第56話 ケダモノの影
夜の森に、異形の獣たちの嘶きが響き渡る。
その牙が、その爪が、月光を煌めかせながら襲いかかるのは、一人の少女だった。
夜闇に溶けるような漆黒のドレスを纏った少女は、しかし対照的に白いその手を、舞踊めいて躍らせる。
「―― 風が吹き 鳥歌い ――」
「―― 微睡みに 揺られて ――」
ビリッ――! と、空間が揺れた。
異形の獣どもの体毛がざわっと波打ったかと思うと、不意にその肌が弾けて、血飛沫が咲く。
屍となった獣たちは影ひとつ残さず、あたかも紅茶に投じられた角砂糖のように蒸発した――開かれた道を、少女は悠然と進む。
(…………陛下…………!)
夜の森の果てを望んで、少女――サミジーナは切々と念じる。
この先にいるのはわかっていた。
厄介なラケルはベニーとビニーが足止めしている。
あと少しだ。
ようやく……あとちょっとで、彼に……!
闇に満たされた森の中を、異形の影が群れを成して走った。
サミジーナはそれらを忌々しげに見やると、右手に取った鉄扇を振るう。
かつて最強を誇った永世霊王、トゥーラ・クリーズの魂から借り受けた力は、森の木々ごとそれらを薙ぎ払った。
月光の下に身を晒すことさえできない。
ダンジョンを守護する魔物たちは、鉄扇が生み出す振動波に散り散りに引き裂かれる。
「……ぐっ……!」
サミジーナは不意に身体を折った。
「ぐっ……ぇあっ……うえええっ……!!」
胃の底から込み上げてきたものを吐き出し、びちゃびちゃと地面を血で汚す。
トゥーラ・クリーズの魂――それは、どんな知将の魂より、どんな賢王の魂より、サミジーナの身体に負担を強いていた。
釣り合っていない。
分不相応だと、身体が訴えている。
――それでも。
サミジーナは口の中に残った血を呑み込み、睨みつけるように前を見る。
取り戻すのだ。
わたしに生きる意味を与えてくれた、あの人を。
わたしにしか救えない、あの人を……。
わたしが、彼女に会わせてあげることでしか救われない、あの人を……!
「……会わせる、んだ……」
報われるべきなのだ。
世界と敵対する魔王の道を選びながら……それでも、最後の未練で、わたしという手段に縋っていた。
魔王の仮面の裏に潜む、あんなにも綺麗な、愛情……優しさ……! 報われないと、おかしいに決まっている!
それは、わたしにしかできないこと。
わたしが、彼女の魂を呼び出すことでしか、彼は救われない。
たった一言でもいい。
話させてあげたい。
それだけの……ほんの些細な、願い。
わたしという空っぽな人間から生まれた、それが、たったひとつの……!
だから――そのためなら、この身がどうなったって構わない。
顎から滴った血が、点々と地面に跡を作っていた。
しかし……それは決して、留まることはない。
ひとつひとつ、確実に前へと、進み続ける。
さあ……屋根が見えてきた。
報告によれば、あれが、アゼレア・オースティンがジャックを連れて潜伏している空き家。
あと少し……。
腕が千切れてもいい。足が砕けてもいい。
たとえ首だけになったとしても、あそこに、辿り着けば……。
森を抜ける。
もはや、魔物たちが追ってくることはない。
荒く呼吸をし、取り込んだ酸素でかろうじて身体を動かして、サミジーナはその家を目指した。
空き家とはいえ、きっと施錠くらいはしているだろう。
玄関を避けて、裏に回る。
すると……かすかに、声が聞こえてきた。
二つの声が入り混じったそれの中に……確かに、追い求めた声音がある。
「……陛、下……」
サミジーナは口元を綻ばせると、幾分か軽い足取りでその方向に向かった。
あの……部屋だろうか?
ひとつの窓に目をつけて、こっそりと近付く。
何日ぶりの再会だろう……。
よくやった、と褒めてくれるだろうか?
彼が褒めてくれたことなんて一度だってないけれど、今回くらいは……。
我ながら、今回ばかりは頑張った。
空中分解しかけたダイムクルドを纏めて……。
連れ去られたジャックの居場所を突き止めて……。
少しくらい、ご褒美を求めたって、バチは当たらないはずだ。
ああ、でも、贅沢はいらない。
ただ、そばにいさせてもらえれば……。
ただ、あなたの役に立つことができれば……。
ただ……彼の美しい愛情に、報いることができれば……。
サミジーナは、木窓に手を掛けた。
施錠などできない安物だった。
血塗れの手に精一杯の力を込め――
ほんの少しだけ、木窓を持ち上げて――
――暗い部屋を、覗き込む。
そこには、2匹のケダモノがいた。
二つの大きな影が、ベッドの上でひとかたまりになっている。
覆いかぶさったほうの影が激しく動くたび、肉がぶつかり合う音と水っぽい音とが混じり合って、部屋中に響き渡った。
二つの荒い息が、しかし共鳴するように連なって、ときおり互いを塞ぎ合う。
「んっ……ふ……」
「んんっ……ふぅ……」
つん、と鼻を異臭が刺す。
その香りの正体を知らなかったなら、どれほどよかったことだろう。
けれど、サミジーナは知識として知っていた。
だから理解してしまった。
目の前で行われている行為の意味を。
「……ジャックっ……また、私……!」
「ああっ……くっ――」
何かを堪えるような声が聞こえた瞬間、サミジーナは木窓を閉じる。
それでも、音は漏れ聞こえてきた。
とても人間のものとは思えない、理性の欠片もありはしない、ケダモノそのものの声が。
その場に座り込み、両耳を塞いだ。
それでも消えない。
目と耳に焼きついた、光景と声が消えない。
魔王城で見た、彼の憂いを帯びた横顔が。
眠る少女を見下ろす、切々とした表情が。
すべて、いま見たものに塗り潰されてゆく。
(……ああ……ああ……あああああああああああ!!!!)
違う……違う、違う、違う!
あんなのは、違う……! あんなのじゃない! あんなのは……!!
「う、うう……うううううううっ……!!」
――汚れてしまった。
いつしか、サミジーナの目から涙が溢れていた。
――汚れてしまった。
悲しいのか、悔しいのか、腹立たしいのか、自分の感情に名前を付けられない。
――汚れてしまった!
わかることは、たったひとつだけだった。
もはや、自分が取り戻そうとしたジャック・リーバーは存在しない。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
リビングデッドを半分ほど始末して、ようやく狙撃手の『目』を見つけ出す。
屋根の上を飛び越えて、家屋の裏手に潜んでいた彼女に頭上から襲いかかった。
「ぁがっ……!」
組み伏せた衝撃で地面に顔をぶつけたのは、案の定、ビニーだった。
わたしは突きつけるように告げる。
「これで、おしまい」
狙撃がなくなれば、リビングデッドたちを始末するのは容易い。
わたしの勝ちだ。
だけど――
「……ふ、ふふふ……!」
ビニーは組み伏せられたままわたしを見上げると、不敵に笑みを滲ませた。
「わかってるんでしょう? 僕たちは時間稼ぎの囮だって……! もう充分に時間を稼ぎました。そっちも時間稼ぎを用意したみたいですけど、今頃、サミジーナ様が例の空き家に着いている頃です……!」
勝ち誇るようなビニーの言葉に――
わたしは、愕然とする。
遅きに失したから――では、なく。
「…………。サミジーナ、だけ……?」
「……は……?」
「答えて! サミジーナだけで行かせたの!?」
わたしの剣幕に目を白黒させながら、ビニーは零れ落としたように反射的に答えた。
「そ、そうです……。サミジーナ様が、自分一人でいいと……」
「……馬鹿っ!!」
わたしの怒声にビニーはびくりと震えながら、戸惑った表情を浮かべる。
本当に、何も考えていなかったのか。
どんな精霊術を持っていても、サミジーナは、たった10歳の女の子なんだと……!!
「な、なん……何を……?」
「あなたたちなら予想くらいついたでしょうに……! 一つ屋根の下に住んでいる男女が、真夜中の寝室で何をするかってことくらい!」
「えっ……?」
ビニーはぱちぱちと目を瞬く。
「……え? そ、そんな……あの陛下が……? 7人も側室がいたのに、誰一人手を出さなかった方ですよ!?」
「…………ジャックは、記憶を失ってるわ」
「え……!?」
「魔王だったことも、婚約者がいたことも覚えてない。……ただの、若い男の子」
夜闇の中でもわかるくらい、ビニーの顔色がさあっと青ざめていった。
ようやく、理解したらしい。
自分たちが、たった10歳の女の子に、何をしてしまったのか……!
そのとき――ズン、と震動があった。
バキバキバキ、と木が折れる音がする。
今の震動は、木が倒れたことによるもの……?
思う間に震動は続き、木が折れる音もまた続く。
そしてそれらは……数を重ねるごとに、近付いていた。
「……ああ……サミジーナ様……」
ビニーがいたわしそうに呟いて、ぐったりと力を抜く。
その震動と音は、まるで子供が泣き喚いているかのようだった……。
「……後始末は、任せて」
ビニーにそう告げて、わたしは立ち上がった。
徐々に近付いてくる震動の方向に歩く。
村にひしめくリビングデッドは、目的を見失ったかのように止まっていた。
きっと魔王城の中で、大人たちが雁首揃えて狼狽えているのだろう。
本当に……どいつもこいつも。
村外れの森の入口で、わたしは彼女を待ち構えた。
数を重ねるごとに激しさを増す衝撃を、わたしは全身で感じる……。
森の闇の奥から、漆黒のドレスを纏った少女が現れる。
彼女はすでに、血塗れだった。
ダンジョンの魔物にやられたわけじゃないだろう。
きっとそれは、背伸びの代償。
身にそぐわないことをした、当然の結果……。
少女は昏い目で、わたしを睨みつけた。
「…………お前の、せいだ…………」
血の入り混じった声で、呻くように言う。
「…………お前が……あの方を、陛下を……連れていくから…………!! 陛下が……陛下がぁ…………っ!!」
それは怒声だった。
それは慟哭だった。
憧れたものが失われてしまったことへの、怒りと悲しみの混ぜ物だった。
……彼女のその怒りを、わたしは大人として受け止めよう。
彼女のその悲しみに、わたしは人として同情しよう。
けれど。
けれど、とあえて言う。
「汚れてしまった、とでも言うつもり?」
わたしは鉄扇を取り出し、サミジーナに向けた。
「どうやら、性教育がなっていないみたい。……専門外だけど、代わりにわたしが教えてあげる」
――けれど。
その怒りも、悲しみも。
あの子たちの師として……絶対に、認めてあげることはできない。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッッ!!!!!!!」
癇癪めいた絶叫と同時に、辺りに轟音が吹き荒れた。




