蟲毒
「有段者を除くこの学院の全生徒は1級から6級までの級位を持ち、それぞれの級位の中でリーグ戦を行うのじゃ」
クライヴという老紳士に抱えられ、トゥーラ・クリーズ学院長は黒板に6段に分かれたピラミッドを描いた。
「このリーグ戦は半年を1期として年に2期。その中で勝率7割を達成した者は昇級、2期連続で2.5割を下回りおった者は降級となる。
さらに、1級で昇級条件を満たした者は入段戦――すなわち、初段獲得のチャンスが与えられる。この初段こそが、精霊術師ギルドにプロの精霊術師として認められた証なのじゃ。そして――」
学院長はピラミッドの頂点にぐりぐりと渦巻きを描く。
「――初段を獲得し、正式にプロになることが、この学院の絶対卒業要件! 卒業年齢である18歳になる年度が終わるまでに初段になれとらん者は、卒業資格も得られず退学になるんじゃ!」
学院長は怖がらせるように言うが、そのくらいのこと、この場の人間はみんな知っている。
全員、それを知った上で入学してきたのだ。
「ちなみにさ」
ルビーが椅子の脚を浮かせてぐらぐらバランスを取りながら質問する。
「卒業できる奴ってどんくらいなの? 6級で入学したとして、半年ごとに1つ上がれるわけだから……えーっと……最速でも3年か。そんなにかかるんだから、卒業できない奴も結構いるんじゃねーの?」
「いい質問じゃな」
銀髪の学院長は「ひひひ」と嬉しそうに笑う。
「無事に卒業できるのは、平均で1割ほどじゃ」
……1割。
実に90パーセントの人間が、卒業要件を満たせないか、もしくは途中で諦めて学院を去っていくのだ。
「なんだ、1割もいんのかよ。けっこーいるじゃん」
「そうじゃ、1割もいる。卒業できる者はな」
ひひひ、と学院長は笑った。
「卒業後、精霊術師として活動するのは、そのさらに1割――つまり、全体のほんの0割1分なのじゃ」
全体の1パーセント。
100人の1人の確率……。
「質問です」
そう言って手を挙げたのは、大柄な男子ガウェインだった。
学院長が指を差して質問を許すと、彼は律儀に立ち上がった。
「それは、学院生の多くがギルドから仕事を請けることではなく、自らの名声を高めるために術師の資格を求めているからではないのですか?」
「確かにそうじゃ。学院生のほとんどは貴族で、目的は自分に箔を付けるため。じゃが、ガウェイン・マクドネルよ。そういう奴は、卒業後に何をすると思う?」
「当然、精霊術師ギルド主催の段位戦に出場します。ギルドでの段位を上げれば上げるほど、多くの民に注目され、貴族社会でも一目を置かれることになりますから」
「その通り。じゃが、その段位戦に、ほとんどの卒業生は出場しないのじゃよ」
ガウェインは言葉に詰まった。
「それは……初耳です。なぜでしょうか?」
「出場しても無駄じゃと思っているからじゃろうな」
出場しても無駄……?
「早くに級位戦を抜け、入段に成功した生徒は、そのまま在学中に段位戦に出場する。四段まで上がることができれば、卒業年齢を待たず早期卒業が許されるからじゃ。
しかし、プロの世界は厳しい。多くの学生が初段からまったく上に上がれん。そのうちに、ほとんどが悟ってしまうのじゃ。
『自分では、この世界でやっていくことはできない』とな」
……冷たい現実だ。
実力テストの日に、父さんが語ってくれた話を思い出した。
「初段なんぞプロとしては最下層。その厳しさを知っている同じプロや、元学院生ならいざ知らず、実状を知らんそこらへんの一般市民は、初段のプロなんぞ十把一絡げの雑魚としか思っておらん。
貴族ってのはプライドが高いもんじゃ。そんな屈辱を受けるくらいなら、精霊術師としての人生には拘泥せんわけじゃ。
こうして、『あの精霊術学院を卒業した』という自慢ばかりで、肝心の実力についてはさっぱり披露しようとせん貴族が量産されるというわけじゃな」
俺たちは沈黙した。
だがそれは、不安から来る沈黙ではなかった。
きっと俺たちは、誰もがこう思ったのだ。
自分は絶対に、そうなってやるものか――と。
「ひひひ! さすが、儂にSクラスを用意させるだけはあるようじゃな、小童ども。いい面構えをしておる。自分の可能性を無条件に信頼した世間知らずの顔じゃ。儂は子供のそういう顔が大好きでの!」
好きなお菓子を語るような顔で、学院長は言う。
「この学院は、蟲毒じゃ」
10歳にも届かない子供にはおよそ伝わらないような言葉が、しかし、重々しく響いた。
「無根拠な自信に満ち溢れた子供らが互いに喰らい合い、生き残った者のみが強さを身につける。そういう場所じゃ。
心が壊れそうになることもあるじゃろう。しかし、今のその顔を、その気持ちを、忘れさえしなければ大丈夫じゃ。
生き残れ。
生き残って、卒業するときにもう一度、儂に同じ顔を見せておくれ」
俺たちはめいめいに、大きく返事をした。
「さて、今日はここまでじゃ。よっと」
踏み台から飛び降りたのか、学院長の姿が教卓の裏に消えた。
いや、頭の先だけかろうじて見えている。
銀色の頭頂部が横に移動して、教卓の横に再び、見た目12歳の担任教師が姿を現した。
「懇親会も兼ねて、夜はクラス全員参加で宴会を催す。腹を空かせておけよ。呑気にしていられるのは今日が最後じゃしな!」
「そんなことを言って、トゥーラが肉を食べたいだけだろう?」
「ひひひ! 当然じゃ!」
老紳士と笑い合う銀髪少女。
そういえば……。
「(なあ、アゼレア)」
「(……なによ?)」
隣の席に座るアゼレアに、こっそりと訊いてみる。
「(あのお爺さんって、何者なんだ? 学院長とえらく親しげだけど)」
「(え? ……さあ。どなたかしら……?)」
アゼレアも知らないのか。
2人で首を傾げていると、後ろからルビーも会話に参加してきた。
「(パッと見、ジジイと孫娘だよな)」
「(でも学院長のほうが歳は上なんだろ? あのお爺さんは人間みたいだし)」
「あの人はクライヴ・クリーズさんだよ」
唐突に答えがもたらされた。
エルヴィスだった。
「クライヴ……クリーズ?」
「うん」
エルヴィスは何でもないことのように、あっさりとそれを告げた。
「学院長の旦那さんだよ」
「…………」
「…………」
「…………」
俺たちは無言になって、今一度、その2人を見る。
片や、見た目12歳程度の銀髪少女。
片や、明らかに60は超えた、総白髪の老紳士。
……旦那?
……妻?
……………………夫婦?
「「「ええええええええええええええええ――――――っっっ!?!?」」」
魂の叫びが、教室内に木霊した。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
そして、夜。
学生寮の中庭にて、堂々とバーベキュー大会が催された。
「ちょっと! どうして私が火の面倒を見なきゃならないのよ!」
「いやー、だってさー。いちいち火打ち石使ったり扇いだりするの面倒だしさー。あんたの炎でパパッと焼いたほうが楽じゃん?」
「私の炎は調理用じゃないっ!!」
「あっ!? ちょちょちょストップストップお嬢様! 焦げる! ってか消し炭になるから!!」
網の傍でアゼレアとルビーが騒いでいる。
そこから少し離れた場所では、エルヴィスが串に刺さった肉を物珍しげに矯めつ眇めつしていた。
「なるほど……。串に刺すことでテーブルがなくても簡単に食べられるんだ。勉強になるなあ」
「で、殿下……。このような野卑なもの、殿下が口にされる必要は……」
「おお、美味しい! ガウェイン君、きみも食べてみなよ」
ガウェインが困惑しながら串肉を押しつけられている。
で、俺は――
「ひひひひひひ!! 覚えておる、覚えておるぞ、カラム・リーバー!! おぬしの父親はなあ、それはもうとんでもなく諦めの悪い奴じゃった!! あやつが無事に卒業して、しかも術師として大成するなんぞ、あやつ自身以外はだーれも信じとらんかったわ!!」
「そうでもないだろう、トゥーラ。君だけは彼の可能性を信じていた」
「ひひひ。そうじゃったかの? 細かいことは忘れてしもうたわ!」
「はあ……」
ラケルと一緒に、大人に捕まっていたのだった。
銀髪の学院長は木のジョッキ片手にげらげら笑いながら、
「あの落ちこぼれがこんな小賢しそうな子供を産むとはのう! 人間ってのはわからんもんじゃ!
いやそれ以前に、あの諦めが悪いことだけが取り柄の厄介な小童と家庭を持つことを望んだ女がいたというのが驚きじゃ!」
「噂では、その諦めの悪さをもってして、かのフィアーマ族の姫巫女を娶ったというのだから、これは大したものだろう」
フィアーマ族の姫巫女……?
それって、母さんの話か?
「あの……母さんって、何か特別な人だったんですか?」
「あん? なんじゃ、聞いておらんのか?」
「別に子供に語ることでもないだろう。自分が親になる前、どこの誰だったかなんてことは」
「そういうもんかの?」
学院長は首を傾げる。
そういえば、このダブル歳の差夫婦(外見年齢でも実年齢でも超歳の差)には、子供とかいないのだろうか?
この銀髪少女がお腹を膨らませている絵面は、控えめに言っても犯罪臭しかしないが。
「おぬしの母マデリンはな、山奥に住む凄まじく閉鎖的な部族のお姫様じゃったんじゃ。そこに学院を卒業して暇しとったカラムの奴がふらりと訪れるや、部族の長老たちを全員説き伏せてマデリンを嫁として連れ帰った。儂らはそんな風に聞いとる」
「初耳……」
ラケルが驚いたように呟いた。
俺も初耳だ。
父さんと母さんの馴れ初めがそんな風だったとは……。
「それからは2人でコンビを組みおってな。2人組の精霊術師として勇名を轟かせおった。
まあしばらくしてすぐに引退してしもうたがの。今思えばあれは、マデリンの腹におぬしができたからじゃったんじゃなあ」
「お父上が亡くなられて、家を継がなくてはならなくなった、というのもあるだろうがね」
「ひひひ! あやつが伯爵とは。笑わせおるわ!」
確かに伯爵って雰囲気じゃあないよな。
俺は父さんの若干子供じみた言動を思い出して苦笑した。
「それにしても、そうか、あやつ、あのフィアーマ族を口説き落としたんじゃったな。よっぽどしつこかったんじゃろうて。ひひひ。マデリンもそれで絆されたか。
しつこい男は嫌われるというが、好意をまっすぐぶつけられるというのは存外、悪くないものじゃからの」
「へえ。僕に口説かれていたとき、そんな風に思ってくれていたのか」
「なっ……! いやっ! 別に! 儂の話じゃないわい! っちゅうかおぬしは、口説いたんじゃなくて付き纏ったんじゃろうが!」
目の前で夫婦がイチャつき始めたが、傍目には孫とのコミュニケーションを楽しむ老人とお爺ちゃん子の孫娘にしか見えない。
「お二人は……どういう風に結婚を?」
ラケルが訊いた。
確かに、学院長は昔もこの小学生スタイルだったわけだから……それに男が言い寄るというのは……事案発生だな。
学院長はちょっと頬を赤らめて、恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……こやつが勘違いしおったんじゃ」
「勘違い……?」
「僕はこの学院の生徒だったんだよ。12歳の……年齢制限ギリギリのときに入学してね。それと同時に、トゥーラに出会った」
12歳……。
あ、そうか。
「同じ生徒と勘違いしたんですね。教師じゃなくて」
「その通り。トゥーラはハーフだから、すぐにエルフとはわからなくてね。とんでもなく可愛い子がいる! と興奮して舞い上がってしまって、気付いたときには花束をプレゼントしていた」
「わ……」
ラケルが口元を覆う。
花束って……すげえ12歳だ……。
「まあ花束と言っても、子供が用意できる程度のチャチなものだけどね。実際、トゥーラには相手にもされなかった」
「花なんぞ腹の足しにもならんからの。変な子供が来たなと思っただけじゃ」
「でも、僕も君のお父上と同じで、諦めの悪いタチでね。毎日新しい花束を用意しては、彼女を見つけ出して押しつけた。
……いやはや、若気の至りだ。今思うと迷惑行為でしかないな」
「めっっっっっちゃ迷惑じゃったぞ! 処理に困ったんじゃからな、あれ!」
「でも……」
ラケルが言った。
「最終的には、結婚した……んでしょう?」
学院長がまたふいっと目を逸らす。
確かに、そこからどうやって結婚まで行くのか、全然展開が見えない。
「毎日新しい花束を用意したと言っただろう?」
老紳士が言い、俺とラケルが頷いた。
「当時の僕は子供だ。使えるお金も少なかった。そんな状態で毎日花束を買おうと思ったら、持ってるものを売るしかない。
そういうわけで……気付いたら、着るものすらなくなっていたんだよ」
「え?」
「えっ……」
いや、気付こうよ! そうなる前に!
「ある日、いつもなぜか花束を押しつけてくる小僧が、なぜか裸になっとったんじゃ。さすがの儂もビビるわ! こやつ、制服まで売っ払っとったんじゃぞ!」
「学院の制服は高く売れるんだ。一週間分は余裕で賄えた」
「この学院の長い歴史で、在学中に制服売ったのおぬしだけじゃぞ!」
今の落ち着いた物腰からはまるで窺えない突飛な行動……。
だけど。
「それだけ好きだった……ってこと、ですか」
俺が思ったことを、ラケルが代弁した。
学院長は拗ねたように顔を逸らし、ジョッキの酒をぐびぐび飲み始める。
クライヴさんは、それを横目に見やり、優しく微笑んだ。
「そのときに、ようやく伝わったらしいね、僕の気持ちが。後で聞いたところによると」
「クライヴ! お代わり取ってこい、お代わり!」
「はいはい」とクライヴさんは空のジョッキを受け取って、酒が用意されたほうへ向かった。
夫がいなくなると、学院長は「ふん」と鼻を鳴らす。
「……要するに、うっかり教え子に手を出してしもうただけのことじゃ。あー、うっかりした!」
誤魔化すようにそう叫ぶと、学院長は不意ににたりと笑ってラケルのほうを見た。
「それにしても、ラケルよ。おぬし、妙に興味ありげではないか。澄ました顔をして、やはりそういうことには興味津々か?」
「い、いや……別にそんなことは……」
「ひひひひ! 教え子に手を出さんよう気をつけぇよ?」
えっ。
ラケルがちらりと俺を見た。
「……ふっ。まさか」
「鼻で笑ったな!」
ちょっとドキッとした俺が馬鹿みたいじゃん!
「誰がこんな子供と。有り得ません」
「ひゃっひゃっひゃっひゃ! そんなことを言っていられるのも今のうちじゃ! 何せ12歳の小僧に口説き落とされた大人もおるのじゃからのう!!」
開き直った!
完全にヤケになった学院長は、自分が如何にしてクライヴさんにオトされたかを滔々とラケルに語り始めた。
これをチャンスと見て、俺はその場を離れる。
ラケルが恨みがましい目で俺を見ていたので、ひらひらと手を振って応援しておいた。
さて、ようやく酔っ払いから解放された。
そもそもクラスの懇親会なんだから、クラスメイトと喋らないと意味ないだろ。
誰のところに行こうかな……。
そんな風に思案していると、
「――じ・い・くううううううううううんっっ!!!」
慣れ親しんだ声と、これまた慣れ親しんだ衝撃が、俺の背中にぶつかってきた。
「……あれ? フィル? お前、諜報科のほうの懇親会は?」
「来ちゃった♪」
「いや、来ちゃったじゃなくて」
「もう終わったよー。でもこっちはまだやってるって聞いたから!」
……まあいいか。一人で待たせるのもアレだしな。
フィルは俺の背中に覆い被さったまま辺りを見回し、
「あ――――――――っっ!!!」
と大声で叫んで、ある人間を指差した。
アゼレアだった。
彼女は肩をビクッとさせると、自分が指差されているのに気付く。
「なっ、なに? なんなの?」
「やっぱりじーくんと同じクラスなんだ! うらやましー!」
「あら? あなた、フィリーネさん……。確か戦闘科ではなかったんじゃ? どうしてここにいるの?」
「じーくんに変なことしたら怒るからね! じーくんはわたしの旦那様なんだから!」
噛み合ってねえー……。
とはいえ、大声で目立つことを口走っているのは事実なので、戦闘科Sクラスの面々がなんだなんだと集まってきた。
最初に俺の背中にへばりついている女の子に目を留めたのはエルヴィスだ。
「ジャックくん。誰だい、その女の子?」
「フィリーネ・ポスフォード。諜報科の新入生で、俺の妹弟子だ」
「妹弟子?」
ルビーがその単語に反応する。
「へえー。ってことは、噂の盗賊団潰しのもう一人か!」
「ほー。それをごぞんじとは、なかなかのもんですな! ほっほっほ!」
フィルが唐突に自分の父親の真似をした。
なんでだよ。これだけ一緒にいるのに行動が読めねえ。
「フィル、とりあえず離れろ」
「えー」
「えーじゃない」
俺の背中から離れると、フィルは自分から他の4人の前に立った。
そしてにっこりと笑ってみせる。
「フィリーネ・ポスフォードでーす! 諜報科Aクラス! フィルって呼んでね!」
「よろしくお願いするわ、フィル」
「あなたはダメー」
「ええっ!?」
アゼレアがショックを受けた顔をした。
「こら、フィル。差別をするな、差別を」
「敵と馴れ合う気はないのです!」
「お前、諜報科だろ。敵と仲良くなって情報を聞き出すのも諜報だぞ」
「むー……仕方にゃいにゃあ」
不承不承といった感じで、アゼレアに愛称呼びを許可するフィルだった。
「前に会ったときもそうだったけど……私、どうして嫌われてるの……?」
「俺もよくわからん。女の勘ってやつらしい」
「はあ……」
同じ女であるところのアゼレアにもさっぱりピンと来ないらしかった。
エルヴィスがにこやかにフィルに話しかけてくる。
「諜報科のAクラスだって? すごいじゃないか」
「えっへん。すごいのです。すごいので、みんなの名前も知ってるよ」
そう言って、フィルは4人の顔を順番に指差していった。
「エルヴィス=クンツ・ウィンザー。
ガウェイン・マクドネル。
ルビー・バーグソン。
髪が赤いひと」
「ちょっと! 私だけただの見た目なんだけど!?」
どっと笑いが起きた。
特にルビーが大爆笑していた。
「よう、髪が赤いひと!」
「ちょっとやめて! ニックネームにしようとしないで!」
俺と出会ったときもそうだったが、フィルは人の間合いに踏み込んでいくのがめちゃくちゃうまい。
好き勝手やっているうちに、いつの間にか輪の中に入れてしまっている。
思えば、諜報にはうってつけの才能だ。
「ぐふふ。諜報科はみんな噂好きなのです。諜報科ではあなたは『髪が赤いひと』として有名なのです」
「何よそれ! もっと噂することあるでしょ!?」
「『服が赤いひと』とも」
「色しかないの!?」
「そりゃお前、試験であんな派手な格好したらそうなるだろ」
むべなるかな、という感じだ。
「あははははっ!! なんだあんた、おもしれー奴だなあ! どっかの頭のかた~い騎士サマとは大違いだ!」
「……どこかの貧民くずれは、どうやら頭の中身をスラムに置き忘れてきてしまったようだがな」
「ああん?」
「なんだ?」
「ああもうまた喧嘩してる!」
ルビーとガウェインが睨み合い始め、アゼレアが即座に仲裁に入る。
俺がいない間にも何度かあったんだな、この流れ。
当然ながらアゼレアがいくら言っても2人は引く気配がない。
エルヴィスがガウェインにやめるように言えば一発だろうが、どうやら王子様はそこまで深刻ではないと思っているらしく見物の構えだ。
苦労をかけるのう、アゼレアさんや……。
などと高見の見物を決め込みながら思っていたとき。
にゃあ。
と、どこからともなく声がした。
全員がそれに気を取られた瞬間、ガサッと、茂みの中から一匹の猫が姿を現す。
「わー、猫さんだー♪」
フィルが真っ先に駆け寄って、屈んで猫を覗き込んだ。
「なんだそいつ、野良か?」
ルビーが喧嘩を切り上げて、フィルの後ろから覗き込む。
おお……アゼレアができなかったことを。猫は偉大なり。
「栄誉ある精霊術学院に野良猫とは……。早急に追い出すべきだな。そこの少し大きい野良猫と一緒に」
「あ? 誰が野良猫だコラ」
「猫は上等すぎたな。ネズミの間違いだ」
「おう、やっぞコラてめー!」
と思ったら新たな火種になった。
アゼレアもさすがにお呆れのご様子だ。
「ダメだよ、ガウェイン君。追い出すなんて。きっと食べ物の匂いに釣られてきたんだ。お腹が空いてるんだよ」
「は……はい。申し訳ありません、殿下」
エルヴィスはまだ焼いていない生の鶏肉を持ってくると、猫の前に置いた。
猫はそれに顔を近付け、その場で食べ始める。
「おい、餌を与えたらまた来るようになるぞ?」
「そのときはまたご飯をあげたらいいじゃないか。本当に困ってるときくらいは、施しをしたって罰は当たらないよ。
……まあ、あんまり与えっぱなしっていうのもよくないから、程々にね」
それは……なんというか。
大きなものを見ている人間の言い方だと思った。
施しをするべきときと、そうではないとき。
過剰に与えすぎると、人は一体どうなってしまうのか。
それを考えている人間の、言い方だった。
「まあ責任を持って飼うっていうなら別だけど。どうする?」
「ペットかー……」
ルビーが猫の耳をつつきながら呟く。
「正直、気は進まねーけど、放っとくってのもなんかな……」
「だよねっ。かわいそう!」
フィルはかなり乗り気の様子だった。
「でも、いいのか? 寮でペットとか」
「そうよ。それに生き物を飼うなんて、そう簡単に――」
「別に構わんじょー!」
微妙に呂律の回っていないその声は、学院長のものだった。
いつの間にかぐでんぐでんになっていて、クライヴさんとラケルに介抱されている。
「ちょうどいー! それも勉強じゃー! おぬしら、その猫を死ぬまで面倒見てみい! なんか得るもんがあるじゃろー! たぶん! きっと!!」
めっちゃくちゃ適当だな。
でも、学院の最高権力者の命が出てしまった。
「……決まりだね」
こうして、この学生寮に、猫が一匹増えることになったのだった――
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
他の面々が、猫にどんな名前をつけるかで揉めている。
乗り気ではなかったアゼレアや、あのガウェインでさえルビーに対抗する形で議論に参加していた。
俺は、それを少し遠巻きにして見ている。
すぐ近くには、同じようにしているエルヴィスの姿があった。
「……ジャック君」
「ん?」
不意にエルヴィスが話しかけてきたので、俺は視線をやった。
「ぼくさ、本当に驚いたんだよ」
「何を?」
「試験のとき。ぼく以外に2級を受けて、しかも試合にまで勝っちゃう人がいるんだなって」
「なんだそれ。俺を褒めてるのか自分を褒めてるのかわからないな」
「きみを褒めてるのさ」
エルヴィスは淡く笑い、俺の目を見た。
「ジャック君。きみから見て、ぼくは強いかい?」
エルヴィス=クンツ・ウィンザーが強いかどうか?
知り合ってまだ1日と経ってない。
戦いを見たのだって一度きりで、しかも一瞬だった。
だけど。
「――強いよ。お前は、間違いなく強い」
それは俺の、偽らざる評価だった。
「そうか……。少し、安心した」
「安心?」
「うん。……定期的にね、確認しないといけないんだ。ぼくが義務を果たせているかどうか……」
確認?
義務……?
エルヴィスの言うことは、おそらく彼の中でしか通じていないのだろう、俺には意味がよく掴めなかった。
「……だったら、エルヴィス」
「ん?」
「お前の目から見て、俺は強いか?」
少しの勇気を出して、俺はそう問いかける。
最強の天才王子、エルヴィス=クンツ・ウィンザーに。
「……強いよ」
エルヴィスははっきりと告げた。
「きみは強いよ、ジャック君」
その言葉が、俺の胸の中にくわんくわんと響く……。
「……どうかな? 安心した?」
「いや……全然だ。いまいち、実感がない」
ラケルは言った。俺は強くなったと。
それを信じていないわけじゃない。言われたそのときは、その通りだと心が震えるのだ。
でも、その充足感は。
しばらくするとすぐに、こぼれ落ちるように抜けていってしまう。
俺は――本当に、強くなったんだろうか?
ただ、神様に優遇されただけの、何でもない人間の俺が――
本当に、守りたい誰かを守れるくらい、強くなれたんだろうか……?
「だったら、いい方法があるよ」
物思いに沈んだ俺の意識を、エルヴィスが引き上げた。
「きみが強いと言ったぼくにきみが勝てば、きみは間違いなく、強い」
その極めて単純な論理構造が、くわんくわんと反響するばかりだった俺の胸に、スッと入り込んできた。
顔を上げると――そこには。
天才王子エルヴィス=クンツ・ウィンザーの、挑戦的な笑みがある。
「ジャック君――ぼくときみ、一体どっちのほうが強いのかな?」
このとき、俺は、否応なしに理解したのだ。
俺とこいつは。
ジャック・リーバーとエルヴィス=クンツ・ウィンザーは。
お互いに、激突することを決して避けられないのだと。
すべては――
自分の強さを。
誰よりも自分に。
――証明するために。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
懇親会の翌日。
早速、今期の級位リーグ戦、その1回戦の組み合わせが発表された。
俺とエルヴィスの対戦相手は、それぞれ年上の2級学院生。
アゼレアも結構年上の3級だ。
それぞれの級位の中でしか当たらないわけだし、俺たち以外に2級と3級の新入生はいないので、ここまでは当然の結果。
しかし。
残りの二人。
ルビーとガウェインは。
「…………」
「…………」
掲示板に貼り出された組み合わせ表を見るなり、ルビーとガウェインは一瞬だけ視線を交わした。
しかし、言葉はない。
普段、事あるごとに起こる口喧嘩は、このときに限って起こらなかった。
そして二人は、まったく逆の方向に立ち去っていく。
直前まで二人の視線が集中していた場所には、こんな風に記されていた。
『3級リーグ戦 第1回戦
第4闘術場 第5試合
ルビー・バーグソン VS ガウェイン・マクドネル』
のんきにしていられるのは今日までだ。
昨日、学院長が言っていたその言葉の真の意味を――
新入生たちの誰もが、程なく知ることになる。




