第45話 未来を目指すページ
『―――畏怖と共に胸に刻むが良い。わたしの名はサミジーナ・リーバー。魔王ジャック・リーバーの妻にして、その代理人である』
どこからともなく響いてくる声の名乗りに、エルヴィスたちはざわめき立った。
「ジャック君の……妻……!?」
「側室の一人か!?」
「バカ言えよ。ジャックの側室は全員攫われたルーストだろ!?」
わたしだけが、彼女のことを知っていた。
ジャックを誘き出すため、人質として使った、7年前のフィルと同じくらいの歳の少女。
第一側室サミジーナ―――
7人いる側室の中でも、彼女はジャックにとって特別な存在であるようだった。
ジャック自らが取り戻しに来たのがそれを証明している。
そして、彼女にとってもまた、ジャックが特別な存在であることも、察するのは容易だった。
―― ……とても……悲しい人だと、思います ――
でなければ、あんな答えが出てくるはずがない。
『天空魔領たるダイムクルドは、ここに宣戦を布告する。我が夫にして主たるジャック・リーバーを下賤な衆目の慰みとし、その威光を辱めんとするラエス王国、ロウ王国、センリ共和国の三国に対し、断固たる意志を示すことを宣言する』
感情の窺えない声は、まるで魔王のそれだった。
ジャックの中にあった魔王が、彼女に受け継がれたかのようだった。
『我が夫を晒し首にせんと試みるとき、貴様たちは地獄を見ることになるであろう。
もはや祈るにも遅い。天の怒りに触れたことを、絶望をもって知れ』
高圧的に脅迫するその言葉は、しかし、わたしにだけは悲愴さに満ちて感じられた。
そうか。
あなたは、そうせずにはいられないんだ。
世界を敵に回してでも、と。
あなたも、選ばずにはいられなかった――
『以上、返答は不要である。天災には阿りに傾ける耳はなし。
―――震えよ。そして待て』
それっきり、声は潰えた。
数分前とはまるっきり様相を変えた静寂が、青空の下に満ちた。
「……ダメ」
答える者のいない空に、それでもわたしは告げる。
「あなたのところに返しても、前回の結末を繰り返すだけでしかない。だから―――」
わたしは、空の彼方にいる彼女へと、宣戦を布告した。
「―――あなたに、ジャックは渡さない」
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あちこちがサミジーナの宣戦布告に気を取られている今がチャンスだった。
わたしたちは、王城内のエルヴィスの自室に場所を移した。
ここならエルヴィスも『王眼』による探知を働かせやすく、誰かに聞かれる心配がないからだ。
「ほほう……」
部屋に入るなり、ルビーがベッドを見てニヤリと笑った。
「ここが昨日、お姫さんが純潔を散らした場所……」
「よせ!」
「あだっ!」
ガウェインがルビーに拳骨を落とす。
わたしは口元を綻ばせながら、窓から街に視線を落とした。
街の真ん中に、ぽっかりと穴が空いたかのような、真っ白な土地がある。
かつて精霊術学院があった場所だ。
一面を埋め尽くした大量の白骨は、7年を経ても完全な撤去に至っていない……。
エルヴィス、ガウェイン、ルビー、そしてヘルミーナが、思い思いの場所に腰を落ち着けて、わたしに目を向けた。
言葉もなく、わたしに催促している。
今やわたしにしか話せない、真実を。
「―――ビフロンスは、フィルだったの」
そうして、わたしはすべてを話し始めた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
部屋の中を、重々しい空気が満たしていた。
わたしが知る限りのことを話し終えたとき、4人はそれぞれのやり方でそれを受け止めようとしていた。
エルヴィスはうなだれて顔を伏せ。
ガウェインは堅く目を閉じ。
ルビーはごろんと床に寝転がって天井を見つめ。
ヘルミーナはエルヴィスを気遣ってその肩を支えている。
……すぐに受け止めきるのは、きっと困難だ。
わたしだって、7年もかけてもなお、結局信じきることはできなかった。
―――悪霊王ビフロンスの正体はフィリーネ・ポスフォードだった。
―――ジャックの両親やみんなの師匠、親族が、実は動いて喋るだけの死体だった。
―――それを知ったジャックが、フィルを殺してしまった……。
あまりに埒外。
想像の外。
こうして事実を並べてみても、具体的になぜそうなったのかは、今をもってよくわからない。
さらに。
―――人類は一度滅亡し、わたしはその未来から精霊術で遡ってきた。
―――人類滅亡の犯人はジャックだったが、それを利用した真犯人がいて、それがアゼレアだった。
―――だからわたしは、真っ先にアゼレアを襲撃して、遠く世界の彼方に放逐することでこれを無力化した。
自分で言うのもなんだけれど、とても信じられるような内容じゃない。
〈立ち向かう因果のアガレス〉の精霊術【因果の先導】。
これは一般に知られた精霊術じゃないし、その効果も言わずもがなだ。
そんな精霊術が本当に存在するのか――と、疑うのが当然の心理だと思う。
わたしには、自分が未来から来たことを証明する手段がない。
何か予言しようにも、残念ながら、前回のわたしが死んでタイムリープをした時点は、もうとっくに過ぎ去ってしまっているのだ。
……任せるしかなかった。
わたしの話を、どう受け止めるのか……。
それは、彼ら自身が決めることだ。
何分……何十分……いや、何時間が経っただろう。
気付けば、窓の外は赤く染まっていた。
彼らにも今日やるべき仕事がたくさんあっただろうに、それらをすべて忘れて、わたしの話を受け止めるのに使ってくれていた。
「………………ラケル先生」
やがて――久しぶりに、声が耳朶を打つ。
「一つだけ……教えて、くれませんか」
エルヴィスが俯いたまま、絞り出すように口にしていた。
「先生が経験した未来で……ぼくたちは、勝ちましたか。
ジャック君に……彼に、追いつけましたか……?」
わたしは言葉を選び、慎重に答える……。
「……わたしは、その戦いを直接見たわけじゃない。ある程度は推測になる……。その上で、言うけれど」
「はい」
「あなたたちは、勝った」
わたしはできるだけ、言葉に感情を込めないようにした。
「結局、浄化の太陽の炸裂を止めることはできなかったけど……あなたたちは、勝った。それは、因果に刻まれた、紛れもない事実……」
「……因果、ですか?」
「そう。この世界は、時間ではなく、一つの因果流に沿って進んでいる。わたしが〈アガレス〉の老師から、教えてもらったことのひとつ」
歴史が変わっても、未来が変わっても、なかったことになるものは何一つない。
わたしが、浄化の太陽によって滅亡したあの世界を経験したからこそ、今のこの世界がある。
もはやわたししか覚えていないけれど、あの世界は確かに存在し、因果に刻まれているのだ。
そう……老師は、本のようなものだと言っていたっけ。
物語――すなわち因果は、ただただ次のページへと記されていくだけだ。
主人公が過去に遡る物語があったとしても、前のページに戻ることはない。
過去を変えるという物語があったとしても、以前のページの記述が書き変わることは有り得ないのだ。
過去は変えられる。
未来も変えられる。
でも、あったことをなかったことにはできない。
「……そっか……」
エルヴィスは呟いた。
「勝ったんですね、ぼくらは……。追いつけたんだ……あの日の扉の、向こう側に……」
「……いいの? それで……」
エルヴィスは顔を上げて、ほのかに微笑みながら頷いた。
「いいんです。これでぼくも、心おきなく未来に進めます」
……未来、か。
覚えてもいない過去に囚われ続けて生きてきたわたしには、あまりに眩しい言葉だった。
でも、今は、わたしも未来を目指さなくちゃ。
ジャックが幸せになれる未来を。
「……あのさあ。あたしからもいーか?」
床に寝転がっていたルビーが、むくりと起き上がった。
「その……ダイムクルドを全部焼き払ったっつーアゼレアなんだけどさ。それって、本当にアゼレアだったのか?」
「……それは……わたしも、わからない」
少女Xのことについても、できる限り話してみたけれど、わたし自身、うまく話せた自信はなかったし、エルヴィスたちも判じかねていたようだった。
「ルーストにしか使えない蒼い炎を使っていた以上、アゼレア本人の可能性は高いと思う……。でも、少なくとも、あの様子はわたしの知ってるアゼレアじゃなかった。まるで、中身が入れ替わってるような……」
「操られていたとでも? そのような精霊術がありうるのか……」
ガウェインが眉間にしわを寄せる。
「……わたしの知る限りで、人間を直接操る、あるいは操っているようにみせることができるのは2種類。
〈ナベリウス〉の【三矢の文殊】と〈ビフロンス〉の死霊術。
でも、前者は喋らせたり演技させたりできるほど精度の高いものじゃないし、後者は先代のルーストであるフィルが亡くなってまだ7年……。術者は最大でも6歳ってことになる」
「6歳ね……。逆算すりゃ、フィルもそんくれーの歳から悪霊王として動いてたんじゃねーの?」
「……そうなの。そこが腑に落ちない……」
後の調査で、フィルは実家の家業であるポスフォード商会を地盤として使い、悪霊術師ギルドの運営を始めとした悪霊王としての活動を行っていたとわかっている。
たぶん、真っ先に自分の父親を哲学的ゾンビに変えて、商会を乗っ取ったんじゃないか……。
考えたくはないけれど、そう推測するしかない。
「10年も生きてない子供が、どうして悪霊王なんて名乗ろうと思ったのか……。あんな酷いことをしようと思ったのか……。いくら調べても、きっかけになりそうな出来事が見つからないの。
さらにおかしいと思うのは―――ジャックが、その辺りのことについて、まったく調べようとしなかったこと」
まるで、そんなことは調べなくてもわかっていると言わんばかりだった。
ジャックはきっと、フィルについて、わたしより多くのことを知っているのだ。
これ以上のことは、彼に訊いてみないとわからない……。
「……ほーん。要するに、まだよくわかんねーってことか」
「……ええ」
ルビーの口調は懐疑的だった。
わたしが経験したことについて、眉唾だと思っているのかもしれない。
フィルの件とアゼレアの件には、似た匂いを感じる。
でも、はっきりと繋がっているとは断言できないのが、今のところのわたしの状況だった……。
話題が途切れたところで、エルヴィスとヘルミーナが小さく頷き合うのが見えた。
「ラケル先生。今度はこちらからお話があります」
無意識に俯きかけていた顔を上げる。
決意を秘めた顔で、エルヴィスは告げた。
「単刀直入に言います。
――ジャック君を、攫ってください」
「…………!」
どきりと心臓が跳ねた。
一番言ってほしかったことを、いきなり言われたから。
「ジャックを……連れていけって、こと? ……いいの?」
「はい。公開処刑の日に」
「でも、そんなことをしたら……」
元々、そのつもりではあった。
わたしは腹を決めていた。
世界を敵に回してでも、世界をめちゃくちゃにしてでも、ジャック一人を助けてしまおう、って。
そのために、エルヴィスたちに協力を仰ぐつもりだった。
でも、まさか、エルヴィスの方から、そんなこと……。
「ご心配には及びませんわ」
胸を張って言い切ったのは、エルヴィスの隣にいるヘルミーナだ。
「これでも王族です。民を纏めるのがわたくしたちの役目。
多少の政情不安がなんですか。その程度のこと、きっとはねのけてみせます」
「本当に……いいの……?」
「きっと大変でしょうけどね」
エルヴィスは苦笑した。
けれど、その瞳は澄んでいた。
「ぼくも思っていたんです。ジャック君を、何かががんじがらめにしている。ジャック君を苦しめている何かがある――って。ラケル先生の話を聞いて、確信を深めました。
だったら、彼だって救われなくちゃならない。彼も被害者なんだ。彼一人を断罪して、それで終わりなんてこと―――ぼくは認められません。
公私混同も甚だしいですけれど、今だけは、ぼくはぼく自身にそれを許します」
へっ、とルビーが笑って、跳ねるように立ち上がった。
「しゃーねーなあ。なんとかしてやっか!」
「バーグソン……貴様はまたそうやって簡単に……!」
「じゃ、お前はすっこんでろよ、ウドの大木」
「……何を馬鹿な。オレも協力するに決まっているだろう! オレとて、ジャック・リーバーをみすみすこのまま……!」
「へー。素直じゃん。ちょっとは成長したか?」
エルヴィスはルビーとガウェインのやりとりを眺めて、微苦笑をした。
それが……ああ、本当に……みんなが小さかった頃を、思い出して……。
「……エルヴィス……みんな……」
涙ぐみそうになって、かろうじて堪える。
……ああ、もう……。
先生は、わたしの方なのに。
どうして、わたしばっかり、彼らに頼って、教えてもらって……。
「ありがとう……。本当に、ありがとう……」
わたしは、気の利いたことは何もいえず、ただそれだけを繰り返した……。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
そして、その日が来る。




