第Ω話 デッドエンド・ポイント - Part1
「……神聖……フィアーマ……帝国……?」
そんな国は――知らない。
世界のどこにもありはしない。
この帽子の男が、嘘をついている?
……いや、そんな雰囲気じゃなかった。
敷居の外に立つ制服の男は、訝しげな顔でわたしを見ていた。
彼の言葉を訝しむわたしのほうこそが奇妙だというように。
それじゃあ……まさか、異世界に飛ばされたとでも……?
でも、ティーナは言っていた。
世界間を移動できるのは魂だけだって――
「お客様? お顔が真っ青でございます。お身体の具合が――」
帽子の男を放置して、わたしは部屋の中に駆け戻った。
姿見がある。
それに自分の姿を映した。
瞬間――目覚めてから初めて、安堵する。
服が変わっていた。
いつも着ていた、飾り気のない薄汚れたローブではなくなっている。
清潔で綺麗で、生地も上等な、まるでパーティーに着ていくような服。
わたしがわざわざこんな服を着ているのには違和感があるけれど、しかしその顔は、身体は、わたしの知るわたしのものだった。
……世界と世界を渡れるのは魂だけ。
ここが異世界だとしたら、わたしの身体は別人のそれになっているはずだ。
つまり、ここは異世界ではない。
正真正銘……わたしが生まれ育ち、ジャックたちと出会った……あの世界なのだ。
「何が……どうなって……?」
悪夢の中に正気のまま放り出されたような混乱が、頭の中をぐるぐる回る……。
どうにかそれから逃れたくて、わたしは部屋の中を調べた。
わたしのものらしき荷物がある。
紐解いてみれば、収納の仕方はまさしく自分のそれだ。
けれど……中身は、完全に別。
着替えや保存食などはともかくとして……その他に、使い方もわからないものが続々と出てくる。
なんで、わたしはここにいるの?
自分自身の足跡が掴めなかった。
どういう経緯があって、どういう目的があって、わたしはこの宿に泊まっているの?
わたしは焦燥に突き動かされるまま、入口に駆け戻った。
「あの!」
「は、はい?」
その場で待ってくれていた帽子の男――さっきわたしのことを『お客様』って言っていたから、この宿の従業員か――は、当惑して目を瞬く。
「わたしは……自分で、この部屋に? 一人だけで?」
「え、ええ……。お一人でした。古いお知り合いに会いに来たと。チェックインの際にご署名もいただいたはずですが……」
「見せて!」
よほど訓練されているのか、従業員は戸惑いながらもわたしを案内してくれた。
階段をいくつも下り、1階へ。
すごく大きくて、豪華な宿だ。
1階――エントランスだろう空間は、まるでお城のような荘厳さ……。
何メートルもある高い天井に、シャンデリアまで吊り下がっている。
どうして流れの旅人のわたしが、こんなところに泊まれたのか……。
従業員はフロントの中に引っ込むと、しばらくして、紙の束を持ってきた。
「こちらです」
紙の束には別々の筆跡で記された名前が並んでいる。
チェックイン・リスト。
その中に、確かに『ラケル』と署名があった。
筆跡もわたしのものだ……。
文字はラエス王国で使われているのと同じもの。
わたしは、確かに自分の意思でこの宿に泊まったらしい。
なのに、それをまったく覚えていない。
……まるで、いきなり他人の身体に入ってしまったかのようだ……。
「こちら、あと5分でチェックアウトになっておりますが……」
「……ええ。ごめんなさい……。すぐに、支度する」
いずれにしても……これ以上、ここにいるのは、あまりにも気持ちが悪かった。
わたしは部屋に戻って目につく限りの荷物を集めると、ホテル・グランドセンズを後にした……。
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「皇女殿下、万歳っ!!」
「フィアーマ帝国に栄光あれー!!」
街に出たわたしは、その雰囲気に圧倒された。
こんなに活気づいた街を、わたしは見たことがない。
ラエス王国の王都レイナーディアも、ロウ王国の王都ブレイディアも、センリ王国の首都イルネシアも、これほどの人と喧噪に包まれていたことはない。
丁寧に舗装された石畳の通りのそこここで、赤ら顔の人々が歌ったり踊ったり、無礼講とばかりに騒いでいる。
何か、祝い事の日のように見えた。
出店らしき屋台があちこちに建ち並び、人々は昼間から酒をかっくらっている。
これは祭りに特有の空気だった。
この活気は、お祭りの日だからと納得することもできる。
けれど、それより奇妙なものがあった。
ひっきりなしに往来を走る鉄の塊だ。
宿の窓からも少し見えたそれ。
小さな煙突から黒い煙を吐き、ブンウウン、と獣めいて唸りながら行き交う車。
一体どういう仕組みなのか……馬が牽いているわけでもないのに、ひとりでに車輪が回っている。
ダイムクルドの銃を初めて見たときのような異質さを感じた。
こんなにも変なのに、わたし以外の誰もが、違和感を持っているようには見えない。
耐えがたい心細さが、わたしの胸の奥を掴んだ。
まるで空想の絵画の世界に迷い込んでしまったかのようだ……。
誰か……誰か、教えてほしい。
ここはどこなの?
わたしはどうなったの?
誰でもいいから、わたしに教えてほしい……。
「―――動くな」
人混みの中を歩いていると、硬い声がすぐ後ろからした。
背中に、何か硬く冷たいものが突きつけられる。
なに……? 追い剥ぎ?
「通報があった。あんただな。おかしな言動の旅人ってのは」
「通、報……?」
「ご同行願うぜ。もし朝から酒を飲み過ぎただけだったんなら、運が悪かったと思え」
……あの宿の従業員?
わたしの様子がおかしかったから、憲兵か何かに通報したってこと……?
「あまり暴れてくれんなよ? こんな街中で捕り物騒ぎになんざなったら、周りがさらに盛り上がっちまうじゃねーか」
くく、と押し殺したように笑う、その声に。
首筋が、ざわっ、と粟立った。
この声。
この声、って……!
「……ルビー……?」
「あ?」
「ルビー・バーグソン……?」
恐る恐る、背後に首を捻る……。
そこに、猫の耳が見えた。
不審げに目を眇める、見慣れた顔があった。
「あんた……なんであたしの名前、知ってんだ?」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「ルビー!」
「うわっと!?」
振り返りながらルビーの肩を掴むと、彼女は目を白黒させる。
彼女は見慣れない服を着ていた。
紺色の軍服めいた、いかにも彼女が嫌いそうな鯱張った制服だ。
「ルビー……? ルビーよね? 本物の……?」
「はあ!? なに言ってんだ、てめえ! とりあえず離せ! 撃つぞコラ!」
不意にルビーがわたしの目の前に突きつけたのは、黒光りする銃口だった。
銃。
わたしは反射的に仰け反って、ルビーの肩から手を離す。
「……通報通りだな。頭のおかしな女だ……。しかもエルフかよ。ったく、あの二人の結婚がそんなに物珍しいか?」
「……ルビー……?」
彼女は本当にルビーなのか。
それとも、少女X……?
いや、そのいずれにしても、おかしかった。
わたしを見る彼女の目は、まるで見ず知らずの人間に対するもので……。
「わたしを……わたしを覚えてないの、ルビー?」
「いま覚えたよ。頭のおかしい女エルフがいたってな」
「わたし! ラケル! 学院で教師をしてた……!」
「はあ? 学院?」
銃口を突きつけたまま、ルビーは怪訝げに眉根にしわを寄せる。
「学園のことか? ……いたかな、あんたみたいな教師……」
「……え……」
学、園……?
学園って、なに……?
学院でしょう?
精霊術学院でしょう?
わたしたちが、ジャックたちが、みんな出会った……場所、でしょう……?
「……チッ。野次馬が集まり始めた」
いつしか人混みが避けて、わたしたちを遠巻きにしていた。
「いいからさっさと来い、イカレエルフ! あたしも今日は忙しいんだ! 手間取らせんな!」
「ちょ、ちょっと待って……! ねえルビー! 本当に―――」
「―――ちょぉーっと待てーい!」
甲高い声が、喧噪の向こうからわたしたちの間に差し挟まれた。
わたしは、ルビーは、一斉に振り返る。
遠巻きにする人垣の中から、一人の少女がまろび出て、「ふいー」と息をついた。
わたしは……目を見張る。
陽光を受けて清冽に輝く、長く伸びた銀髪……。
12歳程度に見える幼い容貌……。
わたしは、知っている。
彼女のことを、知っている。
銀髪の少女は視線が集まる中、平然とてくてく近付いてきて、ルビーに軽く手を挙げた。
「また会ったのう、我が不肖の教え子よ。元気でやっとるようじゃな」
「んだよ。学園長かよ。『また』って、前に会ったの何年前だっつの。……あんた、何やってんだ? こんなところで」
「古い知人と会う約束があっての」
「古い知人? ……って、おい、まさか……」
「ひひひ! その通り。このイカレエルフのことじゃ」
呆然としたままのわたしの顔を……銀髪の少女が、見上げた。
その笑みを。
何者にも揺るがされることのない、力強いその笑みを。
わたしは――知っている。
「久しいのう、ラケル――我が不肖の一番弟子よ」
トゥーラだった。
トゥーラ・クリーズだった。




