第58話 失恋の仕方
「ひっひっひ! あの痴れ者め、痛いところを突いてくれるわい。失恋の仕方じゃと? 知るか、そんなもん! 儂は生涯無敗なんじゃ! ひひひひひ!」
きらきらと星が輝く空間で、銀髪の少女がけらけら笑っていた。
何が面白いんだろう?
サミジーナは、少女の笑顔を羨ましく思う。
「……おお、気付きおったか」
少女がこっちに気付いて顔を向けた。
「いや何、せっかくなんでな、別れの挨拶でもと思うただけじゃ――年寄りは年寄りらしく、人の力を勝手に引っ張り出してくれおってからにと、小言の一つでも言うてくれようとな」
そう言いながら、しかし少女は「ひひひ」と笑う。
どうして、彼女はこんなに楽しそうなんだろう。
彼女の最期は、それは無惨なものだったと聞いた。
串刺しにされたまま人前に晒され、その死体をも魔物として利用され――
なのに、どうして、こんなに……?
「ひひひ。なあに、そんなに不思議がることでもないわい。おぬしと違って、儂には未練なんぞなかったというだけじゃ――やるべきことはやり尽くした。どころか、これと決めた伴侶と死する時を同じくすることすらできた。これは諦めておったんじゃがな。まあ、その点に関してだけは感謝してやってもよいわ。あのガキにそう言うても、眉をひそめるだけじゃろうがな――ひゃっひゃっひゃ!」
銀髪の少女は、サミジーナの意識がある場所の正面に、あぐらをかいて座り込む。
「まったく、世の中ガキばかりじゃ。のう? そうは思わんか?」
これは……自分のことを言われているのだろうか?
そう思ったサミジーナに、少女はにやりと笑みを向ける。
「無論、含まれておる。そして、おぬしの怒りを否定したラケルの奴もな……」
汚れてしまった、と。
そう叫んだサミジーナを、彼女は否定した。
そうかもしれない、と今は思う。
彼は幸せになった。自分のいないところで。
それが認められなかったから、わがままにあの光景を否定しただけ……。
今ならば、そうだったのだと素直に認めることができる。
「素直に認めるな、ド阿呆。おぬしは間違っておらん――好いた男が他の女子とラブラブイチャイチャやっておったらショックなのは当然じゃろうが。どこの誰にそれを否定できる?」
……でも。
自分のことしか考えていなかったのは事実だ。
彼のため、と叫びながら、実際には……。
「それも正しい。……我が弟子ながら、ひどい優等生ぶりじゃ。大人ぶっておるつもりかもしれんが、まだまだ子供――いや、少女じゃな。あやつは100年以上も馬鹿真面目にずーっと『少女』をやっておるのじゃ。どうしてそんなことになっとるのか、自分でわかっておらん辺りが、特に『少女』らしい。……ひひひ。あの出不精なじゃじゃ馬が口を出したくなるのもわかる鈍感ぶりじゃて」
サミジーナにはわからない独り言を呟きながら、銀髪少女はあぐらをかいた膝に頬杖をついた。
「おぬしら子供は、すぐに正解を一つに絞ろうとする。男を寝取られたらもちろんショックじゃ。じゃが、それはそれとして、好いた男の幸せを願うこともできようて。……ふむ。なるほど。これがつまり、失恋の仕方というやつなのやもしれんな」
……失恋。
失恋。
「つまりな。儂は別れ際に、おぬしにそれを教えたかったんじゃ。
意味などないのかもしれん。どうせ忘れてしまうのかもしれん。それでも、すべては繋がっておる。過去を変えることはできても、あったことはなかったことにはできぬ――
これでも教師じゃ。道に迷う子供に道を示すのが仕事じゃからの」
そして銀髪の少女は居住まいを正し、サミジーナに対してはっきりと、真実を突きつけた。
「残念ながら、おぬしの初恋は破れた。……人生初の失恋を、とくと噛みしめよ」
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「―――ジーナ! サミジーナっ!」
聞き慣れた声で呼ばれて、サミジーナはそっと瞼を上げた。
薄暗い天井……。
全身を、冷たい液体が包み込んでいた。
魔王城の地下にある、治療槽――
精霊〈ブエル〉の力を利用した回復装置の中に入れられているのだと、すぐに気がついた。
「……シト、リー……」
幼なじみのシトリーが、心配そうに顔を覗き込んでいる。
その顔がなぜか……。
ぐにゃぐにゃと歪んで、滲んでゆく……。
「…………サミジーナ…………」
シトリーはいったんは悲しそうになりながら――しかし、すぐに微笑みを浮かべた。
「……泣いていいんだよ、サミジーナ。こういうときの女の子は、思いっきり泣いてもいいんだよ……」
シトリーの手が、そっと頬に触れた。
その手の冷たさが、じわりと染みる。
いつしかサミジーナは、声を上げていた。
わんわんと、えんえんと、子供のように泣いていた……。
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魔王軍が去り、夜が明けた。
予定通り、わたしはアゼレアたちの元を去ることにした。
「……本当に行っちゃうんですね、先生」
「ええ。……エルヴィスたちのことも、放ってはおけないから」
何もかもを放置して、アゼレアとジャックを追いかけてきてしまったのだ。
国家元首を殺されてしまったラエス王国とロウ王国は、今、どうなっているのだろう……。
「あなたたちも、この家からは移動したほうがいい。……それと」
ちょっと顔が熱くなる。
正直恥ずかしいし、二人も恥ずかしいだろうけど、危機管理上、ちゃんと言っておかないと……。
「……夜は、声をもうちょっと抑えないと、危ないと思うわ」
一瞬きょとんとした二人だったが、意味を察したのか、見る見る顔を紅潮させていった。
「せっ……先生……!? き、聞いてっ……!?」
「聞いたというか聞こえたというか……」
「ほ、ほらジャック! 私、言ったじゃない! 隣に先生がいるからダメだって!」
「あ、アゼレアが声我慢しないからだろ!?」
「それはジャックがぁー……!!」
「どっちもどっちよ。……あと、妊娠にも気をつけて。旅の途中で子供ができて動けなくなるって、シャレにならないから」
「あ、はい……。それは一応、ちゃんと気をつけてます……」
アゼレアは恥ずかしそうに目を逸らした。
……まあ、わたしの電撃を炎で燃やした彼女のことだから、避妊くらいはどうとでもなるのだろう。
『一応』と付いているのがちょっと気になるけど。
夢中になりすぎて忘れたりしてないわよね?
「……でも」
わたしは、少しだけ躊躇いながら言う。
「いつか、落ち着いたら。……子供、作ってね。わたし、顔を見に行くから」
好きな人と一緒になって……子供を作って、家族を作って。
どこにでもいる、ありふれた人たちのように……普通の、幸せを掴むのだ。
ジャックも、アゼレアも、その権利を持っているのだ……。
「絶対……来てください」
そう言ったのは、アゼレアじゃなく、ジャックだった。
「きっと、とびっきり可愛い子供が生まれますから。見ないと、損ですよ」
わたしは知らず、ほのかに笑う。
丁寧なようでいて、どこか生意気なこの物言い……記憶がなくても、彼はジャックなのだ。
じわりと、涙が滲みそうな気配があった。
顔を見られないように、ぎゅっとジャックを抱き締める。
たとえ彼が、わたしのことを覚えていなくても。
頼り甲斐のある師匠でいたかったのだ――最後まで。
戸惑うようにしていたジャックは、けれど、しっかりと抱き返してくれた。
――ああ。
これだけでも、充分すぎる……。
「……アゼレアも」
「はい? ……わっ!?」
アゼレアのことも引き寄せて、わたしは教え子たちを二人まとめて抱き締めた。
わたしの出番は……これで、おしまい。
彼らはわたしという大人のもとから巣立ち、自分の足で世界を歩いていく。
――ふと、思い出した。
10年に渡るトゥーラとの生活に終止符を打ち、彼女のもとを去ったときのことを。
あのときのトゥーラも、こんな気持ちだったんだろうか。
思えば、今のジャックとあの頃のわたしは同じだ。
記憶をなくして、優しい人と一緒にいて……。
だったら、彼だって幸せになれる。
先輩のわたしが……保証できる。
涙が引っ込むのを待って、わたしは二人から身を離した。
もう、行かないと。
別れの言葉を口にしようとした――
そのとき。
「……ん?」
不意に、ジャックが空を見上げた。
「なんだ、あれ?」
ジャックが指差した青い空の真ん中に、真っ黒な点があった。
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ベニーが魔王城の大指令室に入ったとき、すでにオペレーターたちが騒然としていた。
「なんだこれは……!?」
「一体どこから湧いて出たんだっ!!」
「湧くものかよ、こんなものッ! 蛆じゃあねえんだぞッ!!」
「でも、だったら、どこから出てきたってんだよ!?」
ベニーは臨時司令官のアーロン・ブルーイットに駆け寄る。
「何事ですか! サミジーナ様が目覚めたばかりだっていうのに……!!」
「へえ。お嬢ちゃんが目覚めたのかい。そりゃあいいニュースだ。……心の支えになるな」
アーロンはシニカルに笑ってみせるが、それが最悪の状況を示すものであることを、ベニーは知っていた。
「いったい、何が……!?」
「察しろよ。あっちで『科学者』どもが大興奮してるぜ」
モニターに映ったデータを見ながら、白衣を着た集団が口々に奇声を発している。
「ナォ―――――っんということだァァァァ!!!」
「フフ……フフフフフフ!! わけがわからんッ!! わけがわかりませんぞおおお!!」
「見てくださいよこれぇ! これほどの大質量を、こいつ、糸一本で支えてやがりますよぉ!!」
「ナォ―――っんという強靭さ! もしやこれが! 魔王陛下の『知恵の泉』にあったカーボンナノファイバー!?」
魔王ジャックが迎え入れた『科学者』という連中は、自分たちの理解を超えたものを前にしたときほど興奮するという習性がある。
その彼らがこれほどまでに興奮している――これは、世界の誰にも理解しえないような未曽有の事態が、今まさに進行していることを意味していた。
「科学者どもォ!! 詳しいことがわかったんならさっさと報告しやがれッ!!」
「あいや失敬!」
アーロンが怒鳴ると、『科学者』の一人が白衣を翻して振り返る。
「単刀直入に申しましょう!」
『科学者』が指差した千里眼モニターには、青く澄み渡った空が映っていた。
その真ん中に、一点。
まるでホクロのような、真っ黒な点がある。
「あれは―――蜘蛛ですな」
……蜘蛛?
当惑するベニーをよそに、『科学者』は嬉しそうに続けた。
「我らがダイムクルドの全体積、その10倍はあろうかという超巨大な蜘蛛ッ!! それが天より垂れた1本の糸にぶら下がって、刻一刻と地上に近付いているという状況なのですな、これがッ!!!」
ダイムクルドの。
10倍―――!?
「……全然単刀直入じゃねえよ」
押さえた口調で、アーロンが藪をつつきにかかる。
「つまるところ―――それが地上に辿り着くと、どうなる?」
白衣の『科学者』たちは揃ってきょとんとした顔をした。
「そんなもの、決まっておりますな」
何を当たり前のことを、と言わんばかりに、『科学者』は科学的事実を口にする。
「質量と降下スピードから考えて、大陸が丸ごと吹っ飛ぶに決まっていますぞ! ナァーッハハハハハハッ!!!」




