第8話 感情の名前を知らない少女
「何があったの、サミジーナ!?」
サロンを去ったサミジーナが廊下を歩いていると、メイド服を着た少女が駆け寄ってきた。
「さっき、サロンのほうからすごい音がしたけど……何があったの?」
「シトリー……」
少し年上のシトリーは、サミジーナの幼なじみだ。
サミジーナと同じく悪霊術師ギルドに育てられた子供で、本当の家族になど会ったこともない彼女にとっては姉妹のようなものだった。
「別に……ちょっと、デイナ様と……ちょっとね」
「また喧嘩したの?」
「……………………」
黙り込むサミジーナに、シトリーは『しょうがないな』といった表情を向ける。
「陛下のことバカにされて怒っちゃったんでしょう。サミジーナは陛下のこと大好きだもんね」
「…………好き……?」
「あたしも好きだよ、陛下のこと。あたしがここにいられるのも、陛下が許してくれたおかげだもんね」
シトリーという名前は、サミジーナと同じく、その身に宿る精霊から付けられた記号だ。
しかしルーストではないため、ジャックのハーレムに入る資格はなく、サミジーナとも離ればなれになるはずだった。
ところが、シトリーがジャックに直訴して、後宮の小間使いという形で無理やりついてきてしまったのだ。
本来ならば一蹴されてもおかしくなかったのに、ジャックはそれを許してくれたのだった……。
「…………陛下は、本当は、お優しい方なの」
サミジーナはぽつりと呟く。
「普段は非情に徹しておられるけど……でも……」
サミジーナにはわからない。
小耳に挟んだ話によれば、7年前まで、ジャックは今とは似ても似つかないような、心優しい少年だったらしい。
何かのきっかけで――
いいや、それは自明なことだ。
フィリーネ・ポスフォード。
婚約者であった彼女を喪ったことが、彼の変心のきっかけに違いない。
でも、その心の本質的なところは、そのときと変わってはいないのだとサミジーナは思う。
なのに彼は、心を表に出すことなく、魔王という役割に徹している……。
彼はどうして、世界を破壊しようとするのだろう?
世界に終止符を打つことに、どんな意味があるのだろう……?
「昨日は、陛下が戦っているところを見たんでしょう?」
シトリーに訊かれ、サミジーナはこくりと頷いた。
今と同じように思い悩んでいたサミジーナに、『だったらその目で見てみたら?』と勧めたのは彼女なのだ。
「どうだった? かっこよかった?」
「……………………」
サミジーナは昨日の戦いを――勇者と戦うジャックの姿を思い返し、ドレスの胸の部分をぎゅっと掴んだ。
「なんだか……胸の奥が、きゅってした……」
「へえ~。ときめいちゃった?」
にやにやしながら言うシトリーに、サミジーナはふるふると首を振る。
「そういうんじゃなくて……なんというか……」
うまく言葉が出てこない。
サミジーナには、自分の感情を捉える経験が、圧倒的に不足していた。
「ふう~ん」
と相槌を打って、シトリーはとんとんと自分のこめかみを叩く。
「ね、ちょっと質問させて?」
「え? ……う、うん」
「陛下の戦いを、もっと見たいと思った? 見たくないと思った?」
「…………えっ、と」
記憶を再生して、しばらく考える。
「……見たく……ない。でも、見たい……あ、違う……見ないといけない……ような?」
「じゃあ、陛下に勝ってほしいと思った? 負けてほしいと思った?」
「そんなの…………」
勝ってほしいに決まってる、と思ったが、ちょっと違うような気がした。
仮にあの戦いにジャックが勝って、勇者たちを倒したとしても……。
胸の奥が、またきゅっとなる。
これは、なんなんだろう。
この気持ちは、なんていう名前なんだろう。
「ははあ、なるほどなるほど」
サミジーナの表情を見て、シトリーは納得深げに何度も頷いた。
「サミジーナ、それはね――『切ない』って、言うんだよ」
「切ない……?」
「そ」
メイドの少女は、にっこりと笑った。
「寂しいような、悲しいような、でも、簡単には否定できないような……そういう気持ち」
「せつ、ない……」
サミジーナは再び、ドレスの胸の部分を掴む。
そんなことをしても、感情に手を触れられるわけじゃない。
それでも、またひとつ、自分の心に触れることができた気がした……。
「陛下のことを大切に思ってるって証だよ。いや~、立派にお嫁さんやってますなあ。お姉ちゃん嫉妬しちゃう」
「お嫁さんだなんて……」
荷が重い肩書きだ。
そんなものになれた気は、全然しない。
お嫁さん以前に、自分が女なのかも――否、人間なのかどうかすら曖昧だ。
自分の中身はどれだけ見ても空っぽで、ジャックやデイナ、他の側室たちと同じ生き物だなんて、とても思えない。
人間というのは、あの人たちのように、いろんなものを持っているはずなのに――
「――あっ! いっけない! あたし、お仕事の途中なんだった!」
シトリーが『しまった』という顔をした。
「それじゃあね、サミジーナ! また何かあったら相談に乗ったげる!」
「あ、うん……!」
メイド服の裾を揺らして、シトリーはぱたぱたと廊下を駆けていった。
その背中を見送りながら、すごいなあ、とサミジーナは思う。
同じ境遇で育ったはずなのに、自分とは大違いだ。
どうやったらあんな風に、明るく行動的になれるんだろう……。
昔から、サミジーナにとってシトリーは、『人間』というものの見本だった。
「……部屋に戻らなくちゃ」
サミジーナは一人、自室を目指して廊下を歩く。
特に予定はない。
でも夜は、何日かぶりにジャックに呼び出されていた。
それまでに、きっちり体調と精神状態を整えておかないといけない。
それが、この後宮での――
いいや。
サミジーナの人生での、たったひとつの役割なのだから。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「お帰りなさいませ、陛下」
日が沈んでしばらくしてから、ジャックは後宮に帰ってきた。
彼の寝室は後宮にあるが、夕食はいつも城のほうで摂る。
サミジーナの知る限り、ジャックが後宮で妻たちと食事を摂ったことは一度たりともなかった。
後宮のエントランスでサミジーナがジャックを出迎えるのはいつものことだが、今日に限っては他にも出迎えがいた。
第三側室のデイナだ。
彼女はエントランスに入ってきたジャックにすすっと近付くと、自然に腕を組んで彼にしなだれかかる。
「さぞお疲れのことでしょう……。どうぞごゆるりとお休みください。お望みとあらば、不肖ながらわたくしがお手伝いを……」
豊満な胸を押しつけ、聞いたこともないような甘い声で囁き、デイナはジャックを誘惑していた。
昼間に他の側室たちを焚きつけていたが、結局、自分でやることにしたらしい。
(……娼婦みたい)
サミジーナは聞いたことしかない言葉で今のデイナを評する。
……今のは、もしかして罵倒だろうか。
どうやら自分は、デイナのことを快く思っていないらしい……。
「……………………」
ジャックはじろりと、自分の腕に絡みついたデイナを見つめる。
それはもちろん、伽をさせるかどうかの品定めではない。
もっと、奥。
魂まで覗き込むかのような、深い視線だった……。
「あ、あの……陛下? そんなに見つめられると……」
デイナがたじろいでいる。
よく見ると、頬が少し赤く染まっていた。
あれは確か、恥ずかしがったり、照れていたりするときの反応だったと思う。
自分から誘ったくせに、どういうことなんだろう、とサミジーナは思った。
「……デイナ」
静かな声で、ジャックが第三の妻の名を呼んだ。
「は、はい?」
「お前は、俺に抱かれたいのか?」
「は、はい……えっ!?」
デイナが顔をさらに赤くして、目をぱちぱちと瞬いた。
「抱かれたいのか、と訊いている。答えろ」
「そ、それは……その……」
まっすぐに向けられるジャックの視線から逃げるように、デイナはあちこちに目を泳がせる。
だがやがて、意を決するようにぎゅっと目を瞑ると、夜でもわかるような真っ赤な顔でこう告げた。
「へ……陛下に……抱かれたいっ……ですっ……!!」
普段、他の側室たち相手に女王を気取っているのが嘘のような、弱々しい声。
口ばかりの人だったんだな、とサミジーナは思った。
けれど一方で、ドキドキしてしまっている自分もいた。
ぎゅっと目を瞑って返事を待つデイナは、今まで見たどんな人よりもか弱く見えて……。
自分よりずっと年上なのに守ってあげたくなるような、そんな不可思議な雰囲気をまとっている。
これを……そう。
可愛らしい、と呼ぶのだったか。
だからなのだろうか。
今まで側室たちには何の興味も示してこなかったジャックが、もしかすると……。
そんな風に思ってしまった。
それと同時、どくん、と心臓が嫌な感じに跳ねた。
これは……。
サミジーナは首を傾げる。
この感情は、まだ名前を教えてもらったことがなかった……。
「…………ふん」
ジャックはデイナの真っ赤な顔をしばらく見つめると、軽く鼻を鳴らした。
それから、デイナの身体を引き剥がして、すたすたと歩き始める。
「えっ……?」
一人取り残されたデイナは、戸惑った表情で手を泳がせた。
もはやジャックは彼女には一瞥もくれない。
彼はサミジーナの横を通り過ぎながら短く言う。
「来い」
「……はい、陛下」
サミジーナはジャックの後ろにしずしずと付き従った。
エントランスを出る前、ちらりと後ろを見ると、デイナがぱくぱくと口を開けていた。
――たぶん、『このロリコン!』って叫びかけてるんだろうな。
そんな風に推測している自分を発見し、サミジーナは人間に対する習熟度が進行していることを実感する。
いつの間にか胸の嫌な感じが消え、代わりにふわふわと浮き上がるような感覚があった。
嬉しい?
いいや……これはもっと、即物的な。
ああ、そうだ。
この気持ちは確か――『優越感』と呼ぶものだ。




