第61話 カタストロフ・ポイントⅣ - Part3
サミジーナは、後宮の自室の窓から、今日も空を見上げていた。
治療槽で目を覚ました日から、彼女はずっとこうしていた。
自分の中身をごっそり落としてしまったように、空を見上げる以外のことができなくなってしまった――たまにヴラスタがお見舞いに来てくれるけれど、彼女が一方的に喋るだけで、サミジーナはまともな答えを返さなかった。
『へーかの代理やってた頃よりは元気そうですねえ~、サミジーナさん~』
そう言ったのはヴラスタで、実際、サミジーナの顔色は日に日によくなっていた。
いつかは完全に回復し、何事もなかったかのように過ごせるのかもしれない。
つらいことも悲しいこともすべて忘れて、穏やかに生きていけるのかもしれない。
いつか来るその未来は……サミジーナにとっては、絶望以外の何物でもなかった。
青空の真ん中に大きな蜘蛛がいる。
中空となったサミジーナの頭の中で、誰とも知れない声が願った。
早く落ちろ。
すべてが思い出になる前に。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
わたしは、ほとんど無意識に、ロウ王国やセンリ共和国と物理的に距離を取っていた。
もう、何もしたくなかったのだ。
結局、わたしがやったことで、いいほうに働いたことなんて何もなかった――どうせ少女Xに利用されて、ひどいことになってしまうのだ。
そんな諦めが、わたしの中を満たしていた……。
こんな気持ちになるとしたら、それは数え切れないほどのタイムリープを繰り返した後だと思っていた。
必要なかったのだ、あの少女にとっては。
わたしから意気を失わせることなんて、たった1回あれば充分だったのだ。
それでも……わたしは、きっとやり直すだろう。
でも、それは意思によるものじゃない。
単なる惰性。
覚えてもいなかった目的を追い続けたように、わたしはただの惰性で、同じ時間を繰り返す。
魂がすり減って消える、その瞬間まで。
わたしは、青空の真ん中を見上げた。
大蜘蛛の姿は、地上からでもはっきり見えるくらい近付いていた。
さあ、もう終わらせて。
もはやわたしには、そう願うことしかできない。
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空に迫る終焉を、誰もが無視し、あるいは受け入れた。
存続を望むには、今の世界はあまりに壊れすぎ、人々を傷つけすぎた。
絶望という名の福音。
人々にとって、大蜘蛛の姿は救いですらあったのだ。
その日、ある者は洗濯物を干していた。
その日、ある者は霊拝堂で祈りを捧げていた。
その日、ある者は酒場で乱痴気騒ぎを起こしていた。
その日、ある者は戦場で敵兵を惨殺していた。
その日、ある者は計算結果に興奮していた。
その日、ある者は馬小屋の隅で震えていた。
ひとつ共通するのは、決して戦おうとはしないこと。
勇者になろうとはしないこと。
世界は、終末を穏やかに受け入れたのだ。
―――ただ一人を除いて。
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ジャックが不意に立ち止まったので、アゼレアは振り返った。
「どうしたの?」
尋ねても彼は答えず、無言で空を見上げている。
青い空の中に白い雲が漂い、その合間に、真っ黒な蜘蛛の姿が見え隠れしている。
もはや、その光景はすっかり当たり前のものになっていた。
「―――もし、アレが降りてきたら」
アゼレアの心臓がドキリと跳ねた。
触れるべきではないタブーに、あまりにもあっさりと、ジャックが触れたからだ。
「もし、アレが降りてきたら――たくさんの人が、困るよな」
「……そう、かもね。だから早く遠くに――」
「もし、アレが降りてきたら――ラケルさんも、困るかな?」
「…………っ!!」
ほとんど反射的に、アゼレアはジャックを後ろから抱き締めていた。
こうしなければならない。
こうしなければならなかったのだ。
捕まえておかなければ、彼は今すぐにでも、私のもとから消えてしまう。
「ジャック……私と、一緒にいて?」
身体で縛り。
言葉で縛り。
彼を、雁字搦めにしてでも―――
「私は、あなたがいないとダメなの……! 生きていけないの! だから、私のために……私のそばから、いなくならないで……っ!!」
「アゼレア」
ジャックは優しくアゼレアを抱き返した。
力強く優しい彼の腕を、アゼレアは何よりも愛しく思う。
「自分でも、なぜだかわからない。でも、確信があるんだ。アレは、俺がなんとかしなくちゃならない……。アレが、俺の知っている人たちを、世界を、困らせたり悲しませたりすることだけは、絶対に許しちゃいけない。……なぜか、そう思うんだ」
「いいのよ、そんなの! 無視すればいいの! ……二人で逃げようよ。今までそうしてきたでしょ? どうしてそれじゃいけないの……!?」
そのとき、不意に、アゼレアの唇を、ジャックの唇が塞いだ。
一瞬を惜しむように、息継ぎの合間もなく、長く長く、溶け合わせるように唇を重ね続ける。
ようやく唇を離すと、間近にあるジャックの瞳が、アゼレアの瞳を覗き込んだ。
「逃げるのは……今まで、充分やってきたんだよ、アゼレア」
「……え……!?」
瞬間、アゼレアは息を呑む。
その瞳に宿っていたのは、紛れもない、アゼレアが恋し、7年もの間焦がれ続けた―――
「逃げるのは、もう飽きたんだ。戦うと決めたんだ、俺は。そう――決めたんだよ」
「……ジャッ、ク……?」
「でも、これだけは言っておきたい」
ジャック・リーバーは、アゼレア・オースティンに対し、心から告白する。
「ありがとう、アゼレア。――愛してる」
そして、彼の身体がふわりと浮いた。
まるで天使に連れ去られるように、足が地面を離れ、腕が腕を離れ、彼が彼女を離れていく。
「ダメっ……ダメっ、ダメぇっ……!!」
留めようとした手は、するりとほどけていった。
千切れんばかりに手を伸ばしても、少女の指先は、もう少年には届かない。
誰の手も届かなくなった空中で、少年は世界に背を向けた。
対峙するは、一匹の蜘蛛―――
「ジャック――――ジャック――――――っ!!!!」
ようやく恋をした少年と少女は、天と地とに別離する。
すべての恋が失われ、あとには終わりだけが残される。
終焉の使者は、すぐ背後に迫っていた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「というわけでドーン★」
突然、アゼレアの背中にナイフが突き刺さる。
「……っか……ぁ……?」
ボタボタと足元に血を落としたのち、アゼレアは自らの血だまりに崩れ落ちた。
自分の中身が止めどなく流れ出すのを感じながら、彼女は身を捻って背後に立つ人物の顔を見上げる。
それは、彼女も知っている顔だった。
ルビー・バーグソン。
けれど、学院の同じクラスで過ごした彼女とは、決定的に表情が異なっていた。
「……ぁ……ぁあっ……!?」
誰だ。
誰だ、こいつは。
【黎明の灯火】を使おうとしたが、その前に右手をナイフが貫く。
「ぁあっ、ぐぅうぁあああっ……!?」
激痛に喘ぐアゼレアの顔を、ルビーの姿をした何者かは恍惚の表情で見下ろしていた。
「あなたは運がいいです」
ナイフを右手から引き抜きながら、彼女は言う。
「本来なら、その汚らしい股ぐらからお腹を掻っ捌いて子宮を引きずり出し、微塵切りにして犬にでも食わせてやりたいところなんです。でも生憎、今は時間がありません。だから、これだけで勘弁してあげます。感謝してくださいね?」
血に塗れた刃が、勢いよくアゼレアの下腹部に突き刺さった。
「ぁあぁああああぁぁっ!?」
激痛よりもなお鋭い絶望が、アゼレアの全身を貫く。
「やめてっ……やめてぇえっ……そこだけは……そこだけはぁぁぁ……っ!!」
「やっぱりッ! あなたみたいなビッチは、避妊してるフリをして既成事実を作ろうとするものなんですよッ!! 兄さんの子種をどれだけここに溜め込んだんですかッ、この嘘つき女ッ!!!」
違う。
違うのだ。
放っておけばどこへ消えてしまうともしれない儚さのあるジャックを、少しでも留めておけるものが欲しかっただけなのだ。
嘘じゃない。
騙したわけじゃない。
……私は……。
(…………ジャッ……ック…………)
最後に残った繋がりさえも、ずたずたに破壊され蹂躙されながら―――
不意に真実を得た。
それは、一種の奇跡。
命の灯火が失われようとして、魂が世界を離れかけ。
ほんの一瞬――彼女は、因果を俯瞰した。
理解する。
――この女だ。
思い出す。
――この女だ。
確信する。
――この女だ!
アゼレアは、最後の力を振り絞って、不敵に笑う。
「……? 何が、おかしいんですか……?」
「……ふ、ふふっ、ふ……!!」
何もかも失ったアゼレアは、その命さえも消えそうになりながら、それでも最期に、抗ったのだ。
こいつが見たいのは、私の悲嘆だから。
こいつが見たいのは、私の絶望だから。
こいつが見たいのは、私の失恋だから。
だから、くれてやらない。
それが、唯一できる―――
「…………じゃあね……クソ女…………っ!!!」
ルビーの顔をしたそいつが、表情を歪めたのを目に焼きつけ、アゼレアは事切れた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
そして―――
サミジーナが。
ラケルが。
この世のあらゆる人々が。
―――彼の姿を、目撃する。
空より来たる大蜘蛛に向かって、一直線に飛翔するひとつの人影。
世界でたった一人、終末に立ち向かうことを決めた、かつての魔王の姿。
サミジーナは声を上げ、窓際の椅子から立った。
ラケルは目を見張り、静かに涙を流した。
終わりかけた世界に、最後の希望が灯る。
どうせ摘み取られるとわかってはいても、灯火は一時、諦めという闇を引き裂いた。
世界のためではない。
彼のためだけに、少女たちは動き出す。




