第Ω話 デッドエンド・ポイント - Part3
「……おっと。そろそろ時間じゃな」
涙も枯れ果てた頃、トゥーラが自分の手首を見て思い出したようにそう言った。
よく見ると、彼女の細い手首には腕輪のようなものがある。
さらによく見ると、それは腕輪じゃなくて、腕輪型の時計だった。
こんなに小さな時計が……?
この世界の技術は、私が知っている世界より何百年分も、文明が進んでいるようだった……。
「そろそろ待ち合わせの時間じゃった。……とりあえず行こうぞ、ラケル。悲嘆に暮れるのは後でもよかろう」
「え……? 待ち合わせ……?」
「おぬしを、儂の家族に紹介しようと思っての。……ああ。おぬしは会ったことがあるんじゃったか?」
……トゥーラの、家族?
そう聞いてわたしの頭の中に浮かんだのは、二つの顔だった。
「……まさか……!」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
公園の水道で顔を洗ってから(水がこんなに簡単に使えるなんて)、わたしとトゥーラは街路を歩いた。
お祭りの喧噪から遠ざかるように細い路地に入っていく。
すると、路地沿いにひっそりと、人目を忍ぶようにしてカフェテラスがあった。
丸いテーブルのひとつに見覚えのある姿が二つある。
そのうち、執事めいた雰囲気の年老いた男性のほうが、わたしたちに気付いて軽く手を挙げた。
「待っていたよ、トゥーラ。首尾良く合流できたようだね」
「おうとも。まーったくなーんのトラブルもありゃせんかったぞ?」
「うん。無事なら何よりだ」
穏やかに微笑む老年の男性の名を、わたしは知っている。
クライヴ・クリーズ。
トゥーラの旦那さんだ。
わたしの知る歴史では、7年前、トゥーラと一緒に命を落とした……。
そして、もう一人。
クライヴさんの差し向かいに座って紅茶を飲んでいる、銀髪の少女は――
「――ふーん?」
カチャリとカップをソーサーに置くと、少女はわたしの顔をじろじろと見上げた。
「これが噂に聞いた、ババアの一番弟子かよ――全然似てねぇな。特に胸が」
無駄に自信ありげな不敵な笑みが、幼げな唇に滲む。
ああ……ああ。
この世界には……彼女もいるのか。
この世界では……彼女は、解脱しなかったのか――
「…………ティー、ナ…………」
「あん?」
思わず唇から零れた声を聞き咎めて、ティーナ・クリーズは眉をひそめた。
「なんだ? あんた、その目――まるで、アタシに会ったことがあるみてぇな」
「え、あ、その……」
さすがティーナ、鋭い……!
しどろもどろになるわたしを、ティーナは矯めつ眇めつ観察する。
「うん? うう~ん? 気のせいじゃねぇな。アタシのほうにはあんたと会った記憶はねぇ。としたら、考えうる仮説は――」
「これ。その辺にしておけバカ娘」
「いでっ!」
ぶつぶつ呟きながらわたしに詰め寄ろうとしたティーナに、トゥーラがデコピンを見舞った。
「ってぇなクソババア! アタシの貴重な脳細胞が死んじまうだろ!」
「死ぬに任せい。礼儀のれの字も理解できん脳細胞など。初対面の人間をしげしげ観察するなとあれほど言うておろうが。どれだけ不躾じゃ」
「チッ。っせぇな。アタシの勝手だろうが」
「おぬし、いったい何十年反抗期を続ける気じゃ?」
「てめぇがくたばるまでだよクソババア!」
「口の聞き方に気をつけろクソ娘」
「いでっ!」
またティーナがデコピンされて、クライヴさんがくっくと忍び笑いを漏らした。
それから、わたしのほうに軽く頭を下げる。
「申し訳ない。ラケルさん……でしたかな。のっけからお恥ずかしいところを見せてしまった」
「い、いえ……その……想像はしていたので」
きっとこんな風なんだろう、と思っていた。
ティーナの口振りには、母親への反感みたいなものが、ずっと滲んでいたから……きっと現世にいた頃は、こんな親子だったんだろうと……思っていた。
でも……まさか、それを。
この目で、見る日が来るなんて…………。
「申し遅れました。僕はクライヴ。クライヴ・クリーズ。トゥーラの夫です。あなたのことは、家内から何度も聞かされました、ラケルさん」
差し出された手を反射的に握って、わたしは名乗り返した。
こうしてクライヴさんと握手をして名前を名乗るのは、学院の教師になったとき以来、2回目のことだった。
トゥーラの顔がくすぐったいのを堪えるような、むずむずとしたそれになる。
「おい、クライヴ……。家内とか言うな。恥ずかしいじゃろうが」
「ずいぶんと今更だな。もう半世紀近く前から、君は僕の家内じゃないか」
「そうなんじゃが、ラケルの前でそう言われると、何ともむずがゆくての……」
もじもじするトゥーラと、穏やかに微笑むクライヴさんを見るのも、だから2回目だった。
ただひとつ、「うわ、きっも。いくつだよこのババア」と悪態をつくティーナだけが、初めて見るものだ。
「いいからおぬしも自己紹介せよ。そろそろグーで行くぞ」
「暴力教師……。なんで懲戒免職されなかったんだ、あんた」
ぶつくさ言いながら、ティーナはわたしに向き直る。
その服装は、いつか広大な本棚の空間で見た民族衣装ではない。
胸元に可愛らしいフリルのついたブラウスに、蛇腹に折れ曲がった短いスカートを合わせた、女の子らしい格好だ。
その上に、フードのついた薄青い上着を羽織っている。
「ティーナ・クリーズだぜ。お互い、このババアには苦労させられたな、姉ちゃん?」
視界の端でトゥーラは口を尖らせる。
胸に押し寄せる感情の波を、どうにか喉の下に留めながら……わたしは、ティーナと握手を交わした。
「……ラケル、です。トゥーラには、わたしも苦労させられた。生活能力ゼロ――いや、マイナスだし」
「それな。ほんとそれ」
「おぬしも使用人任せじゃろうが!」
ひひひ、とティーナは密やかに笑う。
それに釣られるように――わたしもまた、口元をわずかに緩ませた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
クリーズ一家に連れられて、わたしは大通りに出た。
差し渡し20メートル以上もある大きな道だ。
どうやらここがこの街――バアリアの目抜き通りらしい。
先頃見た街路では、道の中央を鉄の車が行き交っていたけれど、今はその部分は、ルビーが着ていたのと似た制服を着た憲兵たちによって封鎖されていた。
何か通るのだろうか。
多くの町人が足を止めて通りの脇に人垣を作り、お城があるのとは反対の方向を覗き込むようにしていた。
「ったく、こういうお祭り騒ぎは性に合わねぇってのに」
「たまにはよかろう、寝ぼすけ娘め。夢の中で非実在美少年と乳繰り合っておるよりは健康的じゃ」
「んなことしてねぇっての! たまにしか!」
「たまにはしてるんだ……」
夢想現実での訓練、および調査のとき、妙に勧めてくるからもしかしてとは思ったけど。
わたしは人垣の向こうを覗き込むように、軽く背伸びをする。
「……ずっと、気になってたんだけど。これって、何のお祭りなの?」
「ああん? 知らねぇで来たのかよ?」
「ああ……そういえば説明しておらなんだか」
「今日は皇女殿下の結婚式なのだよ、ラケルさん」
クライヴさんが穏やかな声で言った。
「この国の帝室は大変な人気があってね。皇子や皇女の結婚の際は、国を挙げて祝うのが習わしなんだ」
「その中でも、次代の女帝――つまり皇太子に当たるサラは格別の人気者でのう。幼い頃からの恋が実っての結婚というのもあって、ご覧の有様というわけじゃ」
「ハン。アタシは気に食わねぇけどな。あの聖女サマのこたぁ」
「よせバカ娘。サラのファンに絡まれたいのか?」
「知らねぇよ。誰を好こうが嫌おうが人の勝手だ」
ティーナはふんと鼻を鳴らし、トゥーラはやれやれとばかりに嘆息した。
傍目には姉妹――いや、双子のように似ている二人だけど、やり取りを見ていると、やっぱり親子なんだなあ、と思う。
そんな二人を嬉しそうに目を細めながら見守っているクライヴさんは、やっぱり父親や夫というよりは、孫娘に囲まれたお爺さんっぽく見えた。
……その光景に。
これ以上なく平和な……本来、こうあるべきはずだった光景に。
じんわりと暖かいものが、胸の中に広がるものを感じる……。
ティーナは、母親とはほとんど会話をしなかったと言った。
だけど、今ここにいる二人は、どこにでもいる親子のように話していて……。
わたしは、それを、こんなにも近くで眺めることができていて……。
一瞬、幻覚を疑った。
かつて閉じ込められたような幻覚に、また囚われているのではないかと疑った。
しかし、これは現実なのだ。
わたしが知るそれとは別の道を辿った、有り得たはずの現代。
……違う。
有り得たはず、じゃない。
あるのだ。
この世界は、まったき現実として、今ここに存在するのだ。
「実は、皇太子――サラは儂の教え子の一人での」
トゥーラに水を向けられて、わたしは物思いを打ち切った。
「もう引退してしもうたんじゃが、学園で教鞭を執っておった頃に担任をしておったクラスの卒業生じゃ。こやつともその繋がりで交友があってのう。ついぞウマは合わなんだが」
「学園……」
そういえば、ルビーもその言葉を口にしていた。
学院じゃなくて、学園。
「身分の別なく優秀な子供を育てるために、儂が建てた学校じゃ。邪神戦争が終わった後、おぬしの面倒を見ていた頃のことを思い出してのう――サラも含めて厄介なガキばかりで、手を焼かされたもんじゃ」
トゥーラの懐かしむような口振りに、わたしはドキリとした。
厄介な子供たち。
トゥーラが担任。
ルビーのことも教え子だと言っていた――
「今回は儂の教え子同士の結婚でな。夜の披露宴には招待されておるから、この機会におぬしを紹介するのもよいかと思ったんじゃ。上手い具合に行方が知れたのもあっての――ん? ラケル、どうした?」
「……トゥーラ……もしかして、あなたの教え子の中に―――」
わあっという歓声が、わたしの問いを掻き消した。
驚いて振り返ると、石畳の街路の向こうから、整然と並んだ楽隊が行進してくるところだった。
楽隊の後ろには、長い銃を空に向けて携えた憲兵の列。
そして、それらに守られるようにして、大きな山車がゆっくりと進んでいる。
山車の上にひと組の少年少女が座り、集まった民衆に手を振っていた。
「おお、ようやく来おったな。あれじゃ、あれ。山車の上におる二人」
どこか自慢げな調子で、トゥーラが山車の上の二人を指差す。
婚礼用の白い衣装をまとった二人が、どんどんと近付いてくる。
わたしたちの前を通りかかり、その顔までが見て取れるようになって――わたしは、息を詰まらせた。
「見えるか? あの栗色の長髪のほうがサラ・フィアーマじゃ」
彫刻めいて整った造作の少女が、気品のある笑みを浮かべて人々に愛想を振りまいている。
その――隣に。
「で、隣にいる黒髪の男が――――」
少しばかり居心地悪げに、けれど幸せそうに頬を緩ませるその少年を、わたしは知っていた。
知らないわけがなかった。
ただ、彼のためだけに。
わたしは、何百年という戦いを続けてきたのだから。
「――――ジャック・リーバー。サラと結婚し、将来、この国の皇配になる男じゃ」




