第Ω話 デッドエンド・ポイント - Part5
呆気に取られたような沈黙が、数瞬、礼拝堂に漂った。
長椅子に座った列席者たちが、こちらを振り返っている。
その中には、見知った顔がいくつもあった。
エルヴィス、アゼレア、ガウェイン、ルビー、ヘルミーナ。
それに、カラムさんやマデリンさんも。
けれど、わたしの目には入らなかった。
ただ一人。
ステンドグラスを通して極彩色に色づいた光を浴びた、その少女だけを見据えていた。
純白。
染み一つない、曇り一つない、清純極まるウェディングドレス。
思わず、笑いそうになってしまう。
そのドレスほど、あなたに似合わないものもない。
「――何者だ」
と。
本来、警備を司るべき兵士たちよりも早く、厳しく問う声があった。
彼女の隣に立つ少年。
ずっと求め続け、探し続けた、儚くも毅然とした立ち姿。
「……ジャック……」
純白の婚礼衣装に身を包んだジャックは、わたしを見下ろしてかすかに眉を潜めた。
「……誰だ?」
声に混じるのは、警戒と困惑。
……ああ。
当たり前のことだ。
この世界では、わたしとジャックは、出会ってすらいないのだ――
「ずいぶんとド派手な登場だったが、余興の芸なら夜にしてもらおうか。今は見ての通り、そういう空気じゃないんでな――」
「ジャック」
言葉を遮ったのは、ウェディングドレスをまとう少女だった。
サラ・フィアーマ。
そう名乗るそいつは、白手袋に覆われた手を、しなだれかかるかのようにジャックの肩に置く。
たったそれだけで、わたしの胸の中に燃え上がるものがあった。
「相変わらず鈍感ですね。……彼女の目を見てください。用は、わたしですよ」
「……?」
「ご臨席の皆様、どうかそのままで。警備兵たちも決して動かないように――命が惜しければね」
皇女の声が凜と響くと、静謐な空気が一層に張り詰める。
そのピリピリとした感触を、まるでぬるま湯のように微笑して浴びながら、サラ・フィアーマは一歩、わたしに向かって進み出た。
視線が交錯する。
わたしたちにとっては、何よりも雄弁な会話だった。
だから。
「――問答は不要のようですね、名も知らぬ邪魔者さん」
「最初から話し合いなんて期待してない。……初めて会う皇女様」
ふふ、とどちらともなく微笑が零れた。
それから半秒後のこと。
わたしたちは殺し合いを開始した。
風と光が吹き荒れる。
幾重もの悲鳴が迸り、直後にすべて掻き消された。
風は【清浄の聖歌】。
光は【黎明の灯火】。
小手調べの必殺を、二つ同時にウェディングドレスに叩き込む……!
轟然たる風。
清冽なる光。
いずれも人体を消し飛ばして余りある必殺の一撃。
しかし、その両方が。
純白のドレスに傷一つ付けられなかった。
「――ふふ」
風が凪ぎ、火の粉が散る。
その向こうで、仇敵が悠然と微笑んでいる。
「何かしましたか?」
防がれた……!?
いや、いや、何かが違う……!
わたしは三種類目の精霊術を選択した。
風や炎が効かないなら、もっと直接的な攻撃を!
精霊〈ベリト〉、【不撓の柱石】。
金属を操り、無数の剣を虚空に生み出す。
それらは雨となって、彼女の頭上に一斉に降り注いだ。
「【黎明の灯火】に【不撓の柱石】まで……!?」
「どれもルースト級……! なんなんだ、あの人!?」
大理石の床にザカザカザカッ! と剣先が突き刺さる音が、聞き覚えのある声を塗り潰していく。
わたしは反射的に、ハリネズミのようになった彼女を想像した。
いいや、それは願望だ。
そうなってほしいと、そうなればいいと、有り得ないとわかっていることを妄想しただけ……!
「――くす。くすくすくすくす……!」
背筋をざわりと撫でる、笑い声。
わたしは愕然と息を呑む。
雨のように降った剣の雨。彼女の全身を貫き、ハリネズミのようにするはずだったそれが――
消滅している。
1本たりとも、彼女の髪先に触れることさえなかった。
まるで見えない何かが遮ったかのように、彼女の周囲だけ、床に1本も剣が刺さっていない……!
「驚いていますね。――久しぶりですよ、わたしの力にそういう反応をしてくれる方は」
ヒュン、と小さな音がした。
何か来る。
そう思った直後、異変が起こった。
床に突き刺さった無数の剣が、まるで収穫される稲のように、次々と断ち折れていく。
それも、わたしと彼女の間にある剣だけ……!
――〈アンドレアルフス〉!
わたしは反射的に【巣立ちの透翼】で自分の重さを消した。
かつて幾度となくジャックに教えた。相手がどんな攻撃をしてこようと、自分の重ささえ消してしまえばダメージを受けることはない、と。
切断、刺突、打撃。
人体を破壊しうるほとんどの力は、重さを持たないものに対しては無力なのだ。
だから、たとえ正体不明の攻撃であろうと、自分の重さを消すことさえ間に合えばノーダメージで凌げる――そのはずだった。
「――いぁっ……!?」
腹部に激痛が走った。
何か細いものがしたたかに打ちつけられたような、そんな感触がした。
一気に身体から力が抜け、足が宙に浮く。
絨毯の上を二度三度と跳ねて、ヴァージンロードを押し戻されるように転がった。
「ぅ、ぐ……あっ……!」
わたしは床の上でもがきながら、自分のお腹に手を当てる。
ぬるり、と気色の悪い手触りがあった。
何、今の……?
斬、撃……?
だとしたら【巣立ちの透翼】で受け流せるはず……なのに、なんで……!?
痛みを噛み砕きながら顔を上げる。
彼女が、サラ・フィアーマが、最初の位置から一歩たりとも動かないまま、薄い微笑を湛えて這いつくばるわたしを見下ろしている。
その――手前だ。
何もない空中だった。
つつっ――と赤いラインが、横向きに走っていた。
「…………!?」
あれは――わたしの血?
わたしの血が、宙に浮いている? 糸状になって?
……違う。
糸状じゃ、ない。
糸だ。
わたしはようやく気がついた。
目を懲らしに懲らしてやっとかすかに見える程度の細い糸――それが礼拝堂中に張り巡らされていることに。
わたしの血はそれに付着していた。
あの糸が、わたしのお腹を切ったのだ……!
「三つもの精霊術を同時に扱え、しかもいずれもルースト級の出力――まったくもって馬鹿げた力です。ですが、わたしには通じない。わたしの力にだけは通じない」
おお、と長椅子の列席者たちから溜め息がこぼれた。
それは恍惚としたもの。
敬うべき、尊ぶべきモノを仰ぐときの、敬虔なる嘆息。
サラ・フィアーマの頭上に、ゆっくりとそれが現れた。
陽炎のように揺らめくそれは、精霊の化身の特徴だ。
しかし。
しかし、…………その姿、は…………。
「……ぁ……あ……」
ああ、そうだ……トゥーラが言っていた……。
調伏した、と。
討伐ではなく調伏、と。
「この力は、すべての精霊の長たる証明。どれほどの精霊術を束ねたところで、わたしにだけは決して届かない。
――光栄に浴しなさい。あなたは今、神の威光に触れているのですから」
列席者たちが一斉に長椅子から降り、その場に膝をついた。
彼らにとっては、アレが神だというのか。
あんな……禍々しいモノが、神だと……!
それは、巨大な蜘蛛の姿をしていた。
極彩色のステンドグラスに取り付いて、お尻から無数の糸を吐き出して。
世界すべてが己の巣だとでも言うかのように、そこに君臨していた。
「精霊序列第1位〈授かりし王権のバアル〉―――その力の名は【指輪の名代】」
張り巡らされた蜘蛛の巣の、その中心で。
女帝めいて超然と佇む彼女は、ならば―――
「我が神の糸には、どんな精霊の力も効力を発揮しない―――精霊術を無効化する精霊術、というわけなんですよ、邪魔者さん」
―――人を化かし、人を騙し、取って喰らう邪悪な狩猟者。
女郎蜘蛛の姿が、そこにあった。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
――【争乱の王権】!
「消えなさい」
――【原魚の御手】!
――【大地の指先】!
――【雷霆の軍配】!
――【天学の羽針】!
「消えなさい」
――【一重の贋界】!
――【無欠の辞書】!
――【絶跡の虚穴】!
――【試練の迷宮】!!
――【憧憬の図版】……っ!!
「消えなさい―――」
すべてが、斬り裂かれた。
気圧凝縮攻撃も。
水の砲弾も、岩塊の弾幕も、雷撃の矢雨も、風の飛刃も。
贋界膜の隠蔽も、使い魔の編隊も、超空間攻撃も、難攻不落のダンジョンも、実体のない幻影でさえも。
ひとつとして、例外はなかった。
縦横無尽に乱舞する蜘蛛の糸が、ありとあらゆる精霊術を斬り裂いた。
「気は済みましたか? そろそろ式を再開したいのですけど……?」
肩で息をするわたしの視線を、サラ・フィアーマは悠然と受け止める。
こんなこと。
こんなことって……!
【神意の接収】の真の力を解放してから、わたしは精霊術戦において、勝てるかどうかを計算しなくなった。
負けるわけがないからだ。
ありとあらゆる精霊術をルースト級の出力で使える――こんな力を持ってしまった以上、どうやったって負けることはできない。そう思っていたのだ。
なのに――まだ、あったのか。
【神意の接収】を一方的に圧倒できるほどの精霊術が、まだ……!
「く……うっ……!」
「どうしました? 品切れですか? まだ30種類も試していませんよ……?」
こうなったら……方法はひとつしかない。
わたしは顔を上げる。
ステンドグラスに取り付いた大蜘蛛を睨み上げる。
「〈シャックス〉!!」
わたしの背後に、異形の影が揺らめき立つ。
コウノトリの姿をしたそれは、〈忠実なる影法師のシャックス〉の真の姿。
いつも他の精霊の姿を借りる彼が、今だけは己が姿を晒して大蜘蛛を仰ぐ。
「模倣しなさい!! あの大蜘蛛をッ!!」
〈バアル〉の力が精霊術を無効化するものだと言うのなら、その力をこそ無効化してやる!
わたしが同時に扱える術は3種類まで。相手の術の無効化に1種類使うとしても、残り2種類で充分に戦える……!!
〈シャックス〉が甲高く鳴いた。
普段なら、こんなことは必要ない。
【神意の接収】による術模倣の条件は、効果の割にかなり緩い。
術者が術を行使しているところを肉眼で視認すること。
そして、それが何の精霊の術であるかをわたしが特定していること。
この二つくらいのものだ。
今まで遭遇した精霊術の中で、この条件に引っかかって模倣できなかったのは、悪霊王ビフロンスくらいのものだった。
けれど、〈シャックス〉は飛んだ。
小さな身体で、大蜘蛛に立ち向かうかのように。
その時点で、結果は見えているようなものだった。
「――不敬、ここに極まれり」
糸が空中に交差する。
大蜘蛛に向かって飛んだコウノトリを、獲物の蝶をそうするかのように絡め取った。
「神の威光を模倣しようとするなんて……蛮勇にも程度というものがありますよ?」
キェエァ……、という弱々しい鳴き声が、〈シャックス〉の化身からこぼれた。
首が。
翼が。
足が。
糸が絡みついた部分を中心として、〈シャックス〉の身体が溶け落ちていく。
わたしはそれを、愕然と見上げることしかできなかった。
時間を越えたこの戦いを、ずっと一緒に耐え抜いてくれた頼もしい精霊が、蝋人形のように溶かされていく様を、言葉をなくして見守ることしかできなかった。
「序列第1位たる〈バアル〉の力を、たかだか44位が模倣できるとでも? 浅ましいコソ泥が。猿真似と呼ぶのもおこがましい――精霊術を模倣するその力自体を、【指輪の名代】は無効化します。少し考えればわかることだと思いますけどね?」
〈シャックス〉の化身は塵と消える。
化身は飽くまで精霊が世界に落とす影――蜃気楼のようなものに過ぎない。それが消えたところで術が使えなくなるわけじゃない。
それでも、その光景は致命的だった。
数十年を費やしても、数百年を虐げられても屈さなかった膝が、折れそうになるほどに。
「――縛り上げなさい、〈バアル〉」
ウェディングドレスの少女が静かに命じた。
無数の糸が怒濤のごとく押し寄せ、わたしの全身を縛り上げる。
「ぁぐっ……!」
細い糸が肌に食い込む痛みに、わたしは呻き声を上げた。
動け、ない……!
振りほどこうとすればするほど、身体に糸が食い込んでいく。
そのうえ、精霊術を使おうとしても、発動さえしないのだ。
身体中に巻きついた糸が、わたしに宿る精霊さえも縛ってしまったかのように……。
「……片付いたな」
無感動な声でジャックが言った。
「遊びすぎだぞ、サラ。もっと早く片を付けられただろ」
「ごめんなさい、ジャック。精霊術戦は学園を卒業して以来だったものですから。少し楽しくなってしまって」
「ったく……」
ジャックは嘆息しながらも、困ったような笑みを湛えて少女を――サラ・フィアーマを見つめた。
その視線に籠もった優しさが、わたしの胸を締め付ける。
……違う。違う……!
あなたがその目を向けるべきなのは、その女じゃない!
それは……そう、それは、フィルのもの。
その女は、彼女の居場所を横取りしただけの泥棒だ!
サラ・フィアーマは、ジャックの優しい視線を穏やかな微笑で受け止めた。
ぬけぬけと。
白々と。
我が物顔で!
「うううッ……ぁあぁああああああああぁあああああああああッッ!!!!」
わたしは絶叫しながらもがくけれど、絡みついた糸は1本たりとも切れることはなかった。
ジャックが眉をひそめて、こちらを見やる。
「……彼女は……知り合い、なのか? あれほどの使い手……忘れるはずがないよな……?」
「さて。反乱分子の手の者か、犯罪組織の鉄砲玉か。……その辺り、お話しして確認してきますね? 少しだけ時間をください」
「ん、ああ……。気をつけろよ。それに、予定も押してるからな」
「わかってます」
くすっ、と怖気の走る笑みをこぼして、サラ・フィアーマが栗色の長髪を揺らしながら、ヴァージンロードを歩いてくる。
わたしの目の前に立つと、彼女は唇を吊り上げて囁いた。
「……ご苦労様、といったところでしょうか、ラケルさん?」
「あなた……! あなたはっ……!!」
「そんな目で見ないでくださいよ―――この手は、わたしとしても使いたくはなかったんです。最終手段だったんですよ?」
なん、ですって……?
ここまで好き放題やっておいて、何を……っ!!
「でも、力尽くではあなたの心を折ることはできないと判明した以上、仕方のないことだったんです。
北風と太陽――ご存知ですか? 冷たい北風を吹きつけても、旅人はコートを深く着込むだけ。太陽の光で暖めてあげることで、旅人は自ずからコートを脱ぐ。……それと同じことですよ」
くすくすくす、と気に障る笑みが漂う。
……北風と、太陽――?
「このプランCは、わたしにとって、完全勝利とは言えないものだったんです。なぜって――あなたのほうにもメリットがあるからですよ、邪魔者さん」
「わたしに……わたしに、メリット……? そんな、馬鹿なこと――」
「心当たりがないとは言わせませんよ? 会ってきたんですよね、ここに来る前に。だってわたしが手配したんですから――根無し草のあなたを見つけ出すのは、本当に大変だったんですよ?」
――大変じゃったぞ、それを届けるのは
不意にトゥーラの声が脳裏に蘇った。
――何せおぬしがどこをほっつき歩いておるのかさっぱりわからんかったからのう
――ツテを使って探させたんじゃ
……ツテ……。
トゥーラがわたしを探すのに使ったツテって……。
わたしとトゥーラを再会させたのって……!
「感無量だったでしょう?」
女が言う。
女の皮を被った毒蜘蛛が言う。
「死に別れたはずのお師匠さんが、その一家が、平和に幸せに過ごしているのを見るのは―――泣きたくなるくらい素敵だったでしょう?」
「…………ぁ…………」
わたしは、思い起こす。
家族3人で穏やかに過ごすトゥーラやティーナ、クライヴさんを見て胸に過ぎった、暖かな気持ちを。
「…………あ、ぁあ…………!!」
わたしは、彼女の意図を悟った。
北風と太陽。
冷たい風を吹きつけるのではなく、陽の光で暖める。
「こういう世界がよかったんですよね……?」
彼女は囁く。
上辺だけは優しげな声音で。
「あなたの知っている人たちが、みんな笑って生きている、そういう幸せな世界が欲しかったんですよねぇ……?
ええ、ええ、言わなくてもわかってますよ? だから用意してあげました。あなたの代わりに、わたしがそんな世界をご用意しました。
この世界には何の憂いもありません。邪神はすでに調伏され、エルヴィス、アゼレア、ガウェイン、ルビー、ヘルミーナ、そしてトゥーラ・クリーズにティーナ・クリーズ――あなたに縁の深い誰もが幸福な人生を送っています。エルヴィスとヘルミーナなんて、もう結婚して夫婦になっているんですよ?
泣いて喜びこそすれ、恨まれる謂われなんてありません―――あなたが望んだ世界よりも、さらに幸福な世界を準備してあげたんですから。あなたが何度時間を戻っても、お師匠さんを生き返らせることはできませんでしたよねぇぇ……?」
「…………ぁあ、あぁああぁぁ…………!!」
「もちろん、彼だって同じこと……。わたしは誓います。一生涯をサラ・フィアーマとして過ごすと。最上の伴侶として、彼を貶めることなく、傷付けることなく、幸せなままに暮らすと。
あなたはエルフ。わたしたちよりも寿命が長い……。わたしがこの誓いを果たすかどうか、ずっと監視してくれていたらいい。
フィリーネのことだったら気にしなくて大丈夫ですよ。そもそも彼は、彼女を失ったこと自体覚えていないんですから。そんな過去自体、もはや存在しないんですから。というか、そもそも、彼女はわたしだったわけですしね?
ほら、誰も不幸にならない。誰もが幸せです。これ以上のハッピーエンドって、他にありますか?
ねえ、ラケルさん――もう疲れたでしょう?
もうやめましょうよ、いたずらに高望みをするのは。ここらで納得しておきましょうよ。
妥協のし時ですよ、ラケルさん―――」
彼女は。
彼女は、わたしから戦う理由を根こそぎ奪い去ったのだ。
ティーナが辿り着けと言ったハッピーエンドを、今度はただの幻覚じゃなく、本当に準備して。
これをくれてやるからもう邪魔をするな、と。
誰も不幸になっていない。
ただ、わたしがみんなに覚えられてないだけで。
その代わりに、トゥーラが家族と一緒に幸せに生きているだけで。
わたしを含め、誰も不幸になっていない。
トゥーラにすべてを説明したとき、いまいちピンと来ていなさそうだったのが、今になって腑に落ちる。
わたしが語る過酷で残酷な世界は、この幸福な世界に生きる彼女には縁遠かったのだ。
夫も娘もいる。
教え子も誰もが立派に育ち、順風満帆なままに隠居した。
そんな彼女が、あなたは違う歴史では惨殺されたのだと、そう教えられてどう受け止めろと言うのか。
おかしいのはわたしなのだ。
この世界をおかしいと思うわたしだけが、この世界では最もおかしいのだ。
この世界を否定する理由なんて、ひとつたりとも存在しないのだ。
「…………う、ぅ」
なのに。
「…………うう、ぅぅう…………!!」
なのに。
なのに。
なのに。
「…………ぅ、ぁあぁ、ぁぁあぁあああぁぁっ…………!!!」
なのに、涙が止まらない。
つらくて、悲しくて、悔しくて、ムカついて。
なんでわたしは、この世界を認められないの?
妥協のし時だ。
彼女の言う通りだ。
これ以上のハッピーエンドなんてない。
これ以上やり直しを求めたところで何も得られはしない。
そうわかっているのに、どうしてか心の奥が認めない。
こんなのイヤだ、と。
もう一人のわたしが子供のように駄々をこねる。
どうしてなのか、わたしにはわからない。
この世界の何が悪いのか、わたしにはわからない。
それがつらくて、悲しくて、悔しくて、ムカついて。
ただただ、涙を流すことしかできないのだ……。
「…………泣いてるだけじゃわかりませんよ」
冷えた声が、間近から耳朶を打った。
「妥協すると、あなたが言ってくれないのなら、わたしはあなたという危険人物を放置することはできません。こうして縛り上げたまま、精霊術を封じたまま、わたしが天寿を全うするまで牢獄に閉じ込めることになる。
……これは本来ありえない、最大限の譲歩です。次はない。二度とない。あなたを生かしたままにしておくなんて、想像しただけで臓腑が裏返りそう!
十二分にわかっていますよね? わたしがこんな気まぐれを起こすことなんて、1万年に1回あるかどうかなんだって!
それを、ふいにするつもりですか?
1万年に1回のチャンスを、棒に振るつもりですか!?」
わかってる。
こんなに愚かなことはない。
すぐにでも飛びつくべきチャンスなんだって、わたしもわかってる!
……それでも。
…………それでも…………。
「…………ジャッ、ク…………」
顔を上げ、彼を見る。
ずっとずっと向こうにいる、彼を見る。
「……ジャック……ジャック……!!」
違う。
こうじゃない。
繰り返すごとに、正体不明の違和感が募る。
「……ジャック……ジャック……ジャック……!!」
――ああ、わからない。
この期に及んで、わたしにはまだわからない。
どうしてここで、彼の名前を口にするのか。
わたしが何をするまでもなく、これから幸せになる彼の名を。
わからない。
わたしにはわからない。
「やめなさいっ……!! やめろっ!! わたしの夫を、汚らわしい目で見るなっ!!」
遮るように金切り声を上げて、サラ・フィアーマは〈バアル〉に命じる。
首に絡まる蜘蛛の糸が、ぎりぎりと強く絞まった。
「……ぁ……ぐ……!」
涙に歪んだ視界が、徐々に暗く沈んでいく。
彼の姿も、彼女の姿も、真っ黒な闇に霞んでいく。
「……残念です。本当に残念です。最後のチャンスだったのに。これが唯一無二の落としどころだったのに」
彼女が不快そうに眉根を寄せて、わたしを睨みつけた。
「あなたが悪いんです。あなたが悪いんですからね―――」
このままわたしは、膨大な時を暗闇で過ごすのだろう。
享受できるはずだった幸福を捨てて。
いずれ、彼女が本望をまっとうした頃に、知る人がみんな死に絶えた世界に放り出されるのだろう。
ああ――それは、考え得る限り最悪の結末。
ハッピーエンドとは真逆の終着点。
……どうして。
どうして。
どうして、こうなったのだろう。
何を間違えたんだ。
何が足りなかったんだ。
時間さえ戻れるようになったのに、どうして後悔なんかする羽目になるんだ。
わからない。
わたしにはわからない。
叶うことなら、どうか、これだけ。
この止め処のない疑問の、その答えだけ、探す時間が欲しい。
そうしたら……そうしたら、きっと。
わたしは、答えられるはずなのだ。
彼女が提示した取引に、胸を張って答えられたはずなのだ。
だから、どうか―――誰か。
わたしに…………教えて…………―――
「―― 地割れよ走れ 果てまで走れ ――
―― 星がその身を 焼き切る前に ――」
歌が、聞こえた。
天使が振り鳴らす鈴のような、澄み渡った歌声が。
最初は、走馬燈かと思った。
だが、直後に違うと知る。
足元が大きく揺れ、大理石がひび割れる音がしたからだ。
「――わぁあああッ!!??」
「ひぁあぁああぁぁ!?!?」
辺りから悲鳴が弾け、瞬間、首の圧迫が消えた。
急激に意識が戻り、視界が明瞭になる。
膝から力が抜けた。
両手を床について、酸素を求めて喘いだ。
「……くそッ……!!」
サラ・フィアーマの悪態が聞こえる。
視界を歪ませる涙を拭うことすらできないまま、わたしは背後を振り返った。
「悪いのう、サラ――50年前に、その糸の相手は嫌というほど慣れてしまっての」
わたしが吹き飛ばした式場の入口を、誰かが悠然と入ってくるのが見えた。
銀色が見える。
小柄さがわかる。
瞬きを二度、三度と繰り返して涙を落とし、ようやく顔が見えてくる。
「……どういう、おつもりですか……! トゥーラ・クリーズ―――!!」
……トゥー、ラ……?
どう、して……?
追いかけて、きたの……!?
「二人揃って意外そうな顔をしおってからに……。不出来な教え子どもじゃ」
銀髪の少女の姿をしたわたしの師匠は、不敵な笑みを幼い唇に刻んだ。
「――授業に決まっておろうが。ちと教え忘れたことを思い出してな?」
同時、バンッ! と彼女の右手で何かが広がる。
鉄扇。
永世霊王、史上最強の精霊術師、トゥーラ・クリーズが用いる唯一の武器……!
「このッ――〈バアル〉!」
トゥーラが鉄扇を振るう前に、蜘蛛の糸が飛んだ。
ダメだ。
わたしも試したのだ。
トゥーラの【清浄の聖歌】でも、あの糸は全部無効化してしまう!
「ふん」
ひとつ、鼻を鳴らし。
再び、清浄なる歌声が零れ出す。
「―― 風が吹き 鳥歌い ――
―― 微睡みに 揺られて ――」
鉄扇の一振りと同時に、式場内に豪風が荒れ狂った。
無秩序に撒き散らされた振動波が、壁や天井に無数の亀裂を走らせる。
だけど、〈バアル〉の糸だけは別だ。
振動波などものともせずに、トゥーラに進み続ける!
「その糸は、精霊術以外に対しては、少しばかり丈夫なだけに過ぎぬわ」
亀裂の走った壁の一部が、剥がれ落ちた。
瓦礫が落ちる。
轟音が響く。
トゥーラの銀髪が、その衝撃に激しく靡いた。
そして。
「――ゆえに、ただの自然現象で起こった風には、ただ押し返されるのみ」
瓦礫の落下が巻き起こした風が、飛来した糸を吹き飛ばした。
そ……そんな、方法が……?
いや、いや、それ以前に――すべて、計算していたっていうの?
自分の攻撃が壁のどの部分を破壊するか――それだけならともかく、落下した瓦礫がどの方向にどの程度、風を起こすかまで?
「……ッ怪物めっ……!!」
サラが毒づく間に、トゥーラはさらに鉄扇を振るった。
天井の一部が崩落し、わたしとサラの間に大きな瓦礫が落ちる。
サラは後ろに飛びずさって回避し、その隙にトゥーラがわたしの前に立った。
わたしがその顔を見上げると、彼女は優しく微笑む。
そして膝をついて目線を合わせ、そっと、わたしの肩に手を置くのだ……。
「許せよ、ラケル」
「……え……?」
「ウチのバカ娘に話をしてな、おぬしの話を検証させた。やはり儂だけでは半信半疑じゃったんでな。ありえない話ではないと、あやつは保証しおったよ」
そうか――ティーナの【夢幻の旅路】。
あの力を使えば、短時間でもわたしの話の真偽を考えることができる……。
「その上で、儂は決めた。儂は選んだ。おぬしに任せよう、とな」
「……わたしに……任せる……?」
それ、って……。
わたしの頭に徐々に理解が広がるにつれ、トゥーラの顔は優しい微笑へと変わった。
「なっ……何を馬鹿なことを言っているんですかっ!!」
瓦礫の向こうでサラががなり立てる。
「それがどういう意味か、あなた、わかっているんですかっ!? なくなるんですよ、全部! この50年、あなたが築き上げたもの、勝ち取ったもの、すべてっ!!」
「なくなりはせんよ。すべては今、ここにある。この50年、儂が繰り返した選択が紡ぎ上げたもののすべてが。過去が変わろうが未来がなくなろうが、すべては、今、この刹那に充実しておるのじゃ。
――だからラケル、怖れるな」
「……え……?」
わたしの肩を掴むトゥーラの手に、強い力が籠もった。
ぎゅっと、ぎゅっと。
何かを伝えるように。
「得ることを怖れるな。求めることを怖れるな。未来など、手には掴めなくて当たり前じゃ。人間には常に今しかない。だから、ありえた未来を自分のために変えることを、決して怖れるな」
……人間には、今しかない。
充実した刹那。
未来に辿り着くのではなく……それを、掴み取るために。
「これが儂からの、最後にして最初の教えじゃ」
トゥーラは。
わたしの師匠は。
きっと、わたしにとって一番大切なことを、一番の大声で叫ぶ。
「自分の幸せを探し出せ、ラケル!! これだけは、何があっても忘れるな―――ッ!!!」
わたしの、幸せ。
ジャックの、ではなく。
みんなの、でもなく。
――わたしの。
――わたしだけの。
「…………いい、の…………?」
震えた涙声で、わたしは子供のように尋ねた。
「本当に……いい、の……?」
「よい。それは、誰もがやっておることなのじゃから。……ましてや、」
――――女ならば。
トゥーラが笑いながらそう言った瞬間、わたしの心は決まった。
肩を掴んだトゥーラの手に自分のそれを乗せ、強く握り、…………そして、笑う。
別れの微笑だった。
感謝の微笑だった。
それに、もうひとつ―――
わたしは、立ち上がる。
前に落ちた瓦礫が、細切れになって崩れた。
その向こうから姿を見せたサラは、わたしの目を見て、愕然と目を見開いた。
「……まさか……」
大混乱に陥った礼拝堂の中で、不思議とか細い呟きがはっきりと耳につく。
「……まさか……あなた……まさかっっ……!!!」
「わたし、探しに行くことにした」
それは、一方的な宣言だった。
言葉少なで、普通なら通じるはずもない。
それでも、数百年をわたしと戦った彼女は、いやいやをするように首を振った。
「やめろ……やめろッ、それだけは!!」
「わたしはいつか、必ず答えを見つける。わたしの幸せがなんなのか、その答えを」
「おかしい……おかしい、そんなのおかしいッ!! このわたしが! このわたしが妥協したんだ!! だったら、あなたも妥協しなくちゃおかしいでしょう……!! ここが落とし所だって、諦めなきゃおかしいでしょう!? なのに、なのにどうしてっ―――!!!」
「それも含めて、わたしは探すの」
わたしは、ちゃんとわかっている。
こんなことをしたらどうなるか、老師に何度も何度も聞かされた。
それでも、行くのだ。
いつか、答えが見つけられると信じて。
今のわたしには答えられなかったことに、いつかのわたしが答えてくれると信じて。
「―――いつか必ず、ここに戻ってくる」
だから、わたしは確然と宣言した。
「そして、あなたに、あなたたちに突きつける。何を見せられたって揺らがない、わたしが戦う理由を。だから、それまで―――」
最後に、彼の顔を見た。
呆気に取られたようだった彼の顔は、最後に少しだけ、驚きと困惑以外の表情を見せて、
「―――少しだけ、待っててね」
「やめろぉおぉおおおおぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!!!」
そして、わたしの魂はその時間を離れた。
いつか、同じ時と場所に帰ってくるために――――
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目指すは、遙か彼方。
彼女が手を入れた時間のさらに向こう。
辿れる限りの因果を辿り。
戻れる限りの時間を戻る。
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やがて、見えてくるのはとある森。
ああ、そうだったんだ。
ピースが嵌まった心地がした。
わたしはずっと、探していたんだ。
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今回もまた、失敗だった。
求めた答えは得られなかった。
だからお願い、今度のわたし。
次こそ見つけて。わたしの答えを。
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終着点に到着する。
いいや、ここが出発点だ。
……そして、"わたし"はさようなら。
けれど、いなくなるわけじゃない。
いつかわたしは、探し出すから。
1秒1秒、すべてを使って。
なかったことになんてしないまま。
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かくして、100年の時を越えた。
わたしの魂は、遙か昔のわたしに戻る。
けれど、100年という時は、因果は、あまりにも遠すぎた。
積み上げた記憶は、人の身が一度に受け入れるには膨大すぎた。
だから、ひどい頭痛がしたのだ。
―――こうして"わたし"は、最後に自分の謎を解き明かした。




