第33話 カタストロフ・ポイントⅢ
――――――そして。
ダイムクルドのすべてが蒼い炎に包まれた。
死した世界に残った、最後の人類。
約束の方舟に拾われたあらゆる命が、青ざめた炎の中に消える。
残ったはずのものが、無慈悲に燃え尽きていく様を、魔王は無言で睥睨した。
驚きはしない。
ただ、こう思った。
―――ああ、やっぱり。
惑島の大半と衛島のすべてを覆い尽くした蒼炎を瞳に映しながら、魔王は背後に声を投げかける。
そこには―――
彼自身が手を下した、級友たちの亡骸があった。
「馬鹿の一つ覚えだな」
答えなど、あるはずもない。
彼らは動かない。
魔王自身が、その命を絶ったのだから。
しかし、その蒼い炎が証明していた。
彼女の存在を。
彼女の存命を。
「―――あれー? バレちゃってましたか?」
むくり、と。
当然のように、アゼレアが起き上がった。
赤い髪の少女は、自らの足ですっくと立ち上がり、血に濡れたローブに眉をひそめる。
彼女は諦めたように溜め息をつくと、パンパンとローブの汚れを手で払い、にっこりと笑った。
「お久しぶりです、兄さん♪ どうして私がわたしだとわかったんです?」
アゼレアは――
否。
妹を名乗る悪魔は。
まるでクイズ番組でも見ているかのような気軽さで、前世の兄に問いかける。
「……お前はいつも俺に近しい女性に転生する」
魔王は振り返った。
黄昏色の剣は、闇夜にあっても輝きを失わない。
「アネリもそうだった。フィルもそうだった。だから後宮を作ればそこに紛れ込むかと思ったが……そうではなかった。
ならば、アゼレアが第一候補だ。単純な消去法に過ぎない」
世界を終末に導いた黄昏色の剣は、しかし今、真の敵を前にして、一層の輝きを帯びていた。
その剣先を。
魔王は、アゼレアの姿をした怪物に突きつける。
「待っていたぞ、この時を。
もはや貴様に転生先はない―――!!」
必ず殺す。
確実に殺す。
人類すべてを生贄に捧げて、ようやく追い詰めたのだから……!!
「ふ……ふふふっ!」
追い詰められたはずの妹は―――
しかしなぜか、艶めかしく笑みを零した。
「ああ……ああ、ああ、ああっ!
嬉しいです! わたし、本当に嬉しいです、兄さんっ!
わたしのために、余計な人類を掃除してくれたんですよね?
感動ですっ! 自分でやろうと思っていたのに、兄さんが率先してやってくれるなんて!
これで思う存分、気兼ねなしに愛を育めますね、兄さんっ!」
魔王の表情は、おぞましいものを見たように歪んだ。
言葉は通じるようで通じない。
何を言っても、何をやっても、この悪魔は自分の都合のいいように解釈してしまう。
いてはいけない、こんなモノは。
たとえ終わった世界であっても、こいつが存在していい場所などない。
問答は無用だった。
魔王の殺意を受けて、黄昏色の輝きが闇を裂く。
これ以上。
一瞬たりとも。
その存在を許さないために。
魔王は、かつて妹だったモノへの一歩を踏み出した。
―――直後。
その足は止まる。
地上の人類は死に絶え。
天空に逃れた人々も燃え尽き。
世界には、ここにいるたった二人が残った。
そのはずだった。
しかし――
今。
魔王の耳に入ってきたのは。
足音。
この場の二人のどちらでもない足音が――
――引きずるような調子で、ゆっくりと近付いてくる。
「……?」
アゼレアの姿をした妹も、怪訝そうに音の方向を見た。
積み上がった瓦礫。
その山の間から。
一人の人間が、姿を現す。
「……あ……」
魔王は、今度こそ驚愕の表情を作った。
それは、もういないはずの人間。
彼が打ち捨てたはずの人間。
青い髪。
尖った耳。
服は、彼が斬り裂いたときのままに破けている。
片方の足を引きずって、這う這うの体でやってきたのは―――
「…………ラケ、ル…………?」
死体を。
そう。
確認――していない。
致命傷の手応えは、あった。
しかし。
しかしだ。
彼女の精霊術【神意の接収】。
他者の精霊術の模倣を可能とするそれは、そのレパートリーの一つに、傷を治癒する【癒しの先鞭】を擁する。
惑島の下。
誰にも見咎められることのない崖の途中で、応急処置に専念すれば……。
一命をとりとめられるかもしれない。
今の今まで、誰に気付かれることもなく。
ラケルは、消耗した様子の瞳で、アゼレアの姿をした『そいつ』を見た。
「…………え…………?」
そして。
こう呟くのだ。
「…………あなた、だれ…………?」
どう見てもアゼレアでしかない『そいつ』を見て。
お前は誰だ――と。
瞬間、魔王の胸の内に、消え去ったはずの感情が吹き荒れる。
わかるのか。
わかるのか、お前には。
誰にも理解されないと思ってきた。
誰にも理解できないと思ってきた。
だけど。
お前には。
わかるのか、お前には!
ラケル―――!!
「……あーあ」
『そいつ』は。
アゼレアと同じ、しかしまったく異なる顔と声で、つまらなそうに言う。
「羽虫が、まだ一匹、残っていましたか」
反射的だった。
「やめッ――――!!」
願いは届かなかった。
願うのが、あまりにも遅すぎた。
『そいつ』が手から迸らせた蒼炎に、ラケルは全身を包まれた。
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熱さは感じなかった。
ここに来るまでの間に、痛いのにも苦しいのにも慣れすぎて、今さら全身を燃やされたところで、怖いとも思えなかった。
ラケルは力なく倒れ伏しながら、蒼炎の向こうにジャックの顔を見る。
(……ああ)
最期に灯ったのは。
ほんのささやかな。
ひとつの願い。
(……そんな顔、しないで、ジャック……)
ジャックは憎悪と怨念と怒りを混ぜ込んだ凄絶な表情を、アゼレアの姿をした何者かに向ける。
黄昏色の剣が振りかぶられた。
アゼレアに見える誰かは、やけに嬉しそうに蒼炎を奔らせた。
正真正銘、世界最後の戦いが始まる。
しかし―――
ラケルは、その開幕を見届ける前に。
意識と。
命を。
―――失った。




