第36話 今回の彼女
サミジーナは天蓋付きベッドの上で目を覚ました。
「……………………」
このふかふかさと目覚めて最初に目にする天蓋には、まだいまいち慣れることができない。
けれど、ちゃんと眠れるようになっただけまだマシな方で、この後宮に連れてこられてすぐの頃など、幼馴染みのシトリーに頼んで一緒に眠ってもらっていたのだ。
起き上がったサミジーナは、窓際に行ってカーテンを開け放つ。
朝の健やかな陽光を浴びながら、シルクの寝間着を脱いで一糸纏わぬ姿になった。
朝の日課だ。
窓の外に広がる世界を目に焼きつけるように瞼を閉じ、晒した素肌で世界そのものを感じる。
しばらくそうしていると、肉体から意識が遊離し、ふわふわと浮き上がっていくような感覚を得た。
サミジーナの精霊術【迷魂の人形】は、人の魂を己が身に降霊させ、会話をしたり、その知識を得たりといったことができる力である。
物心ついた時より、その貴重な力を操るための訓練ばかりさせられてきたサミジーナは、降霊時の独特の感覚を忘れないようにするため、毎朝欠かさず魂の世界と交信する日課があるのだった。
その世界に決まった形はなく、ただサミジーナ特有の感覚によって、なんとなく感じられるだけでしかない。
しかし、サミジーナのイメージ上では、それは上にも下にも果てなく広がる星空として像を結んでいた。
星々の一つ一つが、人々の魂。
生者も死者も分け隔てなく、ただ星となって輝いている世界……。
それらを、どれか一つに特定することなく、サミジーナは少しずつ自分の中に迎え入れた。
世界すべてと繋がったような感覚。
その後に、散らばった情報が頭の中に去来する。
――がんばるかあ
――魔王軍が
――徹夜しちゃった
――はあ、すごかったあ
――怖い……
――ようやく、始められる
誰の声なのか、どこからの声なのか、どういう意味なのか、サミジーナにはわからない。
しかし、世界の上位に確かに横たわっているその世界と繋がる感覚は、定期的に思い出しておかなければすぐにわからなくなってしまうくらい、あやふやなものなのだ。
もし、降霊ができなくなれば、サミジーナにはこの場所にいる意味がなくなってしまう。
否。
この世界に生きている意味さえも、なくなってしまうのだ……。
(あっと)
サミジーナは交信を打ち切る。
あまり多くの魂を受け入れすぎると危険だ。
あの人の望みを叶える前に死ぬわけにはいかない。
瞼を上げて息をつくと、コンコン、とノックがあった。
きっとシトリーだ。
サミジーナは裸のままドアへ向かい、これを開けた。
「あっ! もう、サミジーナ! 裸のまま出てきちゃダメじゃない!」
廊下にいたメイド服の少女は、怒った顔をしながら急いで部屋に入り、ドアを閉めた。
サミジーナの幼馴染みにして、後宮のメイドでもあるシトリーだった。
「シトリーだし、平気だよ」
「あたしじゃなかったら――例えば、陛下だったらどうするの?」
「陛下だったら?」
もしジャックを全裸で出迎えてしまったら―――
「……すごく失礼になっちゃう」
裸なんて、正妻室で降霊をする時にいつも見られているけれど、あれはしっかり命じられるのを待ってから脱いでいるわけで、命じられてもいないのに裸で応対するのは不敬に当たるだろう。
「はあ……」
極めて真っ当な答えを出したはずだけれど、シトリーはなぜか嘆かわしげに溜め息をついた。
「あのね、サミジーナ。女の子は、男の人に裸を見られたら、恥ずかしがるものなの!」
「えっ……? でも、陛下にはいつも見られてるよ?」
「時と場合と雰囲気ってものがあるでしょー!?」
同じ『裸を見られる』という事象も、周辺状況の変化によってその意味合いを変えるらしい。
「難しい……」
「とゆーか、サミジーナは、陛下に裸見られて恥ずかしくないの? 心もとなくなったり、膝を摺り寄せたり、胸やお股を隠したくなったりしない?」
「羞恥を感じるほどの身体じゃないよ」
まだたった10歳でしかないサミジーナの身体には、女性らしい起伏などこれっぽっちもありはしない。
「へえ~? じゃ、陛下以外の男の人だったら? 例えば、ベニーさんとか」
ベニーというのは、魔王たるジャックの側近の一人だった。
ジャックの秘書のようなもので、第一側室であるサミジーナとも顔見知りだ。
もし彼に裸を見られたら……。
サミジーナは想像してみた。
「う―――」
反射的に、腕で胸と股間を隠す。
そんなサミジーナを見て、シトリーがにやにや笑った。
「恥ずかしい?」
「というか……ヤだ」
拒絶感――そう、『拒絶感』があった。
ジャック以外の男性に裸を見られることを、意識のどこかが拒絶している。
「うんうん。安心したよ、あたしは。サミジーナにも真っ当な乙女心が、一応は存在するんだね。まだまだ未熟だけど」
「どういうこと、シトリー?」
「教えてあげるけど、その前に服ね。いつまでも裸でいたら風邪ひいちゃうよ」
シトリーは部屋の隅にあるクローゼットを開ける。
今日はこれがいいかあれがいいかとドレスを何着も吟味してから、そのうちの一着を持って戻ってきた。
「ほら、手上げて」
「うん」
貴族のドレスというのはとても複雑で、少し脱ぎ着するのにも手間がかかるのだ。
サミジーナのドレスは一人でも脱ぎ着できるようになってはいるものの、クローゼットにずらっと並んだドレスに圧倒されて、どれを着ればいいのかわからなくなってしまうので、いつもシトリーに手伝ってもらっているのだった。
この後宮に来るまで自分の着ているものを気にしたことなんてなかったサミジーナにとっては、毎朝自分の衣服を自分で選ぶというのは、とても難しいことなのだ。
「そういえば」
サミジーナの腕にドレスの袖を通しながら、シトリーが話しかけてくる。
「もうすぐ着くみたいだよ。ロウ王国の……ブレイディア? だっけ?」
「……そっか」
この国――天空魔領ダイムクルドは、直近に戦を控えている。
ロウ王国王女、ヘルミーナ・フォン・ロウを略取するための戦だ。
「また側室が増えちゃうねえ。うかうかしてると陛下を取られちゃうかもよ?」
「……わたしは陛下のものだけど、陛下はわたしのものじゃないもん」
「はいはい。そうだったね」
「それに陛下は、別に性的な対象として側室を増やすわけではないし」
魔王と呼ばれる彼は、しかし暴君ではないのだ。
冷徹な仮面の裏に、優しい顔を隠していて……。
「……どうして、戦争ばかりするのかな」
天空魔領ダイムクルドは、その誕生以来、方々との戦争を繰り返している。
それは領土を拡充するための戦いであったり、戦力となる本霊憑きを奪取するための戦いであったり、何かしら国益を求めるものではあった。
しかし、サミジーナに拘らず、世界中の多くの人々が、それ以上のものを魔王軍の戦に感じている。
毎朝の日課である世界との交信でも、不安感や恐怖心を感じる割合が大きくなっていた。
魔王軍という得体の知れない存在の影響であることは、間違いのないことだった。
「うーん……それが知りたいならさ、自分の目で見てみれば?」
「え?」
軽い調子で放たれた言葉に、サミジーナはシトリーの顔を見返した。
「見てみなよ、陛下が戦ってるところを。サミジーナはお嫁さんなんだから、そのくらいの権利はあるでしょ?」
「で……でも……」
「ダメで元々だよ。迷惑だったらダメだって言われるだけ。だーいじょうぶ! 陛下はそのくらいのことでサミジーナを嫌いになったりしないって!」
ダメで元々。
遠慮する気持ちはあったが、そう言われてしまうと、逃げ道が塞がってしまう。
それに、ジャックが戦っているところを見てみたくないのか、と訊かれたら、それは嘘になってしまうだろう。
彼の生き様を。
彼の在り方を。
より多く、より長く、傍らで見守っていたいという欲求が、サミジーナの中には確かに、あるのだった……。
「決まり!」
ドレスを着せ終えて、シトリーはサミジーナの肩を強めに叩いた。
「あたしはついていけないけど、ちゃんと見てくるんだよ! 旦那様の仕事ぶりを!」
「う……うん……」
もはや否定する理由は見つからず、半ば押し切られる形で、サミジーナは頷いたのだった。




