第86話 疑心暗鬼の後遺症
「「アーロンさんっ!!」」
俺が壁の穴から謁見の間に戻ってくると、ベニーとビニーの悲痛な叫びが響き渡っていた。
二人は床に跪き、一つの――いや一人の、満身創痍の男に縋りついていた。
そのそばにはラケルの姿もまたあり、【癒しの先鞭】の行使を意味する柔らかな光を手から発している。
「動かさないで! 止血が間に合うかどうか……!」
俺は、もはや名実ともに屍のようになったその男を、黙って見下ろす。
アーロン・ブルーイット。
7年前、実質的に悪霊術師ギルドを率い……あの日の精霊術学院に多大な被害を出した、首謀者の一人。
こいつがいなかったとしても、フィルが助かったわけじゃない。
あの妹が――沙羅が敷設した惨劇のレールは、その程度のIFで脱線するほど脆弱じゃなかった。
しかし、関わってはいた。
〈ビフロンス〉の精霊術――【死止の蝋燭】によって操られるゾンビだったのだとしても、あの日の惨劇に関与していたことに違いはなかった。
ただそれだけで……俺には、こいつを憎悪する理由が、充分に存在する。
その男が、今まさに、真の屍へと変わろうとしているのだ。
「……残像にしちゃあ……上等な消え方だ……」
ベニーとビニーを、ラケルを、そして俺の顔を見上げ、アーロンは掠れた声で呟く。
その顔には、満ち足りた笑みが浮かんでいた。
数々の悪行を為した悪党にはそぐわない、満足感があった。
「どうだい……魔王陛下……溜飲は、下がったかい……?」
「まだまだだな」
断ち切るように、俺は言う。
声音は冷たく。
鋭利な刃のように。
俺が、この男に対する態度は、これ以外にはない。
「消えるな。まだ消えるな、アーロン。お前には7年前の責任を取ってもらわなくちゃならない――お前に原因がなかったのだとしても、あの日の責任者はお前だったのだから」
俺は飽くまで、その男に寄り添うことはせず、……報復の権利を持つ者として、断罪を執行する。
「何度か死んだくらいで許してもらえると思うなよ、悪党」
いくら、人を救ったところで。
いくら、忠義を尽くしたところで。
為した悪行は消えはしない。
もし仮に、何回も人殺しを繰り返した殺人鬼が、人生の最後に溺れた子供を助けたとしよう。
それは美談か?
違う。そいつに殺された人間の家族にとっては、自分の怨嗟さえ否定される、グロテスクな欺瞞に他ならない。
改心なんて必要ない。
反省なんて必要ない。
結局、お前みたいな――俺たちみたいな悪党は、許されることもないままひたすらに贖罪を続けるしかないんだ。
地獄に落ちる、そのときまで。
「……は」
アーロン・ブルーイットは、力なく笑った。
「さすが、魔王様……てきび、しい……」
そうして、アーロンは意識を失った。
その顔には、どこか安心したような色があった。
……そうだ、アーロン。
報われたければ、消えてはいけない。
たとえ苦しくても、罪悪感に押し潰されそうでも……自ら消えることだけは、してはいけないんだ。
たとえ不謹慎の謗りを受けようとも……俺たちは結局、そうすることしかできないんだ。
「……ジャックは、やっぱり優しいね」
【癒しの先鞭】による止血を続けながら、ラケルが言った。
そんなことはない。
俺がアーロンを許すことは未来永劫ないだろうし――あの妹についても同じこと。
そして、この俺自身についても、だ。
「アーロンが意識を失ったことでダンジョンが『クリア』になったはずだ。通常空間に弾き出されるぞ。こいつを他の兵たちに見つからないよう、地下の治療室に運べ。……ラケル、【一重の贋界】で隠してくれるか?」
「ええ、もちろん」
「ビニーもだ。女だとバレないようにしろ。お前は本来、ここにいてはいけない人間だからな」
「え……あ、あの……えっと……」
ビニーは挙動不審に目を泳がせ、肩を縮こまらせると、恐る恐るといった様子で、上目遣いに俺の顔を見上げた。
「僕は……ここにいて、いいんですか?」
ビニーは、この7年間、文句ひとつ言うことなく、俺に尽くしてくれた。
にも拘らず、女だからという理由だけで地上に追いやった俺を、未だに慕ってくれている。
ならば、そう……相応しい態度というものがあるはずだ。
「これまで、よく尽くしてくれた。……そして、よく耐えてくれた」
一番の忠臣に――そして最もつらい時期を支えてくれた幼馴染みに、俺はまっすぐに向き直る。
「してほしいことがあったら何でも言ってくれ。これまで我慢させてきた分、できる限りのことをしよう」
「え、あ……な、何でも……ですか……っ?」
ビニーは特徴的な白い肌をさっと赤らめさせた。
そんな双子の妹を、ベニーが軽蔑したような目で見る。
「……よくもまあ、そんないやらしいことを真っ先に思いつけるな」
「ちょあっ!? ばっ、バラさないでよ兄さんっ!」
さらに顔を真っ赤にして兄に抗議するビニー。
二人は精神を共有しているから、考えていることがすぐに伝わってしまうのだ。
……ああ、わかっている。
ベニーが彼女の心の中をチェックしてくれていることに安堵している自分が、まだ俺の中に存在する……。
俺はおそらく別の世界で、彼女をこの手にかけた。
ラケルの記憶には、その場面そのものはなかったが……しかし、最初の世界で許可なくダイムクルドに戻ったビニーを、その世界の俺が許したとは思えない。
疑心暗鬼に操られるまま、彼女に世にもおぞましい最期を味わわせたはずだ……。
ラケルのおかげで、その事実は悪い夢になった。
その悪夢を現実にはすまい。
健気に俺を慕ってくれる彼女こそが本物だと――それこそを全き真実とするために、俺は戦わなければならないのだ。
「今まで、ありがとう」
まごまごしているビニーの頭に、俺はふわりと手を乗せた。
「これからも、よろしく頼む」
「……あ……」
色素の薄い髪を遠慮がちに撫でると、ビニーは目を見開き……見る見るうちに、瞳を潤ませた。
「あ、……ああ、あっ……! ぅう、ぁあああっ……!!」
ボロボロと大粒の涙を零しながら、ビニーは俺の身体に抱きつく……。
その背中を優しく撫でながら、俺は強く強く自戒した。
この程度で許されると思うな。
俺たち悪党は、許されることもなく、ひたすらに罪を贖うしかないのだ。
「ジャック。応急処置が終わった。なんとか血は止まったけど……」
アーロンの治療を終えたラケルが、俺に抱きついたビニーを見て目を細める。
「……そういうの、わたしの役割だと思ってたんだけど」
「泣いて男に縋りつくようなキャラかよ、師匠」
「…………たまにはそういう気分になることもあるんだけど」
ものすごく不服そうだった。……まあ、ラケルには後で時間を取るから、そのときに許してもらうしかない。
俺が誰よりも感謝しなければならないのは、ラケルなのだから。
「さあ、いつまでもこうしてるとアーロンが死ぬ。それぞれ行動に移ろう」
ビニーを優しく引き剥がしながら、俺は言った。
「ラケルはアーロンを城の地下の治療槽へ。ベニーは、ビニーと連携して軍部に遅延工作を頼む」
「遅延工作、ですか? 一体何を遅らせれば……?」
「ロウ王国との開戦を、できる限り遅らせてくれ」
「ええっ!? い、今からですか!? 開戦は明日ですよ!?」
「絶対に必要なんだ。頼む」
「……何とかやってみます」
頼れる副官に頷きかけると、俺は再びラケルに――恩師にして幼馴染みに首を向けた。
「それから、ラケル。アーロンを運んだ後のことなんだが」
「うん。何?」
「二人きりになりたい」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
ラケル、ビニー、ベニーの声が重なった。
一様に口を開け、表情を凍らせ――さらには、なぜか顔を赤くして。
「え、いや、そんな、陛下……!?」
「……諦めろビニー。順当だろう、どう考えても」
「で、でもだって! ちょっと可能性あるかもと思ったところだったのに――!!」
そのとき、通常空間への転移が起こった。
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アーロンが騒動のすべてをダンジョン空間に隠してくれたおかげで、事後処理は最小限で済んだ。
城内は相変わらず開戦前の緊張感に包まれており、動揺が走っている気配はない――これからのことを思えば、この城で想定外の事態が起こったことは、できるだけ秘匿するべきだ。特に王である俺の心境が劇的に変わったことについては。
軽く城内の様子を見て回った後、ラケルと合流した。
アーロンは無事、一命を取り留めたそうだ。〈ブエル〉の力で動く治療装置の力は絶大である。人間の術師では難しい、長時間に渡る治療が可能だ。数日経てば立って動ける程度にはなるだろう。
これで心置きなく、ラケルと二人きりの時間を過ごすことができる。
「え、……と」
合流したラケルは、落ち着きなく髪に手串を入れつつ、
「やっぱり、……後宮、行くの?」
「いや、後宮はマズい」
「そ、そっか。他のお嫁さんもいるから……」
「ああ。今はあいつらに聞かれるわけにはいかない」
「い、今は……? いずれは聞かせるつもりなの……?」
今の俺たちにとって、後宮はこのダイムクルドで――いや、世界で最も危険と言える場所だ。
建物はリーバー邸を流用し、ラケルとの修行に明け暮れた森も7年前のまま残してあるから、ゆっくり思い出話でもしたいところではあるが……まだ、あそこには戻るべきじゃない。
「城の中に私室があるんだ。そっちに行こう」
「ひゃっ!?」
俺はラケルの手を握って廊下を行く。
女性の肌に自分から触れたのはどのくらいぶりだろう。ラケルのそれは記憶よりもずっと小さく細かったが、滑らかさは記憶にあるままだった。
「あ、あの、その部屋、お風呂とかある……? さ、さすがに戦ったばっかりだし、ちょっと汗とかがその……!」
「悪いな。後にしてくれ。俺は気にしないから」
俺は一見何もない壁に触れると、【巣立ちの透翼】を発動する。
壁を組む石材がバラバラになってシャボン玉のように浮かび、隠し通路を露わにした。俺たちが通路に入ると、石材はひとりでに元に戻っていく。
この通路は、俺が求めたときにのみ現れる。
この城は俺の手足も同然だ。だからこの通路も普段は石材で埋めておき、私室に行きたいときだけ開通させればいい。
俺の私室は、俺以外には見つけることさえできないのだ。
だからもちろん、自分以外は誰も入れたことがない。
招くのは、ラケルが初めてである。
通路の奥にある扉を開け、ラケルを室内に連れ込んだ。
とても一国の王の私室とは思えない、秘密基地めいた狭苦しい部屋である。
ビジネスホテルのダブルルームよりは大きいだろうか。その空間に、せいぜい3人掛け程度のソファーにテーブル、一人用のベッド等、必要最低限の調度品だけが詰め込まれている。
生憎と来客をもてなす機能はない。
俺はソファーに腰掛けると、隣をポンと叩いて、所在なさげに立っているラケルを呼んだ。
この部屋なら盗み聞きされる心配はないと思うが、あまり大きな声でしたいことでもない。
ラケルは遠慮がちに、俺から少し離れたところにお尻を下ろす。
「もうちょっと近くに来てくれないか」
「い、いや、でも……! 今のわたし、絶対臭いし!」
「そんなことないだろ」
間違いを証明するため、俺はラケルの背に流れるサファイアのような髪を一房掬い、鼻に近付けた。
甘く優しい匂いが、鼻腔を柔らかに満たす。
「……懐かしい、師匠の匂いだ」
「~~~~~~っ!!」
ラケルはエルフ特有の長い耳を真っ赤に染める。
……変わってないな。
彼女は昔から、澄ました顔をして意外とうぶなところがあった――それこそ前世のときから、そういうところは変わってない。
懐かしい匂いを嗅ぎ、懐かしい反応を見て、……俺の胸の中に、どうしようもなく込み上げるものがあった。
「……悪い、師匠。少しだけ……我慢して、くれるか?」
「へっ……?」
答えも待てずに、俺はラケルとの距離を詰め、その身体を抱き締めた。
「ぅあっ……!」
胸の中で、ラケルがか細く呻く。
華奢な身体を割れ物のように、けれど強く抱き締め、彼女の髪の中に顔をうずめると、甘い安心感が胸の内に広がっていくのを感じた。
ああ……こんな気持ちになったのは、本当に、7年振りのことか……。
「昔は、こうやってたまに、師匠の匂いを嗅いでたよな……。あの頃はもっと、大きく感じたけど」
ラケルはエルフだから全然変わらないけど……7年の月日は、俺の身体を大きく成長させた。
以前は見上げていた師匠の顔は、今や俺の目線より下にある。
以前は一方的に抱き締められるばかりだったのに、その身体は今、俺の腕の中にすっぽりと収まっている。
ラケルが踏破した悠久の時に比べればほんの一瞬に過ぎないが、過ぎ去った時間の大きさを、否応なく感じさせられた……。
「もうちょっとだけ、こうしててもいいかな、師匠……」
こんなことをしている場合じゃない。
それはわかっているが、過ぎた時間を取り戻したいという衝動が、抑えきれなかった。
……ああ、俺にも変わっていないところがあったな。
昔から、ラケルに対してだけは、どうしてか甘えがちだった……。
「……よ、呼び方……」
胸の中で声がした。
「呼び方……変えて、くれたら……いい」
ラケルは胸から顔を上げて、俺の顔を見上げた。
窺うように、上目遣いで。
「師匠じゃなくて……ラケル、って」
俺はおかしくなって、思わず笑ってしまう。
「師匠が師匠って呼べって言ったんだろ?」
「……もう、それじゃ、イヤになったから」
ラケルは拗ねるように、ふいっとそっぽを向いた。
前は――俺の師匠たらんとしていた彼女は、こんな風に子供っぽい仕草は滅多に見せなかった。
それを今、遠慮なく見せてくれている事実を、嬉しく思っている自分がいた。
俺はラケルの長い耳に、そっと口を寄せる。
そして、大切な宝物を取り出すように、小さく囁いた。
「(……ラケル)」
「…………っ」
ラケルはふるっと小さく身体を震わせると、赤らんだ顔でちらりと俺を見上げる。
そして――
何かを決意するように、固く唇を引き結んだ。
「ちょ、ちょっと……いったん、離れて」
「え。うん」
言われるがまま、俺はラケルの身体を放す。
ラケルはソファーに座ったまま俺に背中を向けた。
そして、しゅるっと紐をほどく音が聞こえたかと思うと――するりと、羽織っていたローブを脱いだ。
埃が付いてて汚いとでも思ったのだろうか?
まあ、戦闘があった後だしな。
その程度に思っていた俺の脳を、次のラケルの行動が勢いよくぶん殴る。
ぐいっ、と。
インナーの裾を、一気にまくり上げたのだ。
一度、豊かに膨らんだ二つの乳房に服が引っかかる。すぽん、とそこを抜けると、解放された膨らみが重力に引かれ、ふるんっと柔らかく揺れた。
背中越しにそこまで見てしまってから、俺はようやくフリーズから復帰した。
「ちょっ、ちょっと待て! 何してんだ!?」
「えっ?」
ラケルは驚いた顔で振り返る。
むにりと腕で押し潰すようにして胸の先端を隠しながら、
「だ、だって……脱いでするものなんでしょ?」
「何を!?」
「え……だ、だから……」
ラケルは濡れたように輝く瞳をあちこちに泳がせて、
「え……エッチ、するんじゃないの……?」
「……は?」
ラケルの発言が咄嗟には理解できなかった俺は、文脈を辿るため自分の記憶を遡った。
――二人きりになりたい。
自分の発言。行動。それらを総合的に精査した結果――ラケルに勘違いさせてしまっていたことが明らかになった。
「……あ。あー、あー、あー……。……あの、ごめん、ラケル」
「え……?」
「二人きりになれるところに行きたいって言ったのは……ただ、今後の方針を話し合いたかっただけなんだ……」
「え」
ラケルは口を開けて硬直した。
ややあって……白い肩が、ぷるぷると震え始める。
「いや、うん、ややこしい言い方をした俺が悪かった。……でもまさか、昔、俺をえろがき呼ばわりしてた師匠がそういう風に考えるとは思わなくて……」
「うっ……ううう~……! ううううう~っ!!」
ラケルは駄々っ子のような呻き声を上げながら、再び俺に背中を向けて、ソファーの上で丸くうずくまった。
いや、これはなんというか、再会早々やらかした……。
前世――薬森亜沙李だった頃からして、そういうことには興味なさそうなタイプだったから、まさかそんなにあっさりピンクな方向に思考が行くとは予想だにしなかったのだ。
「……女の敵……」
白い背中を晒したまま、怨嗟の籠もった声を響かせるラケル。
「側室の子たちも、こんな風に振り回してるんでしょ……。そんな子に育てた覚え、ない……」
「いや、まあ……」
放置してるのは確かなので反論の言葉がない。
ラケルは自分で脱いだ服をいそいそと着直すと、振り返ってキッと俺を睨んだ。
「秘密の話がしたいなら、もっと確実な方法がある」
「え?」
「【三矢の文殊】を使えばいい。一度成功したから、もうノーリスクのはず」
「え……」
精神共有によるテレパシー。
確かにそれなら、いかなる方法をもってしても盗聴することはできない。
しかし……。
「……なあ。それってやっぱり……キスしないといけないのか?」
意識は虚ろだったが、唇にははっきりと残っている。
何かを伝えるように押し当てられた、柔らかな感触が。
ラケルは思わずといった様子で自分の唇に軽く触れると、
「わたしたちは、ベニーとビニーみたいに、同じ遺伝子を持って生まれてきたわけじゃない、から……何らかの接触行為があったほうが、確実」
そう言うと、俺との距離をぐいっと詰め、
「んっ!」
と、瞼を閉じながら顎を上げた。
「早くして、ばか弟子」
「……それじゃイヤになったんじゃないのか?」
「は・や・く!」
子供の頃、刻みつけられた上下関係というのは、そうそう変わりはしないらしい。
急かすラケルに抵抗できず、俺は彼女の肩に手を置いた。
……ほんの少し、罪悪感があった。
しかし、それを胃の底に呑み込んで――俺は、師匠にして幼馴染みの唇に、自分のそれをそっと触れさせた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
星空のような世界だった。
無数の光が瞬く、無窮の空間……。
ラケルの記憶によれば、因果次元、と言うのだったか。
魂、精神だけが辿り着ける、物質で構成された通常の世界よりも上位にある概念。
あるいはラケルの中での、精神だけで存在できる世界と言ったらここ、という固定観念が、この光景を作り出しているのかもしれないが。
上下もない空間の中で、俺はラケルと向かい合っていた。
精神世界ってことはもしかして裸なのかと思ったがそんなことはなく、いつもの見慣れたローブ姿で、なぜかもじもじと身体を揺らしていた。
「どうした?」
「盛り上がった気持ちをどうにかしたいばっかりにキスをせがんじゃったのが恥ずかしくて――あっ!?」
愕然とした顔で自分の口を塞ぐラケル。
「……なるほど。精神を丸ごと共有してるから隠し事はできないんだな」
「そ、そうだった……。【三矢の文殊】は全然使ったことないから慣れなくて……。あの、勘違いしないで! ジャックの身体がたくましくなっててドキドキしたのは確かだけど、他の人には絶対にこんなこと――ああもうっ!」
顔を覆ってうずくまるラケル。
俺の知るラケルは口下手な人間だったから、こういうのは新鮮だった。
どちらかと言えば亜沙李の雰囲気に近いか?
「あー、まあ……そういうことは、もうちょっと落ち着いてからな」
「……落ち着いたら、するの?」
手の指の隙間から、ラケルの目がちらりと覗く。
「うーん……。子供の頃はしょっちゅうムラムラしてた気がするんだけどな、今はなぜだか――」
「……しょっちゅう、してたんだ。ふうん」
「うぐああっ! もう!」
今度は俺か!
頭をガシガシ掻いて雑念を追い出し、冷静に自分の状態を分析する。
「……たぶん、後遺症だよ。まだ心のどこかで、女性をそういう風に見れないでいるんだ。この7年間、俺にとって、女の人っていうのは、敵だったから――」
「だったら、わたしがエッチな気分にしてあげる」
「は?」
「へ?」
ラケルはびっくりした顔で口を押さえ、温度計の水が上がっていくみたいにして顔を赤くした。
「ううううっ……! ち、ちがっ……! 違うの……! そ、その、あなたの心の傷を癒してあげたいって、そういう意味で……!」
「……身体だけじゃなくて性格もスケベだなぁ、師匠は」
「身体だけじゃなくて!? ずっとスケベな身体だと思ってたの!?」
「うん」
「…………え、えろがきっ…………!!」
涙目で睨みつけてくるラケルを眺めるのは、小さい頃にしごかれた仕返しができているようで気分が良かったものの、これ以上、この場所でこの話をするのは危険だった。
お互いの煩悩展覧会になったら、現実に戻ったときどういう顔で話せばいいのか。
本題に進もう。
「結果的には、精神共有を使ったのは正解だったかもな。……実は、共有したラケルの記憶を見て、いくつか気になった点があるんだ」
その瞬間のラケル本人は見逃してしまった点。
あるいは、情報が増えた現時点から振り返ることで意味を持ってくる点。
そして、俺が覚えている情報によって重要さが明らかになる点――
「これから、お前の記憶を掘り返しながら話すことになると思うが……構わないか?」
ラケルは真剣な顔をして、胸の下で緩く腕を組んだ。
「遠慮しないで。わたし、正直、理性的にものを考えるの苦手みたいだから。感情が優先しちゃう、っていうか……。気付いたことがあるなら、全部、言ってほしい」
「ああ……。じゃあ、単刀直入に言うんだが」
俺は告げる。
「沙羅は、二人いると思う」




