第59話 カタストロフ・ポイントⅣ - Part1
――――蜘蛛。
天より垂れた1本の糸に吊られた大蜘蛛。
青空の真ん中に現れた黒い影――その正体を確認するなり、わたしの脳裏に思い出された物語があった。
四人の勇者と一匹の邪神の物語だ。
ラエス、ロウ、センリの列強三国に古くから伝わる、伝承、神話、あるいは歴史。
それぞれの国の祖先たちが経験したという、世界を賭けた戦いの物語だ。
当時、世界は大小様々な国に別れ、争いを繰り返していた。
屍が山を作り、血が河を作り、それでも人々は戦いを繰り返して、欲望と憎悪とを膨らませていた。
それを喜んだ、一匹の蜘蛛がいた。
蜘蛛は人の世に見えない巣を張り、人間が撒き散らす欲望と憎悪を捕まえては貪った――次第に身体は膨らみ、ついには山を10個を重ねてもなお勝る大きさとなった。
しかし、蜘蛛の食欲は潰えない。
もっと欲望を。
もっと憎悪を。
そう思った蜘蛛は、1本の糸で自分をぶら下げ、ゆっくりと人の世に降りていったのだ。
その姿を頭上に見た人々は恐れ慄いた。
我々が戦乱ばかり繰り返しているから、邪なる神に目を付けられたのだと。
精霊王による創世と庇護はとっくに終わりを告げ、世界は人と精霊たちの手に委ねられていた。
もはや神たる精霊王は助けてはくれない。
そう悲嘆した人々の前に現れたのが、四人の勇者たちだ。
勇者たちは、一人一つずつ、異界よりもたらされた神器を持っていた。
一人は、天を黄金に染める剣を。
一人は、地を鋼鉄に変える盾を。
一人は、昼を自在に振るう杖を。
一人は、夜を弓弦に番える弓を。
四人の勇者と四種の神器の力によって邪神は封印された。
しかし、かの貪欲な大蜘蛛は今も腹を空かせている。
人々が再び欲望と憎悪とに支配されたとき、封印は破られるであろう―――
子供でも知っている勇者と邪神の物語。
この話に出てくる四人の勇者はそれぞれに国を興し、人々を導いたと言う。
その国のうち三つが、今のラエス王国、ロウ王国、センリ共和国だということだ。
世界に危機が迫ったとき、三国の中から『勇者』を選出し、利害を超えて協力し合うという『救世合意』は、この物語に端を発するものである。
この物語が事実なのか、王権に箔を付けるための伝説でしかないのかは定かではないけれど、今、ひとつ、定かになったことがある。
1本の糸に吊り下がって降りてくる大蜘蛛。
憎悪と欲望を喰らう邪神。
それは―――実在した。
勇者なんて存在しない世界に、復活した。
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アゼレアとジャックに別れを告げ、大急ぎで戻ってきたわたしは、まずラエス王国の首都レイナーディアに向かった。
エルヴィスたちの無事を確認したかったのだ。
でもわたしは、遠目に街の様子を見ただけで、遅きに失したことを悟った。
―――王城のてっぺんに、センリ共和国の旗が翻っている。
「…………え…………?」
見間違いだと思いたかった。
けれど、レイナーディアの中に忍び込んでみれば、見間違いではないことを嫌でも思い知らされた。
センリの兵士たちが、我が物顔で街の中を歩いている……。
レイナーディアの住民たちは、誰もがどこか怯えた様子だった。
巡礼者を装って住民に事情を聞いてみると、わたしはさらに愕然とすることになった……。
「……巡礼者さん、悪いことは言わない。この街からはさっさと離れるんだ」
「どういうことですか……?」
「ラエス王国は亡びたよ。……つい先日、国王様が処刑されてね」
「……え?」
ラエス王国の国王エリアス4世は、ジャックの公開処刑のときに暗殺されたはず……。
だったら、処刑されたというのは、その次に即位した新しい国王……?
「あの……その、処刑された国王様というのは……?」
わたしは怯えを呑み込みながら尋ねた。
聞きたくない答えが返ってくると、半ば確信しながら。
「―――エルヴィス陛下さ」
憎悪の籠もった声で、住民ははっきりと答えた。
「まだお若かったのに、戦乱を治めるために、御自ら……くそっ!!」
エルヴィスが―――処刑された?
その言葉は、現実感を伴っていなかった。
何が、あったの……?
わたしがジャックやアゼレアを追いかけている間に、何が起こったの!?
他の人にも聞き込みをしてみたけれど、答えはいずれも同じだった。
即位間もないエルヴィス王が、戦乱を早期に治めるため、犠牲になった。
そしてラエス王国は亡び、センリ共和国に併呑された……。
……ジャックの公開処刑のとき、ラエス王国とロウ王国の王が暗殺された。
その隙に乗じて、センリ共和国が侵略戦争を仕掛けたの……?
ジャックを追いかけるのでいっぱいいっぱいで、三国の国際関係がどうなったかなんて気を払っていなかった。
ほんの1ヶ月ちょっと離れただけで、こんなことになるなんて……!!
――そうだ。
王がいなくなったのは、ラエス王国だけじゃない。
ロウ王国もだ。
それに、エルヴィスが処刑されたというのが本当だとすれば……。
「……ヘルミーナ……」
ロウ王国第一王女の名前を思い出し、わたしはロウ王国首都ブレイディアへ足を向けた。
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ロウ王城に翻る旗を確認したとき、心の底からほっとした。
それは、ロウ王国のもののままだったからだ。
城に近付いてみると、あからさまに戦時中といった雰囲気だった。
空気がピリピリして、あちこちから慌しそうな兵士の声が聞こえてくる。
けれど、気後れしている場合じゃない。
門前の衛兵に名乗り出たものの、なかなか城内へは通してもらえなかった。
「今は戦時中なんだ。余所者を通すわけにはいかない! ただでさえ神器殿のほうで破壊工作があったばかりだというのに……!!」
それでもしぶとく粘っていると、わたしの名前を知っている人に話が届いたみたいで、門を通してもらうことができた。
ヘルミーナは、どうやら無事のようだった。
今は王位を継承し、女王になったようだ。
……エルヴィスとの婚約も、きっと白紙になってしまったんだろう。
応接室でしばらく待っていると、扉が開いて、ヘルミーナが侍従と共に姿を現す。
その姿を見て、わたしは息を呑んだ。
彼女は喪服に身を包んでいた。
サミジーナも喪服めいた漆黒のドレスだったけれど、彼女のそれは明確に喪に服するためのもので、顔には半透明のヴェールがかかっていた。
「……ご無事だったのですわね、ラケルさん」
侍従を下がらせると、ヘルミーナはヴェール越しにわたしの顔を見て、椅子に座る。
「ジャックさんは、無事……取り戻せたのでしょうか?」
「……いえ。取り戻す必要はないと、そう判断した。アゼレアなら、あの子を幸せにしてくれるって、そう思ったから」
「そうですか。……諦めの良い方なのですわね」
ヴェールの向こうで、ヘルミーナはすかすかの笑みを作る。
胸の内から笑うための感情がなくなってしまっているのだと、その表情を見るだけで簡単にわかった……。
「では……こちらの状況がわからなくて、わたくしのところにお出でくださったのですね」
「……ええ。先にラエス王国に、行ったのだけど……」
「……………………」
ヘルミーナは一瞬だけ目を伏せて沈黙する。
わたしにとっては、その沈黙だけで充分なくらいだったけれど――それでもあえて、ヘルミーナは話してくれた。
おおむね、わたしが事前に想像した通り。
ラエス王国のエリアス4世とロウ王国のヒルデブラント4世が暗殺されたあの公開処刑の直後、センリ共和国がラエス王国に対して宣戦布告したのだ。
侵略は、まさに電光石火で行われた。
ラエス王国は王位の継承もままならないまま応戦したが、まともな準備もできていない状態では抗い切れるはずもなかった。
エルヴィスを国王に即位させて挽回しようとするも……時すでに遅し。
もはや趨勢は決定していた。
エルヴィスは勝利を諦め、これ以上戦火が広がらないようにすることを優先。
そして―――
「エルヴィス様は断頭台にかけられ、その首は衆目の前に晒されたと言います」
「…………っ!!」
冷たい声で告げられた事実に、わたしは口を押さえる。
どうして……。
わたしは、どうしてここを離れたの!
こんな大事なときに、どうしてエルヴィスたちのそばから……!!
――でも、教えてもらったんです
――教えてもらった……? 誰に?
――ルビーです
「…………あ」
わたしは。
不意に気が付く。
「…………あああ…………あああああああ…………!!!」
アゼレアをジャックの公開処刑に間に合わせたのは、ルビー。
つまり、少女X。
彼女の介入があったから、アゼレアはジャックを連れ去ることができた!
そしてわたしがそれを追いかけ、エルヴィスたちのもとを離れた……!!
このためだ!!
このためだったんだ!!!
わたしを列強三国から引き離すために、彼女はアゼレアにジャックを攫わせた……!!!
「…………やはり、アゼレアさんの件には、ルビーさんが関わっていたのですわね」
頭を抱えるわたしを見下ろして、ヘルミーナはいやに平坦とした声で言う。
「わたくしどもがセンリに放った間諜から、ルビーさんの目撃情報が入っています。……父、先王ヒルデブラント4世や、お義父様――エリアス4世の暗殺は、十中八九ルビーさんの仕業。ラケルさんはご存知ないかもしれませんが、彼女は三国連合軍と魔王軍の開戦直前にガウェインさんの命を奪っています」
「ガウェインの……!?」
そんな……。
それじゃあ、かつてのSクラスの面子は、ルビーを除けば、あとはジャックとアゼレアだけ……。
「センリ共和国の動きはあまりに速すぎました。まるでラエスとロウの王が殺されることがわかっていたかのよう。
……元から、グルだったのです。あの公開処刑は、『センリの魔女』エヴェリーナ・アンツァネッロとルビー・バーグソンが結託して仕掛けた、侵略の嚆矢だったッ!!」
ダンッ!! とヘルミーナの拳がテーブルを叩いた。
カップが倒れ、手つかずのお茶が広がっていく……。
「……ラケルさん」
黒いヴェールの向こうから、暗く濁った目がわたしを見た。
「今のわたくしは、ロウ王国の女王という立場にあります。……しかし、わたくしはあえてその立場を私事に利用し……民もまた、それを支持してくれました」
「ヘルミーナ―――」
「ラケルさん」
遮るようにもう一度わたしの名前を呼んで、ヘルミーナは自分のお腹をそっと撫でる。
「……実は、今月の生理が、まだ来ていないのです」
「えっ……? まさか……!」
「エルヴィス様以外と肌を重ねたことはございません」
語気強く断言して、ヘルミーナはぞっとするほど綺麗に微笑んだ。
けれどその微笑は……わたしには、泣き出す寸前に見えた。
「ぼやぼやしていると、わたくしは動けなくなっています。一刻も早く片を付けなければならないのです。
……わたくしは魔女を討ち、エルヴィス様の無念を晴らします。けれどそれを、次の世代に受け継がせたくはないのですわ。エルヴィス様なら、きっとそうお思いになるでしょうから……」
止めるな、と。
彼女は言外に告げていた。
だからわたしは、たった一つだけ、確認する。
「ヘルミーナ―――頭上のことは、わかってるのね?」
くすくす、とヘルミーナは空っぽの笑い声を漏らした。
「さて、なんのことやら。……わたくし、虫はさほど苦手ではございません」
ああ――彼女はもう、散り散りだ。
次の世代のことを語りながら、頭上に迫った大蜘蛛のことは無視すると言う。
あんなものが降りてきたら世界がどうなるかなんて、きっとわかっているはずなのに。
でも、きっと、彼女だけじゃない。
もう、何もかもが散り散りなのだ。
たった一人の少女に―――世界のすべてが、散り散りに破られたのだ。
「お戻りになられるのですか、ラケルさん?」
どこか揶揄するように、ヘルミーナは言った。
「それもいいかもしれませんわね。……次のわたくしが幸せになれるよう、ささやかながら祈っておきますわ」
―――あったことはなかったことにはできない。




