第84話 蝉の声が聞こえる - Part4
この世界で、そうと知らずに再会し、師弟になったばかりの頃。
どうして精霊術が上手くなりたいのか、と聞いたわたしに、ジャックは息を絶え絶えにしながら答えた――
――……嫌だからっ……だよっ!
――何もっ、できなくてっ……無力でっ……無能でっ……守れないのが、嫌なんだっ!
貴族の家で何不自由なく暮らしてきた子供とは思えない、切実な言葉。
思えば、悔恨と罪悪感がない交ぜになったあの言葉を聞いたときから、彼はわたしにとって特別だったのだろう。
あの言葉はきっと、彼の魂の奥から零れ出たものだった。
ろくに頭が働かない状況で、雑念を覚えようもない状態で、だからこそ溢れた、純粋な願い。
疑心暗鬼の毒で濁っていない、ジャックという人間の、美しい魂の形……。
わたしはラケルとして、師匠として、あの言葉を実現してあげたいと思った。
その思いは、今も少しだって変わらない。
だからこそ。
思い出させてあげなくてはならない。
救い出してあげなくてはならない。
黄金色に輝いていた、あの少年期は――決して、悪い夢なんかじゃなかったのだと。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
竜騎士――アスモデウスが空けた壁の穴から謁見の間に戻ると、ベニーとビニーが待ち構えていた。
瓦礫の散らばる地面にふわりと舞い降りたわたしに、双子が真剣な面持ちで近付いてくる。
ジャックのことを任されておきながら、こんな事態になっていることをなじられるのだろうか。
謗りは甘んじて受けようと準備したわたしに、二人はまったく予想外の言葉を投げかけた。
「ラケルさん……」
「陛下を――ジャックさんを救う方法が、ひとつだけ、あります」
……え?
わたしは驚いて、そっくりな顔の兄妹を見つめ返す。
「私たちじゃ、ダメだ」
「僕たちじゃ――多数決になってしまうから」
わたしは、鋭く息を呑んだ。
二人の言う方法に、心当たりがあったのだ。
でも……でも、それは……!
「危険、すぎる……! そんなことをしたら、ジャックの人格が――!」
「信じるしか、ありません」
「信じてもらうために、信じるしか」
言い置くと、双子は揃って背を向けて、謁見の間の入口に向かった。
「時間は、必ず作ります」
「ジャックさんを――お願いします」
決然とした、不退転の意思を宿した言葉を残し、二人は謁見の間を去っていく。
わたしと、もう一人――玉座の間に座る、ジャックだけを残して。
一切の揺れのない、一切の迷いのない、二人の言葉と背中が、わたしに覚悟を求めていた。
ジャックに信じてもらうために。
魔王になる前のジャックを、取り戻すために。
すべてを失うかもしれないリスクを背負う、覚悟を。
わたしは無言で、暗く、寒々しく、血の匂いが漂う謁見の間を横切る……。
歩みを重ねるごとに、ジャックの疑心暗鬼に全身を突き刺されるかのように感じた。
それでも。……もはや、わたしの足が止まることはない。
玉座の目の前に立つ。
豪奢なそれに、まるで取り込まれるようにして深く腰掛ける、一人の少年の顔を見る。
……そして。
その頬に伝う、一筋の涙を見る……。
「ジャック……もう、苦しいでしょう?」
語りかけても、答えはない。
「優しくしてくれる人を、信じてくれる人を、ずっと疑い続けるのは……。苦しくて、悲しくて、寂しいでしょう?」
それでも、彼の心は生きている。
「だから――もう、終わらせましょう」
だから、たとえ痛みを伴うとしても――
「【三矢の文殊】を使って、あなたとわたしの記憶を共有する。……そうすれば、わたしが薬守亜沙李であることを、疑問の余地なく証明できる」
ジャックの虚無の瞳が、……ゆっくりと、わたしの顔を見上げた。
そう。
これこそが、アスモデウスが作った疑心暗鬼の檻を、問答無用で打ち破る方法。
そもそも、ジャックがベニーを重用していたのも、双子間で精神をチェックし合っていたことが大きい理由だったはずだ――アスモデウスのアプローチに対して、【三矢の文殊】は最も有効な対策なのだ。
「――ただし」
と。
唯一にして最大の問題を、わたしは説明する。
「わたしの前世の記憶に、あなたが辿り着くためには、わたしがこの世界で過ごした数百年分――いえ、千年以上にも渡る記憶を、乗り越えなければならない。その過程で、あなたの自我が無事でいられるか、決して保証はできない……」
あまりにも長い、記憶の旅。
怒涛のように押し寄せるわたしの記憶に、ジャックの人格は砂浜に刻まれた落書きのように洗い流されるかもしれない。
……いや……十中八九、そうなるだろう。
でも。
それでも。
「わたしは、あなたならきっとできるって信じてる。……あなたは、どう?」
すべては、彼の意思次第だった。
ジャックはどことも知れない虚空を見つめる。
まるで夢見るように……。
「……ずっと、わからないんだ……」
掠れた声が、震える唇から零れた。
「嬉しいことと、つらいことが、行ったり来たり……この世界は、俺にとって、優しい夢なのか……? それとも……悪夢、なのか……?」
虚無を見つめる瞳には、しかし、輝きがある。
真っ黒に塗り潰された絶望の中に、それでも確かに、一点の光が輝いている。
それこそ……まさに。
わたしがかつて見た、彼の純粋な、魂の姿。
「それを……俺に、教えてくれるのか、……師匠……?」
くすり、とわたしは微笑んだ。
やっと、訊いてくれた。
わからないことがあれば素直に訊けばいいのに――ああ、本当に、ようやく。
「いいえ、ジャック。……この世界は、夢なんかじゃない」
玉座に座るジャックの前に腰を屈め、その顔に優しく、両手を添える。
「他ならぬあなたのために動く人たちが、確かな現実としてたくさんいる。……それを今から、思い出させてあげる」
わたしが顔を寄せても、ジャックは抵抗しなかった。
彼の息遣いが唇に当たる。
鼻が当たらないよう、少しだけ首を傾げる。
そして――ふわりと唇に、優しく柔らかな感触がした。
【三矢の文殊】。
わたしとジャックの精神にパスが繋がる。
同時――彼の記憶が、一気に流れ込んできた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
それは、悪夢だった。
それは、地獄だった。
それは、暗黒だった。
真っ黒に塗り潰された5年間。
明確に覚えていることそれ自体が精神を汚染すると言わんばかりに散り散りの記憶。
ただひたすらに、苦痛と悲嘆と憎悪と憤怒が訪れては去っていく。
いくつもの涙を見た。
いくつもの血を見た。
いくつもの死を見た。
そのすべてを――止められなかった。
たったひとつ。
たったひとつの理不尽が、そこにあるだけで、五体満足なはずの身体は少しも動かなくなった。
戒めを受けていたのなら、言い訳もできただろう。
どうしようもなかったのだと。卑怯な暴力に屈しただけなのだと。
けれど、違う。
この身体が動かなかったのは、純然たる恐怖から。
本来はその間違いを正すべき、実の兄でありながら――彼女という存在に、心の底から震え上がってしまったから。
ゆえに、ただの臆病者。
一切の言い訳が許されない――
20余名もの知人を見殺しにした、臆病者。
ああ、だから彼は耐えられなかった。
わたしが鍵を開けた後、すぐに警察に駆け込めばよかったのに……それが、できなかった。
こんな臆病者は生きる価値などない。
どのツラを下げて、おめおめと生き残れと言うのか。
そうやって、心の底で、魂の奥で、自らを、徹底的に否定していたから――彼は、自分が生き残るためにすべきことを、頭の端に浮かべることさえできなかったのだ。
にもかかわらず、彼には第二の生が与えられた。
ジャックにとって、それは断罪に他ならなかっただろう。
お前には死ぬ価値さえないと、そう言われたに等しかっただろう……。
だから、彼にとってこの世界での人生は、贖罪のようなものだった。
もう二度と、臆病者にはならない。
沙羅ちゃんのような悪は、ただの一人だって見逃しはしない。
その衝動があったからこそ、わずか7歳にして、容赦なく女盗賊を断罪することができたのである……。
……勤勉な子だと、思ってはいた。
わたしが課す訓練に文句こそ言いつつ、ただの一度だって、サボろうとはしなかった。
彼の記憶を巡り、わたしはようやく、その本当の理由を知る……。
ジャックにとって、第二の生は、長い長い自傷行為だったのだ。
どれだけ苦しくても、どれだけつらくても、こんなのは目の前で殺された彼らに比べれば大したことはないと、無視しなければならなかった……。
罪人である自分は弱音など吐いてはいけないのだと、自らに呪いをかけた……。
わたしに、カラムさんに、マデリンさんに、エルヴィスに、アゼレアに、ルビーに、ガウェインに。
彼は、心を開いてくれてはいたけれど……一度として、頼ろうとしたことがない。
少なくともわたしは、師匠だというのに、相談のひとつもされた覚えがないのだ……。
それを、彼が彼自身に許したのは、たった一人。
たった一人の、少女だった。
――甘えてくれていいんだよ。頼ってくれていいんだよ。カッコつけなくたっていいんだよ?
――情けないところも、みっともないところも、弱っちいところも、遠慮なく見せてくれていいの。
――だって、それが――お嫁さんの仕事でしょ?
長い間自分を責め続けていたジャックを、ただひとり赦したのが、フィルだったのだ。
鉛のように重い罪悪感。
それによって閉じていた心を……彼女だけが、解き放つことができた。
ジャックには、彼女のことが、菩薩のように見えていたのだ。
だからこそ。
だからこそ。
最悪だった。
まさに、蜘蛛の糸を切られるかのよう。
ようやく掴んだ救いの光明を、彼は最悪の形で奪われた……。
――ああ、まるで、もてあそばれているみたいだ。
――俺がのぼせ上がって、ぬか喜びしているところを見て、誰かが笑い転げているみたいだ。
――面白いのかよ?
――なあ。
――俺がこんなにつらい思いをしているのが、そんなに面白いか?
――だとしたら、もうお前たちには付き合わない。
――終わりにしてやる。
――全部。
――全部。
そこから先は、……深い深い、闇。
自ら心の瞼を閉じ、何も見ないまま、終わりへと突き進む。
もはや彼にとっては、それだけが救い。
――この世界が、俺を苦しめるためだけの悪夢であるのなら。
そんなものは、とっとと醒めてしまえばいい――
――長い長い追体験を、わたしは終える。
一寸の光も射さない暗闇を、ようやく歩き終える。
その果てには、一人の少年が蹲っていた。
その姿は、未だ子供のまま。
前世で、現世で、わたしが出会ったときのような、幼い子供のまま。
彼は、すべてを奪われた。
人並みに生き、大人に成長する権利すら。
――……ずっと、寂しかったんだ……
ジャックの魂が、剥き出しの心を吐露した。
――ずっと真っ暗で、誰も助けてくれなくて。だから、俺が、俺だけで、何とかしなくちゃって……
それはかつて、フィルに対しても零した言葉……。
彼の心のうちにある、大きな大きな孤独。
「……そんなの、難しいよ」
その孤独に寄り添うように、わたしは言う。
「わたしたちは、色んな人と一緒に生きている。色んな人の姿を見て、言葉を聞いて、胸の中に刻みながら生きている。……あなたの中に、まだフィルがいるように。
本当に一人きりで、自分だけで幸せに生きていくことなんてできないよ。……たとえ隣を歩いていなくても、同じ場所にいなくても。……誰かに頼らないと、人生なんてやってられないよ」
わたしも、いろんな人に頼ってきた。
トゥーラに、老師に、今まで出会ってきた様々な人に。
彼らとの『縁』がなければ、わたしは今、ここにはいない。
――フィルも、そう言ったよ
ジャックは言う。
諦念と共に。
――でも、フィルはあいつだった
――みんな、あいつなんだ。あの妹なんだ
「……そうかもしれないね」
――だったら!
「じゃあジャック。……あなたは、フィルのことが嫌い?」
答えが途絶えた。
ジャックの心が、束の間、否定することをやめた。
「世話役だったアネリさんは? 何回かは沙羅ちゃんだったアゼレアは? ルビーは? ……彼女たちの言ったことを、彼女たちと過ごした日々を――あなたは、偽物だと思う?」
追体験した彼の人生は、確かに悪夢だった。
地獄であり、暗黒だった。
だけど――だけど、決してそれだけじゃなかったのだ。
家族との暮らしは暖かかった。
フィルと寄り添うのは幸せだった。
学院での生活は楽しかった。
たとえそのうちのいくつかが、沙羅ちゃんによって偽造されたまやかしだったのだとしても。
黄金に輝くようなあの日々は、……紛れもなく、本物なのだ。
「結局のところ、他人の心の中なんてわからない。100パーセント信じるなんてこと、そもそもできっこない。
……そんな中で、砂粒に紛れた砂金のように、信じたいと、本物だと思いたいものを見つけ出して、心の中に仕舞ってゆく――きっとね、みんな多かれ少なかれ、そんな風にして生きているんだと思う」
誰も信じられないなんて、当たり前だ。
他人が何を考えているかなんてわからない。その人が沙羅ちゃんであろうとなかろうと、信じられることなんて何もない。
だからこそ、輝くのだ。
何も信じられない人の世で、それでも信じたいと願ったものが――きらきらと、黄金のように。
――……もし、裏切られたら?
問い返す声は、拗ねた子供のようだった。
理由のない反感の中に、一粒の期待。
それこそ、砂に紛れた黄金のような。
だからわたしは、その一粒を掬い上げる。
「泣いたらいい」
わたしは緩く微笑みながら言った。
「わたしが、いっぱい慰めてあげるから」
その答えは、かつてのフィルのものと同じだった。
だからこそ、何度だって言う。
彼女の言葉は正しかったのだと。
偽物なんかじゃ、なかったのだと。
――……ぁ
――……ああ……
嗚咽が漏れた。
暗闇の中に蹲った彼は、けれど空を仰いで、声を上げて泣いた。
頬を伝い、滴った涙が、真っ黒な世界に落ちる――
ほんのわずか。
染み程度ではあるけれど、涙の落ちた場所から暗闇が去り、黄金色に輝いた。
その輝きの中には、確かにその記憶がある。
黄金の少年期が、燦然と輝いている。
わたしは子供のようにしゃくりあげる彼を、優しく抱き締めた。
そして問うのだ。
かつてのように。
これからのために。
「ねえ。お名前なんてーの?」
――……結城、京也。
「ねえ。あなたは何がしたい?」
天を仰ぐと、いつしかそこには、抜けるような青空が広がっていた。
地平線には、もくもくと背の高い入道雲。
うだるような暑ささえ肌に伝わり、そして――
ミンミンと。
蝉が、鳴いていた。
――それは、擦り切れた記憶の断片。
――悪夢の彼方に消えたはずの、幸せな思い出。
「……俺は」
少年は空を見上げる。
「俺は―――」




