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転生ごときで逃げられるとでも、兄さん?  作者: 紙城境介
因果の魔王期・最終回〈上〉:小さいころ夢に見た

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第85話 蝉の声が聞こえる - Part5


 ドォウンッ――――!!


「あはっ❤」


 数百メートルの空間を貫いてきた弾丸を、《信愛》のアスモデウスは易々と孔雀の翼で防ぐ。

 その隙に変生したアーロンの触手が伸びた。

 起伏の少ない少女の肢体に絡みつき、華奢な身体を縛り上げんとするが、


「いやんっ! こういうのはまだ早いよぉ❤」


 瞬く間に切れ目が走ったかと思うと、すべての触手が細切れになった。

 見れば、アスモデウスの両手から鋭い爪が伸びている――彼女はその爪に口元に寄せると、付着した触手の体液をぺろりと淫靡に舐め取った。


「チッ……!」


 アーロンは斬り飛ばされた触手の翼を再生させながら、少女の姿をした怪物に対峙する。

 いかなる攻撃も、その柔肌に傷一つつけられない。

 まるでジャックの頑なな心を体現するかのようだった。


 俺ではこいつには勝てない、とアーロンは冷静に判断する。

 できるのは時間稼ぎ程度。

 真打が登場するまでの間をわずかに繋ぐ、しがない前座がせいぜいだ。


「――充分さ」


 真なる魔王に変生させた身体で、しかしアーロンは人間のようにシニカルに笑う。


「とっくに終わった残像でも、幕間を埋めるのに足るんならな――!!」


(ワタシ)はまだッ、諦めてませんけどねっ!!」


 ビニーが叫ぶと同時、再び銃声が轟いた。

 ダイムクルド惑島でも最も背の高いビルの屋上から弾丸が飛翔する。それはアスモデウスの薄い胸を貫かんとしたが、しかし、一瞬の後には、淫魔の姿は消え去っていた。

【巣立ちの透翼】によるノーモーション機動。

 アスモデウスは弾丸の軌道を瞬時に逆に辿り、狙撃者――ビニーの眼前に降り立っていた。


「あ……」


「あの子以外の愛は――」


 淫魔が艶然と笑い、鋭い爪を輝かせる。


「――全部、お掃除しないとね?」


 爪が振り下ろされる、その寸前。

 アーロンは、自らの身体をアスモデウスの前に差し出していた。


「あっ……!?」


 驚愕するビニーの目の前で、赤い、生きた人間と同じ、鮮血が舞う。

 長く伸びた淫魔の爪が、アーロンのわずかに残った人間の部分――腹部を、深々と刺し貫いていた。

 血の塊が、アーロンの唇から溢れる。

 びちゃびちゃと音を立てて、ビル屋上の床が赤く汚れた。


 しかし。

 アーロン・ブルーイットはなおも笑う。


「くれてやるさ、こんな身体……」


 眉をひそめるアスモデウスに、挑むような眼光を向けて。


「命なんざとっくに置き忘れたッ!! それを未来ってやつと交換できるんなら――ああ、フェアじゃあねえが、悪くねえッ!!」


 瞬間、周囲の床から一斉に黒い影が立ち上がった。

 ゴブリン、オーク、マンティコアにミノタウロス――それらは見る見る魔物の血肉を纏い、好戦的な視線を淫魔の少女に向ける。


 アスモデウスの爪は、未だアーロンの腹部に深々と刺さっていた。

 アーロンが自らの手でそれを固定するのを見て、淫魔はぱちぱちと目を瞬く。


「ありゃりゃ」


 直後、大量の魔物が、アーロンとアスモデウスを覆い尽くした。




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




 意識が現実に戻ってくる。

 わたしはゆっくりと玉座のジャックから身を離し、その顔を見つめた。


「……ジャック?」


 彼の瞼は、閉じている。

 まるで、……屍のように、安らかに。

 わたしの千年に及ぶ記憶に、やっぱり耐えられなかったの……!?


「ジャック! 起きてっ、ジャック!!」


 肩を揺すっても、瞼は開かない。

 ……そんな……。

 ようやく、届いたと思ったのに。

 わたしの気持ちが、願いがっ……ようやく、ようやくっ……!!




「――こんばんはー❤ お待たせしましたぁ~」




 こちらの神経を無遠慮に撫で回すような、甘ったるい声を背中に聞く。

 弾かれたように振り向けば、謁見の間の壁に空いた大穴に、少女が立っていた。


 アスモデウス/信愛の相。


 ジャックの疑心暗鬼を依代とする淫魔は、左手に握っていた何かを無造作に床に放った。

 どちゃり、と水気のある音を立てたそれを、わたしは一瞬、泥の入った袋か何かかと思った。

 違う。

 それは、人間だった。


 お腹に大きな穴を空けた、アーロン・ブルーイットだった。


 彼はぴくりとも動かない。

 屍のように。

 ただの死体のように。


「はあ~、終わった終わった」


 アスモデウスは一仕事終えた後のように肩を回すと、わたしに向かって足を踏み出す。


「寄り道は終わり。ようやく本筋に戻れるね、亜沙李ちゃん?」


 淫魔の長い爪から、赤い液体が床に滴る。

 わたしは反射的に身構えるが、すぐに頭の中が真っ白であることに気付いた。

 方策がない。

 この淫魔を倒すための方策が、どこにも。


『――いったん退こう、亜沙李ちゃん!!』


 わたしに味方する《運命》のアスモデウスが、耳元で叫んだ。


『疑心暗鬼を揺るがすもうひとつの蟻の一穴だったアーロンがああなった今、亜沙李ちゃんだけじゃあいつには敵わない……!! どうせあいつは京也くんには手を出さない!! ここはいったん退いて! あなたはもうタイムリープすることもできないんだよ!?』


 わかってる。

 そうするのが最善だって、わかってる!


 でも、……嫌なんだ。

 こいつから、逃げ出すことだけは。

 ジャックの疑心暗鬼を煽り、わたしたちの、ベニーたちの、アゼレアたちの想いをことごとく踏み躙り、誰を愛することもできなくした、こいつにだけはッ!!


 わたしは――逃げては、いけないんだっ!!!


「……ふふ」


 淫魔が、艶やかに、笑う。


「純愛だね。青春だね。身悶えるくらい、愚かだね? (わたし)、そういうの、大好物だよ?」


 ちろりと、小さな舌で唇を舐め。

 アスモデウスはわたしの眼前に立ち、血に濡れた爪を鈍く輝かせた。


「もし、何かの間違いで、また転生できたら――」


 振り上げられた爪を、わたしは見上げることしかできなかった。


「――今度は(わたし)が、あなたの恋を叶えてあげるね?」




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




 ―――俺は(・・)、ただ、あの幸せがあればよかった。


 亜沙李と、そして沙羅と。

 実の両親や、友人や知人たちと。

 ただ普通に、平凡に、暮らせてさえいれば、それでよかったんだ。


 だから、俺が信じたいのは、あの悪夢の5年間じゃない。

 その前には確かにあったはずの、平凡な18年の人生だった。


 だからこそ。


 ラケルやフィルとの修行の日々を。

 精霊術学院での研鑽の日々を。

 今にして思えばあまりにも尊い、あの日々を。

 この手で守ることができたなら、どんなにいいだろうと――――


 ――父は決めたぞ、ジャック。お前のその力を、俺は全力をかけて磨こう。そして世のため人のために使ってくれ




 ――――小さいころ、夢に見た。




 ああ……だったら。


「あのときの俺の決意は、偽物なんかじゃ、なかった」


 アスモデウスが驚愕に息を呑む。


「たとえ、どこの誰が(おまえ)であろうと――あの日々を守りたいと思った俺自身は」


 ラケルが嗚咽の声をかすかに漏らす。


「どうあったって――偽物じゃ、なかった」


 あの頃、夢に見たものを。

 どこの誰であれ――否定することなどできない。

 そう――






 ――たとえ、俺自身であっても!!






 ギィンッ、という軽い音と共に、細長いものが回転しながら宙を飛び、硬い床に転がった。

 それは真ん中で立ち折れた鋭い爪。

 俺が瞬時に腰の鞘から抜き放った『たそがれの剣』――特殊合金オリハルコンで鍛造された剛剣に弾き飛ばされた、アスモデウスの爪だった。


「……ッ!?」


 少女の姿をした疑心暗鬼が、慌てて俺から飛び離れる。

 完全にへし折れた自分の爪を見下ろし、そして正面に対峙する俺の姿を見据え、まるで何かを誤魔化すように薄く笑った。


「……京也くん……? これは、何の真似……?」


「何ののクソもない」


 俺は右手に携えた夕焼けの輝きを放つ剣を、俺の心に巣食う鬼に差し向けた。


「俺の疑心暗鬼は、俺自身にしか晴らせない。……そうだろ、神様?」


 18年振り――すなわち、転生したとき以来に出会う少女は、口角をひくつかせる。


「こんな恩知らずは見たことがないよ」


 蠱惑的な薄ピンクの長髪が、ざわりと揺らめいた。


(わたし)のおかげで、いい思いできたでしょ? 何も為すこともできずにトラックに轢かれてぐちゃぐちゃになったあなたを! 裕福な家に生まれ変わらせて、優れた才能を与えて、可愛い女の子とイチャイチャさせてあげたのは誰ッ!? どこにでもいる凡百な人間だったあなたを、魔王様にまでしてあげたのは誰だと思ってるのッ……!?」


「あんただよ、自称神様。……だから、感謝してるんだ」


「……感謝ぁ……?」


「そうだ。あんたが警戒心を煽ってくれなかったら、俺はきっと、どこかで挫折してた……。ラケルの修行についていけなかったかもしれない。学院で落第してたかもしれない。

 ……だから俺は、感謝するんだ。あんたという疑心暗鬼がいてくれたことを。『つらいこともあったけど、結果的には良かった』ってな」


 俺は巣立つことにする。

 感謝という透明な翼で。


 疑心暗鬼(おまえ)という、すべてから守ってくれる揺りかごから。


 俺の背後に、巨大な孔雀が陽炎のように揺らめき立つ。

 世界を引き裂き、あるいは抱き締めるように広がる、極彩色の翼。



 精霊序列第65位〈尊き別離のアンドレアルフス〉。


 その力は【巣立ちの透翼】。


 司りし概念は――『自由』。



 俺の背後に寄り添う翼と、アスモデウスの背に広がる翼が、正面から対峙する。

 アスモデウスもまた俺自身。

 だから、同じ輝きを放つ翼が二対、その目玉模様で睨み合うのだ。

 ただし、……俺のほうには、極彩色の輝きに加えて、もうひとつ。


『たそがれの剣』が、夕焼け色の輝きを放つ。

 それは世界に――そして今までの俺自身に、黄昏(おわり)をもたらす光。


「さあ――巣立ちの時だ」


 アスモデウスの顔が、歪んだ。

 それは自分の存在意義を根底から揺るがされた者の、焦燥の表情。


「こっ……のォおおおおぁあぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!」


 世界をつんざくような咆哮と共に、アスモデウスが砲弾のごとく迫る。

 対し、俺はゆっくりと『たそがれの剣』を正眼に構える。

 気合いを入れる必要はなかった。

 それもそのはずだ。

 ただ『ありがとう』と言うだけのことに、一体どんな気合いが必要になる?


 迫ったアスモデウスの矮躯に、『たそがれの剣』を振り抜いた。


「ごッ……あ……ッ!!」


 淫魔らしからぬ血塊を吐きながら、アスモデウスは弾かれたように吹き飛んで、壁の穴から城外に飛び出した。

 まだだ、まだ浅い。

 俺は謁見の間の床を蹴り、吹き飛ばされたアスモデウスを追った。


 かつて神を名乗った少女は、水着同然の衣服を血に濡らしながらも、孔雀の翼によって空中に留まっている。

 俺がその正面に浮遊すると、アスモデウスは荒く息をしながら、こちらをまっすぐに見据えた。


「……本当に、いいの……?」


 弱々しく、しかし確然と、彼女は問う。


「本当に、幸せになっちゃっていいの?」


 それは、俺という人間を誰よりも近くから見てきた者の言葉。

 俺は人並みの幸せが欲しいと言いながら、心の奥ではそれを恐れていた……。

 自分にはそんな資格がない、と思い込んでいた。

 20人以上も見殺しにした大罪人である俺が幸せになるなんて、あまりにもおこがましいと……。


「まだ、わからない」


 素直な気持ちを、俺は答えた。


「だけど……どうやら、俺の幸せを一緒に探してくれる奴が、いるらしい」


 謁見の間から俺を見上げる彼女を想う。

 同じ学び舎で研鑽を積んだ彼らを想う。


「だから、縋ることにした。無様に、みっともなく泣きついて。

 ――それが許されるかもしれないって、ようやく思えたんだ」


 俺は剣を握っていない左手を、真横に持ち上げた。

 そして、呼ぶ。

 7年前に一度死んだ、俺という人間を。


「――来いッ!!」


 号令に応え、地下の武器庫から地面を貫いて、1本の剣が飛来する。

 俺の左手に収まったそれは、清涼な朝のような輝きを放っていた。

 その刀身を形作るのは、世界最重の金属ヒヒイロカネ。

 大恩ある師匠が、尊敬する父親が、俺のために用意してくれた最強の武器。


「……捨てたって、言ってたくせに。ばか弟子」


 かすかに聞こえたのは、笑い混じりの呟き。

 捨てたくても、捨てられなかった。

 心のどこかで、期待していたんだ。

 俺の中に巣食う闇を、この輝きが打ち払ってくれるんじゃないかって。




 これこそは暗黒を斬り裂き、悪夢に終わりを告げる黎明の光。


 ジャック・リーバーという人間の始まりを模った刃。


 その銘は――――『あかつきの剣』。




 右手に黄昏(おわり)を。

 左手に(はじまり)を。

 それぞれ携えた俺は、その両方を振り上げた。


 二つの輝きが、俺の頭上で交差する。


 ここで終わらせよう。

 ここから始めよう。

 俺という人間の人生を。




 もはや、アスモデウスは抵抗しなかった。


 二つの輝きが、暗い疑心暗鬼を一息に両断する。


 極彩色の孔雀の翼が、黄昏と暁の光の中に散った。


「……ああ……」


 依代(からだ)を失い、無へと還りながら、俺に第二の生を与えた神様は呟く。


「…………光、あれ……か…………」


 その瞳には、混じりあった二つの光が、きらきらと映り込んでいた――




 少女の姿をしたもう一人の自分が消え去るのを見届けて、俺は振り返った。

 城の最上階に空いた穴から、サファイアのような青い髪の少女がこちらを見上げている。

 不甲斐ない俺を鍛えてくれた最高の師匠。

 そして、情けない俺を救ってくれた、……初めての、幼馴染み。

 彼女は群青の瞳に涙を溜め、けれど柔らかに微笑みながら――こう言ってくれた。


「おかえり」


「ただいま」


 ああ、そうか。

 本当に久しぶりに、思い出す。


 笑うのって――こんな風にすれば、良かったんだな。


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― 新着の感想 ―
[一言] アンドレアルフスの司りし概念はーー自由 のところ何回読んでもゾワゾワする
[一言] 菜の花や 月は東に 日は西に
[良い点] 最高すぎる。剣の名称から伏線があったなどと誰が気付く??
感想一覧
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