ。……ま、あんたの言うとおりだ。このままじゃこの取引は成立しない。このままじゃな」
ルビーは口元に、自信に溢れた笑みを刻む。
まだ何かあるっていうのか……?
「あたしの手札は王子の情報。だが、これは単なる頭金――いや、手土産ってところかな。本当の手札は別にある」
そうして。
ルビーは、指し示すように、自分の胸に手を添えた。
「あたしだ。あたしを使う権利をやる。誰よりも早くここにたどり着き、誰よりも早く情報を独占した、あたしを使う権利をな」
むっ、とフィルが反応する。
それは……つまり。
「戦闘科のお前が、諜報科の役目をやるってことか?」
「そーだよ。おかしいか?」
「おかしいーっ!! じーくんのコンビはわたしだもん!!」
「はい、ちょっと黙っててくれな」
「むーっ!!」
逆鱗に触れられたらしいフィルの口を塞ぎながら、俺は考えた。
確かに、ルビーにも諜報はできると思う。
何より精霊術が強力だ。透明になれるなんて、なんで戦闘科にいるのかわからないくらい諜報向きだ。
……だが、戦闘科のルビーがスパイをやることにどんなメリットがある?
諜報科の生徒はそのまま成績に反映できる。だが戦闘科はそんなことはない。
誰か諜報科とコンビを組んで分担したほうが効率はずっといい。
強いて言えば――
「――そうか」
俺はルビーを見て言った。
「ルビー、お前――一人でやりたいのか?」
ピクリ、とルビーの眉が動く。
「……どういう意味だよ?」
「考えたんだよ。諜報まで自分でやるメリットは何かって。そしたら一つ、思いついた」
「へー。コーガクのために教えてもらおーか?」
「コンビに裏切られる心配がない」
ルビーは沈黙した。
図星……か。
俺はたまたまフィルっていう気心の知れた奴が諜報科にいたから、問題にならなかった。
だが、ほとんどの生徒は、この学院で初めて出会った、見ず知らずの誰かとコンビを組むことになるのだ。
もちろん、成績はコンビで一蓮托生になるわけだから、裏切りにメリットはあまりない。
だが、可能性としては存在する。
それを嫌って、戦闘も諜報もどっちも一人でやりたい、と考えるのは、不思議なことじゃない……。
「お前の本当の目的は、諜報科でもない自分の存在を、学内の情報網の中で大きくすることなんだな。俺たちの力を借りたいというのは、そのための建前でしかない」
だから、要求のほうは別に反故にされても構わなかったのだ。
便利に使われるだけだったとしても、その『使われる』ということが、それによる信用が、何よりもルビーが欲していたもの。
この級位戦をたった一人で戦い抜くための最低条件なのだから。
「……あたしは」
静かに、ルビーが口を開いた。
「あたしは、一人でやってきた。あの薄汚ねースラム街で、ずっと一人で。……だから、ここでも同じようにする。それだけのことだよ」
「わかった」
俺は頷く。
「取引は成立だ。俺たちはお前に協力する。お前も俺たちに協力する」
「……いいのかよ? あたしは自分のことしか考えてねーぞ? 裏切るかもしんねー」
「そんなことはしないって信じてるよ。友達だろ?」
と、薄っぺらい台詞を、俺は口にした。
「……くは。くははははは。くはははははははははははは……っ!!」
ルビーは顔を覆って笑い出す。
そして、
「……あんた、やっぱおもしれーな。本当に貴族なのかよ」
「家では立派なお坊っちゃんだよ」
「はは! ……オーケー。取引成立だ!」
ルビーはすっくと立ち上がった。
「これからよろしく頼むぜ、ジャック。それにフィル」
「いやです」
……と。
間髪入れずに言ったフィルを、俺とルビーは同時に見た。
「「……は?」」
「いやでーす! 協力なんかしてあげませーん!」
あああああ!
なんでここで駄々こねるんだよーっ!!
「あの……フィルさん?」
「ふーんだ。わたし以外の子と組もうとするじーくんなんか知りませーん」
「どうすればいいんだよ……」
困り果てる、とはまさにこのことだった。
そっぽを向いていたフィルが、ちらっと俺の顔を見る。
「どうしてもと言うなら、一つ条件があるよ」
「条件?」
「今ここでわたしとちゅーしてくれるなら、あの子にも協力してあげる」
……え?
今ここで?
俺はすぐ近くにルビーがいるのを確認し、またフィルに目を戻す。
「今……ここで?」
「うん。ほら」
フィルは瞼を閉じ、少し顎を上げて待ちの体勢に入った。
マジ?
……マジだこれ。
俺はルビーに言った。
「わ、悪い……ちょっと待ってて」
「お、おう」
逡巡する。
……これ、やらないと絶対機嫌損ねるよな……。
でも、ぶっちゃけ恥ずかしいんだけど……。
うーん……。
……いくら悩んでみても、結局、答えは一つしか見つからない。
俺に逃げ道など最初からないのだ。
フィルの背中に手を回して、唇を軽く触れさせた。
「おおー……!」
感心したようなルビーの声が聞こえた。
あーくそもうめっちゃくちゃ恥ずかしい!!!
夜でよかった。
もし夜じゃなかったら、真っ赤になった顔までルビーに見られてたところだった。
「ふふふー♪」
フィルが嬉しそうに笑ったかと思うと、俺の腕に抱きついて、ルビーに向かってドヤ顔を決めた。
それを見て、ルビーは呆れたように苦笑する。
「あー、はいはい。わかったって。愛しのじーくんには手ぇ出さねーから。それでいーだろ?」
「わかればよろしい!」
フィルは一転、上機嫌になっていた。
「んじゃ、クラスメイトの濃厚なラブシーンを見終わったところで」
「お前、他の奴に言い触らしたりすんなよ、マジで……」
「わーかってるって。……こんなおいしいネタ、簡単に手放すわけねーだろ?」
うあああああああああ。
ヤンキーに強請られるうううううううう。
「ま、その前にだ。さっさと済ましちまおーぜ。今夜のメインイベントをさ」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
パチンッ。
とルビーが指を弾いた瞬間、それは現れた。
試合場の床に穿たれた、丸いクレーター。
それはまるで、最初からそこにあったかのようだった。
「手品みたいだな……」
「テジナってなんだ?」
「ああ、いや、なんでもない」
そういえば、手品はここじゃメジャーじゃないんだっけ。
不可思議な精霊術だ。
姿を透明にしていたことから、視覚に作用するタイプの術なのかと思っていたが、それだとコウモリのエコーロケーションまで誤魔化したことを説明できない。
気になるが、同盟を組んだとはいえ、ルビーも精霊術の詳細まで明かすことはないだろう。
俺だって、自分の術を明かすつもりはない。
「ほら、好きに調べろよ。ま、先に来た他の連中は特に収穫はなかったみたいだけどな」
俺とフィルは、クレーターの縁にしゃがみこんだ。
「……変だな」
「ヘンだね」
「ん?」
ルビーが意外そうに振り向いた。
「なんだ? もう何か見つけたのか? 他の奴らは首を傾げたまま帰っていったんだけどな……」
「いや、だって、これは明らかに変だろ。見ろよこれ――このクレーター、真ん中から端まで深さ一緒なんだぞ」
深さ自体はかなり浅い。だから遠目じゃ気付かなかった。
タライみたい、って言えばいいのか……クレーターと言ってすぐに想像するような半球状のヘコみではなく、円筒状のヘコみなのだ。
「でっけーハンマーで叩いた跡みたいだな。これが変なのか?」
「ヘンだよー。仮にね、でっかいハンマーで叩いたとするでしょ? そしたら普通、叩かれたとこを中心にショーゲキが広がって、叩かれたとこよりおっきい範囲がヘコんじゃうと思うんだよねー」
「けど、これはそうはなってない。余波がないんだ……。つまり――」
「――でっかいショーゲキが起こったわけじゃない、ってことかなあ?」
フィルの推察に、俺は頷いた。
「これはどっちかと言うと、重いものを長いこと放置したせいで床にできたヘコみみたいな感じだ」
「重いものだあ? そんなもんどこにもないだろ」
確かに、エルヴィスの試合を見ていた誰もが、そんなものは見ていない。
だが……あったのだ。
ここに痕跡が残っている以上、エルヴィスが攻撃するその瞬間、その激烈に重い何かは、確かに存在した……。
俺は立ち上がり、夜空を見上げた。
星々が全面に渡って、ちかちかと瞬いていた。
「……空気だ」
「ん?」
俺はフィルを見る。
「フィル。お前、山の上まで行ったことあるだろ?」
「え? えーっと……」
「あのときだよ。俺がお前にせがまれて……」
「……あ! ああ、うんうん!」
俺の精霊術を使って、山を越えるような高さまで飛んだことがあるのだ。
精霊術の情報をルビーに渡したくなかったから、ちょっと誤魔化したが。
「そのとき、耳がどうなったか覚えてるか?」
「覚えてるよー。なんかキーンってなった」
「それなんだよ。周りの気圧が変わると、そうなるんだ」
「……いきなり何の話だよ?」
ルビーが怪訝そうな顔になる。
「ルビー。今日の試合で、対戦相手がエルヴィスの攻撃に一瞬耐えたのは見たか?」
「見たぜ。すげーなーって思った」
「そのとき、手で耳を押さえてたのに気付かなかったか?」
「……そういえば……そうだな。それがさっきの、キアツ? だかと関係があるってことか?」
「気圧っていうのは、まあ、空気の重さだ。空気には重さなんかないように思えるけど、実はほんの少しあって、たくさんあるとそこそこの重さになる。こうしてる今も俺たちは、頭の上にある空気の重さを全部背負ってるんだ。
そしてそれは当然ながら、空へ近付けば近付くほど軽くなる。背負う空気が少なくなっていくからな」
俺は空を指差した。
「俺たちの身体は基本的に、こうして地上にいるときに快適でいられるように調整されている。だから高い山に登ったりして、気圧の低い場所に行くと、身体が反応を示す。
わかりやすいのが耳だ。耳の中には膜があって、その内側と外側で力が押し合ってる。外側から空気――気圧が押してくるから、内側からも同じ力で押し返さないと、膜が破れてしまうんだ」
「んん? ってことは……その、外側から押してくる気圧ってやつが弱くなったら、内側から押す力のほうが強くなっちまうな?」
こいつ、物覚えめちゃくちゃいいな。
地頭がいいんだ。
「そうだ。外側からの力と内側からの力のバランスが崩れた結果、耳がキーンってなる」
「へえ~。そうだったんだ~」
フィルが呑気な声で言った。
こいつはわかってるんだかわかってないんだか相変わらずわからん。
「それが、エルヴィスにやられた奴にも起こってたって言いてーのか?」
「そうだ。さっきの例とは逆だけどな」
「つまり……気圧が弱くなったんじゃなくて――強くなった?」
俺は頷く。
「たぶんそれが、エルヴィスの攻撃の正体――
あいつの精霊術は、好きな場所の大気圧を、異常に重くできるんだ」
タネが明かされてみれば、そこまで異常な現象じゃない。
だが……。
「はあん。なるほど。気圧ねえ……。それを重くできるってことは、空気を操る精霊術だってことか?」
「いや……それだけとは思えないんだよな……」
空気を操れる精霊術師なら、他にもいくらでもいる。
『王になる力』とまで言われる【争乱の王権】が、その程度の術だとは思えないんだが……。
「……あ、じーくん。警備員さん起きちゃったかも」
「そうか。潮時だな……」
「なーんだ。結局わからず仕舞いかよ」
つまんねー、とルビーは、転がっていた床の破片を蹴った。
「いや、別のアプローチを試そう」
「ん?」
「ルビー。お前、他に来た2級や諜報科にも、俺と同じような取引をしてパイプを作ったんだろ?」
「そうだけど。……なんか仕掛けるか?」
ルビーが悪い顔をしたので、俺も同じ感じで笑った。
「ああ、早速仕事だ。他の2級に、うまくこう伝えてくれ」
そして俺は、その内容を告げる。
「……なるほどね」
「頼まれてくれるか?」
「おう、任せとけ。……あたしってさ、大好きなんだよね。人をそそのかすのとか」




