第82話 蝉の声が聞こえる - Part2
淫靡にして清楚。
場末の娼婦のようにも見えたし、初恋の乙女のようにも見えた。
見た目12歳程度の未成熟な身体には不似合いな、扇情的な格好……。へそも太腿も肋骨すらもこれ見よがしに見せつけながら、けれど胸と股間だけはしっかりと隠しているその様は、いっそ全裸よりも蠱惑的だった。
口元にほのかに滲む、誘うような笑み。
ひとたび手を伸ばせば、きっと誰も逃れられない――まるで甘い香りで獲物を誘う食虫植物のようだった。
〈忌まわしき唇のアスモデウス〉。
色欲を司る、最後にして最悪の精霊。
こいつだ。
こいつなのだ。
こいつこそが!
「思えば、おかしかった……!」
本来は〈アンドレアルフス〉の――ジャックのものであるはずの孔雀の翼を我が物顔で広げる少女に、わたしは告げる。
「わたしの知る限り、沙羅ちゃんは普通の子供だった……! そりゃあ、わたしに見せていなかった部分はあったかもしれない。頭は良かったし、なんでもできる優秀な子だった……。それでも! 二〇人以上もの人間を、警察の捜査を完全に逃れながら殺し続けるなんてこと、そうそうできるわけがない!」
わたしは強く強く指弾した。
有り得ないことをあらしめた原因を。
一人の少女を悪魔に変えた要因を。
すべての悲劇の根源を!
「あなたでしょう!? あなたが手を貸していたんでしょう、アスモデウス! 道理で伝承にしか出てこないはず――あなたは、地球に住む精霊だった!!」
わたしが、沙羅ちゃんが、ジャックが、地球からこの世界に移ってきた。
それ以外にも、ティーナの話によれば、大陸列強三国に伝わる神器もまた、地球から流れてきたものだという。
ならば、その逆がどうしてないと言えるのか。
この世界に生まれた精霊が、地球に移っているという可能性が――元の世界に戻るために、人間を利用する可能性が!
「……あー。盛り上がってるとこ悪いんだけどぉ、たぶん違うよ?」
くすくすと嘲るように笑って、アスモデウスは言う。
「この際ある程度明かしちゃうけどね、うん、妾が地球で沙羅ちゃんに手を貸していたのは事実。5年間の蜜月を守るために協力者を作ったし、沙羅ちゃんの両親を事故らせたりもしたよ?
でも、妾はあくまで手を貸しただけ。望んだのは沙羅ちゃん本人! 別に妾はなぁーんにも唆してない。ほんとニンゲンっていつもそうだよねぇ。アダムとイヴの頃から何にも変わってない。ぜぇーんぶ妾たちのせいにする!
妾たちは、ただ、望まれた通りに! 契約に従って! 仕事をしているだけなのにね?」
「……今更、そんな言い訳が通ると思う?」
「通らせるね。だって亜沙李ちゃん、あなたは自分のために結城沙羅という人間を歪ませようとしている」
「なんですって……?」
「『あの子は悪くなかったんだ。悪いのは別の奴だったんだ』」
わたしは鋭く息を吸い、思考を止めた。
にぃ、とアスモデウスが歯を見せる。
「うんうん、わかるよわかるよ? 信じたくなかったんだよね? ずっと仲良くしてきた幼馴染みが、あんな大犯罪を犯すなんて! 『そんなに悪い人には見えませんでしたぁ~』ってね? くすくす! なるほどなるほど、すべての黒幕として悪者にするなら、妾みたいなポッと出の超常存在はうってつけ! いいよ、しなよ悪者に。妾、そういうの慣れてるから……」
よよよ、とわざとらしく泣いてみせるアスモデウスは、けれど、表情の裏でわたしを嗤っていた。
現実から目を逸らし、自分にとって都合のいい答えに飛びつこうとしたわたしを嗤っていた。
涙を指先で拭うと、アスモデウスはくるりと表情を変え、慈悲深い微笑みを浮かべる。
「いいんだよ、亜沙李ちゃん? ぜぇんぶ妾のせいにしちゃえば、沙羅ちゃんは無実なんだから! たったひとつの恋のために、人生を捨てて、世界を捨てて、転生を繰り返し、何千年分もの時間を過ごしてきたのも、ぜぇんぶ妾に操られてたせい! 沙羅ちゃん本人の感情なんて塵一つ分の意味もなかった! よかったねっ! これで大切な妹分を憎まずに済むよっ!」
アスモデウスの言葉は、わたしの醜さを掘り出すかのようだった。
わたしは、心のどこかで探していたのか、沙羅ちゃんを無実に変えられる誰かを。
都合良くすべての罪をなすりつけられる存在を。
――いない。
そんなものはいないんだ。
つらくても、認めなくてはいけないんだ。
すべての元凶は、結城沙羅なのだと。
「くすくすくす……」
脳に染み入るような笑い声がする。
「いいねいいね、自分の醜さを受け入れて一歩成長って感じかな? 妾も鼻が高いよ、亜沙李ちゃん。憎まれ役を買って出た甲斐があるってものだよ――」
「……いつまで薄っぺらなことを喋るつもりなの……! たとえ元凶が沙羅ちゃんなのだとしても、あなたが共犯であることに変わりはない! そして今、あなたはジャックにさえ取り憑いている……!!」
背中に広げる極彩色の翼――〈アンドレアルフス〉の残滓がその証拠。
見逃せるはずがない。
排除すべきだ、何が何でも!
「共犯、共犯、共犯かあ……。なんだか人聞きが悪いなあ。妾の職能は――こっち流に言えば精霊術は、可愛らしくて些細なものに過ぎないのに」
「可愛らしい……? 些細……? 冗談言わないで……! ひとつの世界を、人類を丸ごと殺すような力――」
「『恋を叶える』」
堂々と、誇るように、アスモデウスは短く言った。
「それが妾の精霊術だよ、亜沙李ちゃん――たったそれだけの、中学生のおまじないみたいな、可愛らしい力だよ」
「……は……?」
「もちろん魅了や洗脳みたいな無粋なものじゃあないよ? それじゃあ恋を叶えるとは言わない――恋を叶えるための手段は、術者が自分で考える。それに力添えをするのが妾のお仕事」
あどけない少女に似た顔が、背筋のざわつく薄笑みを浮かべる。
「沙羅が何を考え、何を思ったか――それは妾が言うべきことじゃないから省くけどね。あの子の恋を叶えるためには、とてもとても高い障害があった。そう――彼女の思い人は、血の繋がった実のお兄ちゃんだったのでーすっ!」
底抜けに明るい声が、ダンジョン化したダイムクルドの空に響いた。
「そんな彼女が想いを遂げるためには何が邪魔? まずは両親だよね。絶対反対されるもの。次に兄に想いを寄せる他の女。実の妹を好きになる変態なんて、他の女の子に相手してもらえない非モテさんくらいだもんね? それでも叶わなければ――」
ぞっとした。
わたしには次の言葉が予想できた。
沙羅ちゃんにとっても最も邪魔なもの。それは――
「――血縁そのものを抹消するしかない。一度兄妹として生まれたものが血の繋がりを消す方法ってなーんだ? そうだね、生まれ変わりだね! ……というわけで、今に至るのでした」
パン! と手を叩いて、アスモデウスはにこやかに笑う。
「そのすべてを、あの子が望み、あの子が選んだ。妾はその選択を心から言祝ぐよ。確かに悪いことかもしれない。褒められたことじゃあないかもしれない。でもね、長いこと恋のキューピッドをやってきた妾的には、こう思うんだよ――恋ってすべからく、悪いことだよね? そう思わない? 誰もが幸せになれた世界を、自分の恋のためだけに消滅させたラケルちゃん?」
……ダメだ、ダメだ……。
聞いちゃ、いけない。
この精霊の言葉を聞き続けたら、戦う意気そのものを挫かれる!
わたしは薙ぎ払うように右手を振る。
その軌跡を追うようにして、蒼い炎が奔った。
【黎明の灯火】。
骨すら焼き尽くす火力が、瞬く間に幼い少女の姿をした精霊を包み込んだ。
――はずなのに。
「わかってないなあ」
薄いピンクの髪を焦げさせもせず、アスモデウスは呆れたように嘆息した。
「精霊術戦において、自分の能力についての情報は秘すのが鉄則、だったよね、ラケル先生? なのに妾がぺらぺら自分の力を語ったのは、どうしてだと思う?」
聞いて、わたしはすぐに身構えた。
すでに何らかの攻撃が――
「ああ、違う違う。『すでに戦いは終わっているから』とかじゃなくて――」
アスモデウスはへらへらと笑って、ひらひらと手を振った。
「――これは、そもそも、戦いなんかじゃないからだよ」
蒼炎を吹き散らしながら、極彩色の翼が大きく大きく広がった。
孔雀のそれに特有の、目玉のように見える模様が、揃ってわたしを見つめている気がした。
「とってもとっても怪しいね、京也くん。いきなり現れて、自分は薬守亜沙李だ、なんて――彼女までこの世界に転生しているなんて都合のいいこと、あるはずがないのにね!」
あれは……あれは、ただの模様だ。
なのに、なのに……全身に突き刺さる、この視線は――
疑惑の視線は。
「さあ、逃げなきゃ。隠れなきゃ。やり過ごさなきゃ。決して見つからないように――もしそれができないなら」
にっこりと。
授業参観に来た母親のような柔らかな笑みでもって、精霊は告げた。
「――殺すしかないね?」
極彩色の翼が、瞬間、白一色に輝いた。
直後。
無数の光の条が、わたしの全身を貫いた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
『――臆する必要なんかないんだよ、亜沙李ちゃん』
声がする。
『あなたの恋はわたしが認めた。沙羅ちゃんのそれにも劣るものじゃないって』
真っ白な世界で、わたしの背中を押す声が。
『思い出して。世界を越え、時を超え、また同じ人に恋をする――これ以上の恋愛って、他にある?』
そう、と誰かがうなずく気配がした。
『恋においては、《運命》こそが最強の武器なんだよ?』
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
無数の光の条が、わたしの全身を貫いた。
――かのように思えた。
まさに光速で迫り来るそれが、わたしの肌に触れる寸前――ビュオオッ、という突風が、横ざまに吹き抜けたのだ。
煽られる。
宙で翼を広げるアスモデウスが、至極当たり前に風に煽られ、体勢を崩す。
「……あれ?」
光の条はギリギリで軌道を曲げ、わたしのそばを素通りして、遙か地上のビル街に消えていった。
爆発音も、衝撃音も、聞こえてこない。
「何? 今の、風は――あんなに、不自然な。ご都合主義な。妾を邪魔するためだけに吹いたかのような――」
何が起こったのか、正確にわかっているわけではなかった。
けれど、直感があったのだ。
今、わたしは、守られた。
何に?
――《運命》に、だ。
「恋を、叶える――それが精霊術だと、アスモデウス、あなたは言った」
言葉を連ねるうちに、急速に頭の中で情報が整理される。
「具体的な方法は術者が考え、それに力添えをする能力だ、とも。つまり、あなたがこうして姿を現したのは、あなたが遂行中の、ジャックを口説き落とすためのアプローチを、わたしに脅かされたから――!」
薬守亜沙李が名乗ることは、このアスモデウスにとって看過できない事態だったのだ。
おそらく、このアスモデウスが怖れているのは、わたしが薬守亜沙李であると、ジャックが信じてしまうこと。
ジャックが、転生者は自分と沙羅ちゃんだけではないと、気付いてしまうこと。
なぜなら――
「転生者には転生できない」
アスモデウスは表情を動かさなかった。
けれど、その背にある孔雀の翼が――わずかに、輝きを減じた気がした。
「沙羅ちゃんは、アゼレアやルビーを完璧に演じることはできる。だって、その人生を丸ごと体験できるんだから! だけど一方で、わたしを完璧に演じることはできない。だってわたしには、前世で作った、沙羅ちゃんの知らない思い出がたくさんあるから!
もし、ジャックがそれに気付いたら。
誰も彼もが沙羅ちゃんに見えてしまう今のジャックが、わたしという完全な例外に気付いてしまったら!
あなたの誘惑は、跡形もなく破綻する……!!」
このアスモデウスの行動原理は、煎じ詰めればたったひとつだ。
信じることさえできない人間を、好きになることはできない。
これを利用して、このアスモデウスは半ば強制的に、ジャックを沙羅ちゃんに振り向かせるアプローチを組み上げたのだ。
「ジャックを疑心暗鬼にして、この世の誰も彼もを沙羅ちゃんだと疑わせ、恋愛対象から外させることができたなら――」
その悪魔的発想を。
自分でも完全には信じきれないまま、わたしは口にする。
「――残るのは、沙羅ちゃん本人しかいない」
本来、生まれ育ったのとは違う世界で、誰も信じられなくなる。
それは想像を絶するほどの孤独だ。
もし、その孤独を癒やせる存在がいるとしたら――それは、同じく異世界から転生してきた存在のみ。
たとえ、憎むべき敵であろうとも。
沙羅ちゃんが目の前に現れたとき、ジャックは孤独から解放されるのだ。
沙羅ちゃんを疑う必要はない。
殺意、憎悪、他のどんな負の感情に塗れても、疑う必要だけはない。
その事実が。
疑心暗鬼に囚われた今のジャックにとっては、救いになり得てしまうのだ――
だけど、その救いはマッチポンプだ。
すべて、この精霊が用意したもの。
この精霊が沙羅ちゃんの恋を叶えるため、ジャックを振り向かせるために用意したもの、それは――
「――『疑心暗鬼』……!」
極彩色の翼を広げる少女に。
ジャックの中に寄生した疑心暗鬼に。
わたしは、力強く指を突きつける。
「ジャックの疑心こそが、あなたの力の源――――!!」
だから、炎を叩きつけても無傷だった。
目の前の少女をどれだけ傷付けようとしても無意味だ。
その肉体はジャックの疑心暗鬼そのもの。
ジャックの他人を疑う心、それ自体をどうにかしなければ、決して揺らぐことはない……!
「……ああ、やっぱり女の子は勘がいいねえ。京也くんはちょーっと被害者のふりをしてみせただけでコロッと信じちゃったのに。男の子ってホントたーんじゅーん! くすくすくす……!」
黒板を引っ掻くような、癪に障る笑い声。
この声に、ジャックは内側から冒された。
フィルを失ってからの7年間、こいつのせいで、ジャックは誰にも助けを求められずに……!
「信じる者は愛される。信じる者だけを愛しうる。――たいへん申し遅れましたぁ♪ 妾はアスモデウスの分霊が一柱、《信愛の相》!」
アスモデウス/信愛の相は慇懃に腰を折ってみせると、そのまま顔を上げて、上目遣いにわたしを見やった。
「……それで、そっちは? 憑いてるんでしょ? 妾の三つ目の『顔』が」
この精霊はこれまで、三つの顔を持つ竜騎士の姿で現れた。
あれは、この精霊の在り方を意味していたのだろう。
つまり、三柱の分霊が、合計三人までの人間に力を行使することができる。
ジャック、沙羅ちゃん、そして――
『――他の「顔」とバッティングするのは何千年ぶりかなぁ』
【神意の接収】の模倣能力は、精霊の種類を特定した上で、術が行使される瞬間を目撃することで発動する。
条件は揃っていた。
〈忌まわしき唇のアスモデウス〉の恋を叶える精霊術――その模倣版を呼び水にして、わたしの魂に宿ったもうひとつの力を呼び覚ます。
わたしの背後に、陽炎のように揺らめき立つ影があった。
《信愛》のアスモデウスの壮麗な翼に比べれば、あまりにもささやかなコウノトリの翼――〈忠実なる影法師のシャックス〉のそれを背に宿した、一人の少女。
彼女は何百年にも及ぶわたしの恋路を、ずっとわたしの中で見守っていた。
見極めるために。
見定めるために。
わたしの恋が、自分に相応しいかどうかを。
わたしの記憶にある通りの、清廉で汚れのない、純白の布を身体に巻いて――神様のような少女は、もう一人の自分に向かって名乗りを上げた。
『愛されるべくして愛される。恋するべくして恋をする。――たいへん申し遅れました。妾はアスモデウスの分霊が一柱、《運命の相》』
《運命》。
赤い糸で結ばれているかのように巡り会う――それがわたしの採ったアプローチ。
『わかってるね、亜沙李ちゃん?』
背中から支えるようにして、アスモデウス/運命の相は言った。
『これは精霊術戦なんかじゃない。こっちとあっち、《運命》と《信愛》。どちらのアプローチが京也くんを射止めるか。そういう争いでしかない。古今東西、どんな異世界でも無数に行われてきた、醜くて、みっともなくて、欲に塗れた――だけど、何よりも素敵な争い』
それを一語で、どこかの誰かがこう呼んだ。
『――「恋の鞘当て」』
甘く甘く柔らかに、まるでチョコクリームのような声に押されて、わたしは恋敵に対峙する。
『妾があなたの鞘になる。さあ、証明しに行こう。「運命の恋」こそが最強なんだってね』
「あはっ♪」
《信愛》のアスモデウスが、沙羅ちゃんにそっくりの笑い方をした。
「『運命の恋』ぃ? そんなものないないっ! そろそろ卒業したら? そういうイッタぁい夢! どうせみんな、ズルズル歳を取って選択肢もなくなった末に、妥協に妥協を重ねて、理想とかけ離れた相手と結婚することになるんだからさあああ!! そんなんじゃあ行き遅れちゃうよ? ……あっ、そうか。もう百歳超えてるんだっけ? ごめんごめん! とっくに手遅れだったね! おばーあちゃんっ♪」
包み込むように。押し潰すように。
無数の目玉模様が付いた極彩色の翼が、空を覆っていく。
「あなたの声は届かない。誰の言葉も届かない――ただひとつ、沙羅の愛の囁き以外はね❤」
再び、孔雀の翼が白く輝く。
届かないなんて、あるものか。
運命とは与えられるものではないのだと、わたしは知っている。
多くの時間を重ね、多くの想いを積み上げて、ようやく掴むものなのだと、わたしは知っている。
だからこそ、断言できるのだ。
前世での約20年。
今世での数百年。
人生のすべてを懸けて、今、この場所に辿り着いたわたしには。
――この運命は、すでに証明されているのだと!!




