第64話 あなたたちがそこにいる
『――トゥーラ。一人きりで、寂しくないの?』
それは、もう何年前のことか。
主観的な時間感覚はもうぐちゃぐちゃで、昔の思い出は霞がかかったかのよう。
けれど、客観的な時間基準で言うのなら、おおよそ100年前。
わたしがまだ、師匠であるトゥーラ・クリーズと一緒に暮らしていた頃の話。
『こんな森の奥で、ずっと一人で……。結婚とか、したいと思わないの……?』
『ひひひ。まるで母親のようなことを言いよる弟子じゃ』
そう笑うトゥーラは、けれどその実、子供のようにわたしの膝の上に座っていた。
彼女の小柄な身体を緩く抱いて、その温かさを感じている時間が、わたしは好きだった。
『まったく考えたことがないとは言わん。エルフは人生の大半が結婚適齢期じゃし、ほら、年に一度のアレもあるじゃろ?』
『ああ……うん、アレね……』
『そうじゃ。発情期』
『なんのために誤魔化したの……!』
『ひひひひ! ……まあ、じゃから、旦那がおったら楽じゃったかもと思うことはあるが、それ以上に面倒臭いわ。特に子供なんぞできたらと思うと鳥肌が立つ。一人が一番じゃて』
トゥーラはわたしの顔を見上げると、にやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
『そんなことをわざわざ訊く辺り、どうやらおぬしには結婚願望がありそうじゃな』
それは不意打ちだった。
死角から急に脇腹をつつかれたように、わたしは必要以上に動悸を乱れさせた。
『……そんなこと……考えたこともなかった』
『ま、記憶がないんじゃしな。以前のおぬしは男日照りの行き遅れ女子じゃったのかもしれん』
当時のわたしは以前の自分に思いを馳せたものだ。
事実としては、わたしは結婚なんて微塵も考えずに、生まれ育った里を早いうちに出て、【因果の先導】の術者を探し回っていたのだが――
……実は、記憶にはまだ歯抜けがあって、なぜ【因果の先導】を探していたのかはわからないのだけど。
『そうじゃ!』
閃いたという声で叫んで、トゥーラは身体をぐるりと捻ってわたしに顔を近付けた。
『なんなら、いっそ儂と結婚するか、ラケル?』
『えっ……?』
『ひひひ! なかなか悪くない考えじゃな。子供もできんし楽でよい』
『……わたしたち、どっちも家事とか苦手じゃない。手間が二倍に増えるだけ』
『おうおう。フラれてしもうたわ』
トゥーラは小気味よさそうに言うと、小さな頭をわたしの胸の狭間に収めた。
『せっかくこの胸を好き放題できると思ったのにのう』
『……すでにしてるでしょ。お風呂のときとか……』
『ひひひ! 目の前であれだけぶるんぶるんされたら、多少は触りたくなるものよ。赤ん坊に吸わせやすそうでよいのう。あ、その前に旦那に吸わせるのか?』
『……っ! トゥーラ、おじさん臭い……』
『おじさんなんぞ見たこともないくせに。ひひひひ!』
トゥーラは自分の胸をぺたぺた触りながら、
『儂はこの通りじゃから、赤ん坊もどこを吸えばよいやら困ってしまおうて。儂に子育ては無理じゃな』
『……そんなこと、ないと思うけど』
何の記憶もなく、赤ん坊も同然だったわたしの面倒を、こんなにも見てくれているのだから。
彼女には、人を育てる才能がある。
わたしは、それを確信していた。
『もし、儂にガキなんぞできようもんなら……ひひひ。そうじゃなあ、儂のほうがガキに見限られそうじゃ』
『そんなこと……』
『ま、未来のことなんぞ誰にもわからん。もしそうなったら、そのときに考えればよかろう』
トゥーラはわたしの膝の上でくるりと前後を入れ替えると、ばふっとわたしの胸に顔をうずめる。
『腹が減ったのう。ラケル、吸ってよいか?』
『……出ないから』
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
……懐かしい、夢を見た。
泣きたくなるほどに何でもない、暖かな夢……。
「…………?」
ぼんやりとした視界が、見覚えのない天井を映した。
木でも、石でもない。
何でできているかもわからない、のっぺりとした天井。
真っ白かと思いきや、薄いピンクの花柄が描かれている。
「…………どこ……?」
ゆっくりと身を起こすと、ギギ、と音がした。
なんて柔らかいベッド……。
ふかふかで、なのに弾むようで。
たとえお城にだって、こんなベッドはなかなかない。
辺りを見渡す。
白々と明るいのに、光源が見当たらなかった。
燭台もランプもなく……あ。もしかして、あれか。天井にくっついた円盤が、白い光を放っている。
ここは……一体、どこ?
そうっとベッドから足を下ろす。
裸足の足裏が触るのは、一見茶色い木板の床。けれどわたしの知る木板は、こんなにつるつるしていない。
なんだか、不気味だった。
来てはいけない場所に来てしまったかのような感覚。
わたしは……ここにいて、大丈夫なんだろうか?
出入り口らしき扉が、ひとつだけあった。
わたしはベッドから離れて、その扉に近付いた。
扉の取っ手はレバータイプ。何か仕込まれていないか注意深く確認してから、手で握り、下げる。
鍵はかかっていない。
ひとつ息を呑んでから、わたしは扉を奥に押し開けた――
風が吹き抜ける。
髪が大きく引っ張られて、思わず目を細める。
広がった光景に、わたしの脳は固まった。
何も、ない。
廊下どころか、地面すら。
地面どころか、空すらも。
扉の向こうは、果てのない空洞だった。
「あっ……!?」
後ずさろうとした瞬間、強烈な風に引っ張られて、扉の外に吸い出される。
落ちる――!?
そう思って反射的に精霊術を準備したけれど、不必要だった。
何をするまでもなく、わたしの身体はふわふわと宙に浮いていた。
「……………………」
声にならない。
認識が追いつかなくて、思考すら働きをやめる。
それでも、目は今この場所の光景を、強制的に頭の中に叩き込んできた。
果てのない空洞だと思ったそこは、ひたすら巨大な本棚のトンネルだった。
円柱状に並んだ本棚が、どこまでもどこまでも連なっている。
天井もなければ床もなく、ただ壁となる本棚が白んで霞むのみ。
その真ん中に、わたしは埃のように浮かんでいるのだ……。
「――ようこそ、『因果図書館』へ」
混乱さえできず、ただただ思考を停止したわたしの耳朶を、聞き覚えのある声が震わせる。
振り向けば、そこに少女が浮いていた。
王族の装飾品のように煌びやかに輝く銀色の髪を、膝の下までだらしなく伸ばした小柄な少女。
細かい年の頃は、何百年も生きたわたしにはいまいちわからないけれど、今のジャックやエルヴィスたちよりは下に見える。
一瞬、トゥーラかと思った。
その銀髪といい、余裕と自信を窺わせる不敵な笑みといい、見た目も雰囲気も彼女にそっくりだったからだ。
でも、違う。
「改めて自己紹介するぜ。アタシはティーナ・クリーズ――あんたのよく知るトゥーラ・クリーズの、まあ、実の娘だぜ。一応な?」
少女――ティーナは軽く肩を竦めながら、飄々と名乗った。
それに合わせて、長く伸びた袖が緩く揺れる。
彼女は見慣れない格好をしていた。
煌びやかな赤い花が刺繍された一枚の紺色の生地を、大きな帯を巻いて纏めることで無理やり服にしてしまったような……。
袖には妙なくらいに余裕があり、そこだけ見るとドレスっぽくもあるのだけど、不思議と貴婦人が着るようなそれには見えない。
どこかの民族衣装……?
「綺麗だろ?」
長い袖を見せるように腕を持ち上げて、ティーナは言った。
「和服はそっちにゃあなかったからな。ハマってんだよ。特に浴衣はいいぜ。気楽に普段使いできる」
「そっち……? わふく……? ゆかた……?」
「おっと。アタシが聞き覚えのない言葉を使っても、あんまり深追いしねえほうがいい――外の連中にはちゃんとわかってる。それで充分なのさ」
本当に、何を言っているのかわからなかった。
全然別の言葉で喋っているかのようだ……。
「いろいろ説明が必要だろ。ついてこいよ。ここじゃあ話すには不便だ」
ティーナはくるりと背を向ける。
長い銀髪と紺色の袖が、一緒になってふわりと舞って、すごく綺麗だった。
壁を占める本棚に飛んでいく彼女を追って、わたしもまた、宙を泳ぐイメージでそれを追った。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
本棚に出現したドアを抜けると、そこは奇妙な部屋だった。
さっき目を覚ました部屋に、雰囲気が似ている。
木のように見えるのにつるつるした床。
材質のわからない壁。
白い円盤状の光源。
ティーナは勝手知ったる足取りで入っていくと、部屋の真ん中にある、掛け布(?)のようなものがかかったテーブルに足を入れる。
「ふいー」
テーブルに呑み込まれるように肩まで掛け布を被って、ティーナはふにゃりと表情を緩めた。
「ほれ、あんたも入れよ姉ちゃん。あったかいぜー?」
警戒するなというほうが無理な相談だ。こんな掛け布とテーブルが合体したようなもの、見たことがない。
布をぺらりとめくって中を覗いてみたけど、ティーナの裸足がくにくにと指を動かしているだけだった。
真似して、足を入れてみる。
途端、じんわりとした暖かさが足から全身に染みてきて、身体の強ばりが自然とほどけていった。
「……はふぁ……」
「やっぱ冬はこれだよなー。一度知ったらもう手放せねえぜ」
ティーナはテーブルの木の器からオレンジを手に取って、指で皮を剥き始める。
……これ、確かにすごく暖かいけど、すごく眠くなってくる。
眠気を誤魔化すように、わたしは窓の外に視線をやった。
見えるのは、さっきの本棚の空間。
この奇妙なテーブルといい、あの本棚の空間といい、ここは一体、なんなんだろう……?
まるで夢の中の世界だ……。
「ここは『因果図書館』――ってのは、アタシが適当につけた名前なんだが」
オレンジの白い筋を几帳面に取りながら、ティーナは言った。
「人によって見え方は様々だ。海ん中だって奴もいるし、大都会だって奴もいる。空海のおっさんはまだ霊廟の中にいるっつってたな。アタシはでけぇ図書館に見えてっから、アタシが連れてきた姉ちゃんにもそう見えてるってだけだぜ」
「連れて、きた……?」
「ああ。あのクソストーカー女からいったん逃げるためにな」
……クソストーカー女。
ああ、そうだ。
わたしは、彼女――少女Xによって、幻想の世界に囚われていた。
そこから出ていくことを決心したとき、三つの顔を持つ竜騎士に襲われて――そこに、ティーナがやってきたんだ。
「少女X。また安直な名前をつけたもんだよな」
白い筋を取ったオレンジを口に運ぶ。
「少女ってタマかよ、あの女が。精神年齢で言ったら、ババアを大幅に飛び越えてバケモンだろうに」
「あなたは、少女Xのことを知っているの……!?」
「知ってるぜ。どこから来た何者なのか、丸ごとな。だが、残念ながらそれをあんたに教えることはできねぇ」
「……どうして……?」
「因果が繋がらねぇからだ。アタシからそれを教えるのは、因果への過剰干渉になる。今こうして普通に喋ってんのだって、相当な綱渡りなんだぜ?」
因果――その言葉は知っている。
わたしに【因果の先導】を託してくれた老師から教えてもらった概念だ。
掻い摘まんで言えば、時間や空間のさらに上位に横たわる、世界の流れそのもの――
「よお姉ちゃん。アタシについて――ティーナ・クリーズについて、どこまで知ってる?」
もきゅもきゅオレンジを食べながら、ティーナは唐突に訊いてきた。
わたしは思い出し思い出し答える。
「えっと……40年くらい前に生まれたトゥーラの一人娘で……精霊術師として活躍して、九段の称号を取った後、ほとんど姿を見せなくなった……って」
「んじゃ、アタシの術師としての異名は?」
「――『夢幻賢者』。夢見るままにこの世のすべてを知る、唯一の戦闘能力をほぼ持たない九段術師」
これも有名な話だ。
と言っても、精霊術学院に雇われて王都レイナーディアを訪れてから知ったのだけど。
「『賢者』ね。ふふん。ま、そっちじゃあ『探偵』って呼び方にゃあならねぇわな。どっちかといやあそっちのほうが好みだが」
ティーナ・クリーズは精霊序列第3位〈揺蕩う夢のウァサゴ〉の本霊憑きだ。
その精霊術は【夢幻の旅人】。
第3位という超高序列の精霊の割には、その術の評価は決して高くない。
どころか、一般的には何の役にも立たない精霊術だとすら言われていた。
【夢幻の旅人】の効果はたったひとつ。
――『明晰夢を見ることができる』。
明晰夢とは、『これは夢だな』と自覚できている夢のことだ。場合によっては夢の中で自由に行動できたりもすると言う。
それを自由に見られるというのなら、確かにちょっと嬉しいかもしれないけれど、現実には何の影響も及ぼさない。
そう思われていた。
ティーナ・クリーズが現れるまでは。
ティーナは、明晰夢をそれまで誰も思いつかなかった目的に利用したのである。
それこそが、『思考時間の無限拡張』だった。
たった一晩で人生一回分に相当する夢を見ることがあるように、睡眠時間と夢の世界の時間は相関関係にない。
彼女はその性質を利用した。
夢の世界で何をしても現実には影響を及ぼさない――ただし、自分自身に関しては別だ。
夢の中で積み上げた思考は、目を覚ましても失われることはない。
だから、例えば1時間の睡眠で10年分の夢を見たとする。
この場合、ティーナは現実時間にしてたった1時間で、他人が10年費やしてようやく手にする答えを考え出すことができるのだ。
夢幻とは、すなわち無限である。
夢と幻が実現する、限りの無い思考時間。
どれだけ複雑で遠大な謎でも、たった一眠りで解き明かしてしまう史上最強の大賢者――それが『夢幻賢者』ティーナ・クリーズなのだ。
「ま、九段の称号なんざ、欲しくて取ったわけじゃねぇけどな。王家の中で暗殺が横行してるから犯人を特定してくれって言われて、まあいいけどっつって思考を貸してやったら貰えただけだ。結局、よそのスパイがお家騒動に見せかけてただけだったぜ。クソつまんねぇ謎解きだった。夢を使うまでもなかったな」
「それから、あなたに関する記録は見なくなった」
「そりゃそうだろ。それからちょっとして、アタシは『世界の解答』を導き出して解脱しちまったんだから」
「……ゲダツ……?」
「ああ。これについては喋れそうだな。因果にはあまり影響がなさそうだ」
ティーナは2個目のオレンジに手を伸ばしながら、
「解脱。あるいは悟りを開く。それすなわち、人間の魂が行きつくべきゴールだ。本来はすっげぇなげぇ時間をかけて、それこそ何百何千って人生を繰り返して行くべき道を、アタシは精霊術を使ってショートカットした。
その結果が即身成仏――っていう言い方しかねぇからそう言うしかねぇんだけど、ともあれ、アタシは因果系の外に出る権利を得たのさ」
「……因果系……?」
「因果の系。原因と結果が縁によって繋がりうる範囲のこと」
ティーナは2個分のオレンジの皮をテーブルに並べた。
「この皮のひとつひとつが世界だとする」
「世界……って、具体的には……?」
「歩いたり飛んだりすれば移動することのできる範囲。時空間って言やあいいか。
この世界と世界の間は、普通に考えりゃ行き来することはできねぇ。物理的には繋がってねぇんだからな。……ただし、この二つが一つの因果系の中に含まれている場合は話が違う」
ティーナはまだ皮を剥いていないオレンジを次々手に取って、二つの皮を囲うように並べた。
それから、白いオレンジの筋で、皮と皮の間に橋を渡す。
「なんかの拍子――これを『縁』って呼んでる――に、原因と結果が世界を跨ぐことがある。例えば、そうだな、姉ちゃんが知ってそうなもので言うと、『四種の神器』がそれに当たるな」
わたしはハッとした。
四種の神器――異界からもたらされたとされる、列強三国の宝具――
「『天剣エクスカリバー』を見ただろ? アレは、精霊術によるものでもねぇのに物理法則をぶっちぎった力を持ってやがる。異質なのさ。本来はあの世界にあっていいもんじゃねぇ――おそらくは湖の乙女とやらが、大昔にそっちの世界に持ち込んだんだろうぜ。
まあとにかく、そういう因果が影響を及ぼしうる範囲のことを、アタシは因果系って呼んでる。逆に言うと、因果系の外側には、どんな縁があったところで原因と結果が跨いで発生することはねぇわけ」
ティーナは皮の一方から白い筋を外側に向かって伸ばしたけれど、それは円状に置かれたオレンジが壁となって阻んだ。
「乱暴な言い方をすりゃあ、『物質が移動できる範囲』が『世界』、『因果が繋がりうる範囲』が『因果系』って感じかな。『因果が繋がりうる』って言い方もちょっと正確じゃあねぇんだが、まあ純度の高い真理はえてして言語の表現能力からはみ出しちまうもんだ。少々の語弊はお目こぼし願うぜ」
「『物質が移動できる範囲』が『世界』……それじゃあ、物質じゃなければ世界と世界の間を移動できるってこと?」
「そういうことになる。代表例は『魂』だな。魂は世界と世界の間をかなり頻繁に行き来してる――っていうか、魂は因果系という名の肉体を流れる血液みてぇなもんだから、常にぐるぐるぐるぐる流動してんだ」
魂が、世界と世界の間を行き来してる……。
それは想像しやすかった。生きながらにして天国に行くことはできないけど、死んで魂だけになれば行けるようになる……。
「さっき言った『四種の神器』なんかは、物質っていうより概念に近い代物だから、他の世界にも流れ着いたりする。
物質じゃない。ここミソな。特定の形を持った物質じゃねぇから、他の世界にあったときとは見た目やら機能やらが変わってたりするし――究極言ったら、元の世界には物体としては存在してなかったりすることもある。伝承だったり伝説だったりの中だけの存在だったものが、概念……『意味』だけが別の世界に漂着した結果、後付けで形を得る――そんなパターンもあるんだ。面白ぇだろ?
物質の移動は一切ない。なのに、概念だけは共有しうる。
ひひひ! だからな、まったくの異世界に自分のよく知る生き物や道具、文化なんかがあっても、なんら不自然じゃあねぇんだよ――」
「概念だけ……意味だけの移動……世界間での共有……」
理解が大変だけれど……たぶんティーナが言いたいのは、例えばわたしが別の世界に行ったとしても、そこにはわたしの知るような人間が暮らしているかもしれないし、わたしの知るような文化を持っているかもしれない。異世界だからって何もかも違うってことはない。なぜなら同じ因果系の中に含まれているのだから――と、そういうことだろうか。
「……だけど、たとえ概念だけであっても、因果系の外には出られない……」
「頭の回転が早いな姉ちゃん。その通りだ。――た・だ・し」
ティーナはオレンジの壁の外を指でトントンと叩いた。
「『世界の解答』――『真理』とでも呼ぶべきものに辿り着いて、人生をクリアした奴は、その外側に抜け出す権利をもらえるんだな。その一人が、アタシ」
「そ……それって……一体、どうなるの?」
「そうだな……。例えるなら、登場人物から読者に回ったって感じだぜ」
ティーナは華やかな民族衣装の袖をごそごそと探り、一冊の本を取り出した。
見たこともないほど綺麗な材質の紙が、何百枚と束ねられている。
題名の文字は読めなかったけど、表紙には絵画が描かれていた。たぶん……女の子?
ティーナはその本をぺらぺらめくっていく。
「ちょうどこんな感じ。完全なる傍観者の立ち位置になるのさ。だから時間くらいいくらでも戻れるし――」
ぺらぺらぺら、と何ページか戻してみせる。
「まったく別の世界に行くことだって可能になる」
袖から本をもう一冊取り出して、表紙をめくった。
「……なんだか、神様みたい……」
「上位存在って意味では近いんだろうな。だけど、神様は何かにつけ人間に奇跡を見せたり祝福を与えたりするだろ? それに対して、アタシたちは何もできない。こうして傍観しているだけ。
例えば――死亡フラグをビンビンにおっ立ててる母親を颯爽と助けてみたり、そういうことはまったくできねぇのさ」
気の利いたことを言ったかのように当人がにやりと笑うので、わたしも神妙になり損ねてしまった。
解脱――登場人物から読者に回った人間。
飽くまで読者であって作者ではないから、因果に干渉することはできない、ということか――
「……あれ……?」
そこで、わたしははたと気がついた。
「じゃあ、どうやってわたしを助けて……? それに、そうだ、確かあのときも……」
初めてタイムリープしたときのことだ。
ジャックとアゼレアを守るためにサミジーナと戦ったとき、助言してくれた声があった。
今ならわかる――あれはティーナだったのだ。
「ああ、それな……」
ティーナは並べたオレンジを淡々と木の器に戻していく。
「見ての通りだよ。アタシは今、解脱の権利を一時、放棄してる。因果に干渉するために」
「え……? それって……」
「最初は黙って見てようと思ってたんだぜ? あのクソババアが串刺しになったときですらな。
でも、いい加減頭に来た。
あの女はやりすぎた。
だから大いなる反則なのは重々承知の上で、干渉することに決めたのさ。幸い、あの嬢ちゃん――サミジーナが他の九段術師の口寄せをしてくれたことで、『第四の九段術師』っつー埃を被った『縁』がギリ有効になったんでな。めでたく出戻りを果たしたってわけだぜ」
最後の一個をちょこんとオレンジの頂点に置くと、ティーナは窓の外に視線を転じる。
「この『因果図書館』は、因果系の内と外の境界線に当たる。世界の外側の、そのまた最果て。もはや超時空的な存在になっちまってるあの女でも、そうそうここは見つけられねぇ」
「……正直、まだ理解が追いつかないけれど……でも、それはあなたにとって、すごく重要な決断だったんじゃないの……? どうして見ず知らずのわたしのために……」
「見ず知らずじゃあねぇさ」
ティーナは頼もしく笑みを刻み、じっとわたしを見つめた。
「アタシは、アタシたちは、ずっとあんたたちを見守ってきたんだぜ。あんたたちが出会ったときも、ジャックがフィルを殺したときも、あんたがたった一人であの女に立ち向かったときも……ずっと、アタシたちは見ていた。
あんたがまだ子供だったジャックのアソコを見て顔を真っ赤にしてたことだって、アタシは知ってるんだぜ?」
「なっ……!」
自分自身ですらほとんど忘れてたのに!
急速に顔が熱くなってくる。
「ひひひ!」
と、ティーナは意地悪く笑った。
その顔が、本当にトゥーラによく似ていて――
「…………ああ…………」
知らず、涙が零れて、視界が歪む……。
「……そっか……わたしは……一人じゃ、なかった……」
「そうさ。一人じゃない――指一本触れられない因果の向こう側の出来事でも、アタシたちはあんたたちのことを我が事のように思ってきた。だからこそ、思っちまったのさ。もう見てるだけなのはごめんだってな――」
「……う……」
気が緩んだせいか、がくりと意識が霞んだ。
瞼が重く……くらくらと…………頭の中が、……沈んでいく…………。
「眠れ、ラケル姉ちゃん――夢の中で、あの女に勝つ方法を教えてやる」




