第Ω話 デッドエンド・ポイント - Part4
【サラ皇太子ご結婚、知られざる運命の恋】
神聖フィアーマ帝国皇太子サラ・フィアーマ殿下のご婚約が先頃発表された。
お相手は帝属ラエス王国ダイムクルド州知事カラム・リーバー氏のご長男ジャック・リーバーさん(18)。
お二人は母方のいとこ同士に当たり、幼い頃より兄妹のように育った幼馴染みの間柄であったと言う。
果たして、そんな二人がいかにして愛し合い、夫婦となることになったのか。世界で最も高貴な夫婦となる二人の知られざる恋を追う。
お二人が出会ったのは、わずか7歳の頃のことだった。
帝国最高の教育機関である帝立クリーズ学園の入学テストのため、ジャックさんが帝都を訪れたときのことだ。
彼は初めての都会で、何者かに追われる一人の少女に出会う。
それがサラ殿下だった。
当時のサラ殿下には護衛を撒いて一人で城下を出歩く習慣があり、何者かというのも暴漢の類ではなく憲兵だった。
もちろんジャックさんは知る由もない。偶然出会った女の子が皇太子殿下であり自分のいとこであることなど知らないままに、彼女の手を引いて見知らぬ街の中を逃げ回り、訓練された憲兵たちを翻弄したのだ。
このときのことは多くの人々に記憶されている。城下町で20年パン屋を営むAさん(仮名)は目を細めながら当時の記憶を語った。
「表がやけに騒がしいなあ、と思って外に出てみたらね、目の前に紙幣が飛んできたんです。わけもわからず受け止めたら、目の前を男の子と女の子がびゅんっと横切って、店先のパンを二つ持っていった。お釣りはいりません、ってきっちり言いながらね。そう、その二人が、殿下とジャックさんだったんです」
憲兵に追われる身でありながら余裕綽々だ。幼いジャックさんの不敵さが印象的なエピソードだが、この話には続きがある。
「次の日にね、手紙が届いたんです。ええ、その二人から。内容は『ご馳走様でした。おいしかったです』ってそれだけ。そのときに、子供の片方が皇太子殿下だったことに気付いたんです」
通りすがりのパン屋にさえ礼を失しない律儀さ。およそ子供離れしたお二人の振る舞いは、以後も多くの場面で人々に印象を残した。
例えば、こんなエピソードがある。
帝立クリーズ学園の特別教育クラスでご同輩となられたお二人は、多くのご学友に恵まれた。その一人は帝属ラエス王国第三王子(当時)エルヴィス=クンツ・ウィンザー氏だ。
今より7年前、当時11歳のエルヴィス王子は苦境に立たされた。帝属ラエス王国王太子(当時)エドワーズ・ウィンザーが主導したラエス独立紛争により、彼は突然に故国に見捨てられたのだ。
天才王子として幼い頃より名声を欲しいままにしていたエルヴィス王子だったが、王室内での立場は弱いものだった。ゆえにエドワーズ王太子は、実の弟が帝立学園に通っているにもかかわらず、帝国への謀反を断行したのである。
最終的には、エルヴィス王子が実兄を自ら討ち果たし、下克上を達成したが、その裏にはサラ殿下とジャックさんの協力があった。
エドワーズ元王太子の謀反と時を同じくして、多くの帝国貴族や豪商たちの不正が暴かれていたのをご存じだろうか。
そのうちのひとつは読者諸賢の記憶にも新しいに違いない。元老院議員ラヴィニア・フィッツヘルベルト伯爵(当時)の人身売買事件である。
このニュースは全帝国民に大きなショックを与えた。現職の元老院議員が非合法な組織から身寄りのない子供を買い上げ、あろうことか四肢を切断した上で私邸の中で“飼って”いたのだ。
この事件を暴いたのが、何を隠そうサラ殿下とジャックさんだった。
フィッツヘルベルト元伯爵の非道を暴き、彼女とエドワーズ王太子との間にあった政治的関係を明らかにすることで、エルヴィス王子に故国を取り戻すための大義を用意したのである。
お二人は追いつめられたご学友を救うため、フィッツヘルベルト元伯爵の私邸に自ら忍び込むことも辞さなかった。
その溢れんばかりの勇気と、ご学友への篤い友情は、帝国に住まうすべての民が見本とすべき理想の姿に他ならない。
サラ殿下は、出会ったその日に、ジャックさんと結ばれるであろうことを確信したと言う。
その日から実に11年。その確信は、見事現実となった。
プロポーズの言葉は明かされていない。サラ殿下は恥ずかしそうにはにかみながら、「それはわたしと彼だけの秘密なので」と答えた。その表情には確かに、皇太子としてではなく、一人の少女としての幸福があった。
皇太子殿下に栄光あれ。
未来の皇配殿下に栄光あれ。
神聖フィアーマ帝国万歳!
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
辺りでばら撒かれていた新聞の号外を読んでいたわたしの手に、力がこもる。
ぐしゃり。
と、薄い紙が潰れ。
喉が震えるようにか細く鳴った。
「…………何、これ…………」
くしゃくしゃになった新聞に綴られた、この世界の歴史……。
この世界で歩んできた……彼の、もうひとつの人生。
その中に、要石のごとく鎮座しているひとつの名前。
サラ・フィアーマ。
――誰だ。
――お前は、どこの誰だ。
ジャックの幼馴染みで……婚約者で……7歳の頃に出会って……?
……それは、フィルの居場所でしょ……?
あの子が立つべきだったはずでしょう……!?
それを。
我が物顔で!
どこの誰が、占拠している―――ッ!?
「…………ぁあ。あ゛あ゛あ゛…………っ!!!!」
「おい、ラケル……?」
気づかわしげに声をかけてくるトゥーラには答えず、わたしはぐしゃぐしゃにした新聞で顔を覆う。
……匂う。匂ってくる。
証拠なんていらない。
推理なんていらない。
サラ・フィアーマ。
この名前から、その行動から、むせ返るほどに匂い立ってくる……!!
そんなに憎いか。
そんなに妬ましいか、フィルのことが!
彼女の居場所を、丸ごと奪い取ってまで……!!
そのためだけに、世界を丸ごと書き換えてまで……っ!!
少しでも、安らぎを感じたわたしがバカだった。
これは攻撃だ。
これは敵対だ。
今までで最大級の――そして、最も明け透けに彼女の敵意を反映した……!!
「…………あの女は、どこ」
新聞の隙間から目だけを覗かせながら、わたしは低い声でトゥーラに尋ねた。
「サラ・フィアーマは、どこに行ったの」
トゥーラの瞳に、怪訝げな輝きが宿る。
「……おぬし……それを知って、一体どうす――」
「教えて」
トゥーラは困ったように眉根を寄せる。
彼女には、今のわたしの気持ちはわからないだろう。
説明は掻い摘んだものだったし、ジャックの傍にいたあの少女が何をしたのかなんて、想像も及ばないに違いない。
彼女のことは――ジャック・リーバーの本当の婚約者であるフィリーネ・ポスフォードのことは、今や、世界でわたし一人しか知らないのだ。
それでも、わたしの怒りは伝わった。
何百年という人生で一番の憤怒が、きっと伝わった。
だからトゥーラは、諦めたように溜め息をついて、目抜き通りの彼方に視線を向ける。
「……あそこに、デカい城が見えるじゃろう。あれの傍に、これまたデカい礼拝堂がある。パレードの後は、そこで式を挙げる手筈じゃ―――」
「ありがとう」
わたしは新聞を投げ捨てた。
最初に目覚めた宿屋の窓からも見えた、白亜の巨城。
あの近くに、彼女がいる。
これ以上なくフィルを侮辱した、あの女が。
わたしは石畳を飛び立った。
自分の重さを消して、白亜の城を目指して虚空を蹴ったそのとき、地上から小さな呟きが聞こえた気がした。
「…………やはり、選ばねばならんか…………」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
最初、遠目に見たときには壮麗だと感じた白亜の城は、近付くにつれて、その趣を変えていった。
わたしの心境が変わったからか。……それとも、元からそういう風に作られているのか。
その城は大樹のような威圧感をもって、街の中心に君臨していた。
戦略的には、明らかに過剰。
これほどの大きさの城を構えるに足る実利なんて、ひとつも想像できない。
城主の威光を知らしめるため、という象徴的な意味合いを除いては。
実際、天高く伸びたいくつもの尖塔は、街のどこからでも見ることができた。鳥が飛ぶ高さよりも高くに屋根があるこの街の、どこからでも。
その推測を裏付けるかのように、件の礼拝堂は城に半ば取り込まれた形で隣接していた。
てっぺんには大きく立派な鐘楼。
あれが鳴ったときには、その音色は街の隅々にまで行き渡るだろう。
パレードで見た山車が門の前に停まっていた。
青々とした芝に覆われた前庭に、多くの儀仗兵と警備兵がひしめいている。
もう、二人は礼拝堂の中に入ってしまったのか。
そこで、あの女はジャックと誓いを果たす。
フィルがするはずだった誓いを、よりにもよってあの女が!
溶岩のような怒りが、胸の奥で煮えたぎった。
こんなにも激しい怒りを感じたのは、一体いつぶりのことだろう。
もしかすると、覚えている限りで初めてかもしれない。
許せるはずがない。
許せるはずがなかった。
何が皇太子だ。
何が神聖フィアーマ帝国だ!
こんな大仰な世界を用意しなければ、11歳の女の子とも戦えない臆病者!!
どこの誰が認めるものか! お前みたいな女がその場所に立つことを!!!
怒りに衝き動かされるまま、わたしは空から礼拝堂の前庭に急降下する。
着地の前に、兵の何人かがわたしに気付いた。
だが、彼らが鉄砲を構えるよりも、わたしが地面に足を着けるほうが早かった。
嵐のような風圧が轟然と渦巻く。
儀仗兵と警備兵が一緒くたに、悲鳴を上げながら舞い上がり、鎧の重々しい落下音を幾重にも響かせた。
わたしは歩く。
自らの鎧の重さに呻く兵たちは、視界にすら入らない。
礼拝堂の入口に続く石畳を、一歩一歩、踏みつけるように歩く。
「な、何者だっ……!?」
「応援だ、応援を呼べッ!!」
兵士が槍を構えて威嚇した。
わたしはその向こう側を見た。
観音開きの木の扉。
あの奥だ―――!!
「ああああッ―――!!!」
「うおぉあああああっ!!!」
邪魔なものを押しのけて、わたしは扉の前に立つ。
重厚な佇まいの扉。
表面には何を意味しているのか、壁画めいた紋様が彫られている。
その彫りに指を沿わせるように、そっと手を触れた。
そのとき――ぴくりと、指が震える。
――この扉の向こうに、彼と彼女がいる。
そう思うと、なぜか――まるで怯えるかのように、身体が強張るのだ。
……何を……何を、怯えることがある。
わたしはすでに、彼女を一度、打ち負かしているのだ。
怖がることなんてない。
この扉を、開けるために。
わたしはここまで、やってきたんだろう―――!!
高さ4メートルほどもある大扉が、轟音と共に弾け飛んだ。
粉塵の中、木片がぱらぱらと落ちる音が耳朶を打つ。
わたしは一歩、足を踏み入れた。
粉塵を掻き破るようにして、二歩、三歩、四歩。
五歩目で、粉塵が晴れる。
長く、道が伸びていた。
幾列にも並んだ長椅子の真ん中を、すっとまっすぐに。
ヴァージンロード。
フィルが歩くはずだった道の、その果てに。
二人がいる。
彼女がいる。
純白の婚礼衣装に身を包んだ男女が、驚愕の表情でこちらを振り向いていた。
その片方。
顔に薄いヴェールをかけ、純白のウェディングドレスをまとった少女を、わたしは睨みつける。
栗色の、フィルに似た髪の少女は。
サラ・フィアーマは。
――少女Xは。
ジャックの隣に立って、薄い笑みを浮かべた。




