運命の日/Visitor Side - Part4
手がベトベトしていた。
足がベチャベチャしていた。
なんだろう、と手を見下ろしてみる。
真っ赤な水が、指から手首まで汚している。
なんだこれ、と足元を見下ろしてみる。
父さんと母さんが、血塗れになって動かなくなっている。
ああ――見慣れた光景だ。
この血の匂い。
真っ暗な視界。
俺は何度も見た。
悪夢の5年間。あの妹にすべてを支配されていた頃に、何度も見た。
俺の妹が。
血の繋がった、実の妹が。
これと同じものを、何度も何度も何度も作り上げた。
――愛してます、兄さん
――愛してます
愛してたら、いいのかよ。
愛ゆえの行為だったら、何をしても許されるのか?
それがたとえ――人殺しであっても。
――ぁ
――アタシ…………笑って、ねえ…………
そうか。
そうだよな。
殺してもいいヤツはいる。
殺してもいいときはある。
だったら。
目の前に、フィルの顔が現れた。
血でベトベトになった手を、その首にかけた。
――ああ、そういえばそうだった。
――俺にも、あの妹と、同じ血が流れているんだ――
そのとき……後ろから、何か柔らかなものに抱き締められた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
目を覚ます。
闇に沈んだ木組みの天井が見えた。
「……………………」
俺はしばらく、天井の木目を数える。
一心に。
無心に。
今見た夢が、心に残らないように。
「……すぅ……」
ふと耳に、穏やかな息がかかった。
横を見ると、同じ枕に頭を乗せたラケルが、静かに瞼を閉じていた。桜色の唇から零れる息が、俺の耳をくすぐったのだ。
俺は微笑んで、サファイアのような髪をそっと撫でる。
俺は、甘えてばかりだ。
7年前――いや、もっと前。この世界に転生してからずっと、周りの人たちに甘えさせてもらっていた。
俺には、記憶がある。ラケルが因果の迷路を彷徨った、何百年という記憶が……。
ここまでして俺を闇から救ってくれた彼女には、絶対に報いてやらなければならない。
この俺の全身全霊、人生のすべてを懸けて――
――…………ご、……めん、ね…………
両手に蘇りかけた感触を、俺はすぐに振り払った。
……ガタッ。
「…………?」
遠くから物音が聞こえた気がして、俺は少し身を起こす。
……ガタッ、ズリッ……。
聞こえる。
かすかだが、確かに聞こえる。
これは……1階か……?
俺はそっとベッドを出ると、入口に向かって、少しだけドアを開けた。
…………………………………………。
静寂。
2階の廊下には、誰の気配もない。
……確認するか。
だったら、ラケルも起こすべきか?
俺は眠るラケルを振り返った。
穏やかな寝顔。
まるで、厳しい戦いを終えた後のような。
……いつまでも、甘えてちゃ、ダメだ。
俺は音を立てないようにドアを開けると、【巣立ちの透翼】で体重を消して足音を殺し、1階への階段を降りた。
酒場になっている1階には、しかしすでにひと気はない。
飲み食いの跡も綺麗に片付いていて、無人のテーブルと椅子とが、闇の中でひっそりと静まり返っているだけだった。
しかし……ずり、と。
ずりずりずり、と。
何かを引きずるような音がした。
それは……カウンターの奥からだ。
従業員用の控え室と思しき部屋から聞こえていた……。
俺は息を殺し、カウンターの中に入り、控え室のドアにほんの少し隙間を空けた。
闇の中に、蠢くものがあった。
目を凝らす。
人じゃない。
猫や犬の類でもない。
それより遙かに小さい――物だった。
あれは……雑巾、か?
数枚の雑巾がひとりでに蠢いては、床を拭いて回っていた。
暗くてわからないが……それは、以前に見たものと同じ。
おそらくは、血痕の後始末だ。
……やはり、思った通り、宿屋の主人も哲学的ゾンビだった。
今朝、母さんがこの宿を訪れたのは、それを確認するためだったのだろう。
どうやって哲学的ゾンビを見分けているのかはわからないが、母さんたちは着実に奴らを見つけ出し、秘密裏に始末しているのだ……。
実子である俺にさえ気付かせなかったその手際は卓絶の一言である。
しかし、それでも――沙羅のほうが、一手早い。
明日、沙羅は自らリーバー邸に乗り込む。
なぜそんな危険な行為をしたのかは、今となっては瞭然だった。
母さんが判別できるのは、飽くまで〈ビフロンス〉の力で作られたゾンビだけなのだ。
本体である沙羅自身は生きた人間――だから、強力な手駒であるゾンビをあえて連れずに本丸に乗り込むことで、母さんの不意を打ったのだ――
――……いや?
ちょっと待て。よくよく考えてみると、沙羅はなぜ今日に至るまで母さんを見逃していたんだ?
ポスフォード商会とリーバー家の付き合いは古い……。襲撃はいつでも行えたはずだ。
それを明日まで見送った、その理由は……?
何かできない理由でもあったのだろうか。
殺した人間を問答無用で支配できる、無敵の〈ビフロンス〉を使ってさえ?
……無敵……?
いいや、そう、そうだ――沙羅を殺した、7年前のあの日。明らかにおかしなことが、ひとつ、あったじゃないか。
父さんだ。
この手でその死体を破壊したはずの父さんが、あの日、確かに、俺を庇って――
あれが、錯覚や奇跡ではないのなら。
もしかして、父さんと母さんは、持っているんじゃないか?
死を司る〈ビフロンス〉に対する、シルバーバレットを。
それは、すなわち――――
「――――後悔するよ」
吸い寄せられるようにして思考が答えに辿り着こうとしたとき、声がした。
俺は。
恐る恐る……。
振り返った。
酒場の隅の暗がりに、少女の影があった。
「明日、あのお屋敷へ、行ったら。……きっと、後悔するよ?」
目の前が、赤くなる。
呼吸が、荒くなる。
鼓動が、早鐘を打つ。
その影は。
見間違えるはずもなく。
「フィ――」
呼びかける前に、少女はくすくすと笑って。
……闇の中に、消え去った……。
「……くそっ!!」
後悔するって?
わかってるよ、そんなこと。
それでも、行かなきゃならないんだ。
お前を倒すために。
未来に進むために。
今度こそ――幸せになるために。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
そして、運命の日がやってきた。
俺は門の外から、その屋敷の姿を視界に収める。
その建物自体は、7年後にも残っている。
なのに、どうしてだろう。
こうして見ているだけで、……何か、得体の知れないものが、胸の底から込み上げてくる……。
「……ジャック」
「ああ。……時間だ」
懐かしむために、因果を遡ってきたわけじゃない。
俺たちは守衛に話をして、決然とリーバー邸の敷地に足を踏み込んだ。
「この時間のジャックは、何をしてたの?」
玄関を目指して前庭を歩きながら、ラケルが訊いてくる。
そうだな。この時間の俺に見つかると時間が戻る可能性が高いから、行動を思い出しておかないと。
「この時間は、たぶん……フィルを探している頃かな。あいつが他人の家で行方不明になるもんだから、ポスフォードさんに頼まれて、ちょっとしたかくれんぼになったんだ――」
使用人たちに聞き込みをして……そう、その後、確か外に――
玄関扉の前に着いた。
その瞬間だった。
ガチャリと音を立てて、扉が独りでに開いたのだ。
「「……っ!?」」
独りでに……じゃ、ない。
一瞬、視界から外れていたが――開いた扉の向こうには、一人の少年がいた。
貴族らしく整った身なりの、どこか生意気そうなその子供は、俺とラケルを順繰りに見て怪訝そうにしている。
その顔を。
他でもないこの俺が、知らないはずもなかった。
ジャック・リーバー。
7歳の、俺自身だった。
ど、……どういう、ことだ……?
俺には、こんな覚えはない。
俺たちが遡ったのは時間ではなく因果――本で言えば、前のページに遡るようなもの。
だからもし、当時の俺が今の俺たちを目撃していたなら、俺の記憶という名の本にも残っているはずなのだ――大人の自分を見たという記述が。
幼い頃のことだから忘れてしまった?
いいや、でも、他のことはこんなに覚えているのに、どうしてこのシーンだけ――
「あの……お客様ですか?」
怪しんでいるのを隠しもせず、7歳の俺は尋ねてくる。
俺は疑問をいったん棚上げすると、慌てて言い繕う。
「あ、ああ……。君の親御さんと約束してきたんだ」
「父なら今、他のお客様を応対しているところですけど……ええと、あなたは――」
マズい。なんて名乗ればいい?
そう思ったまさにそのとき、屋敷の奥から柔らかな声が割り込んできた。
「――ああ、いいのジャック。そちらは私のお客様よ」
母さんだった。
母さんは柔らかに微笑みながらやってきて、俺たちに言った。
「ようこそいらっしゃいました。奥さんもどうぞ中へ」
「……はい」
ラケルは小さく返事をする。
時系列的に、今の俺はラケルに出会う前――だが、後に声色の一致に気付かれないとも限らない。
「聞いたわよ、ジャック。ポスフォードのお嬢さんを探しに行くの?」
「はい。屋敷の中では見つからなかったので」
「気を付けて行ってらっしゃい。あまり遠くには行かないようにね」
「はい」
素直に肯いた7歳の俺と入れ替わるようにして、俺たちはエントランスに入った。
すれ違いざま、7歳の俺は軽く会釈をする。
扉が閉じてその小さな背中が見えなくなると、母さんがくすくすとおかしそうに笑った。
「なんだか不思議な光景でしたわ。歳の違う息子が二人も並んでいるのですもの」
「……俺は肝が冷えました」
過去の自分を目の前に見るその感覚は、一言では形容しづらい。
羨ましいような――あるいは、哀れみを覚えるような。
あの子供がこれから辿る、あまりにつらく苦しい道のりを、この身で知っているがゆえに……。
「二人とも、応接間へご案内します――いえ、場所は知っているのかしら? ジャックがポスフォードのお嬢さんを見つける前に向かいましょう」
歩き出した母さんについていきながら、俺はこっそりと呟く。
「……時間は、戻らないな」
「タイムパラドックスが起こらなかった――ジャック、覚えてないの、さっきのこと?」
「それがさっぱり……。この日に起こった他のことは覚えてるんだが……」
「大筋は同じで、一部の記憶だけ違う? ……そうか。もしかすると……」
「なんだ?」
「これはわたしもはっきりとは覚えていないのだけど、わたしはどうやら、同じ100年間を何度か繰り返したようなの」
「ああ。それは俺も知ってるが……」
「わからない? 因果上で、よく似た100年間が何度も繰り返された――そして、わたしたちが覚えているのは、そのうち最後のループだけ」
「……あ」
「わたしたちがやってきたこの時代は、因果上にいくつも存在する同じ100年間のうちのひとつ。因果を遡ってきた部外者であるわたしたちは、次のループに引き継がれない……。わたしが【因果の先導】でコピー&ペーストしたのは、この時代よりずっと前の因果だから」
「そういう、ことか……。今、俺たちがいるこの因果の次のループには、俺たちはいない。だから俺の記憶が上書きされて、未来からやってきた自分に会った記憶が消えた……」
例によって本に例えると、同じ記述が何度も、何ページにも渡って繰り返されている部分があるが、俺たちの記述が登場するのはそのうちの1ページだけに過ぎない、ということだ。
俺たちの記憶に残っているのは、最後の1ループの記述だけだから、その前のループの中にやってきた俺たちの記述を覚えているはずがない。
もし、それを覚えている者がいるとすれば――そう、ティーナ・クリーズのように、因果を上層から眺める権利を持つ者だけだろう。
「ここでしばらくお待ちになってください。主人もすぐに来ますので」
母さんにそう言われ、応接間のソファーに座ったが……この時間の父さんは確か、ポスフォード氏を応対しているんじゃなかったか?
本当に来られるのかと心配だったが、果たして、程なく父さん――カラム・リーバーは姿を現した。
貴族らしからぬがっしりした体格と精悍な顔つき。
田舎領主ではなく、騎士の家の出だと言われても信じるだろう。
記憶と寸分違わぬその姿に、込み上げる嗚咽を喉の奥に飲み込んだ。
「すみません、お時間をいただいて。……ポスフォードさんはいいんですか?」
ソファーから立ち上がってそう言った俺に、父さんは驚いた顔で目を瞬いた。
「普通なら警戒するところだが。……そうか。覚えているのだな、今日という日を」
父さんはふっと微笑むと――
不意に、俺に近付いて。
力強く、俺の身体を抱き締めた。
「ほう。なかなか鍛えているようじゃないか。道理で綺麗な女の子を連れているはずだ――ジャック」
「……父さんの……おかげです」
俺はようようそう答えて、父さんの身体を抱き返した。
こんな風に、父さんと胸を合わせて抱き合ったのは、初めてのこと。
俺は最後まで、その顔を、背中を、見上げることしかできなかったから……。
しばらく抱き合った後、俺たちは応接ソファーに腰掛ける。
母さんの隣、俺の対面に座った父さんは、柔らかな表情で言った。
「ポスフォードさんには今、客室でゆっくりしてもらっている。ジャック、お前がお嬢さんの相手に名乗り出てくれたおかげだな。しかし、昼食の頃には戻らなくてはならない。取れる時間はそこまでになる」
俺もラケルもうなずいた。
……わかっている。時間はないのだ。本当に。
父さんは前のめりになって、少しばかり眉間にしわを寄せた。
「話はマデリンから聞いている。聞きたいのは、邪神の調伏方法についてだったな。……手短に、と行きたいところだが、何から話したものか……」
「そもそも、邪神とは何か。そして、我々フィアーマ族の目的は何か。……そこから話すことにしましょう」
母さんは語る。
意味も理由もなく、空から来たりて世界を潰す邪なる神――その正体を。
「――邪神バアルとは、人類の『幸福』を保証する装置です」




