プロローグ・オブ・ラケル 悪夢の解錠者 - Part5
マンションの調査を始めて3日目。
連休も今日で終わりだ。
何らかの手段で彼女がわたしの帰省を知っているとしたら、これ以上強引に留まると怪しまれる危険性がぐっと高まる。
……今日、ケリをつけよう。
彼女を、きーくんを――今日、見つけ出す。
その上でどうするかは、実のところまだ決めていなかった。
警察に行くのか。
それとも、きーくんだけを連れて逃げるのか……。
そもそも、彼女が例の誘拐事件の主犯であるかどうかも、確たる証拠はないのだ。
ただ、川越刑事やその協力者であるスキップ・トレーサーは、完全にそのつもりでいるようだった。
わたしも、8割方はそうだ。
しかし、残りの2割では、弱々しく叫んでいる。
どうか、勘違いであってほしい……と。
いずれにせよ、川越刑事は消えた。
20人以上のきーくんの関係者も消えた。
そして、結城兄妹は姿を暗ました。
彼らは何をしているの?
どうしてわたしの前からいなくなったの?
それがわからない限り、わたしは、もう――どう生きていくこともできない。
わたしは実家のお父さんとお母さんに別れを告げて、家を出た。
◇◇◇―――――――◇◇◇―――――――◇◇◇
予定通りの時間に、マンションに辿り着いた。
午前11時。
朝と昼のあわいの時間。
休日だからと惰眠を貪っている人はまだ寝惚け眼で、ご苦労なことに休日出勤の人はもうとっくに仕事場に出向いている。
多少の騒ぎがあったとしても、きっと見逃してくれるだろう――
マンションのエントランスにはひと気がなかった。
わたしは一つ、深めに息を吸う。
肩にかけたバッグをしっかりと背負い直し、決然とドアに足を踏み出した。
天井の隅には丸い監視カメラがある。
帽子を被って顔が見えないようにしているから、誰に見られていたとしても、わたしだとはわかるまい……。
向かって左手には、管理人室の受付カウンターがある。
カウンターから覗き込む限り、人の気配はない。
……よし……。
入力端末の前に立ち、盗み見た暗証番号を淀みなく打ち込んだ。
堂々としろ。
びくびくしていることほど怪しいものはない……。
唾を一つ飲むうちに、暗証番号が認証された。
ほっと胸を撫で下ろし、すぐに身を引き締めて、開いたドアを抜けた。
マンション内の構造は、わたしが住んでいた頃と変わっていないようだ。
左に少し進めばエレベーターホール。
その手前に、管理人室へ入るドアがある。
ドアのノブに、そっと触れた。
……開いている。
うなずいて、わたしはドアを開けた。
管理人室には電気がついていたが、人っ子一人いなかった。
生活感のある狭い空間だ。
小さめのテーブルにはカップラーメンの容器が積み重なり、床には毛布が畳まれないままに放置してある。
向かって左手にはカウンターがあった。
エントランス前の様子が窓から一望できる。
……その窓の、ちょうど死角となる位置だ。
部屋の隅の壁に、金属製の箱が据えつけられている。
わたしはそれに近付いて、開いた。
箱の中には、鍵がいくつか並んでいた。
マンション各部屋の鍵である。
当然だが、各部屋の鍵は入居者本人しか持っていない。
合鍵を管理人に持たせていたら、もし管理人に魔が差したりしたら犯罪し放題になるし(実際そういう事件もある)――そもそも、合鍵を預ける規約だったとしても、彼女がその通りにするとは思えない。
二人がいる部屋の鍵は、彼女しか持っていないのだ。
だから、この箱に仕舞ってある鍵は、空き部屋のものだけである。
内見に来た入居希望者などに渡すためのものだろう。
思ったよりも数があった。
このマンション、半分くらい空いているらしい。
全部屋が埋まっているのは2階だけのようだ。
幸い、目当ての部屋の鍵は見つかった。
0405号室。
|0404号室の隣の部屋だ《・・・・・・・・・・・・》。
鍵を彼女しか持っていない以上、玄関を開けるのは不可能だ。
だったら、まず同じ階の空き部屋に入って、ベランダ伝いに侵入するしか方法はない。
非常時避難用の仕切り板を突破する必要はあるけど、道具も用意してきたから大丈夫だろう。
0405号室の鍵を取って箱を閉めると、素早く管理人室を出る。
次に目指すは階段だ。
エレベーターで上がることもできるけど、今回は使わない。
エレベーター内で誰かと鉢合わせたりしたら、逃げることはできなくなるし……。
階段はエレベーターホールの横にある。
ホールを通り抜けざま、1基しかないエレベーターを横目で窺った。
……誰かが乗ってくる様子はない。
ケージは3階で停まっているようだった。
よし。
変に焦らないよう、一段一段、数えるようにして階段を上がった。
――2階。
わたしの足音だけが、冷たく静まった空間に反響する。
自分の身体を押し上げるごとに、現実から浮いていくような感覚がした。
――3階。
地上は遠ざかる。
普通の世界は遠ざかる。
ここから先にあるのは、5年間も世間を騙してきた異常な世界。
20人以上もの人間を呑み込み、消滅させてしまったかもしれない世界。
その世界の入口に。
わたしは、自らの足で。
立つ。
――4階。
エレベーターホールからまっすぐに1本、廊下が伸びている。
綺麗に清掃されたその廊下には、向かって左手に8つのドアが等間隔に並んでいた。
一番奥には、緑色に輝く非常口のマーク。
その下にある鉄の扉はぴったりと閉ざされているけど、もちろん鍵はかかっていないはずだ。
ひと気はない。
部屋の中から気配もしない。
元より空き部屋の目立つ階ではあるけど、住民のほとんどは、どうやら出かけているようだ……。
廊下を歩く。
部屋の前を通り過ぎていく。
0401号室。
0402号室。
部屋番号を横目で確認する。
0403号室。
――0404号室。
まだだ。
まだ停まるな。
0405号室。
――を、ちょっと通り過ぎてから、靴を脱いだ。
足音を殺して0405号室の前に戻る。
足音が空き部屋のはずの隣室で止まったら、明らかに不自然だろう。
聞き耳を立てていないとも限らない……ここは、神経質なくらいでちょうどいい。
わたしは管理人室から盗み出した鍵で、音を出さないようゆっくりと解錠した。
靴を片手に持ったまま、そうっとノブを捻り、ドアを開け、身体を玄関に滑り込ませ――ノブを捻った状態のままで、閉める。
このマンションの壁は、それほど薄くはなかったと思う。
きっと、隣には勘づかれていないはずだ……。
だけど、ここからはそうもいかない。
わたしはがらんどうの空き部屋を足早に通り抜けると、掃き出し窓からベランダに出た。
向かって左。
0404号室方面。
『非常の際は、ここを破って隣戸へ避難してください』と書かれた白い板がある。
マンション住みの人間ならあるあるかもしれないけど、小さい頃は、これを破ってみたくて仕方がなかったものだ。
実際、きーくんと一緒に破ってみようとして、思ったより頑丈で失敗して、大人に叱られたことがあるっけ……。
まさか、この歳になって、リベンジすることになるなんてね。
わたしは鞄の中から、用意してきた道具を取り出した。
ベタというか、王道というか……自分の想像力の貧困さを知るというか。
バール、である。
鉤状の鉄製工具。
殴ってよし、突き刺してよし、こじ開けてよしの万能凶器――なんて言ったらバールを作っている人に怒られそうだけど。
とにかく、これがあれば、子供の頃は歯が立たなかった仕切り板も敵ではなかった。
両手でバールを握って、呼吸を整える。
……ここから先は、後戻り不可能だ。
必ず音がする。
必ず異状を察知される。
それでも、進むのだ。
あの二人に会うために。
きーくんを――取り戻すために。
わたしは仕切り板に、全力でバールを叩きつけた。
バギャッ!! と大きな音がして、白い板に大きな穴が空く。
わたしは二度、三度とバールを叩きつけて穴を広げ、ほとんど残骸になったところで蹴破った。
0404号室のベランダへ。
ここから先は電撃作戦だ。
他の住民に通報される前に……!
掃き出し窓をバールで叩き割った。
泥棒よろしく、穴に手を突っ込んで内鍵を開ける。
素早く窓を開けると、閉まっていたカーテンを突っ切って室内に踏み込んだ。
暗い。
電灯が点いていない。
だけど、家具がある――
明らかに、人の手によって設置された家具が。
――どこ!?
踏み込んだのはリビングだ。
だが人影はない。
部屋の間取りは確か3LDK……わたしは一番近いドアに飛びついた。
迷っている暇はない。
息を潜める意味もない。
一気にドアを開けた。
『お久しぶりです♪』
そして、にっこりとした笑顔と対面した。
……は?
思考が空白になった刹那。
その瞬間を見計らったかのように。
銀色の軌跡が、薄闇を裂いた。
『はい、動かないでくださいね?』
冷たい感触が、首筋にひたりと触れる。
全身を硬直させたまま、わたしは目だけを下に向けた。
銀色に輝くそれは――ナイフだった。
ギザギザの刃がついた、ステーキを切るときに使う。
『ふふふ。まったく、まったく――勇猛というか無謀というか。社会人になっても根本的なところはさっぱり変わっていないようですね、あり姉さん……?』
目の前にある顔が、艶やかに唇を吊り上げる。
……ああ。
ああ、間違いない。
わたしが最後に見たのは、15歳の彼女だけれど。
あの頃に比べて、5年分も成長しているけど。
彼女だ。
わたしの幼馴染みで――きーくんの妹。
実の姉妹のように育った――
『……××……ちゃん……』
『覚えてくれていたんですね。とても癪に障ります』
『つっ……!』
わたしは痛みに顔を歪める。
首にナイフの刃が食い込んだのだ。
血が流れ、肌を伝っていくのを感じる……。
あとほんの少し、刃が深く食い込んでいたら。
この程度の出血では、済まなかっただろう。
『来ると思いました。来てくれると思っていましたよ、あり姉さん? ええ、この5年間、あなたを待っていたと言っても過言ではありません――あなたが愚かにも! ヒーロー気取りでこの部屋を訪れるときを、そう、わたしは待っていたんです!』
『ど……どういう、こと……? きーくんはどこ……!?』
『この部屋にはいませんよ?』
にやぁと、嗜虐的な、勝ち誇るような笑みが、彼女の顔面に広がる。
『愚かですね。浅はかですね。可愛いですね? 郵便受けなんて、ダミーを使うに決まっているじゃないですか――囮の部屋をひとつくらい、用意しているに決まっているじゃないですか』
くすくすくす、という嘲笑が、耳の奥に突き刺さった。
……ダミー。
宅配ボックスの暗証番号の連絡に使っていた郵便受けは……囮。
わたしを、誘き寄せるための……!
『ま、あなたが来なければ来ないで、それが一番よかったんですけどね。兄さんのことは忘れて、大学や会社で男でも作っていてくれるのが一番よかったんですけどね? それが尻軽なあなたに一番お似合いだったんですけどね!? ふっふふふふ!』
『……そんな、こと……!』
ナイフを首に添えられたまま。
それでも、わたしの胸は怒りに燃える。
彼女の様子がかつてと違うことなんかどうでもいい。
多かれ少なかれ、女の子はそういうものだ――仮面の下には別の顔を持っている。
だけど、まさか。
彼女のそれが、こんなにも気に喰わないなんて―――!
『できるわけ、ないっ、でしょっ……!!』
視線に殺意さえ込めながら、彼女の嘲りの表情に批難をぶつける。
『わたしはあのときっ、わたしたちは、あのとき……!! あんな、あんなことが起こらなければ……っ!!』
『ええ、知っています』
ナイフを持っていないほうの手で、彼女はスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。
親指で滑らかに操作すると、ぐぐもった音が流れ出す。
……音?
いいや、これは声。
しかも……。
しかも、この声は……!
『好きです』
『ずっとずっと、好きでした』
――あの日の。
わたしたちが、幼馴染みから恋人になった、あの卒業式の日の。
『…………どう、して…………?』
どこかで聞いていた?
いや……いや、いや……! どうしてこの期に及んで、そんな牧歌的な可能性に飛びつこうとするんだ。決まっている。決まっている。ここまでやった彼女が、そうだ、していないわけがなかった!
盗聴。
『…………くす』
ほのかに吊り上がった彼女の唇は、怖気が走るほど艶やかだった。
『わたしとしてもね、のっぴきならなくなってしまったわけです――元々、あなたが動いたら、わたしも手段を選ぶのはやめようと決めていました。兄さんが中学生の頃に付き合っていた彼女とは、わけが違いますから――あの女は、兄さんのことが大して好きじゃなかった。敵じゃあなかったんです。……でもね、あり姉さん、あなたのことは無視できない』
口元は甘く痺れるほど笑っているのに。
その瞳は、肌が裂けるかと思うほど冷たく凍っている。
『いったん隔離するしかない。最初からそう思っていました。もし5年前、他の奴らみたいにあなたを殺していたら、兄さんの心にはあなたが強烈に焼きついてしまったでしょう――まったくの逆効果というわけです。だから、まず引き離す。時間を空ける。その間に、兄さんにわたしの愛をわかってもらう……。ついでにあなたが、自ら尻軽を証明してくれれば万々歳だったんですけどね。そこまで都合よくはいきませんでしたね。なかなかやるじゃないですか。ふふふふふ!』
隔離。
他の奴らみたいに。
言葉の節々で、彼女は認めている。
自分の誘拐を。……自分の殺人を。
世界が、一気に暗くなったように感じた。
過去も、未来も、そのすべてが一斉に、黒ずんでくすんだように感じた。
もう、戻ってはこない。
わたしたちが兄妹同然の幼馴染みでいられた、あの頃は。
『……きーくんを……きーくんを、どうしたの……!? この5年間、きーくんに何を――』
『うるさいですよ』
突然、お腹に衝撃が走った。
胃酸が喉の奥から込み上げて、身体がくの字に折れる。
『……ぅがっ……ぅぅ、ぁあ……!』
『きーきーきーきーやかましい。あなたのその呼び方、昔から嫌いでした』
くずおれようとしたわたしの髪を、彼女の手が乱暴に掴んだ。
ぶちぶちぶち、と音がする。
髪を引っ張り上げられて、わたしは痛みに呻いた。
彼女は唇で笑い、しかし瞳は凍らせて、わたしを見下ろした。
『兄さんに何をしていたか、ですっけ? おねだりが上手ですねえ、あり姉さん……? そんなにねだらなくたって、ちゃあんと見せてあげますよ。そのために待っていたんですから』
『……見せ……ぁ……?』
不意に、彼女は顔を寄せ。
わたしの耳元で、とびっきり甘く囁いた。
『――今日はまだ3回目ですから、兄さんも元気いっぱいですよ?』
くすくすくす、と悪魔が笑う。
艶然と。淫蕩に。
舌なめずりでもするかのように。
この子は。
この子は。
……この女はッ……!!
『……ぁあッ……!! ぁあぁああぁぁあああぁあッッ!!!』
バールを握った右手に力を込める。
それを力任せに目の前の女に叩きつけようとして、
『おおっと』
細い足を鞭のように振るわれて、あっさりバールを握った手が弾かれた。
そして、
『危ない危ない。この手は没収です』
髪を掴んだ手を放し、わたしの右腕を掴み直し――もう片方の手に握ったナイフを、振り上げる。
一切の、躊躇はなかった。
一切の、容赦はなかった。
ステーキ用のナイフが、深々とわたしの右手の甲に突き刺さる。
『ぁッ――――ッ――――ッ!!!』
その激痛に、泣き叫ぶことさえできなかった。
ギザギザの刃が手の中の肉をずたずたにしながら引き抜かれると、わたしは右手を押さえて床に転がる。
ぬるぬるとした液体が流れ出して止め処なく、ひたすらに鋭い感触が手の内部から広がって痺れた。
痛い……! 熱い……! 痛い……! 熱い……! 熱い……! 熱い! 熱い!!
『暴れない暴れない』
笑み混じりに言いながら、彼女がわたしのお腹に圧し掛かる。
ふとももで身体を固定されて、それだけで簡単に、わたしは動けなくなった。
彼女の右手には、まだナイフがある。
わたしの血と肉がべっとりと付着したそれで、彼女はぺたぺたと、わたしの頬を叩いた。
『ひ……ぁ……!?』
今度は、顔、を……!?
やめて……顔は、顔はやだ……!
『……ふふ。可愛い反応してくれちゃいます』
わたしの身体を固定したまま、彼女は覆い被さってくる。
垂れた髪が頬をくすぐり、爛々と輝く瞳が、わたしの目の中を覗き込んだ。
『心配しなくても、顔は綺麗なままにしておいてあげます。だって、そうしないと、あなたは逃げちゃうでしょう?』
『逃、げ……?』
『兄さんがわたしに夢中になってるのを見ても。あなたに目もくれないのを見ても。顔に傷を付けられたからだって、言い訳しちゃうでしょう? だから傷付けない。あなたには、ちゃんと知ってもらいたいんです。あなたは5年間、片時も兄さんのことを忘れなかったんでしょうけど――』
彼女の顔がぐっと近付いた。
鼻の頭が触れて、唇に息がかかり。
囁き声が、わたしの心を侵す。
『――兄さんはもう、あなたの名前すら忘れちゃったんですよ……?』
……きーくん、が……?
わたしの名前、を?
『ふふ! ふふふふ……! ふふふふふふふ!!』
彼女が嗜虐的に笑う。
勝ち誇るように笑う。
『可愛いですね、可愛いですね、可愛いですね、あり姉さん! 今、生まれて初めて、心からそう思ってますよ! 確か、今年で23歳でしたっけ……? そんな歳になるまで、後生大事に純潔を守ってきたんですよねぇ!? なのに、なのになのに! ……ねえ、どんな気持ちですかぁ……? 大好きな幼馴染みが、妹扱いして侮ってた女に持ってかれるって、どんな気持ちですかぁ!? それが聞きたくて今まで手を出さなかったんですっ!! ねえ、ねえねえ! ど・ん・な・き・も・ち~~~っ!? えぇええぁははははははははははははははははッッ!!!!』
甲高い笑い声が、耳の中に突き刺さる。
痛みなのか、それとも別のものか、悪魔のように笑う彼女の顔が、歪んでゆく。
『ぁあぁ……ダメです、ダメダメ。今からこんなにテンションを上げていたら身が持ちません。本当のお楽しみはこれからなんですから……。ね?』
歪んだ視界でにっこりと笑んだ彼女の顔は……不思議なほどに愛らしく見えた。
……人間は。
こんな風に、なれるのか。
たったひとつの感情で。
たったひとつの欲望で。
こんなにも、道理から外れたものになれるのか。
……ああ、でも。
わたしは心の中で自嘲する。
自分だって、似たようなものだ。
道理を外れていなければ、一人でこんなところ、来やしない――
『さて、そろそろ移動しないとですね』
――来た。
『ふふ。せっかく遥々ここまで探しに来てくれたんですもん。答え合わせをしてあげなければ、酷というものですよね?』
嗜虐の笑みを浮かべながら、彼女はスカートの右ポケットに手を入れる。
『感無量ですね? 達成感に溢れますね? ほら、おめでとうございます。これがあり姉さんの探していた、わたしたちの愛の巣――――』
わたしは怪我をしていない左手で、バッグから護身用スタンガンを取り出した。
『――――え?』
彼女の細い首筋に当てる。
スイッチを入れる。
――バヂッ!!
『ぇぎゃッ!!』
音が弾けると同時、わたしに彼女の身体から力が抜ける。
その隙にするりと彼女の下から抜け出した。
ナイフに貫かれた右手から激痛が走ったけど、歯を食いしばって飲み込む。
――右のポケット!
さっき彼女が何かを取り出そうとしたそこに左手を突っ込んだ。
指先に硬い感触。掴んで引っ張り出す。
鍵だ。
何の変哲もないディンプルキー。キーホルダーには四ケタの数字が刻まれていた。
0208。
0208号室。
きーくんがいるのはそこだ!
『ぐ、ぁっ……こッ、のぉ……!』
かなり威力の高いスタンガンなのに、彼女はもう動き出す。
くそっ、電流を流す時間が短すぎた。もう1秒長く当て続けていたら……!
麻痺しながら鍵を取り戻すのは難しいと見たか、彼女は玄関への道を阻むようにして立ち塞がった。
彼女の手には未だにナイフが握られている。
わたしの護身用スタンガンは5秒ほど当て続けないと完全な無力化には至らない。その間に、彼女はいくらでもわたしを刺してくるだろう。
強行突破はできない。
だからといってベランダに戻り、隣の部屋から逃げようとしても、廊下に先回りされるだけのことだ。
しかも、その間に彼女の身体からなけなしの麻痺が抜けてしまう。
詰んだ?
――いいや。
ここまで、事前の計画通りだ。
わたしは身を翻し、開けっ放しのベランダに走った。
左手にしっかりと鍵を握り締める。
0208号室。0208号室。0208号室!
やっぱり。
『ふふっ……ふふふふふっ! 逃げられると思いますか……? ここは4階! 廊下を通らなきゃ、どうやったって2階には――』
2階には行けない。
わたしはね。
わたしはベランダに飛び出すと、柵に身を乗り出した。
地面は10メートル以上も下だ。当然、飛び降りるなんてできない。
だが。
わたしは、左手に握った鍵を、ひとつ下の階のベランダに放り込んだ。
ちゃりんっ、と金属が跳ねる音がする。
利き手じゃなかったから、不安だったけど。
どうやら、ちゃんと、投げ込めたようだ……。
『……捨てた……? わたしを部屋に入れなくする算段ですか? 残念でしたね。鍵ならもうひとつ予備の――』
『……ああ、そう』
わたしは、右手から血を垂れ流したまま。
振り返って……改めて、彼女と対峙する。
『それじゃあ、もうちょっと……時間を稼がないとね……』
彼女が怪訝そうに眉根を寄せた、その直後。
ガララ――ピシャン。
そんな音が、下の部屋から聞こえた。
ベランダの窓を閉じる音だった。
『――え?』
彼女が、ぽかんと口を開ける。
『下の部屋は、空き部屋のはず――』
このマンションの壁は、そう薄いものではない。床もまた然り。
だから、それ以上の音は聞こえてこなかった。
空き部屋を横切る足音も、玄関のドアを開け閉めする音も――
『――まさ、か……』
愕然と見開かれた目が、わたしに向けられる。
わたしは、見せつけるように、唇を吊り上げた。
『……くそおッ!!!』
余裕の欠片もない悪態をつきながら、彼女が身を翻そうとする、その寸前。
わたしは走り出した。
再び部屋の中に入り、玄関に向かおうとする彼女にスタンガンを向ける……!
『――ッの……!!』
わたしの知る限り、彼女に武道の心得はない。
だけど、振り返りざまに振るわれた手が、見事にスタンガンを持ったわたしの左手を払った。
手からスタンガンがこぼれ、床に転がる。
わたしは反射的にそれを拾おうとしたけど、その前に彼女のナイフが閃いた。
血濡れた刃が薄闇を裂き、わたしは本能的に尻餅をついて避ける。
……もう! 避けるにしてももうちょっとスムーズにできないのっ、この運動不足……!!
彼女の足が、スタンガンをリビングの隅に蹴り飛ばした。
それから。
血濡れのナイフが、わたしの右の太腿に狙いを定める。
『――――ぁ――――ッ!!』
灼熱の感覚が、太腿を貫いた。
刃が引き抜かれると同時、恐ろしくなるほどの血が噴き出す。
彼女の攻撃は止まらなかった。
次は左の太腿に、ナイフの切っ先が向く。
移動力を削ぐ気なのだ。わたしを動けなくして、その間に……!
『――――ぁああッ!!!』
叫びで激痛を塗り潰し、振り下ろされる彼女の手を左手一本で受け止める。
今まで出したことのないほどの力が湧き出した。
左腕だけで彼女を振り回し、フローリングの床に叩きつける。
『ぁうっ……!!』
無傷の左足に力を込めて、彼女の上に覆い被さった。
ナイフを持った右手は床に押さえつける。
左手だけで不安だけど、体重をかければなんとかなった。
『あなた……! あなたはっ……!!』
怒りの視線が、わたしの顔を睨み上げた。
『管理人さんを、懐柔しましたね……!? それで、下の部屋に待機させて、鍵を……!』
『ご明察……と、言ってあげる。××ちゃん』
上から目線で名前を呼んだ瞬間、彼女の瞳の熱が増した。
『この部屋が囮だなんて、最初からわかってた。元々わたしは、あなたが隠れているとしたら2階か3階だと思っていた。それも、0208号室か0308号室。なぜならそこが、いざというとき一番逃げやすいから』
このマンションの部屋番号は、エレベーターや階段に近いほうから数えて01号室、02号室――と続く。
そして08号室が一番端で、その近くには、非常階段の入口がある。
居場所がバレるとマズい身の上にある彼女なら、必ず逃げ道に近い場所に陣取るはずだと確信していた。
『そのどちらなのか、いくら考えても絞り切ることはできなかった。でも、さっき管理人室の鍵箱を見てわかったよ。2階にだけ空き部屋がなかったから』
――このマンション、半分くらい空いているらしい。
――全部屋が埋まっているのは2階だけのようだ。
『ベランダを経由した侵入ルートの存在に、あなたが気付いていないはずがない。気付いているとしたら、対策をしていないはずがない。つまり、同じ階の部屋をすべて確保する。2階の部屋の鍵を全部自分で持っておけば、ベランダから侵入される心配はないからね。だから空き部屋のない階が怪しいと思ってた』
『そこまでわかってて……罠にかかったって言うんですか……!』
『そう』
わたしは笑う。
嗜虐的に。
『だって――罠にかかったフリをすれば、勝ち誇ってくれるでしょ? 鍵を見せつけて、残念でした~って。――ちょうど、今のわたしみたいに!!』
0208号室の鍵を手に入れる方法は、それしかないと思っていた。
別の場所に誘き寄せて、直接奪い取る。
しかし、そうすると、わたしが自分で扉を開けに行くのは難しい――だから協力者が必要だった。
管理人さんには昨日、ちょっとした脅迫文を送っておいた。
要約すれば、『お前が隠しているものを知っている。お縄につきたくなければ指示に従え』といったようなものだ。
そして、川越刑事の名刺を撮った写真を添付した。
後ろめたいところのある管理人さんには、あの名刺は効果抜群だったことだろう。
管理人さんが指示通り動いてくれるかどうかは賭けの部分もあったけど、動いてくれなかった場合は管理人室のドアも鍵の箱も施錠されていたはずだ。そこで決行か撤退か判断すればよかった。
ダメだったら、明日もう一度やり直す。
危険度は上がるけど、そうするしかなかった。
しかし、勝算は結構あったのだ。
管理人さんには、兄妹を匿っておくことにメリットなんか何もない。それこそ何かしらの脅迫を受けていると考えるのが妥当だった。
そこで現れた、刑事を名乗るメッセージ。
助けが来た、と思ったんじゃないだろうか。
幼い頃、あの管理人さんにはよくしてもらった――自分が解放され、その上きーくんも助けられるチャンスが来たら、絶対に乗ってくれると思っていた。
そして果たして、その通りになったのだ。
管理人さんはわたしがベランダに投げ込んだ鍵を拾い――今頃、0208号室を目指して走っているはずだ。
わたしが、信じた通りに。
……××ちゃん、あなたとは違う。
よくしてもらった人を、脅して小間使いにするような人間に……わたしは、ならない。
『…………ぅ』
その思念が、伝わったわけでもないはずなのに。
彼女は、激しく歯ぎしりをしながら、苦しむように呻き始めた。
『ぅうぅううぅ、ぅぅぅうううう!! ぅううぅううううぅぅぅ――――ッ!!!』
彼女の左手が自分の前髪を掴み、ブチブチと引き千切る。
……何、を……!?
突然の狂態に、わたしは唖然とした。
軋る歯の隙間から獣のような唸り声を漏らしながら、彼女は滂沱の涙を流す。
彼女の頬に付いたわたしの血が、涙と混ざって滲んでいく。
『何が……何が……何が違うっ……何が……! わたしとあなたの、何が違うッ!!』
『っ!?』
押さえつけていた彼女の右手に、恐ろしい力が籠もった。
少しずつ、少しずつ、体重を使った拘束が――押し返される。
『一緒に育った。兄妹も同然だった! 違うところなんて何にもないはずなのに!! なのに、なのに、なのにっ……どうして! どうしてあなたはよくて! わたしはぁああぁッ……!!』
彼女の右手には、まだナイフが握られている……!
これ以上、押し返されたら……!
『――妹だってことの、何がそんなに悪いのぉおッッ!!!!』
…………あ。
わたしの左手の中から……彼女の手首が、抜けた。
自由になった右手が、血濡れのナイフを振り上げる。
決して、人体を傷付けるためのものではない、ステーキ用のそれ。
ギザギザの刃が付いた、安物の凶刃が。
わたしの背中に、突き刺さった。
『ぁあああぁ!!! ぁあ゛あああ!!! あぁあぁあああぁぁあああああああああああああああああああああああああああぁ!!!!!』
1回。
2回。
3回。
狂人のように叫びながら、彼女は何度もわたしの背中にナイフを突き刺す。
そのたびに、身体から力が抜けた。
どんどん寒くなって、感覚がなくなって。
5回目くらいからは、まるで他人事のようだった。
彼女は、泣いていた。
悲しいのか。
悔しいのか。
怒っているのか。
判然としない感情を爆発させながら、わたしを殺した。
ずるり、と。
力が抜けたわたしの身体が、彼女の上から滑り落ちる。
その頃には、彼女の涙も止まっていた。
元がどんな色だったかもわからなくなったナイフが、彼女の手から零れ落ちた。
『…………兄さん…………』
ぼそりと呟いて、彼女はわたしの下から抜け出す。
『…………兄さん…………兄さん…………兄さん…………』
幽鬼のように、繰り言をしながら。
ふらふらと覚束ない足つきで、彼女は立ち上がった。
彼女の視界に、もはやわたしは入らない。
びちゃびちゃと、血だまりを踏む音がして。
玄関の扉が開き……閉じる。
……ああ。
あんまり……時間、稼げなかった……。
管理人さんは……間に合っただろうか。
鉢合わせる前に……逃げてくれると、いいけど……。
…………きーくんは、無事……だったかな…………。
床が暖かい。
これは、わたしの血か……。
止め処なく漏れ出す、わたしの中身……。
このまま行けば、わたしの中には何もなくなって……ただの抜け殻になるだろう。
…………悔しい、なあ…………。
なくなって困るものが、何もない……。
本当なら、きーくんとデートしたり、手を繋いだり、キスしたり……。
……そういう思い出が、あったはずなのになあ……。
失くしたくない思い出を、作ることすら…………。
…………わたしは、できなかったんだなあ…………。
意識が、暗く、寂しく、沈んでいく……。
わたしの中から、わたしが消えていく。
それを、惜しくないと思ってしまうことが……。
……わたしにとっては、一番、悔しいことだった。
意識が闇に落ちる寸前。
どこか遠い場所から、けたたましいブレーキ音が聞こえた気がした。




