第80話 どうか、とびっきりのバッドエンドを - Part2
「……アーロン、さん……」
異形の骸骨と化したアーロンの姿に、ベニーとビニーは言葉を失っていた。
アーロン・ブルーイットに対し、情を抱いたことはない。
悪霊術師ギルドは連帯の少ない組織だったし、アーロン自身、何を考えているかわからない、人間味を感じない男だった。
なのに。
だというのに。
――もはや人間でさえない、ただの骸骨。
――人として在るべきすべてが焼き尽くされた、かつてアーロン・ブルーイットと呼ばれた屍。
その悲しくて、寂しくて、哀れで。
無意味という言葉に形を与えたかのような、その姿が――
――ひどく、ひどく、二人の胸を突いた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
人であれば、きっと誰もが怯えるだろう。
何も為せなかった。
何にもならなかった。
生まれてきたことに意味などなかったと答えが出たうえで、それでも存在を強制された、その在り様に。
骸骨の怪物と化したアーロンを前にして、まさに今、わたしがその怯懦の中にある。
こうはなりたくない。
これにだけはなりたくない。
希望なんてありはしない。
それを抱くべきアーロン・ブルーイットはとっくに死んでいて、自分はその屍に過ぎない。
何もかもが終わりきっている。
なのに、なぜか自分が継続しているという、絶望と呼ぶも生ぬるい理不尽に――わたしなら、きっと耐えられない。
哲学的ゾンビ。
悪霊王ビフロンスが――沙羅ちゃんが遺した、最後の生きた死体。
「7年前、突如ただの死体に戻った人間がどれだけいたか」
舌も声帯もありはしないのに、アーロンの声が響く。
「何千? 何万? 正確な数字なんざ誰にもわからねえ。それでも、ひとつだけ断言できることがある――そいつらを差し置いて、俺が生きていていい理由なんて、ただのひとつもねえってことだ」
束の間、わたしは幻覚を見た。
骨の怪物となったアーロンの背後に、無数にひしめく怨念の塊。
7年前に突然露わになった、何万人分もの死。
その中に、わたしは一瞬、知った顔を見た気がした。
カラムさん。
マデリンさん。
……トゥーラ。
ああ、わたしもまた、心のどこかでは思っているのだ。
生き残ったのがアーロンではなく、わたしの大切な誰かだったらと。
生き残ってしまったという罪。
サバイバーズ・ギルト。
あの怨念の数だけ、彼は罪を背負っている。
血も肉もない空っぽの身体で、自らを押し潰すためだけに。
「さあ、お嬢ちゃん」
ガチャリ、と骨の指が地面を掴んだ。
「俺を、葬ってくれよ」
ヴン、と骸骨の姿が正面から消えた。
速い――!?
さっきよりも、さらに!
わたしはほとんど本能的に身を屈めた。
直後、髪を何かが掠める。身を捻るようにして振り返れば、尖った指の骨にわたしの髪が何本か絡まっている。
肉というカバーを脱ぎ捨てた今のアーロンは、全身すべてが凶器だ。
しかし一方で、筋肉は身体を守る鎧でもある。それを脱いだということは――!
わたしは懐から鉄扇を取り出した。
【清浄の聖歌】――『空震』!
バンッ! と鉄扇を広げると同時、強烈な振動波を骸骨の怪物に叩きつけた。
骨伝導――骨は【清浄の聖歌】の攻撃に対し、完全に無防備……!
「はッ」
鼻で笑うような声がした。
瞬間、全身を振動させた骸骨が、バラバラになった。
積み木のように――あるいは、プラモデルのように。
「ここにあるのは、ただの死体だ」
声がする。
バラバラになった骸骨は、パーツのまま宙に留まっている!
「死体を殺すことなんざできねえよ」
全方位から、バラバラになった骸骨が襲い掛かってきた。
肋骨が、背骨が、肩甲骨が、大腿骨が、頭蓋骨が、わたしの全身を食い破ろうとする。
「くっ……!」
下がるしかなかった。
逃げるしかなかった。
引導を求める屍から、わたしは――
不意に足が組み上がった。
反応が遅れる。
バラバラになれるなら元にも戻れる――その可能性が頭から抜けていた。
強烈な蹴撃を腹部に受けた。
【巣立ちの透翼】が間に合い、ダメージは受け流せたけれど、それだけだ。
わたしはサッカーボールのように吹っ飛んで、ビルの壁に背中を打ちつける。
マズい、と思ったのと、完全に同時だった。
ビュンと骸骨の腕が飛来して、わたしの首を壁に押さえつけたのだ。
筋肉がないとは思えない、恐るべき力。
ギリリと喉が締まり、呼吸ができなくなる……!
「ぐっ……! あっ……!」
骸骨の腕を掴んでもがき、少しでも気道を確保する。
でも、外れない……! 強い……! 死体だなんて、とても思えないほどに――
目の前に頭蓋骨がやってきて、わたしの顔を間近から見据えた。
「どうした、お嬢ちゃん? お前さんの力をもってすりゃ、俺を葬り去るのなんて簡単なはずだ」
「わたし、はっ……! あなたを、殺しに、来たわけじゃ、ない……! ジャックと、話をしに、来ただけっ……!」
「話? 何を話すって?」
骸骨に表情はない。
「この俺と。この虚無とさえ向き合えないあんたが、あの坊主と何を話せるって?」
話すことなら、いくらでもある。
数え切れないくらい。我慢できないくらい。
だから――!
「先に俺を葬っていけ。俺に自らの不毛さを思い知らせて、惨めに地べたを這いずらせろ。さっきガキどもにやったように!」
ビキリッ、と背後の壁に亀裂が走り、一気に崩れ落ちた。
粉塵が視界を塞ぐ。
轟音を奏でて、瓦礫が積み重なる。
わたしは――
――瓦礫の山の上に、ふわりと降り立った。
「……認められないの」
「……何?」
瓦礫の山の下から、再び怪物の形に結合したアーロン・ブルーイットがわたしを見上げていた。
「死体だと、あなたは言う。不毛だと、あなたは言う。それを、わたしが認めたら、……カラムさんやマデリンさんと過ごした、あのリーバー家での日々も……無意味だったことになってしまう」
あの穏やかな、けれど幸せな、何よりも取り戻すべき日々を。
貶めさせはしない――あの毎日は、確かに在ったのだから。
「だから、それだけは認められない。わたしのために……ジャックのために!」
【絶跡の虚穴】。そして【雷霆の軍配】。
ワームホールを経由し、稲妻を無数に分裂させる。
まるで蛇の群れが獲物に殺到するように、大量の稲妻が骸骨を打ち据えた。
これで無力化できれば―――!
「認めやがれ。無意味だったのさ」
雷撃を浴びながら、しかし平然と、骸骨の怪物は一歩踏み出した。
「あんたたちがどれだけ幸せだったのか、その生活がどれほど輝かしかったのか、俺は知りゃあしねえ――だが、それでも断言できる。その時間は無意味だったんだって。操り人形とのお人形遊びに、一体どんな価値があるってんだ、ああ?」
この街を――ダイムクルドを抱くようにして、アーロンは両腕を広げる。
「あの坊主は認めたぜ! 無意味だったんだって。無価値だったんだって! そんな自分に幕を下ろす方法を、探して探して探して探し――そうして、いっとうクールな方法をようやく見つけ出したのさ!!」
「それが人類を皆殺しにすることだって言うの!?」
「ああ。爽快だろう? どうせなら全部無意味にしてやれってよ!」
骸骨は人間じみた仕草で肩を竦めた。
「この国の連中は多かれ少なかれみんなそうさ。未来が見えなくなった。過去さえ塗り潰された。どこにも行けなくなった連中が集まって、揃って終わりを目指してる。まったくもってろくでもねえ――それでも、それだけが救いなのさ」
骨の指がわたしを指す。
未来のない、希望のない、それでも力強い矜持を乗せて。
「それとも、あんたには提示できるのかい? 未来も過去もなくなって、虚無の塊になった俺たちに、もっと相応しい幕の引き方を!」
瞬時、アーロンはバラバラになった。
無数のパーツに分かれた骸骨が、あたかも嵐のように迫り来る。
わたしは――
「できる」
下がらなかった。
逃げなかった。
無数に迫り来る骨の中から、頭蓋骨だけを正確に右手で掴み――残りは全身を叩かせるに任せた。
「……な……」
肋骨が、背骨が、肩甲骨が、大腿骨が。
胸に、お腹に、肩に、太腿に、突き刺さる。
【巣立ちの透翼】さえ使っていない。
痛くて、つらくて、泣きそうだったけれど――それでも。
「あの過去は――あの思い出は、嘘じゃない。未来だってちゃんとある。そんなに簡単になくなったりしない……! それを、わたしは、教えに来た!!」
だって、師匠だから。
だって、幼馴染みだから。
あの子の、彼の、人生をずっと隣で見て……誰よりも、その未来を思い描いていたから。
「……ほざくなよ、簡単に……!」
頭蓋骨が、ミシリと軋んだ。
「両親が死体だった。婚約者はいなくなった! そんなあいつに、一体何を見せられる……!?」
「わたしを」
わたしは微笑う。
およそ戦闘中に浮かべるべきではない、穏やかな微笑を、口元に滲ませる。
「ジャックに恋をしてるわたしを、見せに行くの」
ビキリと頭蓋骨に亀裂が走った。
「だからどいて、死体気取り。あなたみたいなのを、老害って言うの……!!」
亀裂は見る見るうちに全体を覆い、程なくグシャリと、頭蓋骨を破片に変えた。
同時、他のパーツも一斉に砕け散る。
粉々になった無数の白骨は、地面に落ちる前に風に吹かれ――瓦礫の山の麓に集まって、一人の男の姿を形成した。
アーロン・ブルーイット。
荒く肩で息をする、血も肉もある、一人の人間を。
「何が死体。何が哲学的ゾンビ」
わたしは瓦礫の山の上から、地面に膝を突いた彼を見下ろした。
「だったら、あなたが叫んだ絶望は、一体どこから出てくるの? あなたの言う虚無とやらは、一体何を満たしているの?」
「ッ……は」
男は皮肉げに笑う。
「魂のない俺にも心はある、とでも言うつもりか。そんなものすべて見せかけ――」
「知ったことじゃない。あなたに心があるかどうかなんて、わたしにはわからない。それがわかるのは、あなた自身だけでしょう?」
男は口を噤んだ。
「魂があろうがなかろうが、他人の行動が本物か偽物かなんて、わかりやしない。結局は……それを見る人間が、わたしたちが、信じられるかどうかでしかない」
わたしは彼方を見やる。
ビル街の向こうに聳え立つ、魔王の城を見やる。
きっとその中で待っている、大切な男の子を見やる。
「だから、わたしは――あの子の、信じる心を取り戻す」
師匠として。
幼馴染みとして。
そして女として――
――何が何でも、絶対に。
「…………は。は、は、は、は…………」
空虚な笑いがあった。
アーロンが俯いたまま漏らしたそれは、今のジャックのものによく似ていた。
「他人の恋路を邪魔する奴は、ってか……。そりゃあ、はは、敵わねえ……」
闇のドームに覆われた空を仰ぎ、アーロンはどっかりと地面に座り込む。
「やめだ、やめ。馬に蹴られたかあねえ。……後は若い二人に任せて、って奴さ」
空からわたしに視線を移し、アーロンは言った。
「……なんでだろうな。あんたが言ったようなことは、この7年、何度だって考えた……。今更な意見さ。なのに……どうしてか、無視できねえ」
ああそうか、と呟きが落ちて――
「――俺は……今まで、説教ってやつを、されたことがなかったんだな――」
空に昇っていったその独り言には、アーロン・ブルーイットの過去が詰まっていた。
ただの屍でしかないはずのモノの言葉に――なのに、彼の人生が宿っていた。
わたしは小さく溜め息をつく。
「……わたしは、あなたの師匠じゃないんだけど」
「わかってる。こんな歳にもなって、センセーに甘えるつもりはねえさ。……自分で考える。大人だからな」
コートの中から何か取り出したかと思うと、それは紙巻き煙草だった。
口に咥え、マッチで火を点ける……。
小さな煙が、ゆっくりと闇の空に消えていく。
「行け」
アーロンはくゆる紫煙を見上げながら言った。
「あいつは、俺なんぞよりずっと厄介だぜ?」
「知ってる。そこも含めて好きなの」
煙草を咥える口に、シニカルな笑みが浮かんだ。
「お熱いね。見えないところでやってくれ」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
気付けば、わたしは大きな扉の前に立っていた。
見上げれば薄暗い石の天井。見回せば頑丈そうな壁にタペストリー。見下ろせば上質な絨毯。
【試練の迷宮】クリア時の転移機能か……。
現在、ダイムクルドはロウ王国との戦争直前。ただでさえピリピリしている城内に騒ぎを起こさないように、アーロンが送ってくれたらしい。
わたしは目の前に聳える大扉を見つめた。
その向こうにいるはずの、一人の少年の姿を思い描いた。
迷うことはない。
心はもう、決めている。
わたしは大扉に歩み寄ると、観音開きのそれをゆっくりと押し開けた―――




