第29話 あの日の扉を開くために - Part5
サミジーナはデイナやヴラスタたちと別れ、自室に引っ込んでいた。
そして、何をするでもなく、窓際に椅子を置いて、魔王城の方角を眺めている。
『ない』
厳然と告げられたジャックの言葉が、ずっと頭の中をぐるぐると回っていた。
(……もしかすると)
ショック。
なのかもしれない。
ジャックに何の役割も求められなかったことに、傷ついているのかもしれない。
あるいは……。
自分だけは、他の側室たち以上の役割があるのだと、図に乗っていたのかも……。
結局、フィリーネの魂を口寄せすることは叶わなかった。
ジャックの望みに、応えることができなかったのだ。
せめて、一言でいい。
話させてあげたかった。
そうすれば、もしかしたら、今こうして終わりつつある世界も、何か変わったのかもしれない……。
「……あれ……?」
ぽろぽろと、目から滴が溢れ出した。
泣いている……。
『悲しい』のだろうか。
『苦しい』のだろうか。
確かに、胸の中は何かの気持ちでいっぱいなのに、すぐにはその名前がわからない……。
「『悔しい』だよ、サミジーナ」
すぐ後ろにいたメイドのシトリーが、優しく言った。
「あなたは今、悔しいの。陛下に望まれたことをきちんとできなかったことが、悔しくて悔しくて仕方がないんだよ」
「『悔しい』……そっか……」
いつものようにシトリーが教えてくれた名前は、すとんと腑に落ちた。
そう、悔しいのだ。
ジャックがあんなにも会いたがっていた人に、会わせてあげられなかった。
自分のたったひとつの役目を、果たすことができなかった。
そして、最後には――
『ない』
――すべてを捧げたはずの彼に、何も求められなくなった。
「うっ……っく……!」
涙が溢れて止まらない。
自分の中に、これほど多くの涙があったのかと、驚くくらいに。
何もできなかった。
何もできなかった。
何もできなかった。
その事実が繰り返し背中に覆い被さり、胸の中を押し潰す。
(結局、わたしは、何のために生まれてきたの?)
悪霊術師ギルドで、使途もなく養育されて。
その果てに出会った彼に、唯一の役目を与えられた。
サミジーナにとっては、その役目こそがすべて。
人生そのものであるはずだったのに。
結局、何もできなかった。
10年もかかって、何一つ為し得なかった。
空っぽだ。
虚無だ。
無意味すぎて、存在自体に腹が立つ!
どこの誰とも知れない産みの親を呪いたくなる。
どうしてこんな、中途半端な人間を産んだのか。
むやみに珍しいくせに、一番大事なことはできない精霊術まで宿らせて、こんなのはまるで嫌がらせだ!
悔しい。
悔しい、悔しい、悔しいっ……!
「う、……うう……! ううぅうぅううぅぅぅ……っ!!」
シトリー以外は誰もいない場所で、悔し涙を流し続ける……。
こうする間にも、太陽は雲海に向かって沈んでゆく。
「ねえ、サミジーナ」
肩に、シトリーがそっと手を置いた。
「どうしてそんなに悔しいか、わかる?」
「……ぇ……?」
「わかるはずだよ。あなたはそれをいくつも見た。推理のための材料も揃ってる。――さあ、考えてみてよ」
この後宮に来てからの記憶が、頭の中を駆け巡る。
思えば、それまでの人生が嘘に思えるくらい、ここではいろんな感情と出会っていた。
けれど、思い浮かぶ光景は、どれも似ているのだ。
新たな感情を知り、名前を探すとき。
そういうときはいつも、視界の真ん中に彼がいるのだ。
「いろんな感情の名前を、教えてあげたよね。でも、それはね、サミジーナ。本当は全部、たったひとつの名前で言えてしまえるものなんだよ」
「たった、ひとつの……?」
「うん」
古くから連れ添った幼なじみは、サミジーナの耳元で優しく囁く。
「ほらね、サミジーナ」
トクン、トクンと、心臓が甘く鳴っていた。
『甘く』と、そう表現できる時点で、推理はとっくに終わっているのだ。
「『恋』って、とっても素敵なものでしょう?」
ああ……。
どれだけ頭の出来が悪いんだろう。
こんなに苦しくて、悲しくて、切なくて、悔しくて、愛しくて、大切なものは、恋心以外にありはしないのに。
「サミジーナ、どうすればいいか、わかる?」
「……うん」
サミジーナは涙を拭い、椅子から立ち上がった。
「さあ行こう、サミジーナ」
赤い空の彼方に、魔王城が影となって聳え立つ。
「愛の告白は夕暮れ時にするものだって、相場が決まっているんだからね」
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夕日が強さを増すに従い、色とりどりの花々も血に濡れたように赤く染まった。
吹き渡る風は冷たく、辺りは胸が詰まるほどの静寂。
きっとこの屋上庭園は、世界で最も高い場所である以上に、世界で最も寂しい場所だ。
「どうして来た……と、いうのは、愚問だったな」
振り返ったジャックは、低く乾いた声でエルヴィスたちに言った。
「『救世合意』。そんなふざけた取り決めがあったとは、寡聞にして知らなかった。勇者、か。……本当に、誂えられたかのようだ」
「関係ない」
エルヴィスは一歩踏み出して断ずる。
「勇者とか、魔王とか、そんなことはどうだっていいんだよ、ジャック君。ぼくたちはただ、幼馴染みであるきみに会いに来ただけなんだから」
「そうか。それはご苦労だった。感想を聞こう」
「……ずいぶん、つまらなそうな顔になったね」
ジャックは無表情でエルヴィスの言葉を聞く。
「以前のきみは、もっと情熱的で、もっと挑戦的だった。何かを為そうと、常に必死だった。今のきみにはそれがない――本当に、何もかも、つまらなそうだ」
「…………。そうだな」
ジャックは肯定して、赤い空を仰ぐ。
「確かに、つまらない。味気のない小説を、ずっと読まされているかのようだ……。ページをめくってもめくっても終わりの見えない、つまらない小説を……」
「味気ねーか? さすが眼が肥えてるね、魔王サマは」
ルビーが皮肉げに笑いながら言った。
「こんだけ世界中しっちゃかめっちゃかにしといて、つまんねーって? いい加減にしとけよ、てめー。お前の退屈しのぎに、世界中付き合わせてんのかよ!」
「…………。どうだろうな」
どこを見ているのかわからない茫洋とした瞳で、魔王はケットシーの少女を見る。
「退屈しのぎ、か。ああ、それは言い得て妙だ。
何かをしなければならなかった。俺にはきっと、目的が必要だったんだ。俺の欲望に合致する目的が、どうしても必要だった。
どれだけつまらない小説でも、白紙を見続けるのに比べれば、よっぽどマシだったんだ……」
「貴様には……自覚がないのか?」
ガウェインが、厳しい声で問い詰めた。
「自分がどれだけのことをしたのか。どれだけの人々が、苦しみ、悲しんだのか。それを想像しなかったのか!?」
「…………。したとも」
魔王の口元が笑みに似た形に歪む。
「男を一人殺せば、その親が、娘が、息子が、恋人が妻が友人が、悲嘆に暮れて泣き叫ぶとも。
わかっている。わかっているさ。当人はわかられたくなどなくとも、俺にはわかる。わかってしまう。
それは散々、俺が舐め尽くした辛酸なんだからな……」
「……結局、何があったの?」
アゼレアが、切々とした声で懇願した。
「あの日。7年前。あの扉の向こうで! あなたとフィルに何があったのよっ!! 私たちはそれを聞きに来た! 何も言わないまま放置して、勝手に魔王になんて……どうしてっ……!!」
「…………。断る」
ジャック・リーバーは無表情に戻って拒絶する。
「お前たちに語ることなど、ない」
「ある! 私たちだってフィルの友達だったのよ!?」
「権利はあっても、能力がない」
そしてジャックは、告げられる限りの真実を告げた。
「たとえ語って聞かせても、お前たちには理解できない」
エルヴィスの拳が、強く震える。
「なんだよ、それ……っ!!」
ルビーの耳と尻尾が、ざわざわと逆立つ。
「ナメてんのか、おまえっ……!!」
ガウェインの巨体が、威圧感で大きく膨らむ。
「初めてだ、こんなにも侮られたのは……!!」
アゼレアの蒼炎が、パチパチと火花を散らす。
「ふざけないでッ!! そんな答え……!!」
ジャックは無表情に、軽く嘆息した。
「納得しようとしなかろうと、それが事実。たったひとつの真実だよ。
『7年前、いったい何があったのか』――この謎の、お前たちにとっての答えは、『わからない』だ」
エルヴィスたちは引き下がらなかった。
不退転の意思が眼光に宿り、旧友の瞳を射貫いた。
お前が決めるな。
勝手に決めるな。
机を並べた友であっても――いいや、友であればこそ、彼らは素直に怒りを突きつける。
「ああ……わかっていた」
空虚な声音で、ジャックは旧友たちの怒りを受け止める。
「お前たちは、それでも引き下がらない。わかっていたさ、そんなこと。
――だから、知る能力のないお前たちでも、納得できない苦しみから解放される手段を用意しておいた」
ジャックが、したたかに足元の床を踏み鳴らした。
瞬間。
魔王城のすべてが、バラバラに瓦解した。
「―――っ!?」
積み木のように分解された城は、しかし崩れ落ちることなく、部品のまま浮遊する。
唐突に足場を失った4人は、遙か数十メートル下の地面に墜落する前に、エルヴィスが作った高圧空気の床に着地した。
透明な床の上から、4人は頭上を見上げる。
漂う瓦礫の中心で、悠然と浮遊する魔王は、遙か高次元に座する神のような眼で、勇者たちを睥睨していた。
「命に終止符を打ってしまえば、詮無き悩みに囚われることもなくなるだろう」
腰の鞘から、ゆっくりと剣が抜き放たれる。
夕日を帯びてさらに赤みを深めた、それは黄昏色の剣。
「俺の手ずから解放しよう。
感謝しなくともいい。これは俺にできる、唯一の慈悲なのだから―――」
[浄化の太陽炸裂まで、残り約45分]




