第73話 奪い取られた初恋を
「――――――ああ、そっか」
それは、時間にして一瞬のことだった。
静謐な光に満ちた礼拝堂――錚々たる列席者の中心で、〈バアル〉の糸に絡め取られ。
不倶戴天の宿敵から、ハッピーエンドを提示され。
これを逃す手は有り得ないと、頭では理解して。
そのとき。
頭の中に、記憶が溢れたのだ。
生まれたときから決して消えることのなかった空虚さ。
折に触れて感じていた自分の中の空洞。
それが、見る見る満たされた。
総身に溢れる力を感じる。
甘くて、苦しくて、安らかな気持ちを感じる。
……そう、だったんだ。
わたしの初恋は、2回とも――――
「……ん……?」
わたしの前に立つサラ・フィアーマが、怪訝げに眉をひそめて視線を上げた。
その目が。瞳が。
ありえないことを――あってはならないものを見てしまったかのように、愕然と見開かれてゆく。
ぶちぶち、と音がしていた。
ぶちぶち、ぶちぶち、ブチブチブチブチ……!!
それは、糸が切れる音。
それは、肌が裂ける音。
――わたしの手足が、自らの皮と肉を犠牲にしながら、〈バアル〉の糸を引き千切る音だ……!!
「……しょ、正気ですか……?」
あのサラ・フィアーマが。
あの少女Xが。
あの彼女が。
声音に恐怖さえ滲ませて、わたしを睨みつける。
「この世界なら、誰もが幸せになれる……! あなたの望んだもののすべてがここにある! 誰も傷付かない。誰も不幸にならない! 失ったものさえ取り戻せるのに!! ……なのに、どうして……どうして……っ!?」
どうして、って?
ああ、笑わせてくれる。
わたしは、肌の裂ける痛みを噛み殺し。
とびっきりの笑みを口元に刻んで、彼女の顔を見据えた。
「あなたなら……わかるでしょ?」
だって、そう、あなたが言ったのだ。
一緒に育った。
兄妹も同然だった。
違うところなど、何にもないはずなのに――と。
「…………ぁ…………」
呆然と、彼女の顔が空白になった。
「…………やっ、ぱり…………やっぱり、やっぱり、やっぱりっ…………!!」
繰り返す都度に、瞳に、表情に、燃え上がるような熱が籠もる。
わたしは、その顔を知っていた。
顔の造作が変わっても。
何千年という主観時間を経ても。
彼女の顔は、薄暗い0404号室で見たそれと寸分違わない。
「あなたはっ――――!!」
そうだ、わたしだ、サラ・フィアーマ。
……いや、違う。
――わたしは、あなたの本当の名前を知っている!!
「あなたにだけは、譲れないのよ――――沙羅ちゃん!!」
悪魔でもない。
神でもない。
幼いころから一緒に育ち、同じものを見て、同じ人に憧れて生きてきた――幼馴染みの名前を、わたしは呼ぶ。
結城沙羅。
あなたの言う通り、わたしたちは同じ。
――だからこそ。
あなたにだけは、譲れないッ!!
蜘蛛の糸が、音を立てて千切れた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
その瞬間、わたしの目には、星々輝く夜空の世界が見えた。
彼方から伸びる、4本の鎖。
それらに右足以外の五体を縛られた、少年が一人。
……ちょっと、待たせすぎたね。
ようやく、やっと。
――来たよ、きーくん。
少年の左足を縛る鎖が、音を立てて、砕け散った。
[首の鎖]――――[???]
[右腕の鎖]―――[???]
[左腕の鎖]―――[???]
[右足の鎖]―――[【因果の先導】の覚醒]
[左足の鎖]―――[恋愛証明/薬守亜沙李、記憶返還]
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
鮮血が散った。
絞めつけ、喰い込み、わたしの肌をずたずたにした蜘蛛の糸が。
……しかし、急速に力を失って、はらりと舞い落ちる。
長椅子の列席者たちが、騒然と慄きの声を上げた。
邪神にして精霊長、序列第1位〈授かりし神権のバアル〉。
よほど珍しいか――人の身でその糸を断ち切ったのが!
「っ―――〈バアル〉!!」
寸毫の後に、サラ・フィアーマ――否、結城沙羅が精霊に命じた。
大蜘蛛が動く。
極彩色のステンドグラスに取りついた、真っ黒な大蜘蛛。そのお尻から大量の糸が迸り、四方八方からわたしに迫った。
その糸には、わたしが持ついかなる精霊術も通用しない。
――ただひとつを除いては。
わたしは【絶跡の虚穴】を発動する。
糸に触れられる前に、空間に開けたワームホールを通り――
――ジャックの、目の前へ。
純白の婚礼衣装が、ステンドグラスの光で煌びやかに色づいていた。
しかし、彼の表情には、色など何もなく。
漂白されたような空白が、ぽっかりと満ちている。
「……ゆうき……さら……」
目の前に現れたわたしも視界に入れず、彼は呻くように呟いた。
「しってる……知ってる……? その、なまえ……。あぁあ、ぁああぁ、……あたまが……ぁ……!」
苦悶に顔が歪む。
頭を押さえ、何かを振り払うように、何度も横に振る。
「……おもいだせ、ない……。なにか、たいせつな……こと……」
……わたしの名前さえ思い出せない、と沙羅ちゃんは言っていた。
5年間、彼がどういう仕打ちを受けてきたのか、わたしは知らない。
だけど、ひとつだけ確かなことがあった。
幼馴染みの名前すら思い出せなくなるほどに……彼の心が幾度となく、傷付けられたであろうこと。
そして、それをやったのが……曲がりなりにも愛を語った、彼の実の妹であること。
「……ごめんね」
途方もない怒りと悲しさに胸を詰まらせながら、わたしは苦悶する彼の顔に手を添える。
「遅くなって、ごめんね――あともう少しだけ、辛抱してね」
ほんの少し、彼の眉根に寄ったしわが、浅くなった。
顔が、ゆっくりと上がる。
眩しいものを見るように、目が細められる。
そして、乾いた唇が、かすかに動く……。
「…………あ……ざ…………」
わたしは微笑んで、彼の身体を緩く抱き締める。
――薬守亜沙李が好きになった結城京也。
――ラケルが好きになったジャック・リーバー。
その両方が彼で、……だけど、その両方がここにはいない。
一方は彼女が削り落とし、もう一方は、歴史改変によって上書きされた。
だから、わたしは。
彼の身を優しく離しながら、その腰に手を伸ばした。
婚礼衣装の腰には、一振りの剣が吊るしてある。
その柄を握り、すらりと、刀身を引き抜いた。
瞬間、朝焼け色の光が礼拝堂に満ちる。
大蜘蛛の漆黒の巨体さえ染め上げる、黎明の光。
世界最重の金属、ヒヒイロカネだけが宿す輝き。
その銘は、あかつきの剣。
闇を引き裂き、夜に終わりをもたらす刃。
【巣立ちの透翼】によって重さを消したそれを一振りすると、ブウン! と風が唸り、礼拝堂全体がビリビリと震えた。
その感触を手のひらで確かめ、わたしは振り返る。
そのとき、ちょうど気が付いた。
ヴァージンロードの先――礼拝堂の入口に。
扉に背をもたせかけてこちらを見やる、銀髪の少女がいる。
彼女は――トゥーラは、わたしの姿を見て力強く笑っていた。
だからわたしも、強い笑みをもって返事をする。
――見ていて、わたしが探し出した答えを。
朝焼け色の刃が、大蜘蛛が落とした影を裂く。
鋭く研がれた切っ先で、わたしは彼女を指し示す。
「……今度こそ、取り戻す」
川越刑事を始めとした、多くの人たちの未来。
白骨の雨に潰された、精霊術学院の毎日。
始めからなかったことにされた、世界中の人の努力と、苦しみと、絶望。
そして何よりも―――
「―――あなたに奪い取られた、わたしの初恋を」
覚悟しろ、泥棒猫。
意地汚く掠め取ったものを、いいかげん返してもらう―――!!
「…………わたしが」
ステンドグラスに取りついていた大蜘蛛が消えた。
「わたしが……兄さんを一番、愛しているんです……」
直後、礼拝堂の天井に巨大な蜘蛛の巣が張り巡る。
「……だから……!」
その中央に〈バアル〉が再出現し、わたしを睥睨した。
「―――消えるのはお前だッ、薬守亜沙李ィいぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッッッ!!!!!!!」
金切り声と同時、大蜘蛛がお尻から滝のように糸を噴出する。
一瞬で無数に枝分かれし、降り注ぐそれは……まるで雨。
地に這いずる者を分け隔てなく貫く、天罰の雨。
「……あ……!?」
「さ、サラ殿下っ……!? 殿下っ!?」
「お、おやめくださいっ!! 私どもがっ、私どもがまだいますっ!!」
列席者たちの声は、彼女の耳には入らなかった。
諸共に殺す気だ。一人残らず!
悲鳴を上げる列席者の中、エルヴィスやアゼレアたちが動くのが見えた。
この世界でも彼らは優秀な精霊術師だろう。
だが、……この状況は、彼らでさえどうすることもできない。
降り注ぐ蜘蛛の糸は、触れればその瞬間、どんな精霊術をも無効化してしまうのだから。
だからこそ、あかつきの剣が必要だったのだ。
大蜘蛛が噴出した糸が、殺意の雨となって人々に降り注ぐ寸前。
わたしは床を蹴り、宙へと舞い上がった。
「何をっ……!?」
〈バアル〉の糸は、触れた精霊術すべてを容赦なく無効化する。
だけど。
だからといって、攻撃のすべてを無効化できるわけじゃない。
糸の1本が槍のように鋭くなって、列席者の一人を貫こうとした。
その前に割り込みながら、わたしはあかつきの剣を振りかぶる。
あかつきの剣の重量は1トン近くにも及ぶ。
わたしが大して太くもない腕でそれを振り回せるのは、【巣立ちの透翼】で重さを消しているから。
もう一度言う。
【巣立ちの透翼】を使っているから、この剣は軽いのだ。
鋭く尖った糸の先端。
朝焼け色に輝く刃。
それらが正面から激突した。
瞬間、【巣立ちの透翼】が無効化される。
あかつきの剣が、重さを取り戻す。
激突の結果は、火を見るよりも明らかだ。
頑丈とはいえただの糸と、世界最重の金属ヒヒイロカネの剣。
……真っ二つに両断されるのは、一体どちらか?
〈バアル〉の糸が、裂けて千切れた。
それははらりとほどけて勢いを失うと、ぱちんと弾けて虚空に消える。
光の粒が雪のように散り、空気を白く輝かせた。
呆然とそれを瞳に映す列席者たちをその場に残し、わたしは空中を駆ける。
……以前に読んだ新聞によれば、ジャックはこの世界では州知事――地方領主の息子に過ぎない。
次期皇帝であるサラ・フィアーマとは、貴族同士とはいえ身分の差があったはずだ。
それがなぜ、二人の結婚が認められるに至ったのか?
その理由が、きっとこれ。
〈授かりし神権のバアル〉の精霊術【指輪の名代】――
あらゆる精霊術の頂点に立つべきこの能力に、たったひとつだけ通用する精霊術があったのだ。
それが、【巣立ちの透翼】。
彼女に――自身の妹に対抗するため、ジャックが研ぎ上げた力が。
それを最大限に引き出すべく、わたしやカラムさんが用意したこの剣が。
精霊序列にしてたった65位の〈アンドレアルフス〉が!
〈バアル〉に。
精霊序列第1位に。
精霊長を僭称する邪神に!
唯一、真っ向から立ち向かうことができる―――!!
……今すぐに、伝えたい。
無駄ではなかったのだ、と。
あの修行の日々は。
あの学院の日常は。
決して、あなたを苦しめるためだけにあったのではない、と。
だけど、それを伝えたい彼は、今、ここにはいない。
この世界にはいない。
だから。
だから、わたしは――行かなくては。
礼拝堂の天井に巣食った大蜘蛛が、際限なく糸を吐き出す。
無数に降り注ぐ糸に対し、わたしが見据えるのはひとつだけだった。
ああ、まったく、ずいぶんな遠回り。
わたしが欲しいものなんて、最初から、ひとつだけだったのに。
あなたと一緒に笑えること。
あなたと一緒に歩くこと。
他の誰でもなく、このわたしこそが。
それが、わたしの―――幸せだ!!
「―――〈バティン〉! 〈アンドレアルフス〉!」
ルーストとして目覚めて以来、わたしは初めて、術と術を練り合わせる。
思えば、他人の術の真似しかできないわたしにとって、自分で編み出したと言えるのは、このくらいのものだ。
複数の術を扱えるわたしだけにできる、精霊術と精霊術の重ね技。
縫い目だらけのパッチワークだ、決して誇れたものじゃない。
それでも、これがわたしなのだ。
多くの人との出会いで、多くの人との縁でできあがったパッチワーク。
そう在ることを、わたしはもう決して恥じない。
見ている、トゥーラ?
見ている、みんな?
見ている、ジャック?
あなたたちがいたから、わたしはここにいる。
あなたたちがいるから、わたしはそこに行く。
縁が織り成す因果の果て。
苦しむための地獄でもなく。
悲しむための悪夢でもなく。
――それこそが本当の世界だと、この手で証明するために!
「――――合霊術『現世』――――!!」
ひとつは【絶跡の虚穴】。
ひとつは【巣立ちの透翼】。
【絶跡の虚穴】が空間に無数の穴を空ける。
無数の出口に対し、入口はたったひとつ。
目の前に空けたそれを、あかつきの剣で一閃する。
文字通り、空間を裂く一撃。
それはワームホールを経由して分裂し、無数の斬撃となって、降り注ぐ蜘蛛の糸に対抗した。
音はない。
衝撃はない。
ただ、光があった。
切断され、ほどけた糸が、無数の光の粒となって、雪のように舞い散る。
陶然とした溜め息が、列席者たちから零れた。
綺麗だ、という呟きすら、わたしの耳に届いた。
……うん。我ながら、今なら認められる。
今までの人生で、今のわたしが、きっと一番綺麗だろう。
恋をした女性は美しい――その言葉が本当であるのなら。
だからわたしは、最後まで綺麗でいたいのだ。
諦めたくなどないのだ。
妥協などできないのだ。
さあ、あとは手を伸ばすだけ。
幻想的な風景の彼方に、大蜘蛛はまだ健在だった。
だから、空を蹴る。
空を蹴る。
空を蹴る。
脇目も振らず、一直線に。
「――――あぁああぁあああああああああああぁあぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!」
光の粒を突っ切りながら、いつしか咆哮が口を突いていた。
けれどこれは、今までのような絶望の慟哭ではない。
ついに辿り着いた反撃の機。
その幕開けを告げる、鬨の咆哮……!!
礼拝堂に舞い落ちる光の粒が、一瞬、ふわりと浮き上がったように見えた。
その光景が、わたしの脳裏に、いつか因果次元で見た星空を思い起こさせた。
真っ暗な闇の中、死んだものと思って彷徨うわたしを……あの星々の光だけが、見守ってくれていた。
今。
その光が、背中を押してくれている気がする。
声もなく、姿もなく。
でも、力強く―――!!
『――――行けッ、姉ちゃんッ!!!』
湧き起こるような咆哮が、礼拝堂を震わせた。
光が散り。
音が凪ぎ。
わたしもまた、静かに息を潜めた。
新たな糸を噴き出そうとしていた大蜘蛛が―――停まる。
絶対的に君臨していた精霊序列第1位が―――沈黙する。
朝焼け色の切っ先が、大蜘蛛のお腹に、深々と突き刺さっていた。
「これは……ほんの、挨拶」
苦しげに痙攣する〈バアル〉の化身に、わたしは告げる。
「もう一度……元の世界で、また会いましょう」
剣を捻って傷口を広げ、一気に横向きに振り抜いた。
紫色の血が勢いよく噴き出す。
大蜘蛛は名状しがたい悲鳴を迸らせ、自らの巣から剥がれ落ちた……。
血も、悲鳴も、所詮は陽炎。
宿主の中の精霊が世界に落とす影に過ぎない。
それでも、この光景は象徴だった。
世界に糸を張り巡らせ、すべてを操っていた蜘蛛が。
無様にもがきながら、地へと墜ちていく。
――これが、未来のあなたの姿だ。
大蜘蛛は壊れたモニターのように掠れて消えた。
その向こうに、拳を握り締めて全身を震わせる、彼女の姿があった。
「……これが……」
屈辱と、憤怒と、……嫉妬。
ありとあらゆる負の感情を煮しめた……実に人間らしい顔で、彼女はわたしを睨み上げる。
「……これが……どうしたッ!! 今更こんなくだらない精霊術戦でわたしを下したところで、それが何になるってんですッ!!」
かつて邪神が君臨した場所に浮遊するわたしを、彼女はかすかに笑いながら指弾した。
「あなたはもう戻れない! 元の世界には帰れない!! たとえ今からタイムリープをしたところで、それはわたしが歴史を変えた後の世界!! それとも、戻れますか、50年前に!? わたしが介入したあの時代まで!!」
50年前。
おそらく転生を利用して過去へ遡った彼女は、あえて邪神を復活させ、邪神戦争を引き起こした。
それが、この世界ができた切っ掛け。
元の世界に帰りたければ、最低でもその時点まで戻り、彼女の歴史改変を阻止しなければならない――
「――わたしも、そう思ってた」
思いもよらなかったのだろうわたしの答えに、彼女はぽかんと口を開けた。
最低でも50年は戻らなければ、元の世界には帰れない。
かつては、わたしも確かにそう思っていた。
しかし……かすかにだけど、覚えている。
わたしは、幾度となくその方法を試みたのだ。
100年もの過去まで戻り、すべてをやり直したのだ。
そして、老師に忠告された通り……限界を超えたタイムリープによって、代償を支払わされた。
記憶の持ち越しに失敗し、どころか、それ以外のすべての記憶も喪失した。
同じことを、何度も、何度も、何度も、覚えていないがゆえに繰り返した。
そうして何が起こったか。
断片的な記憶が伝えている。
本当の本当に、すべてがやり直しになったことを。
「わたしが、実際に100年前まで戻ったときは、邪神戦争なんて起こらなかった」
トゥーラと出会い、旅をして、あの『楽園』を見て。
ジャックに出会い、フィルに出会い、精霊術学院の教師になった。
彼女の歴史改変によって上書きされたはずのすべてが、忠実に再演された。
〈アガレス〉の精霊術【因果の先導】が、本当に時間を遡るだけのものであったなら、こんなことは有り得ない。
わたしに記憶がなく、彼女の妨害なんてできなかった以上、歴史改変は行われたはずなのだ。
邪神戦争が起こり、神聖フィアーマ帝国が誕生していたはずなのだ。
しかし、起こらなかった。
もう一度言う。歴史改変は起こらなかった。
転生によってタイムリープしたはずの彼女は、消えていなくなっていた!
「わたしも、そしてあなたも、【因果の先導】の効果を勘違いしていたの」
「…………勘、違い…………?」
「そう。……この精霊術は、時間を遡るものじゃない」
この事実を、老師は知っていたのだろうか。
どちらにせよ、知るや知らずや、彼はこの力を的確に表していた。
現代日本での知識を取り戻した今ならば、彼が名付けた、その用語の意味がわかる。
セーブポイント。
すなわち、保存時点。
「――ある時点の因果を保存し、任意のタイミングで再現できる力。……だから、まだ誰の改変も行われていない、真っ新な因果を再現すれば、すべての歴史改変はリセットされる!」
わたしは、覚えていないだけなのだ。
本当はタイムリープをするたびに、すべてがリセットになっていたのだ。
彼女の妨害がないことに首を傾げながら、あっさりと勝利を手にして。
――そしてそのたびに、彼女の歴史改変によって記憶を上書きされていたのだ。
だから、今からタイムリープをすれば、その世界にわたし以外のタイムリーパーは存在しない。
アゼレアやルビーやヘルミーナに転生した彼女の妨害を受けることはない。
ゆえに。
その間に、彼女の転生タイムリープを阻止してしまえば。
もはや彼女は、自分に都合よく歴史を変えることはできない!!
「…………ぁ……あ…………」
沙羅ちゃんの足が、ふらついた。
まるでフィルを真似たような栗色の髪が……見る見るうちに、しおれていくように感じられた。
「そんな…………そんな、ばかな…………すべての歴史改変を、無効化…………そんな、力…………! まるで、【因果の先導】の術者以外には……過去を変える権利がないって、言っているような――――」
「だから」
わたしは告げた。
「だから、【因果の先導】っていうの」
因果の先を、導くもの。
他の誰にも、行く手を委ねることなく。
自らの手で、因果を紡ぎ上げていくもの。
この名を冠した、この力を。
――まさか、転生ごときで真似できるとでも?
「さようなら、サラ・フィアーマ―――残念ながら、あなたはこの事実を次のあなたに引き継げない」
50年をかけてあなたが作り上げた歴史は、これからすべて、上書きしてしまうから。
ここで起こったことを、先導者であるわたしだけが胸に秘め、……因果の先に、運んでゆくから。
「――ぁ……ぁ、ぁ、あ、あ、あ、…………ァぁぁああぁあああああああぁああああぁああああぁぁああぁああああああぁぁぁッッ!!!!」
純白のウェディングドレスを着た、世界で最も高貴な皇女は、血を吐くような金切り声を上げながら、自分の首に手を掛けた。
死んで、戻ろうと言うのだろう。
【因果の先導】の真実を手にしたまま過去に転生し、何らかの手を考えようと言うのだろう。
当然、わたしには彼女がそうするとわかっていた。
彼女の指が自分の首に触れたそのときには、【絶跡の虚穴】で背後に移動し、雷を操る精霊術【雷霆の軍配】で電気ショックを浴びせていた。
死ぬことしか考えていない人間が、自分の身を守れるはずがない。
彼女はあっさりと意識を手放し、その場に力なくくずおれた……。
自殺の危険がなくなった彼女をその場に置いて、わたしは戦闘の余波でずたずたになったヴァージンロードを歩く。
……最後の旅に、出る前に。
彼に、挨拶をしておきたかった。
ステンドグラスの光が降り注ぐ演壇で、ジャックは膝をついていた。
瞳は茫洋。視線が当て所もなく彷徨っている。
だけど、それはやがて、わたしが視界に入ると……。
徐々に、徐々に、わたしの顔へと焦点を合わせていった。
「……ごめんね、ジャック。この世界では、あなたは幸せだったはずなのに」
トゥーラもまた、この言葉を聞いているだろう。
礼拝堂の誰もが、この言葉を聞いているだろう。
これから幸せを台無しにされる彼らに、だからわたしは謝罪をする。
「でも、やっぱりわたし、ダメなの。あなたが幸せでも、他のみんなが幸せでも、わたしは、どうしても認められないの」
だって。
……そう。だって―――
「―――わたし、あなたに恋をしているから」
あなたの隣で笑いたいから。
あなたと一緒に生きたいから。
手を繋いだり、抱き締め合ったり、キスをしたりしたいから。
他の誰でもなく、わたしが、そうしたいから。
「だから……ごめんね、ジャック。ごめんね、みんな……」
恋というエゴのために、わたしはこの世界を捨てる。
誰もが幸せになれた世界を捨てる。
この世界の先にこそ、わたしの幸せがあるとわかったから。
沈黙が、荒れ果てた礼拝堂に張り詰めた。
ステンドグラスを通して射した光が、しんしんとわたしとジャックを照らしていた。
「…………あぁ…………」
吐息が、漏れる。
わたしの口からじゃない。
わたしを見上げる、ジャックの口から。
「頭が、痛い……。見たこともない、記憶が……どこからか、湧いてくる……」
「……え……?」
それって、まさか……わたしたちのタイムリープで上書きされた――
「全部、バラバラで……壊れたカセットテープみたいで……瞼の裏に浮かぶのは……つらい、本当につらい……ことばっかりで……だけど、だけど、さ」
ジャックは、足元をふらつかせながらも、膝に力を込めて立ち上がった。
そうすると、彼の背丈が、わたしよりも高いことがわかる。
ほんの十数センチ高い、その位置から。
……彼は、わたしの目を見つめて微笑むのだ。
「君のやることは、たぶん、間違いじゃない……。なんとなくだけど、そう思う」
…………あ。
ああ。
胸が、詰まる。
喉の奥から、嗚咽が込み上げる。
「…………こんな…………っ」
わたしは。
全部、台無しにするのに。
わたしだけのために……みんなの幸せを、犠牲にするのに。
罵って、もらうはずだったのに。
「…………こんな、わたしにばっかり、都合のいいこと…………っ」
滲んだ視界の中で。
ジャックが、きーくんが。
わたしの記憶と寸分の違いもなく。
…………優しく、困ったように、笑う…………。
「その涙は、然るべき人に拭ってもらってくれ」
そのとき、大きな鐘の音が響き渡った。
この礼拝堂のてっぺんに設けられた鐘楼だろう。
本来は、彼とサラの結婚を祝うはずだったそれが――
今、このとき。
わたしの門出を祝福するかのように、高らかに鳴り響く……。
わたしは振り向いた。
エルヴィスがいた。
アゼレアがいた。
ルビーがいた。
ガウェインがいた。
ヘルミーナがいた。
カラムさんがいた。
マデリンさんがいた。
トゥーラがいた。
誰もが黙って、鐘の音の中にいた。
「…………みんな…………!」
声が震え、大粒の雫がこぼれた。
「みんな…………みんなぁ…………みんなぁぁ…………っ!!」
笑みの気配がした。
情けなく嗚咽を漏らすわたしを、みんなが見守っていた。
……だけど、それも。
大きな鐘の音に、もろとも呑み込まれてゆく。
「……それじゃあな」
ジャックの声だけが、鐘の音に混じりながらも鮮明に、別れを告げた。
「俺を――よろしく頼む」
荘厳な鐘の音が、世界をいっぱいに満たした。
それ以外のすべてが、聞こえなくなって。
それ以外のすべてが、見えなくなって。
わたし以外のすべてが、上書きされる。
……ごめんね、みんな……。
……ありがとう、みんな……。
この世界を、なかったことになんかしないから。
全部、この胸に抱き締めて、……わたしは先に行く。
邪神戦争が消え、
神聖フィアーマ帝国が消え、
サラ・フィアーマが、消える。
残るのは、ただふたつ。
わたし自身と……結城沙羅だけ。
……魂が軋みを上げるのを感じた。
もう、限界に近い。
きっと、因果の再現ができるのはこれが最後。
だからこそ、振り返らない。
さあ、行こう。
真っ新な因果へ。
まだ誰の意思も介在しない白紙の世界へ。
彼女を撃退できる、唯一の世界へ。
――――これが、最後のタイムリープだ。
TO BE CONTINUED TO
因果の魔王期・最終回:小さいころ夢に見た




