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転生ごときで逃げられるとでも、兄さん?  作者: 紙城境介
因果の魔王期・最終回〈上〉:小さいころ夢に見た

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運命の日/Visitor Side - Part6


 頭がついていかなかった。

 俺たちは――屋敷の応接間で、父さんと母さんの話を聞いていたはずだ。

 なのに、なんで、今、その屋敷の門の前に立っているんだ?


「時間を――」

「――戻された?」


 タイムパラドックスが起こったのか?

 何をきっかけに!?

 混乱する俺の頭に、真夏の陽射しが降り注ぐ。

 ほとんど真上から射すそれを見上げて、俺は違和感を口にした。


「……違う……」


「え?」


太陽の位置が高い(・・・・・・・・)


 俺たちが屋敷を訪ね、この門の前に立ったのは、午前中のことだ。

 しかし――空に浮かぶ太陽の位置は、明らかに昼に近いそれ!


「閉め出されたんだ……」


 直感するままに、俺は呻いた。


「あの場所から――時間はそのままに――やり直しの余地さえなく。やり直せば、俺たちは、どうやったって止めに入るに決まっているから――」


 排除されたのだ。

 ただただ、俺たちという因果の異物が。

 本来の歴史を守るために。


 時が、来た。


「――ラケル! 【絶跡の虚穴】は!?」


「ダメ……! 使えないっ! 何かに邪魔されてるみたいに、屋敷の中にだけ……!!」


「くそっ……! 行くぞっ!!」


 急いだって何をすることもできない。

 頭ではわかっていても、身体を止めることはできなかった。


 無人の門と前庭を駆け抜ける。

 思えば、さっきはいた守衛が今はいなかった。それだけでわかる。何か、この屋敷で異常が起こっているのだと。

 そして、俺たちは知っている! 今日、この時間、この屋敷で、何が起こるのかを――!!


 蹴破るようにして、玄関の扉を開けた。

 そして、エントランスに広がる光景が、視界に飛び込んできた。


 ああ――

 こんな形容は、いい加減飽き飽きしている。

 それでも、こう語るしかない。

 その光景を、こう表現するしかない。



 悪夢のような、光景だった。



 鮮血、鮮血、鮮血鮮血鮮血――

 いっそ色鮮やかだった。壁に、床に、調度に、そして屍にふりかかった液体は――ひたひたに、びちゃびちゃに、血みどろの水浸しになった我が家は、皮肉なほどに鮮やかだった。


 肉が転がっていた。服を着ただけの肉だった。

 首を。胸を。腹を。目を鼻を耳を! その機能をこそぎ落とすかのように破壊された、それは見慣れた使用人たちの屍――


 ――ああ、そうだ。

 屍のはずだった。

 俺たちがエントランスに踏み入った、まさにその瞬間までは、ただの屍のはずだった。


 首が。胸が。腹が。目が鼻が耳が。

 見る見るうちに――再生していく。


 壁に、床に、調度に、そして屍にふりかかった液体が。

 見る見るうちに――屍の中へと戻っていく。


 まるで時間が戻るかのよう。

 死んだという事実がなかったことになったかのよう。

 そうだったらどんなに良かったか。

 俺たちが目にしているのは、死者蘇生なんて救いのある現象じゃない。

 人間から、魂という名の尊厳だけを抜き取り、都合のいい傀儡に仕立て上げる、おぞましい死霊術!


 立ち上がった屍たちが。

 いずれも見覚えのあるメイドや執事たちが。

 一斉に、俺たちのほうを見る。


 そこに意思はなかった。

 悪意も殺意もなかった。

 ただ、身体の内に残ったルーチンのままに、彼らは言う。




「お帰りなさいませ、ジャック様」

「お帰りなさいませ、ジャック様」

「お帰りなさいませ、ジャック様」

「お帰りなさいませ、ジャック様」

「お帰りなさいませ、ジャック様」

「お帰りなさいませ、ジャック様」

「お帰りなさいませ、ジャック様」

「お帰りなさいませ、ジャック様」

「お帰りなさいませ、ジャック様」

「お帰りなさいませ、ジャック様」




「――沙、羅ァああぁああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!」


 腰に佩いていた『あかつきの剣』を、音高く抜き放った。

 わかっていたことだ。

 知っていたことだ。

 俺は、未来で見たのだから。

 彼らが、この屋敷で、物言わぬ屍に戻っているのを、この目で確認したのだから。


 それでも――それでも。

 許せるものか。

 この家を、こんな風に穢した存在を!!

 どうあろうとも、許せるものか……ッ!!!


 波濤のように押し寄せるゾンビたちに、俺は『あかつきの剣』を振りかぶる。

 一薙ぎだ。

 この剣をもってすれば、一薙ぎですべてを八つ裂きにできる。

 消えてくれッ、俺の前から――!


「――ダメっ! ジャック!!」


 剣を振るおうとした俺の手を、寸前でラケルが掴んだ。


「何をっ……!」


()()()()()()()()()()()()()()! 肉体の再生が起こるのはおそらくゾンビ化のときだけ――7年前に証明されてる。ゾンビの身体に再生能力はない!」


「…………!!」


 自ら身体を破壊していた『真紅の猫』の盗賊たち。

 俺自ら破壊した、父さんや母さん。

 いずれも、肉体が再生したりはしなかった。

 だとすれば、ここから未来――俺から見て7年前、この時代から見て4年後にようやく機能を停止する彼らを、ここで破壊することは――


「……くっ……そおっ!!!」


 俺はあかつきの剣を鞘に戻しながら、ラケルと共に横っ飛びでゾンビの波濤から逃れた。

 指一本、触れることすらできないのか、俺は!

 この最悪な光景を――クソッたれな悪夢を前にして、指一本!


「落ち着いて、ジャック……! わたしたちが今するべきなのは、苛立ち紛れに彼らを痛めつけることじゃない」


 修業時代を思わせる落ち着いた声音でラケルが言う。


「未来で、沙羅ちゃんの居所を掴む糸口を探すこと……! 手遅れになる前に、カラムさんとマデリンさんのところへ!」


「……ッああ……!」


 奥歯を強く食い縛りながら答え、再び俺たちに飛びかかろうとしているゾンビたちを見据える。


 ――あのショートカットのメイドは、よくフィルにお菓子をあげていたっけ。

 ――あの痩身の執事には、座学を習ったことがあった。


「……ごめん……」


 涙の代わりに、呟きが漏れる。


「……助けられなくて、ごめん……」


 俺は間に合わなかった。

 何もかもが遅かった。

 まともな償いも、弔いさえも、できなかった。


 許してくれとは思わない。

 許されるなんて思えない。

 ただ、もう、絶対に。

 お前たちのような犠牲者は――生まないように、するから。


 手を伸ばす。

 掌を握る。

 そうして、空気を掴む。


「――それじゃあ、な」


 空気を浮遊させることによる大気の凝縮と解放を、瞬時に行った。

 透明な爆発に薙ぎ倒され、使用人たちは床に転がる。

 きっと気絶もしないだろう。弱く弱く、調節した。

 だが、束の間、道はできた。


「ラケル!」


「うん……!」


 使用人たちが立ち上がる前に、俺たちはエントランスを駆け抜けた。

 階段を上がり、目指すは2階廊下の奥。俺たちがさっきまでいた応接間。

 距離はそう長いものじゃなかった。

 俺とラケルの速度をもってすれば、まさに瞬く間だった。


 それでも。

 やはり、何もかも、あの妹のほうが早いのだ。


「――これで5回目」


 辿り着いた扉の奥から、聞き慣れた声がした。


「さあ、治ってきましたよ。どうぞ戻ってきてください? そろそろ人格を保つのが難しくなってきた頃だと思いますけどね――」


 手の震えを握り潰し。

 扉を開けたとき――すでにそこには、絶望が広がっていた。


 しっちゃかめっちゃかに荒れ果てた応接間の中。使用人の服を着た者たちが、山のように積み重なっている一角がある。

 その下に……押さえつけられているのだ。

 父さんと母さんが、屍の山によって、自由を奪われているのだ。


 そして、そのそばに、恰幅のいい紳士――ポスフォード氏が膝を突き。

 ……母さんの胸に、ナイフを深々と、突き立てていた。


「あら?」


 その地獄のような様を、少し離れたところで見物している姿がある。

 栗色の髪をおかっぱにした幼い少女が、俺たちに振り向く。


「これはこれは、おかしなお邪魔虫が――せっかく忠告してあげたのに。馬鹿なひとたち」


 くすくすくすくすくすくす……。

 酷薄に笑う少女の顔が、赤く赤く滲んだ。

 違う。

 断じて、違う。

 俺が大好きだった女の子と、今そこにいるソイツとは、何もかも……!!


「どォおおおおけぇええええええええええええええッ!!!!」


 胃の腑の底から怒声が迸った。

 父さんと母さんを押さえつける死体たちを吹き飛ばすべく手のひらを向け、


「退がってっ!!」


 そのとき、ラケルに首根っこをぐいと引っ張られた。

 直後だ。

 鋭く白刃が閃いた。

 俺の首があった場所を、ちょうど横切るようにして。

 フィルの姿をした沙羅が肉迫し、俺の喉笛を狙って、ナイフを振るったのだった。


 ――ああ、そういうことか。

 なぜ沙羅は、今日に至るまで、天敵である母さんたちを襲撃しなかったのか。

 待っていたのだ。

 大人の首に、手が届くようになるまで。

 身長が伸びるのを――待っていたのだ。

 この屋敷の中でゾンビを生産するために……!!


「……くっ、そぁああああああああッ……!!」


 そんなことの、ためじゃない……!

 日ごとに成長するフィルの身体は、そんなことのっ……っ……!!


「あぁああああああああああッ!!」


 絶叫しながら『あかつきの剣』を掴んだ。

 鯉口から覗いたヒヒイロカネの輝きが、朝焼けめいて血に満ちた室内を裂く。

 沙羅の、フィルの、大きな瞳に、その光が映り――




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




「退がってっ!!」


 そして俺は、再びラケルに首根っこを引っ張られ、目の前に閃く白刃を見る。


「……っ!」


 ラケルが顔を歪めたのが見えた。

 ああ――ああ、ああ、ああ、わかってるよッ!!

 あかつきの剣を抜けば、俺がジャック・リーバーだってことが沙羅にバレてしまう……! だから抜けない。俺は、この大敵を目の前にして、剣を抜くことさえできない!!


「ああ、もう、避けないでくださいよ――無駄な手間が増えるでしょう?」


 軽やかなバックステップで間合いを取り直しながら、沙羅は溜め息をつくように言った。

 命を、命とも思わない口振り。

 まるで、この世界のすべては自分のためにあるとでも言うかのような。


「……許すものかッ……」


 喉の奥から、怨嗟が零れた。


「許すものかッ! たとえ神が、世界が許してもッ!! この俺だけはっ――お前をぉおおおおおおおッ!!」


「許しなんていりませんよ。誰ですか、あなた」


 片目を瞑り、沙羅はナイフを投げ捨てる。

 そして、壁際にいたメイドをくいくいと指で招き寄せ、隣に跪かせた。


「わたしの愛は、わたしの恋は、誰にも許しなんて乞いません――だって、ここにあるんですから。誰が何と言おうと、この胸に、この高鳴りがあるんですから」


 乱暴に、小さな手がメイドの首を掴む。

 絞め殺す――わけじゃない。

 その掴み方は――そう、まるで。

 剣の柄を握るかのよう。



 ずるり(・・・)



 と――引き抜いた(・・・・・)

 文字通りだ。

 メイドの胴体の中から、その背骨を引き抜いたのだ。

 まるで剣を鞘から抜くように――


「う゛っ……!?」


 ラケルが呻いて口元を押さえる。

 死体なんて見慣れているであろう彼女でさえ吐き気を催す、それは冒涜的な光景。

 首から上を失くした胴体(さや)が、その場にどちゃりと倒れ伏す。

 人の屍とさえ、もはや思えなかった。

 使い捨てられた肉塊。

 そうとしか形容のしようがなかった。


 沙羅はメイドの顔と折れた肋骨が付いた背骨を鋭く振るい、血と肉、臓物の欠片を飛ばす。

 パシン! と伸びた背骨は、やはりもはや人体には見えず、悪趣味な装飾の剣に見えた。

 こうして、使い潰してきたのだ。

 こうして、使い捨ててきたのだ。

 こうして、この悪魔は、自分以外の人間を――いや、自分自身の身体でさえ! 何人も何人も何人も――!!


「ナイフで届かなければより長い武器を使うまでです。わたし、忙しい身ですので――」


 背骨の剣を携えた少女が、血に濡れた絨毯を踏みしめる。


「――さっさと退場してくださいね?」


 そして、少女の姿が眼前に接近した。

 鋭く尖った肋骨を叩きつけるように、背骨の剣がしなりながら迫る。


 反射的に、精霊術を準備した。

 しかし、自分で歯止めをかけた。

 精霊術を使うことさえ、危険。

 俺が【巣立ちの透翼】の使い手だとバレたら、俺がジャックであるとバレるかもしれない――


 ……何も、できないのだ。

 剣も抜けず、力も使えず。

 必死に磨いてきたすべてが役立たず。

 俺はまた。

 ただ、ここで、こうやって、突っ立って。

 何もかもが壊されていくのを、見ていることしかできない。


「……ちく、しょ……」


 枯れ果てたはずの涙が、今更のように滲んだ。


「……ちく、しょぉおおおおおぉっ……!!」


 鞭のように打ちつける背骨が、鋭く尖った肋骨の先端で、俺の臓物を抉り取る――




 ――その未来を。

 ひとつの背中が、阻んで止めた。




「あっ……」

「ああっ……!?」


 悲鳴が、ある。

 しかしそれは、俺とラケルだけのもの。

 その大きな背中は――苦悶の一つも漏らさない。


 目の前でゆっくりと崩れ落ちる、父さんの背中。

 眩いまでの鮮血が、花火のように宙に散る……。


 気付けば、父さんたちを押さえつけていたゾンビたちが、壁際に転がされていた。

 どうやったのかはわからない。

 火事場の馬鹿力なのか。

 ただ、事実があった。

 すでに瀕死のはずの父さんが、ゾンビたちを跳ねのけ、背骨の剣から俺を庇った――その事実だけが。


 否応なく、リフレインする。

 7年前。

 あのときも――父さんは、こうやって。


「――あ。あああッ……!!」


 名前を呼ぶことが、できなかった。

 ただ俺は、ずるりと力なくくずおれるその身体を、受け止めることしかできなかった。


 胸から腹部にかけてを大きく切り裂かれ、だくだくと血が溢れ出ている。

 それは命だった。

 それは魂だった。

 生命たる資格。それを今まさに、ドブに下水を捨てるかのように床に垂れ流しているのに――しかし父さんは、微笑みながら俺を見上げていた。


「……まだ動けるとは。本当にしぶとい――あなたの魂、何度殺せば死ぬんですか?」


 背骨の剣を手元に引き戻しながら、嫌悪も露わに沙羅が言う。


「ああ、本当に気持ち悪い――斬っても叩いても動き続けて、まるでゴキブリみたい。もういらないんですよ、あなたなんて! 兄さんを産んだ時点で用済みだってことが、どうしてわからないんですかッ!!」


 くっ、と。

 血に濡れた父さんの口角が、かすかに上がる。


「……わからないか……幼き屍人の王」


 その笑みは、まるで、憐れむかのようだった。


()()()()()()()()()()()()()……この気持ちが、本当に、わからないのだな……」


「……あ」


 喉元を、せり上がる。

 それは理解だった。

 それは納得だった。


 7年前のあの日、この手で破壊したはずの父さんが、なぜ再び動き、身を挺して俺を庇ったのか。

 そして今、どうして俺の腕の中で、虫の息になって微笑んでいるのか。


 簡単なことだった。

 父さんはその行為で、その生き様でもって語っていた。




 幸せになれ(・・・・・)、と。


 たとえ他の誰が否定しようとも――両親(おれたち)だけは、息子(おまえ)の幸福を願うのだ、と。




 俺は極悪人だ。

 幾人もの友人知人を見殺しにし、生まれ変わってまで生き恥を晒し、魔王となって世界に災禍を振り撒き――

 ――幸せになる資格など、どこにもありはしない。

 誰も、俺のような悪人の幸福を、許してくれるはずがない……。


 だけど、ああ――ああ。

 いたじゃないか、こんな当たり前のところに。

 7年前。

 何もかもが終わったと思ったあの日に。

 父さんは……その背中でもって、許してくれていたのだ……。


 茫洋に揺れる父さんの視線が、俺の顔を見つめる。

 そして、震える唇で。

 掠れた声で。

 短く、力強く――告げるのだ。




「――――笑え(・・)




 笑って生きろ。

 誰に何を言われようとも、胸を張って。


「…………はい」


 俺はぎこちなく、口角を上げる。

 当然のことだ。

 だって、俺は――親の言いつけを良く守る、いい子だったからな。


「治療を」


 俺は父さんを優しく床に横たえながら、後ろのラケルに言った。

 ラケルは躊躇うように、


「……いいの?」


「ああ」


 ラケルが躊躇する理由はわかる。

 この世で二つ以上の精霊術を使えるのはラケルだけだ。

 つまり、ここで精霊術を二つ以上使えば、沙羅の中で『この日に邪魔をしてきた謎の女』がラケルであると確定する。

 この妹ならば、そこから俺たちが未来人であることを察するのも難しくはないだろう……。


 すなわち。

 今ここでラケルが使える精霊術は、1種類のみなのだ。

 父さんの治療のため【癒しの先鞭】を使えば、それ以外の、攻撃力のある精霊術は一切使えなくなる。


 だとしても、関係はなかった。

 なぜなら――


「――俺が、始末をつける」


 かつての婚約者の姿をした宿敵を睨み据えて、宣誓する。

『あかつきの剣』は抜けない。

 俺が【巣立ちの透翼】の使い手であるとバレてもいけない。

 両手両足を縛られるよりもなお厳しい、この条件下で――それでも、この悪魔の相手は、俺がしなければならないのだ。


 俺は床に横たえた父さんの身体を回り込み、栗色の髪の少女に対峙した。

 開け放たれた窓から吹き込んだ風が、その柔らかな髪を撫でながら、穏やかな森の匂いを運んでくる。

 背骨の剣をだらりと持ちながら、そいつはつまらなそうに俺を見据えた。


「もう()はありませんよ? お邪魔虫さん――よほど馬に蹴られたいようですね?」


「……は」


 失笑した。

 だって、そうだろ?


 お前は、この期に及んで、俺が俺だってわからないんだから。


 顔が、名前が、身分が変わろうと俺を見間違えることはない。

 かつてお前はそう言ったが――あれも大嘘だったわけだ。

 何らかの仕掛けがあった。例えば、そう、転生タイムリープしてきた未来の自分から話を聞いたとかな?


 ハリボテ。ハッタリ。嘘ばっかり。

 記憶を失っても俺を見つけ出したラケルや、屍さえ動かして俺を守ってくれた父さんに比べれば、お前の語る愛の薄っぺらいこと!


 だからこそ、胸を張って言える。

 この胸に宿る暖かみが、彼ら彼女らにも決して劣るものではないと感じるからこそ。

 お前に対して――俺は、確信を持って言える!




「俺は、お前のようには、ならない」




 お前のように、愛を囁いたものを傷付けるようなことは――絶対にしない。


 ピキリと、沙羅の顔が固まった。

 本能で知ったか。

 自分の魂に刃を入れられたことに、気付いたか。


 来いよ、弱虫女。

 どれだけの人生を繰り返そうと、何もかもが思い通りになるわけじゃないってことを教えてやる。


 振り上げられた背骨の剣が弧を描く。

 遠心力を纏い、肋骨が牙のように空気を噛み砕きながら、血に濡れた骨が襲い来る。


 俺は――手を伸ばした。

 自ら強く強く、宿敵に向けて足を踏み込みながら。


 ――しなりながら迫った背骨を、素手で掴み取った。


「!?」


 肋骨の鋭い先端が、肩や脇腹に突き刺さった。

 ああ、痛い――確かに痛いよ。

 だけどな。

 ラケルや父さんたちのほうが、きっともっと、何倍も痛かったんだ――!!


「――おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!!!」


 猛然と吠えながら、掴み取った背骨を引っ張った。

 所詮、7歳の少女。

 中身がどこの誰であろうと、18歳の俺と綱引きで勝負できるわけがない!


「……っ!?」


 沙羅の足元がふらついた瞬間を狙って、俺は駆けた。

 接近し、肉迫し――その細い首を、掴む。

 以前もこの手で掴んだ首だった。

 コキリ、という軽い感触が、今でも手のひらにへばりついている。


 だけど今度は、あのときとは違うんだ。


 俺はその小さな身体を持ち上げ、窓の外に押し出した。

 両足がぶらんと虚空に揺れ、沙羅の顔が苦悶に歪んだ。

 ここは2階だ。

 天井の高いこの屋敷だと、2階からでも骨折くらいは余裕でできる。


「嫌だよな?」


 俺の腕を掴み、じたばたと暴れる沙羅に向かって、俺はにやりと笑ってみせた。


「せっかくの出会いの日だってのに、余計な怪我をするのは――」


 口が滑ったかと思ったが、時の早戻しは起こらない。

 ああ、もう聞いてないか。

 落下を回避する算段をつけるのに必死なんだな?

 そうだ、それでいい――

 ――飛んでいけ、あそこ(・・・)まで!


 掴んだ首を、放す。

 沙羅の矮躯がふっと浮き――瞬時に、重力に囚われる。


 ピイ――! と甲高い鳴き声が響いた。

 それは鷹だった。

 どこからか1羽の鷹が現れて、目の前を高速で横切ったのだ。

 そして、ひとつの瞬きの後――その足には、一人の少女が掴まれていた。


 少女を掴んだ鷹はふらつきながら飛び去っていく。

 どこに?

 言うまでもない。


 リーバー邸のそばに広がる、森に。


 ――未来を、変えなければいいんだ。

 ならば、矛盾のないようにしてやればいい。俺が記憶している過去と、食い違わないようにしてやればいい。

 覚えている。

 片時も忘れたことはない。

 俺と彼女の出会いが、どういうものだったのか――


 そう。

 お前……()()()()()()()()()()()()、フィル?


 その結果さえ変わらないのなら、俺が落としたのだとしても、自ら演出したのだとしても、過程はどちらでも構わないのだ――


 子供とはいえ、人間一人分の体重を支え切れなくなった鷹が、ふらふらと森の中に落ちていくのが見えた。

 あの先に……俺がいる。

 11年前、まだうまくやれているつもりだった頃の、俺がいる。


「頑張れよ」


 まだ思い出のない、思い出の森に向けて、俺は小さくエールを投げた。

 つらいことがたくさんある。

 悲しいことがたくさんある。

 それでも、きっと――お前の頑張りは、無駄にしないから。




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




「――どうして……!?」


 悲鳴めいた声がして、俺は窓から振り返った。

 ラケルが傷付いた父さんと母さんのそばに座り込んでいる――ゾンビたちはいずれも壁際で動かなくなっていた。


「傷が……傷が治らないっ……! どうしてっ!? こんなのっ、まるで――」


 ラケルの手からは【癒しの先鞭】の輝きが煌々と放たれていたが……父さんの傷は治らず、母さんの血は戻らない。

 驚くほど、驚かない自分がいた。

 こうなるのだろうと……心のどこかで、予想していたかのような。


 そこにあるのは、すでに屍だ。

 何らかの裏技でまだ動いているだけの、屍なのだ……。


「……ジャッ、ク……」


 血の滲んだ声で、母さんが呼ぶ。

 俺はそのそばに駆け寄り、跪いて、顔を覗き込んだ。


「……ああ……よかっ、た……」


 母さんの顔が綻んで、切れ切れに言った……。


「その顔が……見たかっ、た……。たくましく、生きる……立派に育った、……わたしたちの、息子……」


「立派な……立派な、もんか」


 詰まりそうな声を絞り出しながら、……俺は、ふるりと横に首を振る。


「俺はまだ、何にもできちゃいない――たった二人の家族を、守ることさえ」


「……逆さ……」


 笑い混じりに、父さんの掠れ声がした。


「俺たちが……守るんだ。お前を……。……あまり、親を……見くびって、くれるなよ……?」


「……ジャック……」


 母さんの声は、残ったわずかな呼吸を絞り出すかのようだった。

 もう喋るなと言いたい。

 少しでも、その息を長引かせたい。

 しかし、今際の際にあって決然とした、その表情が――俺の耳を、その声に傾かせた。


「あなたの……最後の、質問。もっとも、知りたいこと……。きっと……これで、答えられる……」


 母さんが、手を伸ばした。

 父さんが、手を伸ばした。

 二人の指が、先端で触れ合った。


 そして――陽炎のように、揺らめき立つ。


 虫の息の母さんを守るように立つその姿は、小さな馬のように見えた。

 俺はそれを、知っている。

 毎夜のように、この目で見た。

 (ベッド)の中で眠り続ける――フィルの前で。






 精霊序列第4位――〈迷える星のサミジーナ〉。






「――ああ――」


 フィアーマ族に伝わる、一子相伝の精霊術。

 そして、今という時代――11年前(・・・・)


 答えはここに、出揃った。


「さて……では、行ってくるか……」


 気負いなく、まるで町内会の会合にでも行くかのような気軽さで、父さんは言った。


「ジャック……お前が本当に、助けを必要とする、そのときまで……俺の魂は、生きた屍の中で、眠りに就こう……。そのときは……ラケルさん。手伝って、くれるかい…………?」


「……っはい……はいっ……!」


 ラケルの頬からぼろぼろと涙が零れ、血染めの絨毯に落ちる。

 その絨毯から、見る間に血が抜けていた。

 身体の中に戻っているのだ。父さんと母さんが、あのガラクタたちのように自らの意思で動く屍から……〈ビフロンス〉に支配されたリビングデッドへと、変わっているのだ……。


 ――しかし、この日から4年後。

 肉体を破壊され、リビングデッドとしての役目を終えたそのとき。

 父さんの魂は目を覚まし、今ひとたび、父親としての役目を果たすだろう。


 それを俺は、知っている。

 その背中を、俺はこの目で、見届けた。


「……父さん……母さん……」


 俺は強く――強く、強く、強く――父さんと母さんの手を握り締める。


「俺を――頼みます……!!」


 父さんも、母さんも、……力強く微笑んで、うなずいてくれた……。


 自分の無力さばかりを呪っていた。

 誰かを守ることばかりを考えていた。

 自分が守られていたことなど、知りもせず。


 ああ――だったら今は、安心だ。

 俺には、こんなにも心強い人たちがついている。

 何に怯える必要があるだろう?

 きっと、世界が敵に回ったって、怖くなんかない。



 ――ふわり、と。

 意識が浮き上がるのを感じた。



 目の前の光景が、モニターの向こうのように遠ざかっていく。

《運命》を、終えたのだ。

 俺たちがこの因果でやるべきことすべてが終了した。

 俺たちという存在が、この因果から弾き出されつつあるのだ……。


 未来から来た自分のことを覚えていなかった俺が、しかし父さんに助けられたことを覚えている以上、きっと、今この場に俺たちがいなかったとしても、二人は同じことをしたのだろう。

 しかし――意味はあった。

 だって、父さんも母さんも、最期の最後まで、笑顔だったのだから。

 意味は、あったのだ。

 なかったことになるものなど、何もない。




 ここからは、俺たちの戦いだ。


 父さんと母さんの、その笑顔に報いるために――俺は、二人が望んでくれた幸せを掴む。


 ―――そして。


 ()()()()()()()()()()()()――きっとこの手で、守り抜く。




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