第21話 蝉の声が聞こえない - Part3
『――ねえ、ししょー!』
それは、精霊術学院からスカウトが来る前のこと。
いつものように、切り株のある森の広場で訓練をしていたとき、フィルが自分にこう言った。
『わたしたちが上達しちゃって寂しくない? ちょっと失敗してあげようか』
『……そんな気遣い、ある?』
『いらない?』
『いらない。というか、100年早い』
コツンとおでこを小突くと、フィルは『あうっ』と言った。
『鷹の陣形がまだ綺麗すぎる。もっと紛れを入れないと、ジャックは捉えられない』
『陣形を綺麗に作れって最初に言ったのししょーだよー!』
『型は作ってから破るもの』
ぷーっと頬を膨らませて、フィルは上空を飛び交う無数の鷹に指示を飛ばした。
『――おっ? うおっ、うおおっ!? 急にわからなくなった! おい師匠! フィルになんか入れ知恵しただろーっ!!』
無数の鷹を回避し続ける訓練をしているジャックが文句を付けてきたが、自分は知らない振りをする。
『うぎゃー!』
程なくジャックは全身をクチバシにつつかれて墜落し、フィルは『やったー! わたしの勝ちーっ!』と飛び跳ねた。
自分はそれを、切り株に座って眺めている。
彼らはきっと、あっという間に大きくなって強くなる。
エルフの自分と人間の彼らとでは、流れる時間が違うのだから。
自分よりも、彼らのほうが先に老いる。
それは寂しいことだけれど、同時に楽しみでもあったのだ。
彼らがどんな道をゆくのか。
彼らがどんな生を営むのか。
記憶をなくし、空っぽのまま、90年も放浪し続けた自分にはもったいないほどの、それは希望。
だから、義務があった。
師匠として、大人として――
――彼ら二人を、幸せな道に導くことが。
――――なのに。
(どうして)
後悔。
(どうして、どうして、どうして)
後悔後悔後悔。
(どうして、わたしは――――あのとき、子供たちだけで行かせたの?)
実力は充分だと思っていた。
子供とはいえ、精霊術師としてはすでに一流だと、師匠として、教師として確信していた。
していたのに!
言い訳を何度繰り返しても、正解は一つだ。
無理にでも、自分でケリをつけるべきだったのだ。
ジャックたちに任せず、自分で結界の修復に赴くべきだったのだ!
どうして大人の不始末のツケを、子供たちが払わなきゃいけないの?
そんなことさせてはいけなかった。
それだけはさせてはいけなかった。
いけなかったのに!
――あの事件の直後。
冷凍保存したフィルの死体の前で、ジャックはうなだれたまま、ずっと呟いていた。
『…………ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん…………』
違う。
それを言うべきなのは、自分だった。
でも、何度謝罪しても、彼の心にはもはや届かない。
深く深く開いた虚が、言葉も気持ちも呑み込んでしまう。
やがて破滅の道へ歩き出した彼を止めるすべは、自分にはなかった。
ここぞというところで、弟子に不始末を押しつけた師匠が。
一体、どんな顔で。
今更、どんなことを。
弟子に教えてあげられると言うのか。
資格がなかった。
権利がなかった。
手段がなかった。
だから、その両方を手に入れるために――
再び、孤独が必要だったのだ。
森の広場での、日溜まりみたいな日々を、遠くへと追いやり。
今度は確固たる目的を持って、世界各地を放浪した。
資格を得るために学び。
権利を得るために鍛え。
手段を得るために探した。
たった一人、ジャックのためだけの7年は、かつての90年に倍する密度で過ぎ去った。
ああ、だから断言しよう。
自分こそが、世界最強の精霊術師だと。
(――だから、もう一度名乗らせて)
祈り。
(――わたしに、あなたの師匠を)
願い。
(――そして、今度こそ)
誓う。
(――あなたに、道を示してあげる)
そのために、ラケルは魔王を殺しに来たのだ。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「……ジャック、覚えてる?」
正体を現したエルフの少女は、空中のジャックに向かって語りかける。
「初めてあなたと会った日……わたしが、あなたの師匠になった日」
「……………………」
ジャックは無言で少女を見下ろすばかりだったが、サミジーナは少女の正体に気付き、ハッとした。
(陛下に精霊術を教えたのは、確か、エルフの女性だって……)
サミジーナが回収される前に、ジャックのもとを去ったと聞いていた。
それが、帰ってきたと言うのか。
人類滅亡の瀬戸際たる、このタイミングで。
(あんなに強い陛下の……師匠……)
想像もつかない。
一体、どれほどの達人なのか。
あるいは――
勇者などよりよっぽど危険な人物が、今、ジャックと対峙しているのではないのか?
「初めて会ったあの日……わたしは、師匠として上下関係をわからせようと思って、あなたに技術の差を見せつけた」
「……………………」
「それから、訓練の中で、何度となく模擬戦をしたけど……結局あなたは、わたしに一度も勝てなかった」
「…………それが、どうした」
「これから、卒業試験をするわ」
エルフの少女――ラケルは、地上から、しかし大上段に、ジャックに言葉を突きつける。
「わたしに勝てたら免許皆伝、あなたはわたしの弟子を卒業する――だけど負けたら、師匠の言うことを聞いてもらう」
「……そうか」
ジャックは低い声で呟いた。
「そういえば……まだ、卒業していなかったんだな」
「ええ。ついでに学院の単位もあげるわ」
「――は、は、は」
連続して、ジャックが息を漏らす。
――笑った?
いや、違う。
サミジーナですら知っている。
笑い声とは、こんなにも乾いたものではない……。
「結局、俺は、何もできていなかったんだな――あんなに粋がっていたのに、学歴の一つも持てなかったとは」
浄化の太陽が照らす空を、魔王は仰ぐ。
「…………本当に……なんだったんだ…………?」
サミジーナは無性に泣きたくなった。
その疑問の声の、あまりの空虚さに。
かつての自分のような、人の形をしたがらんどうに……。
「――それを」
ただ一人。
ラケルだけが、虚無の魔王に力強く告げる。
「教えてあげるのが、師匠の役目」
さくりと、伸び放題の雑草を踏みしめた。
「『魔王ジャック・リーバー』は今日死ぬ。勇者の出番なんてなく、わたしがここで殺す」
「できると、思うか」
「逆に、できないと思うの? だとすれば落第」
「―――は」
再び声を漏らして、ジャックは師匠を見据えた。
「サミジーナに危険が及ばないようにだけ、気を付けてもらおうか」
「お互いにね」
そして。
ジャックが指先から閃光を放った。
容赦のない初撃。
ロウ王国の王城を吹き飛ばしかけた豪風の槍が、一直線に吹き下ろす。
直前の言葉とはちぐはぐな、地面そのものを破壊しかねない一撃だった。
ラケルはそれを、片手で受け止める。
まるで日光を遮るような、何気ない仕草だった。
しかし、たったそれだけで、凄まじい破壊力を持つはずの豪風が、自ら逃げ散っていった。
「――7年間、世界各地を巡った」
必殺の初撃を無傷で切り抜けた少女は、鼓舞するように告げる。
「いろんな国、いろんな人――そしていろんな精霊術に、わたしは出会った」
彼女の周囲に、火の玉が踊った。
風が渦巻き、それを巻き込んだ。
「集めに集めた精霊術、占めて65種類」
炎の渦と共に、エルフの少女は浮かび上がる。
「魔王が世界の敵だったら――魔王を殺すのも、また世界よ」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
サミジーナの頭でまだしも理解できたのは、初撃だけだった。
(……なに……これ……)
明るい夜空で、現象と現象がぶつかっていた。
サミジーナには、そうとしか形容できなかった。
二つの人影が高速で飛行しながら、火の玉や稲妻が次々に現れては弾け散る。
同時、人影はしきりに交錯して、世界そのものが震えるような衝撃を、周囲にまき散らすのだ。
(これが……精霊術戦……?)
サミジーナとて、精霊術師になるべく育てられた人間だ。
戦闘タイプではなかったとはいえ、精霊術戦について、まったくの素人というわけでもない。
しかし――
頭上で起こっている現象は、完全に常識を超えていた。
例えるなら、世界が誕生と崩壊を繰り返しているような。
開闢と終焉を繰り返し見せられているような光景だった。
それでもサミジーナは、理解せんと努力する。
致命的におかしいと思うのは、攻防がまったく途切れないことだった。
二人には、まったく動かない、睨み合うような瞬間が、不定期に訪れる。
それは瞬きにも等しい時間だけれど、確かに膠着する瞬間があるのだ。
なのに――
その間も、攻防が続いている。
どこからか次々と炎や雷や風や水や氷や光などの攻撃現象が出現して、そして直後に消滅するのだ。
何十秒も観察していて、ようやく理解が及び始める。
二人の攻撃は、今この瞬間の相手に対してのみではなく。
未来の相手に対しても、同時に行われているのだ。
常に時間差攻撃を繰り出し続け、常に攻撃を多面的にし続けている。
そして、まるで予知しているかのようにそれを読み切り、時間差防御によって叩き落としているのである。
それは文字通り、異次元の戦いだった。
空間だけではない。
時間さえもが計算に入った、四次元戦闘。
敵の精霊術の条件を探り、弱点を洗い出し、相性差を利用する。
そうした通常の精霊術戦とは、哲学からして違う――
二人の戦いは、言ってみればチェスのそれだ。
自分が思い描く勝利を目指して、今ある現実を書き換え合う。
これは命ではなく、未来の奪い合いだった。
「――あっ!」
サミジーナは声をあげる。
ジャックが大きく弾かれたのだ。
(読み負けた……!?)
時間差防御が足りなかったのだ。
ラケルの多面攻撃を防ぎきれなかった……!
吹き飛ばされていくジャックを追って、サミジーナは森を走る。
何かが水に落ちる音と、滝が流れ落ちる音が聞こえた。
(こんなところに滝が……?)
森の向こうに、水量の少ない滝があった。
ジャックはあの中に突っ込んだのか。
直後、空から隕石みたいな速度でラケルが現れた。
彼女は滝の中に腕を突っ込み、ジャックの顔を引っ張り出す。
が。
その瞬間。
「――懐かしい手を使わせる」
唐突に、滝の水量が膨れ上がった。
【巣立ちの透翼】によって滝の水の大半を浮かせておいたのだ。
それを今、まとめて解放した……!
殺人的な量の水が、ラケルの頭上に襲いかかる。
反応は早かった。
彼女はジャックから手を離し、空に飛び上がって降り注ぐ滝を回避する。
「ここまでは、赤ん坊の俺でもできたこと」
瀑布の中から、なぜだか明瞭に、ジャックの声が聞こえた。
「なるほど――俺の人生にも、この程度の意味はあったか」
皮肉げな声の後――
滝が、首をあげた。
まるで大蛇だった。
滝を形成していた水、そのすべてが空へと浮き上がり、ラケルを丸飲みにしようと走る。
対しラケルは、懐から何かを取り出した。
棒状に見えたそれは、しかし、展開する。
彼女が手に取ったのは、扇子だった。
迫り来る水の大蛇に比すれば、あまりに小さいそれを、彼女は躊躇いなく振るう。
「――――『空震』――――!!」
サミジーナの肌に、音なき衝撃が走った。
同時。
水の大蛇が、粉々に砕け散る。
『破壊』という概念が直接叩きつけられたかのようだった。
質量も大きさも関係なく、ただ『破壊』を受けたから破壊されたのだと、そう思ってしまうほどの、それは唐突な炸裂だった。
けれど。
驚いたのは、きっとサミジーナだけだったのだろう。
砕け散った水の中から、ジャックが姿を現した。
その手には、さっきまでは持っていなかったはずの、一振りの剣がある。
朝焼けのような不思議な輝きを放つ、1本の剣がある。
一方で。
サミジーナは、奇跡的に気付くことができた。
ラケルの身体が、落下を始めている。
さっき、ジャックは彼女に対して、『お前は精霊術を2種類しか同時に使えない』と語っていた。
精霊術を複数使う方法などサミジーナは知らないが、その言葉通り、ラケルが2種類までしか精霊術を使えないのだとしたら――
その2種類を、水を散らした攻撃で使ったのだ。
だから、身体を浮かせていた【巣立ちの透翼】が効き目をなくした。
防御のために、空中で身動きする方法を失ったのだ――!!
ジャックは朝焼け色の剣を大きく頭上に振りかぶる。
ラケルに抗する手段はない――はずだったが。
この二人の戦いに、常識は通用しないのだ。
時間差防御。
過去からやってきた鈍色の鎖が、虚空から顔を出し、朝焼け色の剣に絡みついた。
(これも……!)
読まれていた。
やはり、先読みの能力で、ジャックは師匠に劣っているのか……?
「―――は」
瞬間。
浄化の太陽の光を、剣の刃が照り返し。
別の色彩を帯びた。
一日の始まりを彩る朝焼けではなく――
――太陽の断末魔のような、黄昏の色に。
「――――っ!?」
鎖が千切れる。
強引に、黄昏色の剣が振り下ろされる。
ラケルはとっさに腕で受けたが、まさか、それで防げるはずもなかった。
消えたような速度。
気付けば、水を失った川の底から、巨大な土煙が上がっている。
「お前と父上がくれたあの剣は、もう捨てたんだ」
それを空から見下ろしながら、ジャックは告げた。
「魔王となる俺には、あの朝焼け色は眩しすぎた」
浄化の太陽の逆光が、ジャックの姿を黒い影にする。
「ヒヒイロカネを使って、より頑丈に、より重く作り変えた合金―――オリハルコン」
右手の剣が放つ輝きが、幾条にも散らばって世界に伸びた。
「世界に、人類に、そして『アイツ』に黄昏をもたらす―――」
天に掲げられた剣が、血のように赤く染まる――
「―――『たそがれの剣』だ」




