第32話 カタストロフ・ポイントⅡ
ロウ王国王女、ヘルミーナ・フォン・ロウは、王城のバルコニーから空を見上げていた。
いまだ、赤く染まった浄化の太陽は中天にある。
しかし、ついさっきのことだ。
分厚い黒雲の切れ間から、黄金の光が射した。
まさに伝承にある通りの現象。
天剣が真の姿を現したとき、天が黄金に染まる―――
「エルヴィス様……!」
だから、彼女は確信した。
彼が勝ったのだと。
魔王は倒されたのだと。
世界は―――救われたのだと。
それからほんの数分後。
浄化の太陽が、ピカッと光った。
轟音も。
衝撃も。
何もかもが破壊に遅れる。
唯一先んじたのが光であり。
だからヘルミーナには、『光った』としかわからなかった。
大地がめくれ上がる。
河が、森が、山が、街が。
空から降り注いだ光と風に押し潰される。
ヘルミーナは、最期まで信じていた。
エルヴィスが勝ったのだと。
彼が帰ってくるのだと。
彼と結ばれるのだと―――
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同じことが。
あらゆる場所で起こった。
すべては一瞬。
たった一度の、閃光のうちに。
分厚い黒雲は消え散った。
雨音は凪ぎ、星々が顔を見せた。
こうして、夜は取り戻され。
しかし。
それを、地上から見上げる者はいない。
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ダイムクルド惑島の片隅。
魔王の後宮たる旧リーバー伯爵邸が建つ一帯に、大きな地割れが走っていた。
かつて、ジャックとフィルとラケルが修行に使い、マグマによって燃え尽きた森も、地面ごとバラバラになって崩れ落ちる。
地割れはとりどりの花々で彩られた庭園にも及び、そのすべてを呑み込んだ。
依って立つ地盤を失った屋敷は、急激に安定を失い、ぶるぶると震えながら崩れ始める。
梁や柱が次々と砕け、倒れる中で、一人の少女が泣きながら叫んだ。
「な、何よお……!! なんなのよおっ!! 誰かっ……!! 誰かああああああっ……!!」
降り注ぐ瓦礫を躱しながら、ヴラスタはその声のもとへ走る。
命からがら辿り着くと、声の主――デイナは、パッと顔を輝かせた。
「ヴラスタっ!! た、助けにっ……助けに来てくれたのねっ!?」
「……はい。そうですよ~、デイナさん……」
「ああっ……!」
抱きついてくるデイナを、ヴラスタは強く抱き締める。
逃げ場などないことを、ヴラスタは知っていた。
助かりなどしないことを、ヴラスタは知っていた。
それでも彼女は、デイナの背中を優しく抱く。
「大丈夫ですから~。あっちがついてますからね、デイナさん……」
「よかった……! よかったわ。わたくし、どうなることかと―――」
ヴラスタは最期まで、真実を告げなかった。
用済みになったら、自分たちは始末されてしまうことを。
魔王が後宮にいろと言ったのは、後始末に都合がいいからだということを。
ありもしない夢を。
ありもしない希望を。
彼女なりに愛した少女に、抱かせたまま―――
瓦礫が降り積もる。
悲鳴の一つも、残りはしない。
地面ごと瓦解して、旧伯爵邸もまた、遥か地面に消えてゆく。
正妻室に安置されていた棺も。
その中に保存されていた、とある少女の遺体も。
―――何もかもが、死の世界に打ち捨てられた。
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静寂が満ちる―――
村は潰れていた。
街は壊れていた。
国は終わっていた。
文明のすべてが、今ここに潰えた。
天空に浮かぶ、ほんの少しの島々を例外として。
―――人類は滅亡した。
―――世界は終了した。
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いきなり雲海が消え散ったと思うと、地上はすでに死亡していた。
見渡す限りに広がるのは、世界の亡骸だった。
『王眼』を有するエルヴィスは、ゆえにこそ、他の3人よりも正確に、その事実を理解する。
誰もが死んだ。
父たるラエス国王も。
婚約者たるヘルミーナも。
もはや、地上には誰も生き残っていない。
彼の手から、天剣が零れ落ちた。
翅のように透き通った薄い刃が、嘘のように簡単に砕け散る。
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彼という存在が、ただただ停止した。
悲嘆に暮れるでもなく。
絶望に咽ぶでもなく。
それが、本当に打ち砕かれた人間の末路だった。
「仕上げだ」
魔王が告げる。
勇者たちは動かない。
黄昏色の剣だけが、無慈悲に振るわれた。
ガウェインの盾が両断される。
鎧が割り砕かれる。
彼の巨体が袈裟懸けに斬り裂かれ、真っ赤な飛沫を大量に散らした。
どうっと倒れる。
血だまりが広がってゆく。
断末魔さえも、ありはしなかった。
ガウェインは動かない。
動かない。
「ぁぁ……ぁあぁあああああぁぁ……!!!」
ルビーが呻き声とも泣き声ともつかない声を上げて、倒れ伏したガウェインに駆け寄った。
揺する。
揺する。
ガウェインは動かない。
それでも揺すり続ける、彼女の胸から。
黄昏色の切っ先が生えた。
ルビーの心臓を、黄昏色の剣が背中から突き刺していた。
「あの世でなら、少しは素直になれるだろう」
ルビーは、ガウェインに折り重なるようにして倒れる。
彼女は動かない。
ガウェインと同じように。
動かない。
「……ジャ……ック……」
アゼレアが、ふらふらと立ち上がった。
「……ジャック……ジャック……!!」
譫言のように魔王の名を呼びながら、手を伸ばす。
もう、そこにはいないと知りながら。
愛した少年の名を求めて、手を伸ばす―――
そのお腹に、黄昏色の剣が突き刺さった。
彼女の赤いローブに、さらに赤い染みが広がった。
それでも、彼女は進む。
剣が深く食い込むのも厭わず、魔王の顔に手を伸ばす。
「…………ジャッ、ク…………」
指先が。
魔王の頬に触れた。
魔王は眉一つ動かさない。
ただ、無言で。
剣を引き抜く。
アゼレアの足元に、大量の血が流れ落ちた。
その中に沈むように。
彼女はくずおれる。
そして、たった一人が残った。
血に沈んだアゼレアを一顧だにせず、魔王は勇者の側で剣を振り上げた。
「……じゃあな」
最後に紡がれたのは。
きっと、ジャック・リーバーの断末魔。
「お前たちとの学院生活は……本当に、楽しかった」
黄昏色の刃が振り下ろされる。
勇者エルヴィスの首から上が、呆気なく宙を舞う。
それが、ころころと地面を転がって、止まってから。
頭部を失った身体が横倒しになった。
エルヴィスは動かない。
動かない。
もう、永遠に。
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こうして―――
勝利を収めた魔王は、かつて居城があった場所から、世界を見下ろした。
世界とは、かつて数々の国々が栄えた地上のことではない。
天空を浮遊する複数の島から成る世界。
ダイムクルド。
今日よりこの国が、世界であり宇宙となる。
ゆえに惑島。
ゆえに衛島。
二度と人の住むことのない大地を恒星と見立てれば、それが自然な命名であった。
魔王は、最後まで自分に残ったものを確認する。
拾える限りの命は拾った。
あとは、わずかに残ったこの人類が、緩やかに朽ちるのを見届けるのみ。
人としての尊厳も、幸福も、もはや必要ない。
魔王という機構として、彼は世界を運営する。
やがて来たる、真の終末の時まで。
これが、ジャック・リーバーの選んだエンディングだった。




