第88話 幸福の誓い
――絶対に大丈夫――あなたはきっと、幸せになれる
――――笑え
その命を賭して、みんなが教えてくれた。
たとえ誰が――俺自身がそれを否定しようとも、代わりに彼らが肯定してくれる。
俺は、幸せになってもいいのだ、と。
だから、もう躊躇はやめにしよう。
俺は、自分を幸せにすることに遠慮しない。
フィルは除け者にするなと怒るだろうか?
だったらしょうがない。そのときは――――
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俺とラケルは城内の隠し部屋で、ハッと意識を取り戻した。
しばらく余韻に浸るようにぼーっとして、辺りを確認する。
壁にかけられた機械時計は、出発のときと同じ時刻を指していた。
説明通り、1秒も経ってはいないようだ。
今更のように、ラケルと手を繋いでいることを思い出した。
指を絡み合わせるようなそれは、いわゆる恋人繋ぎ。
遅れてラケルも気が付いて、繋いだ手を見ると、パッと慌てたように手を離そうとした。
それを。
力を込めて、止める。
「……えっ? ジャッ――」
手をぐいと引っ張り、ラケルの柔らかな身体を抱きすくめた。
出し抜けの行動に、ラケルは「うえっ?」と驚いた声を出したが、されるがまま、俺の胸に顔をうずめてくれた。
サファイアのような長髪から覗く、その長い耳に向かって、俺は心から浮かぶ言葉を声にする。
「ありがとう、ラケル」
「……え……?」
「俺を……父さんと母さんに会わせてくれて、本当に、ありがとう」
「……わたしは、褒められるようなことは、してない……」
そう言いながら、ラケルも俺の背中に手を回し、優しく抱き返してくれた。
「わたしはただ、わたし自身のために、好きな人に幸せになってほしい――それだけ、だから」
「そっか。……じゃあ、協力してくれるか?」
「えっ? ……んっ!」
ラケルが顔を上げたその瞬間、その桜色の唇に、自分の唇を重ねた。
身体の奥から湧き上がってくるものを流し込むように、長く、長く唇で繋がりながら、ベッドのほうへ移動する。
「――ひゃっ!?」
ラケルの脚がベッドの縁にぶつかって、ボスン、と仰向けに倒れ込んだ。
白いシーツの上に、青い髪が海のように広がる。
その真ん中に、まるで人魚姫のように倒れたラケルの顔の横に、俺は両腕を突いた。
ラケルは押すでもなく、支えるでもなく、俺の胸板を触っている。
徐々に白皙が朱に染まったかと思うと、挙動不審にちらちらと俺の顔を窺い始めた。
「ジャ……ジャック……」
「ん?」
「こ……鼓動、が」
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ。
早く、強く、今にも割れそうなほどに、俺の心臓が脈打っている。
そこから溢れ出た熱が、身体の中をぐるぐると回って、どこも彼処も爆発しそうだった。
「……こ、興奮……してる、の?」
期待とも不安とも言いがたい揺れた声に答えるべく、俺はその長い耳のそばに唇を近付けて、……囁く。
「めちゃくちゃ、してる」
「……っ!」
組み伏せたラケルの華奢な身体が、所在なさげにもぞもぞと動いた。
俺は顔を上げると、ラケルの海のように青い瞳を覗き込む。
「父さんが、母さんが、……そしてお前が、言ってくれたおかげだ。俺は――幸せになっても、いいんだ……って」
「……うん」
ラケルはかすかに微笑んでくれた。
「あなたは、人の何倍も、何十倍も、幸せになって、いい」
何も掴めなかった、とかつては思った。
違う。これから掴むのだ。
たとえその途中で、どんな障害に阻まれても、……きっと父さんが、母さんが、そしてラケルが、守ってくれるから。
そうして、俺が幸せを掴んだなら、きっと周りの人にも、同じかそれ以上の幸せを返してやれる。
俺が父さんと母さんから幸せを分けてもらったのと同じように――
「……あ、でも、そのっ」
ラケルは急に眼を泳がせて、あたふたと言った。
「幸せっていうのは、別にこういうことばかりじゃないっていうか……!」
「こういうことも、含まれてるんだ」
「ぜっ、全然お風呂入れてないしっ、今はちょっとっ……!」
「俺は後でもいいぞ?」
「と――というかっ! こんなことしてる場合じゃないんじゃ!? は、早く沙羅ちゃんの『基点』を――」
「その前に、誓いを立てたいんだ」
離さず、逃がさず。
ラケルの顔をまっすぐに見つめて、俺は告げた。
「お前と一緒に幸せになるんだってことを――そのために戦うんだってことを。その誓いが、きっと、あいつと対峙する俺を支えてくれる……。どうしても今は嫌だって言うんなら、まあ……頑張って、我慢するけどさ」
正直、すげーつらいけど。
何年も抑え込んでたものが一気に復活したもんだから、こうしているだけでもどうにかなりそうなんだ。
それでも……無理やりは嫌だし。こんなことをしている場合じゃないっていうのも、正論であることに違いはない。
「……ぅ、……ぅぅうう~……」
ラケルは弱った顔で唸って目を逸らし、手の甲を口に当てて表情を隠す。
それから……か細い声で、最後の砦を口にした。
「…………フィルとか、アゼレアに、……悪い、し」
ああ――ははは。
共有された記憶に、その質問は残っていた。
沙羅に閉じ込められた幻の楽園で、幻の俺にした質問。
幻の俺は、およそ俺らしくない回答をした。
ならば、本物の俺はどう答えるか?
考えるまでもなく、決まっていた。
「――そのときは、一緒に怒られてくれるか?」
人を愛するのが止められない以上は、謝るしかないだろう。
開き直った浮気野郎みたいに、しかし俺は、それ以外の答えを持たない。
もう、躊躇するのはやめたから。
ラケルの目が軽く見張られて――それから。
「……仕方が、ない」
安心したように微笑んだ。
「そのときは……いくらでも、怒られてあげる」
そして俺たちは、再び唇を重ねた。
心と身体の、壁という壁を取り去って、互いが互いに触れ合った。
久しく忘れていた、ビリビリという甘い痺れが、俺の全身を駆け巡った――
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目を開けると、溜め息が出るほどに美しい顔があった。
伏せられた長い睫毛。すっと通った細い鼻梁に、薄い唇。
かすかに産毛の見える頬は赤ちゃんのように柔らかそうで、俺は思わず手を伸ばし、そっと触れてしまった。
「…………ん…………」
唇の隙間から呼気が漏れ、睫毛がぴくりと動く。
それを可愛らしく思った俺は、だから、彼女の唇に自分のそれを軽く触れさせた。
「――んんっ? ……ふぁ……ジャック……?」
「おはよう」
ふにゃりとした声を漏らしながら薄く瞼を上げたラケルに、俺は挨拶をする。
この隠し部屋には窓がないが、時間的におはようでいいはずだ――まあ、ギリギリこんばんはでも通じそうな時間ではあるが。
お互い、積もりに積もったものを長いこと爆発させていたことを思うと、睡眠時間は充分とは言えない。だが、隣にこんな可愛い子がいるのに眠っているなんて、そんなのは人生の損失だと思うのだ。
「お、おはよ……。あれ、え? ……な、なんでキス?」
「いや、我慢できなくてさ」
「えっ」
ラケルはびくっとすると、掛け布を胸元に掻き寄せた。
もちろんその程度じゃ、赤らんだ白い肩も、汗の跡が付いた豊かな胸元も隠せない。
「あ……あのね、ジャック?」
「うん?」
「わたし、体力には自信、あるほうなんだけど。それにも、ほら、限度があるっていうか……」
しどろもどろに言って、ちらりと窺うように俺を見るラケル。
「……疲れて、ないの……?」
「全然?」
「んんぐーっ!?」
俺はまたラケルの唇に吸いつきつつ、汗ばんだ身体をシーツの上に組み伏せた。
今の今まで、思春期が丸ごと抑え込まれてたんだぞ? たかだか数時間で治まると思うてか。
しばらくしてから口を離すと、ラケルは荒く息をしながら俺の目を見つめた。
「……ねえ、ジャック。ジャックって、王様よね……?」
「一応そうだが」
「ってことは……奥さんは、たくさんいるのが普通よね?」
「……まあ、現時点でも書類上は何人かいるけど」
「……よかったぁ……」
「おい。なんだよ、その心からの安堵の溜め息」
「命の危険を前にしては、嫉妬心を抱く余裕もないの!」
怒ったように言いながら、ラケルはぐいっと俺の身体を押しのける。
「とにかく、早く服着て! 誓いとやらはもう充分でしょ!」
「ええ~……。ラケルだってあんなに盛り上がってたくせに……」
ベッドを降り、脱ぎ捨てた服を拾うと、ラケルはじろりと俺を睨んだ。
「えろがき」
「…………すみませんでした、師匠」
一度染みついた上下関係は、この程度で変わるものじゃないらしい。




