第7話 魔王の花嫁たち
生まれたときから、彼女は何も与えられたことがなかった。
愛情?
感情?
経験?
体験?
……人の人生というものには、普通、色んな要素が含まれているはずだと知っている。
けれど、彼女にはさほど多くの要素を思いつけなかった。
彼女の人生のすべては、彼女の精霊術のみでできている。
極めて珍しい精霊の本霊憑きであった彼女は、その希少さを悪霊術師ギルドという組織に買われ、秘密裏に養育されていたのだ。
彼女に求められたのは、精霊術の強度と精度だけ。
それがゆえに、彼女は自分の名前すらも与えられなかった。
ただ――サミジーナ、と。
彼女に宿る精霊〈迷える星のサミジーナ〉から取って、そうとだけ呼ばれていた……。
それは記号であって、名前ではない。
囚人を1番、2番と番号で呼ぶのと同じで、区別のための記号を付与されただけでしかない。
そのことに、彼女は何の感想も持ってはいなかった。
生まれたときからそれが当たり前で、名前なんてものの価値なんて、知りはしなかった。
今から、ほんの3年前。
ジャック・リーバーに出会うまで……。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
天空魔領ダイムクルドが領主、魔王ことジャック・リーバーの妻たちが住まう後宮は、旧リーバー伯爵邸を流用する形で設けられている。
魔王の意向でダイムクルドは女人禁制となっているため、この空飛ぶ領地に存在する女性は、このハーレムに住む7人の側室と、その世話をするわずかばかりの侍女に限られていた……。
天空魔領に許された唯一の花園。
そのサロンにおいて、魔王に選ばれし女性たちが、雑談に花を咲かせている。
彼女らは例外なく魔王軍に拉致されたルーストだったが、その境遇から想像するような暗さは、意外なほど見当たらなかった。
「――で、結局、8人目の花嫁は取り逃がしちゃったワケ? 我らがだ・ん・な・サ・マ・は」
「そうらしいですよぉ~? 小間使いの子から聞きましたぁ~!」
豪奢なドレスをまとった2人の少女が、ソファーに座ってアフタヌーン・ティーを楽しんでいた。
1人は雪のような肌に金の髪。
1人は浅黒い肌に黒い髪。
肌の色も髪の色も、それに身長や体型も、好対照な少女たちだ。
「残念ね。今度はついに王女様だと聞いて、少し楽しみにしていたのに」
優雅に足を組んだ金髪の少女は、第三側室デイナ・バルビローリ。
ラエス王国辺境伯の娘で、治癒の力を司る〈形なき驚愕のブエル〉のルーストである。
「えぇ~? 王女様をいびるのが楽しみってことですかぁ~?」
「まさか。誇り高き貴族であるわたくしが、そんな低俗なことをすると思って?」
「あ~、すいませ~ん。『いびる』じゃなくて『教育する』でしたぁ~」
いちいち間延びさせて喋る浅黒い肌の少女は、第五側室ヴラスタ。
ずっと南方の漁村に住んでいた少女で、動物との会話を可能とする〈爪弾く声のバルバトス〉のルーストだ。
貴族でもなければもちろん王族でもないが、魔王の側室となる条件は、女性であることの他にはルーストであることのみである。
「言葉にはお気を付けなさい。出身がどこであろうと、今やあなたも魔王陛下の妻の一人。自覚を持たないとね?」
デイナはくすくすと笑う。
その言葉は皮肉含みだった。
「いやぁ~、自覚なんか持てないですよぉ~。あっち、こんなひらひらした服、村じゃ着たことありませんでしたしぃ~」
薄黄色いドレスを掴み、ヴラスタは困ったような顔をする。
「ふふっ……。奴隷服よりはいいのではなくって?
噂では、攫われたルーストの中でも反抗的な者は、とんでもない目に遭わされてるって話じゃない」
「そうですよねぇ~。あっちたちは、毎日こうしてお菓子食べてるだけですしぃ~。
妻になれなんていうから、あっち、えっちなことさせられるんだと思ってましたよぉ~」
「そうね。そこは不満だわ。妻だというのなら、一度くらい寝室に来てほしいものね」
「えぇ~? デイナさんは、されたいんですかぁ~? えっちなこと~?」
「あまり放置されてもね。女のプライドが傷付くってものじゃない。何のためにこの体型を維持してきたのやら」
デイナは自らの豊満な胸を揺らした。
「一度でも閨に誘ってくれたなら、わたくしなしじゃいられなくしてあげるのに」
「おぉ~! デイナさん、経験豊富なんですねぇ~!」
「…………経験はないけれど」
デイナはティーカップに口を付け、さらに「んんっ!」と咳払いまでして誤魔化した。
「女は誰しも、純潔というこの世で最も高価な宝石を一つだけ持っているのよ。
これはね、より良い人生を買うためだけに使うべきものなの。
ジャック・リーバーになら――魔王陛下になら、それを使うに値すると、わたくしは思っているのよ」
「へぇ~。それって、スキってことですかぁ~?」
「そんなわけないでしょう?
魔王軍の強さは圧倒的よ。世界のどんな軍隊が相手だって負けるはずがない。いずれダイムクルドは世界を征するでしょう。
世界を支配する国の王妃――これ以上の『人生』って、一体どこにあるのかしら?」
「なるほどぉ~。まおーへいかを一番ホネヌキにした人が、世界で一番エラいお妃さまになれるってことですねぇ~」
「そういうことよ。何せ、正室は未だに空位なんだから。側室は7人もいるくせにね」
実のところ、彼女たちは知っている。
自分たちが側室としてハーレムに加えられているのは、本来女人禁制のダイムクルドに、それでも必要な女性のルーストを置くための方便でしかないのだと。
だからこうして、彼女たちは後宮で自由にしていられるし、魔王に身体を求められることもない。
精霊励起システムによって各々の精霊の手綱を奪われ、精霊術が使えなくなっていること以外には、何の不自由もないのだ。
「―――聞いている? あなたたち」
不意にデイナは、周囲に向かって話しかけた。
「これはあなたたちにも関係のある話なのよ? 形ばかりの側室だけれど、チャンスはすぐそこにある。
よく見れば、なかなか粒揃いじゃない。ふふ……精霊も可愛い女の子を好むのかしらね?」
デイナとヴラスタが座っているソファーの周囲には、4人の少女が立っていた。
彼女たちもまた、魔王ジャック・リーバーのハーレムに迎えられた側室たち。
それがこうして小間使いのように立たされているのは、彼女たちにその権利がないからに他ならない。
ルーストであり、女性であること以外には何の共通点もなくても。
人間がこうも集まれば、そこには必然と序列が生まれる。
女だけの小世界を統べる女王は、お触れを示すかのように庶民たちに告げた。
「悔しくないのかしら、あなたたち? この世で一番の黄金が、手が届く場所にあるっていうのに……。
このままじゃ、あんな子供に全部持っていかれてしまうわよ?」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「一人ずつでも、四人全員でもいいわ。夜這いでもして、我らが旦那様に教えてあげなさい。
お人形遊びは卒業する時分ですよ、ってね―――」
「――――お人形、というのは、もしかしてわたしのことでしょうか、デイナ様」
静かな声は、サロンの入口からだった。
開かれた戸口に、小さな少女が立っている。
年齢にして、わずか10歳程度。
この場に集まった側室たちの誰よりも、彼女は幼かった。
彼女の名はサミジーナ。
魔王ジャック・リーバーの第一側室。
精霊序列第4位〈迷える星のサミジーナ〉のルーストである。
デイナはソファーから立ち上がり、戸口にいるサミジーナに笑みを向けた。
「第一側室サマではありませんか。ご機嫌麗しゅう」
「あまり麗しくはありません……。不穏な話を、小耳に挟んでしまったので」
「ただの挨拶です。あなたを育てた犯罪組織は、その程度のことも教えてくれなかったのかしら?」
「はい。礼儀という言葉自体、ここに来てから知りました」
馬鹿正直に答えられ、デイナの表情がかすかに歪む。
「それよりも、今の話はどういうことでしょうか。陛下に夜這いをかける、と聞こえましたが」
「夜這いという言葉はご存知ですのね。
……ああ、もしかして陛下からご教授いただいたのかしら? 毎夜のように同じ部屋で過ごされているものね……?」
今度はサミジーナが眉を動かす番だった。
彼女は幼い声の温度を下げて、ずっと年上のデイナに真っ向から視線を投げる。
「……邪推をしているのですか」
「邪推? 事実じゃなくって? 我らが旦那様は、毎日毎日飽きもせず、たった10歳のあなたを部屋に連れ込んでお人形遊びをしている……何も間違っていませんわ」
「陛下はわたしなんかを抱いたりはしません」
「だったらお医者さんごっこかしら? 部屋の中で裸になっているあなたを見た、という侍女もいるようですしね?」
「……………………」
サミジーナは無言でデイナを睨みつける。
対するデイナは悠然と笑みを湛えると、煌びやかな金髪を揺らしながら、10歳の第一側室に歩み寄った。
腰を折って間近からサミジーナを見下ろし、彼女は言う。
「後学のためにお教え願えますでしょうか……?
あの正室用の寝室で、陛下とどのように過ごされていますの……?
この幼い身体の、特にどの部分が、陛下のお好みなのかしら……?」
「…………わたしは陛下に抱かれたことなんてありません。陛下のお心には……ずっと、同じ方がおられますから。あの部屋も、そのためだけにあるものです」
「ええ、知ってますわ。フィリーネ・ポスフォードさん、でしたかしら?」
サミジーナは虚を突かれた顔で、デイナの瞳を覗き込んだ。
「…………どこで……?」
「人の口に戸は立てられませんわ。この後宮には、陛下があの学院に通われる前から仕えているメイドもいるのですもの。幼馴染みで、婚約もしていたそうですわね?」
「…………だったら」
「おいたわしい魔王陛下。7年も前に亡くした婚約者に未だに心を囚われて―――年の近い少女を身代わりにしなければ、自分を慰めることもできないのね。
そういうの、なんて言うんでしたかしら? 確か、何とかという本が由来で……。
ああ、そうそう、ロリータ・コンプレッ―――」
デイナは言葉を止めた。
自分の意思で、ではない。
止めさせられたのだ。
目の前に突きつけられた、黒光りする鉄の筒によって。
「…………身代わり…………?」
サミジーナがドレスの中から取り出した『拳銃』。
魔王軍の科学者たちが実用化に漕ぎつけたばかりの最新式。
その黒々とした銃口をデイナの鼻先に突きつけながら、しかし、サミジーナの顔に表情はない。
「……代わりに……代わりになんて……わたしなんかが……」
無表情のまま、かすかに揺れた声でぶつぶつと呟くサミジーナを前に、デイナは誤魔化し笑いをしながら後ずさる。
「お……落ち着いて……ごめんなさい? ちょっと言い過ぎてしまったわ……。だ、だからそれを、は、早く……!」
「…………ごめんなさい……。わたしのことは、どんなに侮辱したっていいんです……。
だけど、だけど……わたし、陛下と彼女への侮辱だけは……それだけは……許せない、みたいで…………」
「ごめんなさい! 本当に悪かったわ! 謝るから! ほら、謝ってるから! だから、だからああッ……!!」
「デイナさんっ!!」
ヴラスタが立ち上がると同時、引き金にかかった指に力がこもった。
頭の中に突き刺さるような炸裂音が、サロンに響き渡る。
他の側室たちが悲鳴をあげて、その場にうずくまった。
どうっ、と。
デイナの身体から力が抜ける。
彼女は―――
尻餅をついた格好で、煙を棚引かせる銃口を見上げていた。
デイナの頭上の天井に、黒い弾痕が深々と穿たれていた……。
「…………ッ痛……」
サミジーナが痛みに顔をしかめる。
拳銃がもたらす巨大な反動は、10歳の少女の手には大きすぎたのだ。
「な……何をっ……何をするのよッ!!」
デイナは尻餅をついたまま金切り声をあげる。
「い、いきなりそんなもの、人に向けるなんてッ!! どうかしてるわ! 頭がおかしいのよっ!!
まったくお似合いね……! お似合いの夫婦だわ! 犯罪組織に育てられた奴隷に、小さな女の子にしか興味のないロリコン魔王―――ひッ」
サミジーナが殺意のこもった目でデイナを睨みつけた。
デイナは尻餅をついたままずりずりと逃げようとしたが、裾の長いスカートのせいでうまくいかない。
氷よりも冷たく、炎よりも苛烈な眼光が、しばらくの間デイナを射貫き続けたが……再び銃口が彼女に向くことはなかった。
サミジーナは右手に拳銃を持ったまま、長いスカートを翻して小さな背中を向ける。
「…………わからない…………」
そんな風に呟きながら――
第一側室の少女は、サロンを離れていった。




