第53話 アゼレア・オースティンの逃亡録
アゼレアが持ってきてくれた麦粥を胃に流し込んで人心地つくと、ついに話を本題に入らせることになった――が、その前に。
「ジャック。もうちょっと食べ物を用意してきてくれる? この人、すっごく大食いだから」
「ん? ああ……わかった」
アゼレアが体よくジャックに席を外させた。
ここから先は、彼の前では話しにくい――そういうことだろう。
その背中を見送って、わたしは呟く。
「記憶を……失ってしまったの……?」
「はい」
アゼレアは確然と答えながら、どこか責めるような目でわたしを見た。
「理由は……言わなくても、わかりますよね」
「……ええ。そうね……」
そもそも、7年前。
あんなことが起こった時点で、ああなっていてもおかしくなかった。
まだしもまともなまま――少なくとも脳機能において――でいられたことのほうが、恐るべき奇跡なのだ。
「先生。まずは教えてください」
警戒心と敵愾心をはっきりと込めた視線で、アゼレアはわたしを見据えた。
「あの日……魔王軍がブレイディアに攻め込んだあの日。どうして、私を襲ったんですか? どうして私は、世界の果てまで放逐されなければならなかったんですか?」
あなたが、少女Xだと思ったからだ。
そう答える気には、ならなかった……。
【因果の先導】のことも、少女Xのことも、もうわたしは、軽々に話す気にはなれない。
少女X本人には何もかもバレているのだから、今さら口をつぐんだところで遅すぎる。
そうとわかっていても……やっぱり、話す気にはなれなかった。
もはや理屈なんてない。
鎖で縛られたような気持ちだった。
恐怖という名の鎖がわたしの喉に巻きつき、言葉を紡ごうとするのを封じているのだ……。
「……詳しいことは……話せないの」
アゼレアは目つきを鋭くした。
「ただ……あのときは、あなたがジャックに害を為す恐れがあると、わたしは思っていた……。今ではその疑いは晴れたけれど、あのときのわたしは、あなたを排除しなければ、ジャックが危ない目に遭うと思っていたの。……信じてとは、言えないけれど……本当に、ごめんなさい」
わたしは、心から頭を下げる。
詳しいことを話せない以上、わたしには、こうして謝意を示すことしか、できることがなかった。
「……はあ」
アゼレアの嘆息が聞こえて、わたしは顔を上げる。
「納得は、できません。信じることも難しいです。……でも、謂われのないことはしない人だって、知っているので。その謝罪で、ひとまず水に流すことにします」
「アゼレア……」
なんて優しい子なんだろう。
この子の先生であれてよかったと、わたしは心から思った。
「次は……私の番ですね」
居住まいを正して、アゼレアは語る。
「私がこれまで、どうしてきたのか……お話しします」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「先生に見ず知らずの土地に飛ばされた私は、どうにか元の場所に帰ろうとしました。現在地を調べて、方角を確認して……馬車を乗り継いでいては何ヶ月かかるものかわからなかったので、手持ちのものを売り払って馬を確保しました。それにしたって遠い道のりではあったんですけど」
「……まさか、たった1ヶ月程度で戻ってこられるとは思わなかった」
「馬だけでは無理だったでしょうね。私も最初は、早くても3ヶ月はかかると見込んでいました……。まさかたった3ヶ月で、魔王軍との戦いが終わるとも思えなかったので」
「ジャックが倒されたことは知らなかったの?」
「だいぶ後になってから知りました……。情報自体、ほとんど流れてこない僻地でしたし、とにかく戻らなきゃって必死だったので」
「……ごめんなさい」
「もういいですってば。幸い、ひどいことにはなりませんでした――エルヴィスさんの新・精霊術師ギルドの立ち上げに付き合って、いろいろと経験しておいたのが活きました。その頃に作った人脈に助けられたりもしましたし」
「よかった……」
「なので、旅自体は順調だったんです。でも、何週間か経って、あることを知って……より急いで戻らなくてはならなくなったんです」
「あること?」
「公開処刑の……ことです」
「ジャックの? それは……列強三国以外には公示されてなかったはずだけど。もうそんな近くまで戻ってきていたの?」
「いいえ。ラエスもロウもセンリも、まだ影すら見えない土地にいました――でも、教えてもらったんです」
「教えてもらった……? 誰に?」
「――ルビーです」
「……っ」
わたしはかろうじて表情に出すのを堪えた。
「それって……いつのこと?」
「ええと……確か、あのサミジーナって子――ジャックの側室の子が奪還宣言を出す、何日か前のことです」
エルヴィスは、ルビーに行方不明のアゼレア捜索を一任していた。
彼はその報告を定期的にルビーから受けていた――サミジーナの奪還宣言の前日にも報告を受けたと、エルヴィスが言っていたような気がする。
そのときにはもう、ルビーはアゼレアを見つけていた。
なのに、見つかっていないと嘘をついたのだ。
ルビーが少女Xだったことを考えれば、それは当然とも言える――けれど。
「ルビーから――正確にはルビーの遣いから――ジャックの公開処刑のことを聞いた私は、馬を捨てて、より速い移動手段に切り替えたんです。
……あの噴射炎式の飛行術をとっさに思いつけたのは、我ながら奇跡だと思います」
つまり、ルビーによるアゼレアへの接触が、彼女の帰還を早めた。
ルビーから公開処刑の話を聞いたからこそ、アゼレアはあの処刑場に間に合ったのだ。
裏を返せば、こう言うこともできる。
ルビーが――少女Xが、アゼレアによる公開処刑への介入を仕組んだ、と。
でも……そんなことをして、一体何になるんだろう……?
「それで、ギリギリ処刑に間に合って……そこでの経緯は、省いてもいいですよね」
「……ええ。ジャックを連れて逃げたあとは、どうしてたの?」
「魔王軍による激しい追撃がありました――元より、あの飛行術はあまり長時間使えないこともあって、私は地上に降りて、隠れ潜みながら列強三国の勢力圏から脱出しようとしました。ダイムクルドは悪霊術師ギルドを取り込んでいますから、その影響が残っている土地はどこも危険だと思ったんです」
「そうね……」
「空を飛ぶのも目立つので、ゆっくりと地上を移動するしかありませんでした。何より、ジャックの状態がひどくて……あまり無理をさせると危険だと思ったんです」
「ジャックは……やっぱり、そのときはまだ?」
「……はい。抜け殻みたいな状態でした……。食事すらまともに食べてくれなかったので……私、その……いつも口移しで……」
言いながら、アゼレアは恥ずかしそうに目を逸らした。
少し微笑ましくなる。
彼女が、子供の頃からずっとジャックのことを好きでいるのは、わたしも知っていることだった。
「……こほん。とにかく、そうして逃げ隠れしながら、ジャックの治療を試みたんです。それが効いたのかどうか、いまいち確証がないんですけど……何日かかけて、ジャックは徐々に反応を返してくれるようになりました」
「えっ? ほんとに?」
「はい」
……わたしが何度話しかけても、うんともすんとも言ってくれなかったのに。
「それで、逃亡生活が始まって、確か1週間くらいだったと思いますけど……空き家に潜んで夜を明かそうとしたとき、ジャックが震えながら泣き始めたんです」
「ジャックが!? そんなの……」
「はい。私も、ジャックが泣いてるのなんて初めて見て……私、ベッドの中で彼を抱き締めて『大丈夫』って言い聞かせ続けたんです。それくらいしか、できることがなくて。それで……」
そこで、なぜかアゼレアは口ごもった。
わたしは首を傾げる。
「それで?」
「……あ、あの。これも話さなきゃいけませんか……?」
「? 話せないようなことなの?」
「それは、だって、その……」
アゼレアは急速に、その髪と同じくらい、顔を真っ赤にした。
さっきの口移しの話のときよりも激しい反応だ。
はて。
空き家のベッドで涙を流すジャックを抱き締めて、どうなったのだろう。
……空き家のベッド?
わたしの脳裏に、蘇る記憶があった。
アゼレアとジャックの毛髪が残っていたベッドと……そのシーツに残されていた、比較的新しい血の跡。
「…………あ」
わたしの脳に、答えが閃いた。
「……あの、ベッドの、血の、跡……」
「み、見たんですかっ!?」
「あ、あなたたちの痕跡があったから……そういうつもりじゃなかったんだけど……」
ああ……あの血の跡は、つまるところ、アゼレアの……。
わたしまで顔が熱くなってきた。
あのとき、わたしは、アゼレアとジャックがそういうことをした後の場所を、あれこれと探っていたのか……。
気まずい沈黙が、わたしたちの間に漂った。
わたしよりも、きっとアゼレアのほうがいたたまれないだろう。
自分が純潔を散らした場所を教師に調べられるなんて、一体どういう種類の拷問だ。
「……そ、その……違うんです」
いたたまれなさに負けてか、アゼレアは言い訳を始めた。
「な、慰めてる間に、いつの間にか、ジャックに組み伏せられる感じに……そ、そうなったら、私にはどうしようもないじゃないですか!?」
ラエス王国でもエルヴィスに次ぐ実力者であるアゼレア・オースティンが、まさかどうしようもないということはないと思うけれど。
「……どうだった?」
「ひぇっ!?」
あれ?
何を訊いてるんだわたしは。
「ど、どうだったって、あの、その……と、とにかく、ジャックを受け入れてあげなきゃって、必死で……あ、あんまり覚えてなくて……」
「そ、そう……おめでとう」
「え……あ、ありがとうございます……?」
当惑しつつも、アゼレアはもじもじとはにかみながら、視線を俯けた。
状況がどうあれ、何年越しもの想いが結実したことについては、きっと言祝ぐべきなんだろうと思う。
……エルヴィスと言い、教え子に先を越されてばかりなのは、なんとなく釈然としないけれど。
「と、とにかくっ!」
いい加減耐えられなくなったのか、アゼレアは強引に話を進めた。
「それ以降、ジャックの状態が目に見えて良くなっていったんです」
「……それがきっかけなの?」
「……はい。まあ、おそらく……」
「男の子って単純……」
「いや、私もちょっとはそう思いましたけど! ……でも、やっぱり、ジャックには必要だったんだと思うんです。無条件で全部受け入れてくれる誰かが」
それは……そうかもしれない。
かつては、その役目をフィルが担っていた。
それをなくしてしまって……結果、自分の殻に閉じこもるしかなくなった……。
「ジャックは、自分で歩くようになったり、受け答えをしてくれるようになったりして、回復しました。……でも……」
「記憶を……なくしていた」
「……はい。自分の名前以外のことは、ほとんど覚えていません……。きっと、心を守るために、必要なことだったんだと思います」
……あれほどのことがあった。
希望も、絶望すらも奪われ、数多くの人間に石を投げられた。
かつて記憶を失っていたわたしにだって断言できる。
覚えていないほうが幸せだと。
忘れられるのなら、忘れてしまったほうがずっといいと。
……忘れられたわたしたちは寂しいけれど、それでジャックが安寧を得られるのなら……。
「……私は、ジャックがゆっくり休める場所が必要だと思いました。それで……この家を見つけたんです」
そして、現在に至る。
アゼレアによる過去回想は、こうして終わりを告げた。




