第6話 愛することができるひと
「―――王子様ってさあ、フィルのことが好きだったんだよな?」
朝食が終わり、三々五々に散って、アゼレアとルビーだけになったとき、ルビーが天井を見上げながらつぶやいた。
アゼレアは少しドキッとしながら、
「何よ、いきなり……」
「さっき見ただろ? ヘルミーナ姫さんを見る王子様の目! 子供を腹に入れたカンガルーだってあんな優しい目しねーぜ」
「何なのその比喩……。まあ、でも、そうね。すっごく優しい目だった」
「婚約者っつってもさあ、ほとんど会ったことねーんだろ? いくら美人だからって、いきなりあんな風に見れるもんなのかね、男って。ましてや、王子様は―――」
フィルのことが好きだった。
フィル自身は気付いてなかったようだが、それは戦闘科Sクラスの人間なら誰もが知る公然の秘密だった。
学院での思い出が脳裏を過ぎって、アゼレアの胸が鈍く痛む。
……エルヴィスだって、忘れてはいないはずだ。
忘れられはしないはずだ。
だからこそ、ジャックに会いに行くのだから。
ならば、彼の中には、フィルへの想いもまた、まだ残っているはずなのだ。
アゼレアの胸の中に未だ燻り続ける、この気持ちのように―――
「そう吹っ切れるもんなのかねー。これはダメだ、次に行こう、ってよ」
「……さあね。人によるんじゃない?」
「世の中には未練たらったらで盛大に行き遅れてるお嬢様もいるってのによ」
「いっ、行き遅れてなんかないわよ!!」
「おんやあ? あたしはお嬢様って言っただけだぜ~? 誰もお前だなんて言ってねーし~」
「う、ぐぐぐ……!」
実際のところ、18歳という年齢は、ギリギリである。
社交界などで知己を得た同い年の貴族の娘たちは、もうほとんど嫁入りしてしまっている。
アゼレアのところにも縁談は来ているのだが、術師としての仕事が忙しいとか、炎神天照流師範代としての役目がとか、とにかく言い訳をして断りまくっている状態だった。
本当の理由は、忙しいからじゃなく―――
(うう……)
当時の彼は11歳。
18歳になったアゼレアからすればほんの子供だ。
そのうえ、今の彼は全世界から憎まれる大悪人。
だというのに、胸の高鳴りを押さえることができない。
この7年、怖いくらいに、変わりなく。
「初恋をこじらせんのも困りもんだよなー」
ルビーが極めて無神経にうそぶいた。
アゼレアはちょっとだけイラッとする。
「……ルビーだって独身じゃない」
「だって、そりゃお前、あたしが結婚して家庭に入るようなタマに見えっかよ? 相手もいねーしよ」
「ガウェインさんは?」
「はあ?」
ルビーは心底不快そうに顔を歪めた。
「おっそろしいこと言うんじゃねーよ。誰が誰の嫁になるって?」
「そんなにおかしいかしら。結構お似合いだと思うけど」
「ケッ。死んでも嫌だね。あいつに愛の言葉でも囁かれたらと思うと耳の毛が抜けそうになる」
頭の上の猫耳がぶるるっと震える。
「大体、あいつにもいるだろーが、婚約者が」
「いた、でしょ? もう婚約解消されたって聞いたけど」
「ぷははは! マジウケるよな。仕事ばっかで構わなすぎて浮気されたって! ぶははははは!」
「ちょっと……笑わないであげなさいよ。それ、すごく気にしてるのよ、ガウェインさん」
ガウェインの前では決して口にしてはいけないタブーなのだ。
「まあ……そのこともあって、私、思うのよね。ガウェインさんには一緒に働けるような人がいいんじゃないかなって」
「だからあたしか?」
「適役でしょ?」
「いやいやいや……。つーかさあ、現実的に考えてみろよ」
「何をよ?」
「あいつのチンコがあたしん中に入ると思うわけ?」
途轍もなく下品な発言にアゼレアは一瞬耳を疑ったが、反射的にルビーの身体を下から上に眺めてもいた。
何のせいなのか、ルビーはあからさまに発育不良で、とても18歳には見えない小柄な体格だ。
2メートル近くあるガウェインと並ぶと、まるっきり大人と子供である。
アゼレアは背筋を震わせた。
「……こわい……」
「だろ? 裂けるって。真ん中から」
ルビーはけらけらと笑う。
「でさー。あいつ実は結構ムッツリだから、初めてんときはすげーガッツくと思うんだよな。あの鍛えた図体で理性失われてみろよ。死ぬわ。マジで」
「……それは、まあ、怖いのはイヤだけど……でも、そこまで求められるのも憧れるっていうか……」
「は?」
「……あっ!? いや、なんでもない!」
「ほう? ふふ~ん? お嬢様はちょっと強引なのがいいわけ? ジャックに? 組み伏せられて? 服をビリビリーみたいな?」
「ちがう! ちーがーうーっ!!」
「何せ魔王サマなわけだし、やってくれるんじゃねー? ひひひ!」
「ちがうってばぁーっ!!」
ニヤニヤ笑うルビーに、アゼレアは顔を髪と同じくらい真っ赤にして弁解するのだった。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
父についてラエス王国を訪れたとき、社交パーティで金髪の少年を見かけた12歳のヘルミーナは、開口一番にこう告げた。
『あなたですの? 「天才王子」だとか呼ばれているのは。腕も足もあまりに細いから、女の子かと思いましたわ』
長くその勇名を轟かせてきたロウ王国において、男に求められるものは1に強さ、2に強さ、3も4も5も強さ――具体的に言えば筋肉である。
ヒョロい男は男にも女にも好まれない。
だから、そのなよっとした、一見では女の子と見間違いかねないほど細っこい少年を、ヘルミーナが『頼りなさそうな奴』と判断したのは、ロウ王国の民としてごくごく一般的なことと言えた。
とはいえ、仮にも一国の姫が、仮にも一国の王子に対して投げかける言葉ではない。
ヘルミーナだって、その彼が普通の王子であったなら、もう少し言葉を選んだだろう。
しかし、彼は『天才王子』だった。
その才気は――その強さは、ロウ王国でも噂されるほどだった。
精強・屈強・最強を旨とするロウ王国の姫として、対抗心が生まれないはずはない。
『王族であり、ルーストである』という共通点もそれに拍車をかけ、ヘルミーナにとって彼は――エルヴィス=クンツ・ウィンザーは、会ったこともないライバルのようなものだった。
それがどれほどのものかと来てみれば、モヤシみたいにひ弱そうな男がいたものだから、つい彼女は、失望を隠せなかったのだ……。
ヘルミーナの暴言をエルヴィスは微笑でいなし、涼やかに自己紹介した。
たったそれだけで、遠巻きにしている貴族の息女たちが熱視線を送ってくるのがわかった。
それがまた、ヘルミーナには気に喰わない。
――ちやほやされて調子に乗ってるんじゃないの?
ロウ王国の女は、ジョークで『ロウ女が3人集まりゃ狼も近付かない』と言われるほど、強気な性格の者が多い。
そしてヘルミーナは、その生き見本と呼ばれる姫だった。
その気性は、どんなドレスを着ても隠せない。
話せば話すほどエルヴィスにイライラを募らせ、そしてそのたびに、彼女の舌鋒は鋭さを増していった……。
『あなたね、一言くらい言い返したらどう? 言われっぱなしじゃあ、あなただけじゃない、ラエス王国の男が侮られて―――』
『では、一つだけ』
微笑を湛えたままそう言ったかと思うと、エルヴィスは不意にヘルミーナの手を掴み、ぐいと引っ張った。
遠巻きに見ていた少女たちがきゃあっと黄色い声をあげる。
ヘルミーナはそれ以上に驚いていた。
この、力。
決して武術の心得がないわけではないヘルミーナをして、まるで抵抗できなかった。
このとき、彼女はようやく気付いたのだ。
宝石のような容姿と華美な礼装の下に、鍛錬によって築かれた肉体と、実戦によって磨かれた技術とが、巧妙に隠されていたことに。
『そのまま』
ヘルミーナの身体を引き寄せたエルヴィスは、耳元でそう囁いた。
そして、先ほどまでと変わらない口調で続ける。
『左後ろ、配膳をしている使用人の男。おそらく、あなたを攫おうとしています』
『―――、え?』
『表情を変えないで』
ヘルミーナはかろうじて顔の筋肉を固めた。
『不自然な回数、あなたのほうを見ている。足運びから見ても素人ではありません。
大方、我が国と貴国の仲違いを狙うセンリ共和国の手の者でしょう』
ヘルミーナは内心でショックを受ける。
気付かなかった。
そういう悪意には敏感なほうだと思っていただけに、衝撃は大きかった。
しかし。
直後にエルヴィスが口にした言葉によって、その衝撃はより大きな驚きで塗り潰される。
『取り押さえるのは容易ですが――せっかくのパーティに水を差すのも忍びありません。
釣り出しましょう。囮になっていただけますか?』
まったく、信じられないことだった。
パーティに水を差すのは忍びない?
たったそれだけの理由で、一国の姫をエサにしようだなんて。
この時点で、ヘルミーナは直感していた。
この王子には、外側と内側とに途轍もないギャップがある、と。
ひと気のない廊下に釣り出した曲者を自ら取り押さえるエルヴィスを見て、その気持ちはますます強くなった。
この人は、なんなのだろう?
どういうものを見て、どういうことを考えたら、こんな風になるのだろう?
気付けば、二人はパーティ会場には戻らず。
月明かりばかりの肌寒い廊下で、何時間も語り合ってしまっていた……。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「そんなこともあったなあ」
暖かい陽光が射すロウ王城の中庭で、初めて出会ったときのことを話すと、エルヴィスは懐かしそうに笑った。
ヘルミーナはなぜだか恥ずかしくなって、自分の毛先を指でいじくる。
「あのときは、本当に、分別のない子供で……ずけずけと失礼なことばかり言って、申し訳ありませんでした……」
「謝ることはないさ。よく考えたらぼくだって、女性を力任せに引き寄せるなんて無礼を働いたわけだしね―――それでおあいこだよ」
ああ、優しい。
かっこいい。
すき。
……ヘルミーナの頭はコンマ2秒で茹で上がったが、直後に脳裏に過ぎったことが、それを急速に冷却した。
「ですけれど……あのときのわたくしは、そのほんの1年前に、あなた様に起こったことも知らず……」
エルヴィスの微笑が、困ったようなそれになる。
ヘルミーナには、それは痛みに耐えるようなものに見えた。
あのときから、1年前。
すなわち、今から7年前。
―――精霊術学院崩壊事件。
大陸最高の精霊術師教育機関として名高い学院が、誉れある闘術大会『霊王戦』の初日に、突如として大量の白骨に潰された事件。
時を同じくして、ロウ王国も含む世界中で、数万人に及ぶ人間が音もなく屍と化した。
未だ詳しいことはわかっていないその事件により、学院が在中していたラエス王国を筆頭に、世界中が甚大なダメージを受けた。
エルヴィスはその学院の生徒であり、事件の最も近くにいたのだ……。
7年前、彼がいったい何を経験したのかは、ヘルミーナには恐ろしくて訊けなかった。
その内容が怖いのではない。
それを話させることで、エルヴィスが壊れてしまうのではないかという不安が、どうしても拭えないのだ。
彼は強い。
肉体的な意味だけではなく、精神的にも。
若い身空で新・精霊術師ギルドの立ち上げに成功してみせたことからも、それは明らかだ。
だが同時に、弱く脆い。
ガラス細工のような繊細さを、鎧のような強さの裏側に感じてしまう。
それが崩れ去ってしまうことが、ヘルミーナには恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった……。
「わたくしは……7年前、あの事件をどこか遠くに思っていました。遠くの場所で起こった、遠くの出来事だと。
そんなわたくしには……仲間の皆さんのように、エルヴィス様の痛みを共有することはできません。
ですけれど……ですけれど、それでも……!」
胸に渦巻く気持ちを、言葉にすることができなかった。
腕っぷしばかり強くても、性格ばかり強気でも、こんなとき、言いたいことをきちんと言えないのでは、意味がない。
不甲斐なくて泣きたくなる気持ちを、どうにか喉元でこらえる。
そんな彼女の頭に、エルヴィスが手をそっと置いた……。
「過去を共有しているかどうかなんて、些細なことさ。
今まで全然違う場所で生きてきた、全然違う人間が、あるとき出会って、家族になる――それが結婚するっていうことだろう?」
ヘルミーナは、胸をきゅっと押さえた。
嬉しい気持ちと一緒に湧き起こった、とある感情を抑え込もうとして……しかし、結局、口から滑り落ちる。
「でも、エルヴィス様は……わたくしを愛しては、いらっしゃらないでしょう……?」
上目遣いで見たエルヴィスの顔は、どこか寂しそうだった。
視線はこちらに向いているのに、どこか、もっと遠い場所を見ているようで――
「……すごいな。すぐに見抜いちゃうんだな、女の人って」
本当に感心した風に言うエルヴィスを見て、どくんと心臓が鳴った。
抑え切れなかった感情とは―――嫉妬だ。
エルヴィスの本当の眼差しの先にいる、どこかの誰かへの。
「誤魔化しはしないよ。……確かに現時点のぼくは、きみを愛しているとは言えない」
そんなのは、わかっていたことだ。
それでも、視線を逸らしてしまう。
「でもね――きみがぼくにとって大切な人だっていうのは変わらないよ、ヘルミーナ」
「そ、……それは、どういう……?」
おずおずと上げた視線を、エルヴィスの瞳の輝きが捉えた。
「ぼくたちの婚約は、極めて政治的なものだ」
唐突に放たれた現実的な言葉に、ヘルミーナは胸の疼きを堪えながらうなずく。
「わかっています……。わたくしは、『救世合意』に至るに当たって、ラエス王国に誠意を示すため貢がれる、担保。父からも、はっきりそのように言われました……」
「誠実なお父上だね。娘に下手な誤魔化しはしたくなかったんだろう」
「わたくしは、幸せ者です。本来なら、王族の結婚とは、個人の意思など介在し得ないもの……。ですけれど、わたくしは――」
運良く。
本当に運良く、想い人と結ばれる機会に恵まれた。
しかし、エルヴィスは――
「現時点のぼくは、きみを愛しているとは言えない」
エルヴィスはゆっくりとうなずいてから、もう一度繰り返した。
「でも――ぼくは絶対に、きみのことを愛してみせるよ」
「……え……?」
エルヴィスの表情は、またしても、遠くを見るようなそれになっていた。
「きみが見抜いた通り、ぼくには好きな人がいる。もういないけど、いるんだ、ここには、まだ」
そう言いながら、彼は服の胸の部分をぐしゃっと掴む。
「元より叶うはずのない恋だった。その子には、別に好きな人がいたからね。当時は、いずれ吹っ切れると思っていたんだ。
……でも、あの事件が、ぼくの時間を止めてしまった。心だけを、あの日の、あの扉の前に、置き去りに……」
瞬間、ヘルミーナは目の前のエルヴィスが崩れ去る光景を幻視した。
止めようとした彼女を、エルヴィス自身が手を出して制止する。
「ダメだ。言わないといけないんだ……きみには」
エルヴィスは、表情の裏に途方もない苦痛を隠しながら続けた。
「あの日の続きを、始めなくちゃいけない。
あの日の扉を、開かなくちゃいけない。
そうして初めて、ぼくの心が現実に追いついて――きみのことを愛する準備が整うんだ」
「……愛する、準備が……?」
「うん。……これは、結婚するんだから、って責任によるところが、多分にあるんだけどね。
でもぼくは、とても幸福なことだと思うんだ。きちんと次に愛せる人がいる――愛さなくちゃいけない人がいる、ってことは。
もし、それすらもいなかったのなら、ぼくは……」
そう呟いて、エルヴィスは空を見上げる。
いっぱいに広がる青い空に、今はもう、天空魔領の黒い影はない。
「ヘルミーナ。ぼくは、運命を信じない」
空を仰いだまま、エルヴィスは何者かに突きつけるように告げた。
「以前ね……そう、以前。
運命に約束されたような、男の子と女の子がいたんだ。
二人は絶対に結ばれるって、ぼくらは信じて疑わなかった」
ヘルミーナは直感する。
そのうちの『女の子』のほうが、エルヴィスの―――
「でも、そうはならなかった」
苦痛を噛み締めるように、エルヴィスは言った。
「何かが邪魔をして、その運命を台無しにしたんだ。
あんなものを見たあとで、運命なんて、どうやって信じればいい?
だから、ぼくは――――」
エルヴィスが顔を戻したかと思うと。
―――ああ。
懐かしい、と思った。
ヘルミーナはぐいと腕を引っ張られる。
初めて会ったときと同じで、抵抗なんてできはしなかった。
しかし、その先は、初めて会ったときとは違った。
そっと。
額に、エルヴィスの唇が触れたのだ。
「――――ぼくは、運命じゃなく、自分で決める」
かつて天才王子と呼ばれた青年は、いつか愛することになる伴侶の目を見て言う。
「今はこれしかできないけど、彼と話して、7年前から先に進んで、ちゃんと準備ができたら、唇のほうにさせてほしい。
それまで……待っていて、くれるかな?」
少し不安そうな声音と顔で言うエルヴィスに、ヘルミーナは少しだけ笑う。
それから、想い人の手を取り、自分の頬に添えた。
「……ずるいですわ、エルヴィス様」
胸の奥から湧き起こり、全身を満たすこの熱が、少しでも伝わってほしいと願いながら、少女は答える。
「100年でも待ちます。今、そう決めました」




