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転生ごときで逃げられるとでも、兄さん?  作者: 紙城境介
因果の魔王期・最終回〈上〉:小さいころ夢に見た

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第83話 蝉の声が聞こえる - Part3


 人気のない魔王城を、ベニーとビニーは全力で駆け上がっていた。

 本来、この城は多くの兵士や将官たちで溢れている。

 実際、今も彼らはロウ王国との戦に向けて、自分たちの仕事を慌ただしくこなしているはずである――今まさにこの城で、このダイムクルドで起こっている異常にはまったく気付かないまま。


 彼らがいるのは、今、この空間とは位相の異なる、通常の空間である。

 ベニーとビニーが駆けているのは――そして、あの異様な少女とラケルが戦っているのは、アーロンの【試練の迷宮】が作り出した異空間なのだ。


 魔王城は普段から通常空間とダンジョン空間がレイヤー状に重なっている。

 侵入者があった場合や、城を破壊するような異常が起こった場合に、異分子を自動的にダンジョン空間に招待する仕掛けである。

 もしジャックとラケルの間に戦闘が起こった場合には、その機能を即座に発動させ、城内の将兵に気付かれる前に二人ともダンジョン空間に転移させられるよう、あらかじめアーロンが準備をしていたのだ。


 その準備が功を奏したわけだが――現実には、起こった戦闘はラケルとジャックのそれではなかった。

 異様な竜騎士。

 そして、それが変異することで現れた、〈アンドレアルフス〉の翼を持つ淫靡な少女だ。


 遮るもののない天空で起こったその出来事は、ベニーとビニー、そしてアーロンの理解を遙かに超えていた。

 ただひとつわかったのは、誰もまったく想定していない、異常事態が発生したということだけ。


 ラケルと孔雀の翼持つ少女による人智を超えた戦いは、今のところダンジョン空間の中に封じることができている。

 しかし、それもいつまで保つかはわからない。

 さらなる異常事態が重なり、ただでさえ緊張に満ちているダイムクルドが予期せぬ混乱に見舞われることを防ぐため、双子はジャックのもとへ、アーロンはラケルのもとへ、それぞれ急行しているのだった。


 二人は謁見の間の扉を開け放つ。

 ラケルが開けたはずの扉が閉まっているのは、彼女が開けたのは通常空間のそれだからだ。

 広大な謁見の間の横合いの壁には、大きな穴が空いていた――謁見の間に異常な反応が現れた瞬間、ダンジョン空間への転移が行われ、直後、壁が内側から破壊されたのだ。

 あまりにギリギリのタイミングだったため、闇のドームが天を覆いきるのが間に合わなかったほどである。

 ともあれ、謁見の間が内側から破られたことは隠しきることができた。もしこのことが将兵たちに知られていれば、城内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたことだろう。


 ジャックは、玉座に座ったままだった。

 ベニーとビニーが近付いても、空中の一点を見つめたまま微動だにしない……。

 本来はここにいてはいけないはずのビニーが目の前にいるのに、だ。

 眼前にあるすべてを視界に入れないまま、彼は譫言のように繰り返している……。


「……逃げ延びろ……隠れろ……やり過ごせ……決して見つからないように……」




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




 矢雨のように迫り来る何本もの光条を、わたしは宙を蹴って潜り抜ける。

 光速で襲い来るそれらの軌道を読めるのは、言葉にすれば『直感』としか言いようがない。

 わかるのだ、なぜか。

 自分がどの道を進むべきなのか。どの経路を飛ぶべきなのか。


『信じて、亜沙李ちゃん。自分の《運命》を』


 わたしの背後で、アスモデウス/運命の相が力強く言う。


『進むの! 糸を手繰るように! あなたが行くべき《運命(みち)》は、(わたし)が全部教えてあげる―――!!』


「あァああああああああああああああああああああああああ――――ッ!!!」


 口から迸るのは鬨の声。

 上品な大人が言う女性らしさなんて欠片もない、はしたない咆哮。

 けれど、それでいいのだ。

 初恋の人と結ばれたい。

 そんな少女漫画のような夢のために、今までどれだけの血と泥に塗れてきたか。

 綺麗でいるのは、彼の前だけで構わない。

 女同士でなら遠慮は無用でしょう、沙羅ちゃん―――!!


 光条の網目をすり抜け。

 孔雀の翼に肉迫し。

 淫魔の顔を間近に捉えた。


 スマートな頭脳戦なんてできはしない。

 できることと言ったら、感情を子供のようにぶつけることだけ。

 あなたをぶっ飛ばして、わたしはジャックのもとへ行くッ!


 握り締めた拳で、《信愛》のアスモデウスの顔を打ち抜いた。


 仰け反り、傾ぐ――幼い身体が。

 血が飛び散ることも、歯が欠けることもない――けれど確かに、わたしの拳は淫魔の芯を揺さぶった。


 効いている。

 ジャックの疑心暗鬼を依り代としたその肉体に。

 誰もを信じられなくさせることで、沙羅ちゃんだけを見つめさせようとした《信愛》のアプローチに。

 わたしの《運命》が、確かに衝撃を与えている……!


「――あはっ」


 体幹を傾かせたアスモデウスが、わたしを睨みながら笑みを浮かべた。

 直後、小さな拳がわたしのお腹に突き刺さる。


「――っが……!」


 息が詰まった。

 内臓が裏返りそうだった。

 のみならず、わたしという存在を支える主柱――魂まで響くような衝撃があった。


 だが、だが!

 折れるものか。この程度で!


 わたしの腕が、導かれるようにして動く。

 攻撃の手順は決まっていた。

 わたしはそれに従いさえすれば、勝つことができるはずだ!


 拳と拳が交錯した。


 ノーガードの殴り合い。

 キャットファイトと呼ぶには野蛮すぎる、真っ向からの潰し合い。

 肉を打つ音が連なり、重なり、混じり合う。

 互いに互いを釣瓶打ちにしながら、しかしわたしもアスモデウスも、引くことさえしなかった。


 ――そう。

 わたしは、放っておいても結ばれる立場だった。

 ただ自分から少し歩み寄るだけですべてが手に入る立場だった。

 その立場に甘えていた、と言われれば、確かにその通りだろう。

 だけど、それはもう過去の話。

 わたしはもう甘えない――求めることを躊躇しない!

 きーくん、わたしは―――!!


 ――パンッ、と。

 軽やかな音と共に、わたしの拳が弾かれた。


『道』が――曲がる。

『直感』が――外れる。

《運命》が――歪む。

 疑心暗鬼に巣喰う淫魔が振るった、孔雀の――ジャック・リーバーの翼によって。


「……っ! ジャック――!?」


「あは❤ ふふふふふ! ざァんねん!」


 身体が泳いだわたしの前で、アスモデウスが固く固く拳を握り締める。


重い(・・)ってさ! 《運命》がどうとかさぁ!!」


 その拳には、見かけ以上の威力があるに違いなかった。

 硬さでもない。重さでもない。

 お前がやってきたことは間違いなのだ、と。

 無慈悲な現実をわたしの魂に突きつける、否定の拳なのだ。


 ――そうなの、ジャック?

 だから信じてくれないの?

 やっぱりあなたにとって、わたしなんてただの幼馴染みで、手近なところで済ませただけで、大した存在じゃなかったの?


 疑問が過ぎる。

 疑心が芽生える。

 いけない、と封じても遅かった。

 コンマ1秒にも満たない時間、過ぎったその思考は、この淫魔を相手取るに当たっては最悪の隙だった。


()()()()()()? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




 絶望のまま。

 悪夢の中で、それでももがくように。

 彼は――進み続けているのだと思っていた。


 虚空を見つめ、譫言を繰り返す、主にして憧れの姿。

 ベニーは、ビニーは、その姿を見てようやく、それは自分たちの理想でしかなかったのだと知る……。


 彼は、進んでなどいなかった。

 フィルを失い、塞ぎ込んで食事さえ口にしなかったあの頃から、たったの一歩たりとも。

 まだ、囚われているのだ。

 あの暗黒に。

 あの暗闇に。

 彼が動き出せたのは、絶望に屈しないほど気高かったからではない。

 きっと、暗闇の中でもがくことを、諦めてしまったからなのだ……。


 出口は見つからず、希望などないと知り、深い深い諦念を胸に抱いて、ただ暗闇に消えることを選んだ姿――

 ――それこそが、魔王ジャック・リーバーの正体。


 ああ。

 今更ながらに、溜め息をつく。




 自分たちが憧れたのは、こんなジャックだったか?




「……これで」

「いいんですか……?」


 空っぽのジャックに、二人は言い募った。


「ラケルさんは、ずっとあなたのことを想っていました……」

「あなたの傍で、何日も何ヶ月も何年も、うんともすんとも言わないあなたに語りかけ続けていました……」

(ボク)たちは、それを見ていました」

「あなただって、それを見ていたはずです!」

「それを――」

「それを――」



「「――どうして、疑ってしまうんですか……?」」



「ジャックさん、(ボク)たちはここにいます……!」

「ここにいるのは(ワタシ)たちです!」

「どうか……!」

(ワタシ)たちの顔を、ちゃんと見てくださいっ!!」


 ――ジャック・リーバーにとって、この世界の人間は全員が結城沙羅だ。

 憎むべき仇敵。

 人生を懸けた呪いの対象。

 だから、すべての声は届かない。

 どんな言葉も価値がない。

 たとえそれが、人生の最も辛い時期を支えてくれた双子であっても――


 ――そのはずだった。


 ジャックの唇が、震える……。

 深い闇の向こうに消えていた、瞳の輝きが――わずかに、揺れる。

 それから、だった。


 一筋の、清い雫が。

 つうっ――と、少年の頬を伝ったのは。




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




「!?」


 握り締めた拳を打ち出す、その寸前。

 ガキリと、歯車が噛み合わなくなったかのように、アスモデウス/信愛の相の動きが鈍った。

 それによってできた一瞬が、わたしを救う。


『亜沙李ちゃん!!』


 耳元で弾けた《運命》の声によって、わたしは我を取り戻し、《信愛》から距離を取った。

 水着のような布きれで胸と股間だけを覆った淫魔に改めて向き合いつつも、わたしの頭は状況に追いつけていない。


 何……?

 今、どうして、動きが止まったの?


 当の《信愛》も、不思議そうに自分の手を見下ろしていた。

 まるで自分の身体が勝手に動いたとでも言いたげな……。

 だとすると、それは。


「……なんてお人好しなの、京也くん」


 疑心暗鬼が――揺らいだ?

 あの淫魔の肉体を構成するジャックの疑心暗鬼に、ヒビが入ったと言うのだろうか。このタイミングで?


「これも、《運命(あなた)》の力……?」


『違うよ。これはきっと、運命なんかじゃない。――あなたが、そして京也(ジャック)くんがこの世界で積み重ねてきた、《縁》の力』


《縁》。

 因と果を繋ぐもの。


(わたし)たちの無粋なお節介なんか関係ない、あなたたちがあなたたちの力で手に入れたもの……。忘れてなんかいない。彼は、失くしてなんかいないんだよ、亜沙李(ラケル)ちゃん! あなたのことを覚えていたように――この世界で過ごした日々のことを!!』


「……こんなのは、一時の気の迷いだよ」


 混ぜっ返すように呟くと、《信愛》のアスモデウスは薄く笑って、ぷらぷらと手を振った。


「一貫した疑心なんてありはしないもの――揺れて揺れて、葛藤して葛藤して、そうすることで疑心暗鬼(わたし)は強く育つ。そして、沙羅の愛を受け入れる準備が整っていく……♪」


 天を覆う孔雀の翼が、極彩色の輝きをさらに増す。

 あたかも陽光さえ塗り潰すように。


「説得? どうぞどうぞご勝手に! むしろありがとう! あなたたちが彼の疑心を揺らすほど、(わたし)は強くなっていく――!」


 そんなことはない。

 そんなことはないはずだ!

 すでに、ジャックの疑心は軋みを上げている……! 巨大なダムがわずかなヒビから決壊するように、わたしが穿った蟻の一穴が、城壁のごとき疑心暗鬼全体を揺らしているのだ……!


 あの子は、解放されたがっているのだ。

 もう疑いたくないと――叫んでいるのだ!


 でも、わたしだけでは足りないんだ。

 容疑の薄い人間が、結城沙羅ではないかもしれない人間が、わたしだけでは足りないんだ。


 ――蟻の一穴が、もう一つ要る。

 わたしと同等以上に容疑の薄い人間が、せめてもう一人……!


「さあ亜沙李ちゃん、そろそろ消えてみよっか?」


 孔雀の翼をギラギラと輝かせる少女が、拳を握り締めて身を低くした。


「京也くんは、あなたなんてもう見たくないって言ってるよ――!!」


 ドウンッ――!! というそれは、矮躯が大気を射抜く音。

 少女大の砲弾と化したアスモデウスが、わたしを粉砕するべく一直線に空を駆ける!


 ジャックの疑心暗鬼は、運命の赤い糸さえ拒んでしまう。

 憎悪と恐怖が思考を濁らせ、論理的に考えれば辿り着くはずの希望にさえ手を伸ばせない。

 だから、もう一人。

 結城沙羅の転生体であると疑える余地が極めて少ない人間が、必要なのだ。


 そんな人間――

 そんな、都合のいい人間――






 わたしは、一人しか知らない。






「――わかってねえなあ、クソガキ」


 わたしの前に、ふらりと一つの背中が現れた。

 決して頼もしくはない、くたびれたその背中には、ドラゴンの翼が生えていた。

 身体の一部を依代にドラゴンの翼を召喚し、空を飛んでいるのだ。


「『もう顔も見たくねえ』――そう言われてからが本番だろ? 口説きってのはよ」


 唇に咥えた煙草から、静かに紫煙が立ち上る。

 その男が無造作に伸ばした手が、淫魔の手首を掴んでいた。


「ま、バーで1回だけ飲んだナンパ野郎からの受け売りだがな」


 アーロン・ブルーイットは、面白くもなさそうに肩を竦める。

《信愛》のアスモデウスは呆気に取られたように目を見開き、ぐいっと、アーロンに掴まれた腕を引っ張った。


 動かない。


 わたしに対しては絶大な膂力を発揮した淫魔の腕が、なのにアーロンの手からは逃れられない。


「……ああ、なるほど……」


 淫魔は目を細めた。


「なるほど、なるほど、なるほど――アーロン・ブルーイット。()()()()()()()()!」


 沙羅ちゃんは女性にしか転生したことがない。

 わたしほどのサンプルは持っていないにせよ、おそらくジャックも、沙羅ちゃんが女性に転生する傾向があることはわかっているはずだ――だからこそ、ダイムクルドは女人禁制なのだ。


 だけど、男であるというだけでは信用に足らない。

 その油断をこそ、沙羅ちゃんは突いてくるかもしれない。

 ただし。

 ただし、だ。


 その男の身体に、魂自体が入っていなかったら?


 魂のない動く死体――哲学的ゾンビ。

 ただ生きているように振る舞うだけのもの。


 いかに結城沙羅といえども、生きてさえいないものに転生することはできない!


「アーロン・ブルーイット。アナタは、疑心暗鬼(わたし)にとっての天敵――いや、セキュリティホールとでも呼ぶべきかな? 皮肉だなあ、皮肉だね。沙羅ちゃん自身が作った動く死体が、(わたし)の弱点になるなんて――」


「どこの誰かも知らねえし、どういう意味だかわかんねえが、どうやらお褒めに与ったようで光栄だな。……それじゃ、そろそろ消えてくれるか? 馬に蹴られたくなけりゃあな」


「くすくす! それはこっちの台詞だね!」


 極彩色の翼が純白の光を放つ。

 伴い、周囲の空気が轟然と渦巻き、アーロンのコートを激しくはためかせた。


「アーロン!!」


「行けッ!!」


 アスモデウスの腕を決して離さないまま、アーロンはもう片方の手で彼方を指差した。

 彼の指が向くのは、針山のような街の中心に立つ城――その頂上。


「お前さんは、何のために乗り込んできたんだ? こんな血生臭え戦いをするためか? 違うだろッ!!」


「でもっ……!」


「一丁前に心配してんじゃねえよ、長く生きてるだけのクソガキが」


 くっ、と皮肉げに口角を上げ。

 哲学的ゾンビ、魂亡き男、アーロン・ブルーイットは告げる。


「若い連中が、青春とやらをする時間を稼ぐのが――大人ってやつの、最大の仕事だぜ」


 ……大人らしいことなんて、生まれてこの方したこともないだろうに。

 中身が伴わないまま、魂が宿らないまま、それでもアーロンは言い切った。


 わたしは、その言葉に――確かに、彼の『心』を見た。


「さっさと口説き落としてこいッ、あの童貞坊主を!!」


 アーロンの叱咤に、わたしは決然とうなずく。

 そして彼とアスモデウスに背中を向け、魔王城のてっぺん、ジャックのいる場所を目指して飛んだ。




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




 閃光が爆発した。

 轟音さえも置き去りにする熱の嵐。それを間近に受けたアーロンは、全身を焼け焦げさせながらもドラゴンの翼で大気を叩き、宙に留まる。


「魂のない哲学的ゾンビにして、沙羅が転生しようとしない男。そりゃ多少は容疑も薄くなるってものだよね」


 乱脈な悪夢を写し取ったかのような、おどろおどろしい極彩色に目玉模様の翼。

 それを大きく大きく広げ、少女が天に君臨する。


「でもね、そんな理屈はどうだっていいの。一度世界が疑わしく見えたなら、それは二度と戻らない――逃げ延びろ。隠れろ。やり過ごせ。決して見つからないように。一度でも警戒を始めたら、ずぶずぶと深みに嵌まっていく。底なし沼のようにね? そうなったら、考えれば当然の理屈なんて意味を成さない」


「だろうな」


 くっとシニカルに口角を上げ、アーロンは淫らな少女を見上げた。


「信じてもらおうなんて思ってねえよ。怖気が走るぜ、気色悪い。俺はどこまで行っても、あの坊主にとっちゃ敵のままだ」


 だからこそ。


「殺させてやりてえんだ。俺を俺のまま、アーロン・ブルーイットをアーロン・ブルーイットのまま、殺させてやりてえんだよ。そのために、俺は俺を証明しなくちゃならねえんだ」


「え? 動いて喋るだけの死体だよね、アナタ?」


「その通りだな。それがどうした?」


 ――ぞぐり、と。

 世界に、穴が空いた。


 空間としての座標は、アーロンの背後にあった。

 真っ黒な穴だ。

 闇と呼ぶにも暗すぎる、そこだけ世界が欠けてしまったかのような暗黒だ。


 その中から、『何か』がせり上がってくる。


 それを見て、アスモデウスが身構えた。

 かの精霊序列第32位〈忌まわしき唇のアスモデウス〉が――『恋を叶える』という目的において万能の力を発揮する彼女が、身構えたのだ。


「……それって……!」


「鬱憤晴らしに人形を殴ったことはねえのか、お嬢ちゃん? そのうえ動いて喋るんだから、くく、これほど上等なサンドバッグはねえだろう―――!!」


 それは鳥のようにも見えたし、獅子のようにも見えた。

 蛇のようにも見えたし、人間のようにも見えた。

 蠢く光と闇の集合体。造物主が形を創り損なったかのような、不定形の何か。

 しかし、その圧倒的な存在感は、ただそこに在るだけで周囲のすべてを支配下に置く。


 人によっては、恐怖するだろう。

 人によっては、正気を失うだろう。

 しかしそれは、アーロン・ブルーイットにとって在って当たり前のもの。

 物心ついたときから、目の前に在ったもの。


「――行くぜ、親父(・・)


 それはアーロンを育て、ダンジョンマスターとしての帝王学を教え込んだ魔物――否。


「……そうか。アナタ、引き当てたんだ? 【試練の迷宮】の概念召喚能力で」


 アスモデウスが身構え、警戒するのは当然のことだった。

 なぜなら彼女にとって、それは久しく会うことがなかった、『同族』だからだ。


「ゴブリンやオークがコモンだとしたら、そいつはまさにウルトラスーパーレア……! 確かにね、同じ因果系の中に属する以上、可能性としてはあり得る話! ……でも、アナタ、わかってるの? そいつ、ほんの一部ではあるけれど――本物の魔王(・・・・・)だよ?」


「さあな。俺にとっちゃ、ただのろくでもないクソ親父さ」


 当時の知性も記憶も、すでにない。

 オリジナルは、どこかからやってきた名前も知らない精霊術師に討伐された。

 ここに在るのは、その力を再現しただけの紛い物。

 であっても、コントロールなどできはしなかった。


 ただ、受け入れるしかない。

 この大いなる力の塊を、この空っぽの肉体に、身に纏うようにして。


 光と闇が、アーロンの身体を呑み込む。

 その肉体が、魔王のそれに変質する。

 触手のような細い管が無数に伸び、絡み合い、翼の形を紡いでいくのを眺めながら、アスモデウスは溜め息をついていた。


「ああ、まったく――回り道も回り道、脱線も脱線だ。だけど、無視するにはデカすぎる穴だよね」


 異形にして異質な魔王の翼。

 それに対抗するようにして、疑心を依代とする淫魔は孔雀の翼を広げる。


「アナタというセキュリティホールも、久しぶりに会った同胞も、この機会に潰しておこうっと!」


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