第ΑΩ話 真実の輪廻
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―――探さなければ。
その衝動だけがあった。
頭の中は空っぽで、わかるのは自分の名前くらいで。
それなのに、何よりも強く強く、
探さなければ――と。
それがゆくゆくは、助けることにもなる。
……何を?
わからない。
わからないけれど、激しい焦燥が胸を掻きむしった。
「まあまあ、いたずらに急いても良いことはあるまいて」
わたしを拾ったトゥーラ・クリーズというハーフエルフ――基本的な知識はわたしの頭にも残っていた――は、ぽすりとわたしの膝の上に収まりながら言った。
「記憶喪失とは難儀なもんじゃが、そうなって始めに出会ったのが同族というのも何かしらの運命じゃろうて。しばらくはゆっくりと、儂の暖房にでもなるがいい。……ふあぁ、あったかいのう」
猫のようにじゃれついてくるトゥーラを緩く抱き締めて、わたしもその体温を感じる。
どこか、ほっとした。
胸の中がじんわりと暖かくなって……いつしか、わたしの目からはぽろぽろと涙がこぼれていた。
……あれ?
と、わたしは首を傾げる。
どうして、泣いているんだろう……。
「……ほほう?」
トゥーラが興味深そうにこちらの顔を見上げて、小さな指でわたしの涙を拭う。
「良かったではないか。ひとつ、わかったぞ、ラケル」
……何が……?
「おぬしは存外、泣き虫な奴じゃということが、じゃ。
……別に、記憶なんぞあろうがなかろうがな、人間っちゅうもんは、自分の正体なぞ案外わかっておらんのじゃ。だからこうして、泣いたり笑ったり、いろんなことを繰り返して、己の形を徐々に浮き彫りにしてゆくんじゃ。
だから、生きよ、ラケル。まずはそれだけでいい。生きてさえおれば、いずれ己の正体を悟ることもあるじゃろうて」
ま、それが一番難しいんじゃがな――と言って、トゥーラはひひひと悪戯っぽく笑った。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
わたしは生きた。
トゥーラの教え通り、何もわからないままに。
トゥーラのもとで10年の歳月を過ごしたあと、わたしは探さなければならない何かを探すために旅に出た。
大陸を端から端まで放浪し、海も渡った。
列強三国が覇を唱える大陸の外にも、人は住んでいる。
散在する島や小大陸に、様々な文化を持った、様々な人たちが、それぞれの生活を送っていた。
けれど、彼らにも共通することがあった。
それは、精霊と共に生きている、ということ。
生まれると同時に人間に宿り、その力の一端を与える精霊。
神聖な存在として敬う場所もあれば、隣人のように扱う場所もあるけれど、人生の始めから終わりまで連れ添うその存在に対して、ある種の敬意を持っていることだけは、どこであっても同じだった。
わたしは、精霊と共に生きる人たちを、どこか遠い気持ちで見て回った。
火の精霊術を持つ人は火に関わる仕事を、水の精霊術を持つ人は水に関わる仕事を――世界のほとんどはそうして回っている。
けれど、わたしの精霊は〈シャックス〉。
一定した力を持たず、他者の精霊術を真似ることしかできない精霊。
わたしには、自分だけの精霊術がなかった。
自分だけの力が――自分だけの在り方がなかった。
わたしにできるのは、確固と『自分』を生きる彼らの力を盗み、猿真似をすることだけ。
そうしてできることを増やせば、空っぽの自分自身を埋めることができると……そう思い込もうとした。
――探さなければ。
旅を続けるほどに、焦燥は増していく。
列強三国のみならず、ほとんどの文化圏で信仰されている指輪教では、海とは巨大な指輪の中に張られた水の膜であり、大陸や島はそこに浮かぶ埃のようなものなのだという。
だから、東西南北のいずれかに進み続ければ、いつか指輪の裏側が見えてくるはずだった。
そこを目指して、ひたすら西へと航海を始めたのは、迷いから逃げたかったからかもしれない。
求める答えが見つからないことに疲れて、絶対的な目的地が欲しくなったのかもしれない。
世界の果てを目指す旅は、数十年に及んだ。
正確な歳月は覚えていないけれど、往路で通った街が復路では様変わりしていたから、少なくとも世代交代が起こるような時間ではあったんだと思う。
進めば進むほどに、人里は減っていった。
心細くもなったけれど、同時に気楽になっている自分もいた。
他に誰もいなければ、空っぽの自分を見なくても済む。
そう……トゥーラの言う通り、自分というものは、周りによって浮き彫りになるものなのだろう。
だから周りに誰もいなければ、自分を感じることもできなくなるのだ……。
それは緩やかな自殺に違いなかった。
まずは生きろ、というトゥーラの教えも、一面の青い海の中に徐々に溶けていった。
このまま最後の最後まで前に歩いていけたなら、それも悪くはない…………。
そんな風に思い始めた頃、ずいぶんと久しぶりに人里に辿り着いた。
いや……小さな島に住まうその人々は、ただの人ではなかった。
わたしよりも鋭く長く、三角に尖った耳。
若々しい外見。
そこにあったのは、エルフの里だった。
「我々は『最も旧い番人』です、世迷い人よ」
里長と思しき女性は、流れ着いたわたしに言った。
「この地、この先を守るため、血を純に保ち、幾星霜の時を過ごしてきました。混じりもののエルフよ、あなたの遠い祖に当たる者です」
混じりもの――
わたしは今まで、自分を純血のエルフだと思ってきたし、トゥーラを含む他の人々もそういう風に扱っていた。
けれど、彼女たちに比べれば、確かにわたしは混じりものだ。
彼女たちの寿命は数千年に及ぶという。
普通のエルフの何倍もの長さだ。
そのような存在は、もはや人間よりも神や精霊に近い……。
「このような果てを目指してくるのは、決まって道を見失った者です。安住の場所が見えない彼方にあると希望し、彷徨い求めてくる者です。ですが、世迷い人よ、そんなものはありません。あなたの迷いを断つために、神のご意志をお見せしましょう」
そう言って旧きエルフたちは、わたしをある場所に導いた。
一見には、緑の草に覆われた小高い丘だった。
そのてっぺんに、腰の高さくらいの石の台座がぽつんと鎮座していた。
「台座に、手を。あなたの目を、遙か西へとお連れするでしょう」
ここよりも、さらに西。
世界の果てが見られるというのだろうか。
畏れのようなものを感じながら、わたしはゆっくりと、台座の上に手を置いた――
その瞬間、視界が切り替わった。
視界が、わたしの目が、広大な海を高速で飛び渡ってゆく。
やがて、島が見えた。
いや、島というにはあまりに大きい……まさか、大陸……?
その大陸は、青々とした草木に覆われていた。
木々には瑞々しい実が無数に生り、ありとあらゆる動物たちが、穏やかに暮らしていた。
それは……まるで、理想郷。
すべての苦しみから解放された、地上の楽園。
こんな場所があったのか、と胸が歓喜に震えた、その直後。
わたしの視界は、楽園の中心を捉える。
2本の木があった。
見たことのない枝の伸び方。
見たことのない葉の形。
見たことのない色の木の実。
近寄りがたい、触れれば瞬間、砕けてしまいそうな、静謐な神聖さがありつつも……知らず知らずのうちに手を伸ばしたくなる、2本の魅惑の木。
けれど、それはできなかった。
2本の木の傍には、二つの存在があった。
ひとつは、木々の頭上にふわりと浮かぶ、大きな白い翼の鳥……いや、人……?
そしてもうひとつは、木々に至る道を阻むように在る、炎の剣。
それは緩やかに回転し、火の粉を辺りに散らしていた。
少しでも近付こうものなら、その火の粉に全身を焼かれ、然る後に両断されることだろう――有無を言わさずそう思わされる存在感があった。
わたしはハッとする。
視界が小高い丘に戻ってきたのだ。
「おわかりになられたでしょう」
旧きエルフが後ろで言う。
「我らが神、我らが創造主は、我々ヒトが楽園に踏み入ることをお許しになりません。我々に安住の場所などないのです。
人は苦しみながら生きねばなりません。そう定められているのです。
もし生の苦しみから解放されることがあるとすれば……それは人ではなく、神でもなく、別の名前で表される何かでしょう。我々の教えに相応しい名はありませんが、長く生きた人の端くれとして、はっきりと言えることもあります。
世迷い人よ――あなたは『それ』になりたいわけではない」
驚いて振り返ると、旧きエルフはすべてを見透かしたような遠い瞳で、わたしの目を見つめた。
「お戻りなさい。本当にあなたが探すべきものがある場所に。そして大いに苦しみなさい。その苦しみが、あなたにとっての本当の楽園へ、きっと導いてくれることでしょう―――」
そうして、わたしは来た道を取って返した。
胸を掻きむしる焦燥は相変わらず。
けれど、茫漠とした徒労感は少しだけ和らいでいた。
道が、少しだけ見えた気がする。
ある程度まで船で戻ってくると、【絶跡の虚穴】で島伝いに移動できたので、復路は往路よりずっと速かった。
その間じゅう、わたしは頭の端で、次に行くべき場所を検討していた。
不思議なもので、あの楽園の光景を見ただけで、視点ががらりと変わっていた。
大陸中を旅したと思っていたのに、まだ行っていない場所が次々と思いつく。
それに、世界の果てを目指す航海の間に何十年も経っていたから、行ったことのある場所も様変わりしていることだろう。
何十年かぶりに、旅が楽しく思えた。
そうして、わたしは再び大陸を――いや、他の大陸を見た以上、単にそう呼ぶのは不適当だ――ノド大陸を流離い始めた。
その旅の中で23番目の目的地が、ラエス王国ダイムクルド領だった。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
ジャック・リーバー、そしてフィリーネ・ポスフォードとの出会いがどう特別だったのかというと、わたしにもよくわからない。
子供に精霊術の使い方を教えることは、それまでにもあった。
どんな精霊術師でも、十全に教えを授けられるのは自分と同じ精霊術を持つ子供だけだ。
生来宿る精霊が個々で異なる以上、それは当然のことだ。
けれど、わたしは例外で、複数の精霊術をそこそこ扱うことができた。
空っぽな自分を埋めるだけの虚しい収集癖だったけれど、それは人に精霊術の扱い方を教えるのに当たっては、とても有利に働いた。
根無し草のわたしにとっては、教師業はありがたい収入源のひとつだった。
だからジャックもフィルも、行きずりの弟子に過ぎないはずだった。
確かに、才能はある。
二人とも、今までわたしが見てきた子供たちの中で、間違いなくトップだった。
才能ある子供を育てることへの喜びは、もちろんわたしにもあるけれど……放浪の90年と比較して、重きを置くほどの特例かと訊かれると、答えに窮するしかない。
あるいは、直感なのかもしれなかった。
あの楽園の光景を見たことで得た霊感が、この二人の子供とわたしとの間にある運命を、知らず知らずのうちに読み取ったのかもしれない……。
ジャックとフィルの師匠をしている間、わたしの胸からは焦燥が消えていた。
二人が成長していくのを見守ることが、楽しくて仕方がなかった。
結婚どころか恋愛さえしたこともないのに、まるで子供ができたかのようで……。
その感覚が、ほんの少しだけど変わり始めたのは、きっとあのときが最初だ。
二人が盗賊団に攫われて、わたしが駆けつけたあのとき。
隠れていた盗賊の一人がジャックに矢を放ち、フィルと一緒に助けようとしたあのとき。
ジャックは、わたしたちを突き飛ばした。
わたしたちが傷付かないように。
自分の身を挺した。
それは、たぶん、覚えている限りで――
――トゥーラ以外の人に助けられた、初めての経験だった。
そのときのジャックの姿を、よく覚えている。
小さな身体で、傷だらけの身体で、なのに迫る矢から目を逸らしもしない。
その凄絶なまでの、彼の生き方を体現するような姿を、鮮明に覚えている。
あのときを境に、事は単純ではなくなったのだ。
ジャックは成長した。
いつまでも同じ姿のわたしに追いつこうとするかのように、身長が伸びて、術も上達して。
わたしからすると、あっという間のことだった。
何十年という果てへの旅をさほど長いとも思わなかったわたしのことだ――4年なんて、ほんの一瞬のことだった。
だから、驚いたのだ。
「師匠……俺、このために精霊術を学んできたんだ」
ジャックが至近距離からわたしの顔を見据えて、真剣な声で言ったとき。
「最初に言ったよな。守りたいものを守るために。それだけなんだ。本当にそれだけのために、俺はこれまで生きてきたんだ。
その『守りたいもの』の中には、師匠も――ラケルもとっくに入ってる」
……わたしも?
自分が誰かもわからない空っぽの人間で……自分の精霊術さえ持ってなくて……世界から浮いた根無し草でしかない、わたしも?
「――信じてくれ。自分が育てた弟子を」
出会ったときの、何倍もの力で肩を掴まれたそのとき。
自分の顔がどうなったのか、一瞬、全然わからなかった。
いきなり燃えたように熱くなって、壊れるかと思うくらい鼓動が早くなって。
反射的に顔をそむけた。
こんな顔をジャックに見られたら死んでしまう。
理由もわからないままそう思った。
わたしだって無知じゃない。
自分のこの反応が、大抵の場合どういう意味合いのものかくらい、ちゃんとわかっていた。
でも、ありえないのだ。
ジャックは弟子だし、子供だし、……というか、男の人をそういう風に見たこと自体なかったし、考えもしなかったし。
これは何かの間違いなのだ。
釣られて顔を赤くしたジャックを見て、わたしは浮き彫りになった自分の心に問う。
その答えが……自然と口を突く。
「……大きくなったね、ジャック」
いつの間にか弟子が成長していたことに、驚いただけ。
それだけのことだった。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
そして、黄金のような日々は終わりを告げ。
そして、暗黒めいた戦いが幕を開ける。
助けなくては、と。
由来不明の衝動とは別に、はっきりとした理由からそう決意した。
ジャックの人生が、あれほど優しくて強い子が、魔王などに身を落としていいわけがない。
たとえ力尽くでも、絶望の淵から引っ張り出さなければ――
師匠としての、人間としての義務感から、わたしはそう考えた。
結局、その決意は無駄に終わった。
世界中から精霊術を集めても、ジャックというたった一人の絶望には敵わなかった。
……あのときほど、悲しかったことはない。
弟子が師匠を超えるとき。それはいつか来るものと知っていたけれど、……あんな形でだけは、あってほしくなかった。
思えば、トゥーラのときもそうだった。
わたしが弟子として恩返しをしようと思ったときには、何もかも手遅れで……。
だから……だろうか?
かつて夢見た師弟の形。それを取り戻したいがために、わたしは無数の走馬燈を越えて、あの星空の世界に辿り着いたのだろうか。
わからない。
……わからない。
いつしか、また焦燥が胸を掻きむしっていた。
それに衝き動かされるように、わたしは時を超えた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
―――そして。
長い長い、因果の果てに。
わたしは、その教会に辿り着く。
「十二分にわかっていますよね?」
彼女が。
不倶戴天の仇敵が。
イライラとした声で言った。
「わたしがこんな気まぐれを起こすことなんて、1万年に1回あるかどうかなんだって!
それを、ふいにするつもりですか?
1万年に1回のチャンスを、棒に振るつもりですか!?」
永遠にも等しい繰り返しとやり直しの果てに、幸せな世界を作り上げたのは彼女のほうだった。
わたしは、それを受け入れるだけでよかった。
視線の先に、彼がいる。
婚礼衣装を着たジャックがいる。
あの子が幸せになることが、わたしの願いだったはずだ。
それ以外に求めるものなんて、なかったはずだ。
何度も何度も彼の名前を呼ぶ。
そのたびに、違うと誰かが言う。
何が違うの?
わたしは、何を間違っているの?
ああ―――わからない。
「これが儂からの、最後にして最初の教えじゃ」
哀れな迷い子になったわたしに道を教えてくれたのは、やっぱりトゥーラだった。
「自分の幸せを探し出せ、ラケル!! これだけは、何があっても忘れるな―――ッ!!!」
ああ。
そうか。
腑に落ちるものがあった。
自分の心の奥を、初めて見通したかのような感覚があった。
そこには未だ、答えはない。
ぽっかりと穴が空いたかのような、白紙回答の疑問だけがある。
だから。
―――探さなければ。
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