第60話 カタストロフ・ポイントⅣ - Part2
突然の夕立が、世界を叩いていた。
分厚く立ち込めた雨雲から稲光が瞬き、そのたびに、雲に落ちた大蜘蛛の影が照らし出される。
ロウ王城のバルコニーから、わたしはそれを見上げていた。
……ジャックを最優先すると誓った。
ジャックを助けるためなら、世界だって敵に回すと決めた。
そしてジャックは、アゼレアと一緒に幸せになった……。
でも。
こんな結末を、認めるの?
やがて、あの大蜘蛛が地上に降りてくる。
そうなったら、何がどうなるかなんてわからない。
人類は滅ぶかもしれないし……そうじゃないかもしれない。
でも、もし幾許かの人類が生き残ったとして。
ジャックもアゼレアも生き残ったとして。
だからって、わたしは、その結末を認めるの……?
認める……はずだ。
だって、誓ったじゃない。
ジャックさえ幸せになれればいいんだって、そう誓った!
だったら、世界やエルヴィスたちがどうなったって構わないはず……。
……そうでしょう?
「また戻るんですか?」
いつの間にか、バルコニーの手すりに少女が腰掛けていた。
頭に生えた猫の耳やお尻から伸びた尻尾の毛並みが、雨に濡れてしなしなになっている。
――ルビー・バーグソン。
少女X!
「はーあ。やれやれ。雨が降るなんて聞いてませんよ。半分猫の身体だからか、いつもより雨が鬱陶しくって……傘は常備しておくものですね、失敗しました」
身構えるわたしの前で、ルビーの姿をした少女Xは顔を振って水気を払った。
口調以外のすべてが、やはりルビーに見える……。
一体どういう絡繰りなの?
どうしてアゼレアからルビーになったの?
少女Xは濡れた髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、わたしを見て口角を上げた。
「出血大サービスで教えてあげちゃいます。無駄ですよ、何度時間を戻っても」
「……なんですって……?」
「前のわたしがどんな風に驚いてみせたか知りませんけど、冷静に考えてみてくださいよ――このわたしが、タイムリープごときの対策をしていないわけがないじゃないですか?」
冷静に考えてみても、まったく意味不明な言葉だった。
タイムリープごとき?
時間遡行なんて事前に対策できる人間が、一体どこにいるって……!?
「簡単なことなんですよねえ。精霊術は何でもアリの魔法とは違うんです。精霊ごとに干渉できる概念が決まっているし、精霊自体、数えられる程度の種類しかいないわけですよ。だったら、ありとあらゆる精霊術に対して、とりあえず対策を打っておこうと考えるのは自然の道理じゃないですか? その中に〈アガレス〉の力も含まれていただけのことです」
「【因果の先導】を……タイムリープを対策しているって言うの!?」
「あのお爺さんを殺しておけば充分だと思っていたんですけどね――念には念を入れておいて正解でした」
そんな……一体どうやって!?
何をどうやったら、時間遡行なんて反則を対策できるって言うの!?
「ふふ。お喋りが過ぎましたかね。……今日は一足早い勝利宣言に来たんです。そうじゃなければ、わざわざあなたとお喋りなんかしません。気付いてませんかもしれませんけど、わたし、あなたのこと大っ嫌いなんで」
……一足早い勝利宣言?
くすくすくす、と嘲りを含んだ笑みを漏らしながら、少女は稲光に浮かぶ大蜘蛛の影を手のひらで示す。
「どうですか? 世界の終わりに相応しく、邪神様にお出まし願ったんです。ダイムクルドが準備していた『浄化の太陽』もなかなかステキでしたけど、こっちもなかなかですよね?」
「……あの大蜘蛛は、あなたが……!!」
「なかなか大変でしたよ? 邪神様ったら、人気のレストランみたいに予約が取れなくて! くすくすくすくす!」
……まるでお絵描きを親に見せる子供だ。
自分のやっていることがどれだけ邪悪か、理解していないのか……!!
「さあ、どうしますか? まるで中学生が考えたような、チート丸出しのコピー能力をお持ちのラケルさん?」
にやにやと、しかし虚ろな笑みを浮かべて、少女はわたしの瞳を覗き込む。
「こっちもなかなかどうして負けませんよ? まるで小学生が考えたような最強っぷりですから! 人間VS邪神。どちらに軍配が上がるか見物ですね……? くすくすくすくすくすくすくすくす!!」
「―――黙れッ!!」
蒼炎を噴かせると、少女Xは一瞬消失して、濡れた手すりの上に姿を現した。
【一重の贋界】を完全に使いこなしている……。
「おおっと、危ない危ない。エンディングでゲームオーバーなんて、これほど萎えるものはありません」
にたにたと空っぽな笑みを貼りつけたまま、少女Xは背後の空中へと倒れてゆく。
「それではさようなら、ラケルさん。よい終末をお過ごしください。くすくすくすくすくすくすくす―――――――」
わたしを――あるいは世界すべてをせせら笑いながら、少女Xは闇の中に消えた。
雨に当たりながら、わたしは雨雲を見上げる。
……一体、どうしたら……。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
ロウ王国はそれから1週間もしないうちに、センリ共和国に対して決戦を臨んだ。
センリ共和国領土内に侵攻したロウ王国は、途上の村々からの略奪によって物資を補給しながら、センリ共和国首都イルネシアに向かって一直線に進軍してゆく。
兵たちは女王の復讐心が乗り移ったかのように瞳を爛々と輝かせ、一方的な虐殺を繰り返した――センリ共和国軍の兵士たちは、その鬼神のごとき姿に恐れおののき、触れてはならぬ逆鱗に触れてしまったことを後悔した。
流れる血。重ねられる屍。
それらを天上より、一匹の蜘蛛が見下ろしている。
争いに没頭する人間たちは、避けるかのように頭上に目を向けない。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「はん。嫌だね、野蛮人は――あっという間に村が五つも焼かれちまったよ。連中、勝った後のことなんか考えちゃいない」
首都イルネシア、大統領官邸。
毛の長い絨毯で覆われた大統領執務室で、『センリの魔女』エヴェリーナ・アンツァネッロは忌々しげに吐き捨てた。
しかしそれは、攻め込まれていることによる焦りからではない。
ロウ王国を――それを率いるヘルミーナの考え方そのものを、彼女は唾棄したのである。
「戦争は経済行動の一種さ。それも至極難しい、ね。一時の感情で手を出すには割に合わないよ――ましてや弔い合戦? はッ! ガキの喧嘩かい?」
エヴェリーナは深々と葉巻の煙を吐いた――執務机の前にいるもう一人の人間が、ほんのわずかに眉をひそめる。
「あんたもそう思うだろう? なあ、ルビー・バーグソン」
エヴェリーナの前に立っていたのは、猫の耳と尻尾を持つ少女だった。
少女――ルビー・バーグソンは、一国の大統領を前にしてまるで気負うことなく、無表情で答える。
「さて……わたし、政治家の皆さんの言うことは難しくてわかりません」
「くっくっく! よく言うねえ。画を描いたのはあんたじゃないかい。何百年と続いた三国の歴史が、スラム出身の子供一人にぶち壊される――痛快だよ。まったくもって痛快だ! ハハハハハッ!!」
無邪気でさえある魔女の笑い声が、執務室に響いた。
「歴史ってのはこうでなくちゃいけない! 伝統だの格式だのを一部の貴族が後生大事に守ってばかりの世界はもう飽き飽きだ!! 吸い切った葉巻を吸わされている気分になるよ! 動いてこその歴史。変わってこその世界ッ!! その点で言えば、魔王を名乗った彼とはお友達になれたかもしれないねえ……。くくくくくくっ!!」
「――それよりも」
独り言には付き合わないとばかりに、ルビーは窓の外に目を転じた。
「空のアレはいいんですか? もうすぐ落ちてくると専らの評判ですけれど……?」
「はあ?」
愚か者を見る目をルビーに向けて、エヴェリーナはくっと口角を上げる。
「冗談はよしておくれよ――四人の勇者が封印した伝説の邪神? は! ないね! ないないッ! あんなもんはどうせ、ダイムクルド辺りが用意したハッタリさ―――大々的に空を飛んでみせたことと言い、魔王の奪還宣言のことと言い、奴らは大仰なハッタリが大好きだからね。冷静に考えて、あんな巨大な蜘蛛が唐突に降ってくるなんてこと、あるはずがないだろう?」
笑い飛ばすエヴェリーナに、ルビーは初めて表情を浮かべた。
薄く浮かんだそれは、嘲りの笑み。
「―――哀れな人です。変わらなければと言いながら、その実、自分自身は『貴族たちの言うことは信じない』という考え方を変えることができない」
「おい、小娘」
ジュウッと灰皿に葉巻が押しつけられた。
魔女の双眸が、ルビーの瞳の奥を鋭く射貫いている。
「あたしの目が節穴だとでも思ったかい? ――あんたも同じクチだろうが、ああ?」
凄んでみせるエヴェリーナに、しかしルビーは動じない。
「あたしは仕事柄、数えきれない人間に会ってきたけどね、あんたほど視野の狭い人間は他に見たことがないよ。普通の人間は脇目を振る。人生に枝道がある。なのにあんたは一直線だ。ほんの少しもブレやしない――そんなもんは病気だよ。あんたは病んじまっている。身体がじゃない。心がでもない。―――在り方が、病んでいる」
「……………………」
「あたしも多少は患ってる自覚があるけどね、あんたに比べりゃ軽症さ。病んだ人間の末路を知ってるかい? 知ってるよねえ、いくらあんたでも。
―――死だよ。痛んで苦しんでのたうち回って、挙句の果てにあの世行きさ。あんたは身体でも心でもなく、在り方が――存在そのものがそうなるだろう。『センリの魔女』が保証してやる。あんた、まともな死に方はできないぞ?」
「―――ご忠告痛み入ります」
ルビーの姿をしたそいつは、にっこりと笑って言った。
「ええ、ええ――自覚はあります。視野が狭まっている自覚も、病んでいる自覚もね? だって、ほら、言うじゃないですか――『恋は盲目』『恋の病』って」
「……はあ?」
「だから」
怪訝そうなエヴェリーナを無視して、少女は宣告した。
「あなたのことも、わたしの目には入っていないんですよ、大統領閣下」
その瞬間、銃声が階下から響いてきた。
「ッ!?」
エヴェリーナはオフィスチェアから腰を浮かせる。
今の発砲音は、魔王軍のものを分析して複製した最新式のものだ。
まだ量産には至っておらず、大統領官邸を警護するわずかなエリート兵しか持っていない……!
執務室の扉が勢いよく開かれ、兵士が息を切らしながら叫んだ。
「てっ、敵襲ですッ!! お逃げくださいッ、大統領閣下ッ!!」
「なっ……」
敵襲だと?
エヴェリーナの頭の中は一瞬混乱した。
戦時中の、首都の、首脳の本拠地に、どこのバカが襲撃を許す!?
「非常用の脱出路を逆用されました……!! へっ、ヘルミーナ女王を筆頭としたロウ王国の一個小隊が、官邸内に侵入しておりますッ!!」
(非常用の脱出路を……逆用ォォォ……!?)
ありえない。
国家機密中の国家機密だ――それが敵国に知れるなど!
――いや、ある。
エヴェリーナの頭脳が、一瞬にして答えを弾き出した。
それが可能な人間が……今ここに……たった一人!
「……ル……ビィイぃいい……っ!! 貴様ァあぁああああッ!!」
「―――うふ。ふふふふ。くすくすくすくすくす……!!」
机の下に隠したサーベルを瞬時に抜き放ち、エヴェリーナは机上を蹴った。
空間を穿つように繰り出された刺突は、しかし、ルビー・バーグソンの身体を貫くことはなかった。
にたにたと笑みを浮かべた少女は、一瞬にして窓際まで移動している。
「さようなら、大統領閣下。あなたと手を組んだこの7年は、なかなか愉快なものでしたよ?」
嘲笑だけを残し、少女の姿はカーテンの向こうに消える。
直後、外の廊下を大勢が走る音が聞こえた。




