第42話 未来の居場所
今日の分の仕事を終え、エルヴィスは王城の自室にいた。
「……アゼレアさんの行方は?」
エルヴィスが尋ねると、ルビーは溜め息をついて首を横に振った。
「さっぱりだぜ。何の足取りも残ってねー。いきなり消えちまったって感じだ……。無事なんだかそうじゃねーんだか……判断自体がまったくつかねーってのが正直なところだな」
「そうか……。引き続き、捜索を頼めるかい?」
「そりゃあな。魔王退治っつーでけー仕事が、突然パアになっちまったことだしよ」
口を尖らせるルビーに、エルヴィスは苦笑した。
「納得がいっていないのかい?」
「ったりめーだろ。ジャックの奴とはあたしらが決着をつけるはずだったんだ。なのに、いきなりあんなめちゃくちゃな――王子様、あんただってそうじゃねーのか?」
「……それは……」
「ジャックの奴は捕まってからすっかり腑抜けになっちまった。7年前のあの日のこと、訊こうと思っても訊けやしねー!
だったら、って先公に訊いてみても、ずっと檻ん中のジャックにご執心でさ、だんまりだよ!
このまま、何もわからねーまま、ジャックが処刑されて終わりか!? 消化不良にもほどがあるぜ! こんな終わり方でホントにいいのかよっ!?」
「……………………」
エルヴィスは眉を曇らせて、口を噤んだ。
その表情を見て、ルビーはばつ悪げな顔になり、ぽりぽりと頭を掻く。
「……わかってるぜ。王子だもんな。好きにしてられたのは、勇者だった間だけ、だろ」
『救世合意』によって選出された『勇者』。
その特権的な地位にいる間だけが、ラエス王国第三王子というしがらみから解き放たれる、唯一の時間であった。
しかし、魔王が倒された今、彼はもはや勇者ではない。
王国の繁栄に奉仕する第三王子という立場へと、戻らざるを得なくなった。
「……ごめんね……」
エルヴィスは、ぽつりと呟く。
「7年も待ってもらったのに……ぼくは結局、彼のもとにたどり着くことが、できなかった……」
「あーもう! しんきくせーな!!」
ルビーは空気を打ち払うように「あ゛ーっ!!」と叫んだ。
「仕方ねーだろ! あたしらは遅きに失したんだ! それだけだ! よくあることだろ!?
……もう、あたしらにゃあ、ジャックのことをどうこうする権利はねーんだよ、きっと。それは、あの先公に取られちまったんだ。
だったらさ……どうにかできるのは、あの人だけだろ?」
「…………そう、だね」
「今のあたしたちにできるのは、今のあたしたちにできることだけだ。……できることをしようぜ、王子様!」
元気づけるように言って、ルビーは部屋を出ていった。
一人になったエルヴィスは、自室のベッドに腰掛ける。
彼には、どうすればいいかわからなくなっていた。
つい先日まではシンプルだった。
魔王であるジャックのもとまでたどり着き、対話する。
ただそれだけを目指していればよかった。
でも今は、公開処刑の準備を事務的に進める日々。
あれほどに焦がれた7年前の真実への道を、自ら閉ざしつつある。
……もし。
もし、ジャックと正面から対話し、ぶつかり合い、すべての事実を聞いた上での処刑だったのなら、心の整理もついたかもしれない。
しかし、求めたものが何も手に入らないままに進む処刑作業は、エルヴィスの心に強い軋みを上げさせていた……。
(ぼくに、できること……)
ルビーの言葉が脳裏に蘇る。
それは、いったい、なんだ……?
「―――エルヴィス様?」
控えめなノックの後に、そんな声が聞こえてきた。
「……ヘルミーナかい?」
「はい。……入っても、よろしいでしょうか?」
「うん……鍵は開いてるよ」
魔王の公開処刑に関する調整のため、レイナーディアの外交館に滞在しているヘルミーナが、部屋の中に入ってくる。
「許可は取ったのかい?」
「プライベートな時間に、やがて夫婦となる婚約者に逢うのに、いったい誰の許可が必要でしょうか?」
「剛胆だね……」
淡く笑うエルヴィスの隣に、ヘルミーナは寄り添うようにして腰掛けた。
杏色の綺麗な髪が、ふわりと広がってエルヴィスの腕をくすぐった。
「……エルヴィス様。わたくしには、知ったようなことは申せません」
そっとエルヴィスの手に自分のそれを触れさせながら、ヘルミーナは言う。
「ですけれど……今のエルヴィス様を見るのは、とてもつらいのです。日に日に、エルヴィス様の中の何かが、脆く崩れていくようで―――」
「……ごめんね。心配かけて」
「いえ! ……いえ、そのようなこと、どうでもいいのです……」
ぎゅっと、繋ぎ止めるように、ヘルミーナはエルヴィスの手を強く握った。
「何も言えずとも、ただ、聞くことならばできます。……エルヴィス様の心の中に積み重なったものを、どうか、わたくしにも分けてくれませんか……?」
その瞬間、エルヴィスの胸の内を、激流のような感情が暴れ狂った。
気付いたときには、ヘルミーナの細い肩を強く抱き寄せて、ベッドの上に押し倒していた。
シーツの上に、杏色の髪が広がる。
ヘルミーナは悲鳴も一つも上げず、ただエルヴィスの顔を見上げていた。
その瞳を見て、エルヴィスは、自分の中の堰が壊れたことを自覚する。
「……こんなの、最低だってわかってる……」
阻むものがなくなった涙が溢れて、ヘルミーナの頬にぽたぽたと落ちた。
「でも、ぼくにはもう、自分が何をすべきなのか、何がしたいのか、何がしたかったのか、わけがわからないんだ……!
こんなのは初めてで……怖くて……今まで積み上げてきた、自分ってものが、一気に崩れていくみたいで……!!」
「大丈夫です」
ヘルミーナは両手をそっとエルヴィスの背中に回し、優しい力で抱き寄せた。
「崩れそうなら、支えればいい。そのための夫婦です。そのための妻です。……そうでしょう?」
「……ぼくは、妻を守れる夫になりたかったよ」
「まあ」
ヘルミーナはくすりと笑う。
「わたくしを誰だとお思いですか? 大の男も泣いて恐れるロウ女、その鑑たる第一王女でしてよ? そこらのか弱いお姫様と一緒にしないでくださいませ」
エルヴィスもまたくすりと笑みを漏らした。
「そういえばそうだった。……それじゃあ」
「はい」
婚約者に顔を近づけながら、エルヴィスは囁く。
「ちょっとだけ……甘えさせて、くれるかな」
「ちょっとと言わず、いくらでも。――んっ……」
唇と唇がゆっくりと重なり、そして―――
「……あっ……」
エルヴィスの手が、ヘルミーナの胸の膨らみに優しく触れた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
時を忘れて互いを求め合った後。
エルヴィスとヘルミーナは、汗ばんだ裸体を絡ませたまま、額をくっつけ合っていた。
間近からじっと見つめ合いながら、乱れた息を整える。
その湿った呼気さえもが混じり合って、だからもはや、二人に交わしていないものなど一つもなくなった。
それが終わった頃に、ヘルミーナの口元が不意に綻ぶ。
「……ふふっ」
「なんだい、いきなり笑ったりして」
「エルヴィス様も、可愛いところがおありなんだなと思って」
「そっちこそ。いつもの凛とした態度が嘘に思えるくらい可愛かったよ」
「あんっ」
背中の窪みに指を添え、細い腰からお尻までの曲線をつーっとなぞっていくと、ヘルミーナの身体がピクッと震えた。
ヘルミーナは嫣然と微笑んで、じっと瞳を見つめてくる。
「もう……またその気になってしまいますよ?」
「まだできるの……?」
エルヴィスは若干顔をひきつらせた。
ロウ女の強さは閨の中でも発揮されるという下世話な噂があるが、あながち間違いでもなかったらしい。
エルヴィスには加減する心の余裕などなかった。
ヘルミーナの、柔らかく、熱く、そして優しい身体を、溺れるようにして貪った。
なのに、生娘だったはずの彼女は、彼の暴走する欲望を見事に受け止めきってみせたのだ。
限界が見え始めて理性が戻ってきた頃には、むしろ主導権を取られていたくらいだった。
「次は初めのように、力強く迫っていただけるとわたくしとしても……」
「いや、まあ、うん、また今度ね」
これは結婚してから大変だな……と思いつつ、その気になりつつあるヘルミーナを宥める。
代わりとばかりに抱き寄せて、素肌で彼女の柔らかさと温かさを感じながら、エルヴィスは囁いた。
「本当はね……7年前のことに自分の中で整理をつけてから、こうするつもりだったんだ」
「……はい」
「そうしてから、ようやくきみと向き合う準備が整うと思ったんだ。……でも、その機会はきっと、もう永遠に訪れない」
「……はい」
だから、袋小路だった。
未来に続くと思っていた道が突然に閉ざされて、後には過去に囚われた自分だけが残った。
暗いところに閉じこめられた子供が泣き叫ぶように、エルヴィスもまた、心の中で泣き叫んでいたのだ……。
「でもさ……こうして身体を、呼吸を、心を重ねてるうちに、きみがぼくの中に入ってくる感じがしたよ。そして、きみを自然に受け入れているぼく自身を見つけた。
きみを受け入れた場所は、7年前のことが埋め尽くしている場所とは、違う場所だった。過去と決別しなきゃ未来に進めないなんていうのは、きっと、ぼくの思いこみだったんだ……。
だから、ヘルミーナ、遅くなったけど―――」
小さく。
しかし、心から想いを込めて。
エルヴィスは告げる。
「―――愛してる」
瞬間、抱き締めたヘルミーナの身体が、ふるりと震えた。
「ヘルミーナ?」
少し身を離して彼女の顔を見ると、その目尻には雫が輝いていた。
ヘルミーナは潤んだ瞳で、間近からエルヴィスの顔を見つめ、
「ようやく……」
唇を震わせながら笑みの形にする。
「ようやく……口説き落とされてくれましたね、エルヴィス様……?」
エルヴィスは微苦笑を浮かべた。
「ここまでされちゃあね……落ちるよ、どんな男でも」
唇を、ヘルミーナの唇が塞ぐ。
エルヴィスはそれを受け入れ、彼女の身体を強く抱き締めながら、舌を絡ませた。
お互いが溶け合うような長い口付けを経て、
「……っはあ……」
ヘルミーナが熱い呼気を吐きながら、熱っぽい目で瞳を覗き込んでくる。
「……エルヴィス様? もう1回だけ……」
「え゛っ」
完全に熱を帯びたその表情を眼前にしては、『正直もう寝たい』とは口が裂けても言えなかった。
「が……がんばるよ……」
「はい……❤」




