第18話 魔王
魔王城の最上階にある謁見の間は、陽光が一切射さない暗闇の空間である。
『浄化の太陽』によって夜が殺された今にあってすら、その部屋にはわずかばかりの篝火しか光源がない。
その真ん中に、ベニーとビニーはひざまずいていた。
見えるのは、周囲にわだかまる闇と、正面の玉座に腰掛けたジャック……。
彼以外の人影は見えないが、周囲の闇の中には、幾人もの兵士が息をひそめていることを、二人とも知っていた。
「弁明を、今一度聞こうか」
ジャックは感情のない声で二人に告げた。
「なぜ俺が命じた仕事を放り出し、独断専行に走ったのか……その理由を、説明してみろ」
ベニーも、ビニーも、顔を上げることができなかった。
ジャックの声に怒りはない。
ただただ虚ろな響きをはらんでいるだけだ。
しかし……だからこそ、恐ろしい。
その虚ろの深さを、魔王軍の誰よりも知るからこそ、それに呑み込まれる恐怖を、実感できてしまうのだ……。
「お……畏れながら……」
言葉を発したのはベニーだった。
金属片が突き刺さった右目には最低限の手当てがされてあり、今は眼帯で覆われている。
「勇者一行がダイムクルドに潜入しているとの情報を掴み……大規模に軍を動かすよりも、『王眼』に気取られにくいライフルにて狙撃することが、最も効果的と……」
「なぜ誰にも報告しなかった?」
「そ、それは……」
逸ったからだ、というのが事実だった。
ジャックに尽くしたいと思うがあまり、この機会を誰かに譲るということが、思考の端にもよぎらなかったのだ。
「考えはわかった」
ジャックの言葉を聞き、ベニーはようやく顔をあげた。
魔王の表情には何も浮かんでいない。
「お前の判断にも、確かに理がある。誰にも情報を共有しなかったことを除いてはな。実のところ俺も、その件に関してはさして問題視していない……」
「と……言いますと……?」
「真の問題は―――」
じろりと。
魔王は、顔を動かさないまま、視線だけを、顔を伏せたままのビニーに向けた。
「―――なぜ、お前がここにいるのかということだ、ビニー」
「…………!!」
「俺はお前に、地上での諜報活動を命じた。ダイムクルドには決して踏み入るなとも厳命した。
なのになぜここにいる?
それは……俺の命を無視し、ダイムクルドに侵入していたということではないのか」
「…………そ、それは……」
「へっ、陛下!!」
たまらず声をあげたベニーに、ジャックの視線が戻った。
「ぼ、私が頼んだんです……! 勇者たちの侵入に備えて、ダイムクルドに戻ってきてくれと、私が!!」
(ベニー! やめて!)
ビニーが思念で制止してきたが、ベニーは無視した。
「彼女は私の頼みを聞いてくれただけです……! で、ですから……どうか、どうかお慈悲を……!!」
この謁見の間には、魔王軍の間で囁かれる別名があった。
曰く、『スクリーム・ルーム』。
『泣き叫ぶ部屋』という意味である。
魔王ジャックの不興を買った者の悲鳴が、この部屋から城中に響きわたることからついた別名だ。
補佐であるベニーは知っている。
ジャックは実際に、この部屋で何人もの人間を裁いてきた。
ベニーからすれば、それはどれも自業自得のものであった。
なぜならそれは、ダイムクルド最大の禁を無断で破った者ばかりだったからだ。
すなわち。
密入国した女性である。
女人禁制の掟を破った女性を、ジャックは必ず自らの手で裁いていた。
『泣き叫ぶ部屋』などという異名がついたのも、女性の甲高い悲鳴が、城によく響くからだった……。
そして、今回。
ビニーもまた、その禁を破ってしまったのである。
「……お前たちは、よく俺に尽くしてくれた」
ジャックは玉座から立ち上がった。
数段ほどの短い段差をゆっくりと降り、ひざまずいた二人に近づいてくる……。
「お前たち以上の忠義者を、俺は知らない。……だからベニー。お前の言うことを信じよう」
「ではっ……!!」
喜びに顔をあげたベニーを。
魔王の冷徹な瞳が見下ろしていた。
「―――しかし、例外はない」
「あ……」
ベニーの顔が、絶望に染まる……。
「俺はお前たちに、よく言って聞かせたはずだ。我が天空魔領における女人禁制の掟……その例外は、我が側室たちに限られる、と。
ビニー――お前は、俺の妻か?」
「…………あ、あ、あ、あ…………」
ビニーの身体が、恐怖で震えた。
「ビニー。どうして俺が、女であるお前を重用することを許したかわかるか?」
魔王がビニーの前に立つ。
ビニーは答えられなかった。
ジャックは7年前の事件以来、身の回りから女性を遠ざけた。
しかし、ビニーだけは比較的近くにいることを許されていた。
その具体的な理由を、二人は知らない。
しかし……。
なんとなく……。
他の女性たちより、心を許してもらえているのだと……。
「お前は、他の女より可能性が低いからだ」
「は……?」
だが、この瞬間。
7年越しに、それが単なる願望だったことを知る……。
ベニーも。
ビニーも。
ジャックの言っていることが、まるで理解できなかった。
「お前の精神と思考は、常にベニーによってチェックされている。だから、お前があいつである可能性は、比較的低いと踏んだ。
それでも、お前が俺に懸想しているらしいことがわかってくると、信頼度は他の女たちに近いレベルまで下がっていったがな」
「……あ……う……」
当惑と一緒に、おびただしい羞恥心がビニーの心からなだれ込んでくる。
彼女がジャックにそういう感情を抱くようになったのは、13歳の頃だった。
ベニーとビニーの精神が分化したきっかけの一つだ。
以来、彼女はその気持ちを、ベニー以外の人間には、ずっと秘していた……。
「ギリギリだったんだよ、ビニー。お前はその精霊術のおかげで、俺の中でシロ寄りのグレーに居続けていた。
だから……できれば、そのままでいてほしかったんだがな」
「へっ……陛下っ!!」
ビニーは突如として叫ぶと、目の前のジャックの足に取りすがった。
「お、お願いですっ……お願いしますっ! お慈悲をくださいっ……!! 腕の一本や二本は差し上げます!! ですからお側に置いてください……!! 陛下に尽くせなくなるなんてイヤです、イヤなんですっ……!! 何でも構いません。なんだってやりますっ! 性奴隷でもいいです!! 言われたとおりにご奉仕しますからっ……ですから……ですからぁあああっ……!!」
それは、恥も外聞もない命乞い。
子供の頃、あれだけ求めた自由も自分もかなぐり捨てて、ビニーは魔王の哀れみを誘おうとする……。
「もう勝手なことは致しません……! 陛下に命じられたことしか致しませんっ……! 忠実な犬になりますっ、下僕になりますっ!! 陛下のためなら、僕はなんだって……っ!!」
そして――彼女は、自らの忠義心を示すため、ジャックの靴に自らの口をつけた。
そして言葉通り、犬のようにぺろぺろと舐め始める……。
彼女の心に、屈辱などないことが、ベニーにだけはわかった。
彼女は心からそうしている。
ジャックに尽くしたくて、仕えたくて。
それを疑われたことがつらくて。
彼に信じてほしくて……。
心から望んで、靴を舐めるのだ。
「……ビニー」
低く彼女の名前を呼ぶと、ジャックは片膝をついた。
ビニーに目線の高さを合わせたのだ。
(ああ……通じてくれた)
ベニーにははっきりとわかっているビニーの忠義が、ジャックにも伝わってくれたのだ。
ジャックは靴を舐め続けるビニーの頬に、そっと手を添えた。
もうそんなことしなくていい、と告げるように。
そして、彼女の顔を優しく持ち上げ。
涙に濡れた瞳を、まっすぐに覗き込み――
告げた。
「ダメだ」
「あ…………あっ、あっ、あっ、あぁあああぁぁあああああああああああああああああ――――!!!」
ビニーの身体が宙に浮かび上がった。
「ビニーッ!!」
ベニーは思わず立ち上がり、浮き上がった妹に手を伸ばす。
だが、届かなかった。
彼女はばたばたと暴れながら、重力に逆らって上へ上へと浮き上がっていく。
「一度落ちた信頼を取り戻すのは難しい」
ジャックは、唾液で汚れた靴をハンカチで拭いたのち、立ち上がって玉座へと戻った。
「残念だよ、ビニー。お前は俺の疑心の眼鏡に適った。もはや挽回の手段はない」
「へっ……陛下ぁあ……!! 陛下ぁぁああぁ!!!」
ビニーの懇願の叫びに、魔王は答えない。
「もし、お前があいつだったなら。
……俺は、何度でもこう告げよう」
魔王は玉座に腰掛け、天井に向かって浮き上がっていくビニーを宣言する。
「何度でも殺す。
苦しめて殺す。
――それでも、俺の溜飲は下がらない」
その声には。
その瞳には。
紛れもない――憎悪があった。
天井が口を開ける。
それはまるで、怪物のアギトだった。
内向きのトゲが無数にひしめく、人間大の圧搾機。
鉄の処女。
その中に向かって、ビニーの身体は持ち上げられていくのだ。
「ぁぁあぁああぁああああ、やだやだっやだやだやだやだ!! やぁだああぁぁあああああぁぁぁぁ!!!!!」
どれだけ叫んでも。
どれだけ暴れても。
重力から切り離された人間は、あまりに無力だった。
「……もし、お前があいつでなかったのなら」
瞳から憎悪を消して、ジャックは怪物の口に吸い込まれていくビニーを見上げた。
「せいぜい、俺を呪え。経験者が教えてやる――呪いだけが、死ですら癒し得ない憎しみの処方箋だ」
ビニーの身体が、トゲだらけの口の中に、完全に取り込まれる。
そして、その蓋が、ゆっくりと閉まっていき――
「これまで尽くしてくれたことには礼を言おう。……さらばだ、ビニー」
――完全に、閉じた。
瞬間。
ビニーと共有されたベニーの精神に、彼女の感情が怒濤のごとく流れ込んできた。
(怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖怖痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦苦死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死寂)
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その一部始終を――
サミジーナは、扉の隙間から覗き見ていた。
城下町のほうから銃声が聞こえてきてジャックが心配になり、魔王城のほうまで出てきてしまったのだ。
普段ならこんな出すぎた真似はしないが、ちょうど一緒にいたシトリーが、
「陛下が心配なら見に行こうよ!」
と背中を押すので、ここまで来てしまった……。
後宮の外に出るときには護衛をつけるよう言われていたため、今も女性の近衛兵が側にいる。
彼女たちはサミジーナに何も言わなかった。
彼女らが意思を見せないのはいつものことだ。
本当は、謁見の間を覗き見るなどという不作法はするつもりがなかった。
しかし、城に入ってすぐに、あの勇者がダイムクルドに侵入しているという噂を聞いてしまい、居ても立ってもいられなくなったのだ。
そして、その光景を目撃した。
女性が天井へと浮き上がっていき、少しして、ぼとぼとと黒ずんだ液体が降ってきた。
それと時を同じくして、サミジーナも知っている魔王補佐官のベニーが、声もなく意識を失って倒れた……。
話には聞いていた。
謁見の間は、魔王の処刑室でもあるのだと。
だが、その場面をじかに見るのは、初めてのことだった。
「片づけておけ。死体は念入りに燃やせ」
「はっ」
暗がりに待機する兵士たちに、まるで無感情に指示すると、ジャックは一人でこちらにやってきた。
サミジーナは焦る。
(あっ、あっ……どこかに隠れないと……!)
あたふたと左右を見回したが、あるのは鎧を着た近衛兵の姿だけだった。
仕方なく、そのうちの一人の背中に隠れたが、これではまったく意味がないことにすぐ気がついた。
時すでに遅し。
扉が開き、ジャックが廊下に出てくる。
「……サミジーナ?」
彼はすぐにサミジーナに気づいた。
サミジーナは観念して、近衛兵の後ろから顔を出す。
「陛下……」
「……見ていたのか?」
ジャックの眉間に、深いしわが寄った。
それはまるで、見られたくない場面を見られたかのような……。
「…………すぐに後宮に戻れ。お前たち、連れていけ」
ジャックはいつもより幾分固い声で命じ、背を向ける。
近衛兵たちがサミジーナの背中を強めに押した。
反対方向に連れていかれながらも、サミジーナはジャックの背中を目で追い続けた。
(……わたしには、見られたくなかったのかな?)
だとしたら、どうして?
どうして、わたしにだけ……?
サミジーナは頭を振った。
(わたしにだけって、決まったわけじゃない……)
なぜか、自分に都合よく考えてしまった。
それではまるで、ジャックが自分だけを特別に見ているかのようだ。
(陛下……)
あれがきっと、ジャックが魔王と呼ばれる所以。
恐ろしい……世界の破壊者としての顔。
あの残酷なジャックと、夜、正室用の寝室で過ごすときとのジャックとが、サミジーナの中ではうまく繋がらなかった。
あれほど純粋に人を好きになれる人が、どうして、あれほど残酷に人を殺めることができるのだろう。
いや、あるいは……。
「……だからこそ……なのかな」
あれほど純粋に、人を好きになれるからこそ。
あれほど残酷に、人を殺めることができる?
(それに……)
不思議なことはもう一つある。
さっき、ジャックはこう言っていた。
『それでも、お前が俺に懸想しているらしいことがわかってくると、信頼度は他の女たちに近いレベルまで下がっていったがな』
(懸想……つまり、恋愛感情があると、信頼度が下がる……?)
普通、それは逆ではないだろうか。
相手が自分のことを好きだとわかったなら、信頼度は上がるのでは?
少なくとも自分に不利なことはしないだろう、と推測を立てられるのだから。
どうしてジャックは、自分を好く女性を信じない?
彼自身はあんなにも一途に、かつての婚約者を愛しているのに……。
「…………難しいよ、シトリー…………」
人の心は、難しい。
とりわけジャックの心は、一段と難問だった。
世界はすでに夜。
しかし、依然として太陽は空に輝く。
[浄化の太陽炸裂まで、残り約22時間]




