第9話 空白の正室
3階建ての後宮のうち、その部屋は一番上の階の突き当たりにある。
正室――つまり、魔王の正統なる妻のために設けられた寝室だ。
現在、ジャックは正室を持っていない。
7人も側室がいて正室だけがいないなんてことは、普通は有り得ないことだ。
正室あっての側室であり、その逆は有り得ない。
だが、ジャックは7人の妻を飽くまで側室と呼んだ。
その意図は、この後宮の中では周知の事実だ。
ジャックに正室はいない。
それは客観的に見たときの事実でしかなく――
――彼の心の中では、決してそうではないのだと。
侍従も伴わず、サミジーナはジャックと二人きりで正室用の寝室へと入る。
そこは、普通の寝室とは趣が異なっていた。
ベッド以外に調度品がない。
ただやたらにだだっ広いだけで、とても貴婦人が休むような部屋には見えない。
部屋の奥の空間は、カーテンで仕切られていた。
その中には、あるものが隠されている。
いや……眠っている、と呼ぶべきか。
「服を脱げ」
「……はい」
ジャックに淡々と命じられ、サミジーナはドレスの背中に手を回した。
一人で脱ぎ着できるようになっているので、それほど手間取ることはない。
何枚も重ね着しているスカートを次々に足元に落とす。
重いドレスから解放され、ふう、と息をつきたくなるのを我慢して、サミジーナは最後の一枚に手を掛けた。
下半身を隠す薄手のペチコートを、脱いだドレスの上に落とす。
靴を脱いで裸足を床に着けながら、サミジーナは自分の裸身を見下ろした。
10歳相応。
凹凸がほとんどない幼い身体だ。
当たり前のことなのだけれど、それでも反射的に、デイナの女性らしい身体つきと比較してしまうことがある。
(……こんな身体のどこを見て、あんなことを思ったんだろう)
昼間に掛けられた謂れのない嫌疑を思い出した。
サミジーナが、ジャックに抱かれているんじゃないか、という……。
人間の感情について、まだ勉強中のサミジーナだが、この平坦な身体が男性の情欲の対象にならないことくらいは理解していた。
視線をあげると、ジャックがこちらをジッと見つめているのに気付く。
その視線を遮るものが、サミジーナには1枚たりとも存在しない。
いつもは気にもならないのに、なぜだか今日は、胸や下半身が心もとなく感じた。
「……よし」
ジャックはそう呟いて、奥のカーテンへと向かっていく。
(……な、なにが『よし』なのかな……)
もしかして陛下、と過ぎった思いを、ぶるぶると首を振って追い出す。
男性は、子供の身体には欲情しないはず。
だってわたしは、まだ子供も作れないのだし。
性欲というのは子供を作るためのものなのだから、子供を作れないわたしに欲情するなんてこと、論理的に考えて有り得ない。
(……でも、子供を作れるようになったら……)
陛下は、わたしに欲情するのだろうか。
そうしたら…………。
(ああもう、何を考えてるの……)
デイナのせいだ。
あの人が変なことを言うから、おかしなことを考えてしまう。
仮にサミジーナが子供を作れる年齢だったとしても、ジャックは欲情したりはしないだろう。
だって……。
ジャックが、部屋の奥に掛けられたカーテンを引いた。
その中には、一基の棺が――
否、ベッドがあった。
サミジーナは知っている。
横たわっているのは、一人の女の子だ。
淡く微笑んだような表情で、静かに瞼を閉じている、サミジーナと同じくらいの歳の女の子。
けれど実際には、その女の子は、サミジーナより8歳も年上だ。
7年間。
その女の子は眠り続けている。
……そう、眠っているのだ。
少なくとも、サミジーナは、そう思っている……。
「始めよう」
ジャックが宣言して、サミジーナはうなずいた。
女の子が眠るベッドに近寄って、ひざまずく。
晒された素肌に、ほのかな冷気を感じた。
それは、彼女を、綺麗なまま眠らせてあげるための、冷気だ……。
サミジーナは祈るように手を組んで、瞼を閉じる。
そして、心の中で呼びかけた。
(――フィリーネ・ポスフォードさん)
何度も、何度も、諦めず。
(フィリーネ・ポスフォードさん……フィリーネ・ポスフォードさん……フィリーネ・ポスフォードさん……)
今頃、サミジーナの背後には、精霊の化身が陽炎のように佇んでいるだろう。
精霊序列4位〈迷える星のサミジーナ〉。
名前の由来にもなった、小さな馬の姿の精霊が。
〈サミジーナ〉は魂を司る精霊だ。
その力がもたらす精霊術の名は【迷魂の人形】――
――一言で言えば、降霊能力である。
死者の魂を我が身に降ろし、会話することができる力……。
分霊もいなければ、精霊励起システムで自動化することもできない、極めて特異な精霊術。
サミジーナの仕事は、その力を使って彼のかつての婚約者、フィリーネの魂を呼び出すことだった……。
(フィリーネ・ポスフォードさん……フィリーネ・ポスフォードさん……フィリーネ・ポスフォードさん……)
【迷魂の人形】による降霊は、生前の名前さえわかっていれば成立する。
全裸になるのは、精神統一のためのルーティーン。
できる限り魂に近しい状態になるために、余計なものを排除しているのだ。
サミジーナはこれまで何度も降霊に成功し、何人もの死者と会話を交わしてきた。
会話と言っても、断片的な思念であったり、はっきりした言葉のやり取りであったり、まちまちではあったが、確かに死者の魂を世界に呼び戻すことに成功していたのだ。
何せ、そのことだけを考えて生きてきた。
サミジーナの育ての親である悪霊術師ギルドは、それ以外のことを彼女に求めなかった。
しかし―――
(……どうして……?)
組み合わされたサミジーナの手に、ぎゅっと力がこもる。
(……どうして見つかってくれないの、フィリーネさん……)
幾度となく繰り返し。
何度となく挑戦し。
それでも――
――フィリーネの魂は、見つからなかった。
答えてくれないのではない。
見つからない。
この事実が意味するのは――
「…………ごめん、なさい」
そっと瞼を開けて、サミジーナは嗚咽を漏らすように呟いた。
「……やっぱり……見つかり、ません……。
死者の世界にも……生者の世界にも」
魂は転生する。
記憶と経験を洗浄され、他の人間の肉体に再び宿る。
その場合にも、サミジーナはその存在を感じ取れるはずだった。
【迷魂の人形】の降霊は、いわゆる生霊も対象にできるのだ。
しかし、見つからない。
かつてフィリーネ・ポスフォードという名前だったはずの魂は、この世のどこにも見つからない……。
考えられる可能性は、たったひとつ。
すなわち、フィリーネという少女は、もともと存在していな―――
「…………そうか」
いつもと同じサミジーナの報告に、ジャックもまた、いつもと同じように答えた。
表情一つ変えない魔王が、このときだけ、わずかにだけ声に感情を滲ませる。
落胆。
そして、安堵。
何度も聞くことで、サミジーナはその感情の正体を理解していた。
けれど、なぜ彼がそんな感情を滲ませるのかはわからない。
落胆はともかく、どうして安堵するのか……。
サミジーナは跪いたまま、背後のジャックを見上げた。
彼は無言で、冷気を漂わせるベッドに横たわった少女を見つめていた。
表情は変わらない。
それでも……その視線に宿る、胸が詰まるほどの優しさは。
鉄面皮なんかでは、隠せはしない。
サミジーナは、ついさっき脳裏を過ぎりかけた思考を振り払った。
そんなこと、あるわけがない。
彼がこれほど優しく見つめる彼女が……この世に、元から存在していないなんてこと。
あるわけがない。
あっていいわけが、ない。
18歳のジャックの眉間には、深い皺が刻まれている。
きっと、7年前にはなかったものなのだろう。
この7年、彼を蝕んできた苦悩。
それを思うと、喉が詰まってまともに息ができなくなる。
でも、この苦しさだって、彼のそれとは比較にならないはずなのだ。
彼の7年間の本当のところは、まともに『人間』というものを知らないサミジーナには、まだ想像することもできない。
ジャックは、何の用途もなかったサミジーナの人生に、初めて意味を与えてくれた。
婚約者の魂を呼び戻すための道具なのだとしても、サミジーナは、彼の道具であれることを誇りに思っていた。
きっと僭越だと知っている。
きっと傲慢だとわかっている。
それでも、サミジーナは願っていた。
ほんの少しでもいい。
彼の苦しみを、分けてもらいたい。
それで、彼がわずかにでも安らかになれるなら―――
―――わたしなんて、どうなったって構わない。
「服を着ろ」
ぶっきらぼうに命じられて、サミジーナは床に脱ぎ捨てたドレスのところへ戻った。
複雑なドレスを、慣れた手際で身に着ける。
着衣が乱れていたりしたら、またいらぬ疑惑をかけられかねない……。
(わたしは別にいいけれど、陛下が……)
きっとジャックも気にしないに違いないが、サミジーナは彼が侮辱されるのがどうしても我慢ならなかった。
それに……。
自分とそうなることが醜聞に分類されることが、どうしてだか無性に腹立たしい。
(どうしてだろう?)
それはまだ、名前の知らない感情だった。
「お前はもう部屋に戻って休め」
正室用の寝室を出ると、ジャックは一方的にそう言い置いて、サミジーナに背を向ける。
「えっ……? へ、陛下! お休みになられないのですか……?」
すでに日が暮れて久しく、メイドたちすら多くが寝静まっている頃合いだ。
なのにジャックの足取りは、そのまま後宮を出ていってしまいそうなそれだった。
「……今日の最後の仕事が残っている」
ジャックは振り返らずに淡々と言う。
「いや……世界最後の、か」
そのときの彼の表情は、サミジーナからは見えなかった。
(……世界最後の、仕事……?)
その言葉で、昼間に抱いた疑問が、再び首をもたげた。
「あの、陛下! ……ひとつ、お訊きしてもいいでしょうか」
「……なんだ」
立ち止まってくれるとは思わなかったので、サミジーナは少しだけびっくりする。
それから慌てて、魔王の背中に質問した。
「どうして陛下は、世界を破壊されようとしておられるのですか……?」
踏み込んだ質問だっただろうか、と思う。
けれど、訊かずにはいられなかった。
ジャックは初めて、ちらりと肩越しにこちらを振り返った。
「……サミジーナ」
「は、はい」
ドキッと心臓が跳ねる。
「人を殺すには、どんな手段があると思う?」
「えっ……?」
人を殺す、手段……?
「ど……毒を盛る、とか……?」
「他には?」
「け、剣で心臓を突く、とか……」
「毒を盛る。心臓を破壊する。頭を切り離す。それに……首を強く絞める。そうすれば、人間は死ぬ。
だが、それでも死ななかったら?」
「えっ……?」
そこまでして死なない人間なんて、いるわけが……。
「どうやっても死なない人間がいるとき。それでも殺したい人間がいるとき。どうすればいいか……。
答えは簡単だ。世界を壊せば、そいつもついでに死ぬ」
世界も壊せば、ついでに……。
それは……魚1匹を殺すために、海を干上がらせるような話だった。
「これは、別に知られてもいいことだがな……。
……サミジーナ。俺に抱かれたいか?」
「ふえっ……!?」
唐突にされた質問に、頬や耳がかーっと熱くなった。
これは……そうだ。
『恥ずかしい』だ。
「俺に抱かれたいか。答えろ」
ジャックは自分の肩越しに、サミジーナをじっと見据えていた。
まるで何かを見定めようとするように。
……何か?
何かって、いったい……。
思えばそれは、さっきデイナにもしていた質問だった。
何か意味が、あるのだろうか……。
サミジーナは熱くなった顔を冷却しようと試みながら、どうにか答える。
「……わ……わかりま、せん」
「わからない?」
「わたしは、その……せ、性欲というものが、いまいち、どういうものなのか、まだ……。
で、ですが、陛下がもし、わたしに……お、お情けをくださるのであれば……そ、その気があるのであれば」
カラカラになった喉を唾で潤して、サミジーナはジャックの視線を迎え入れた。
「よ……喜んで……お受け止め、します」
サミジーナが何度も声を詰まらせながら答えを返す間、ジャックはその様子を無表情で観察していた。
まるで、サミジーナそのものではなく、その中の何かを見通そうとするように……。
「…………ふん」
やがてジャックは、軽く鼻を鳴らして、サミジーナから視線を切る。
デイナのときと同じ反応だった。
「部屋に戻って休め。カーテンはきちんと閉めておくことだ」
「は、はあ……」
こういうのを、梯子を外された、というのだろうか……。
心を宙ぶらりんにされたような気持ちだった。
デイナもこんな風に感じていたのだろう。
「今夜より、夜は夜ではなくなる」
感情の窺えない声で、ジャックは訥々と告げる。
「カーテンは閉めておくことだ。寝不足になりたくなければな……」
別れの言葉もなく、ジャックの背中は廊下の先の暗がりに消えた。
サミジーナはそれを見送って、ぽつりと呟く。
「……やっぱり……優しい」
胸の奥に、疼くような感覚が走った……。




