第2話 超長距離頂上決戦
「俺が出陣る」
魔王がそう宣言すると、大指令室のオペレーターたちは一斉に己が主を振り仰いだ。
常識で考えれば、撤回させるべき宣言だ。
敵の前に、王が自ら身を晒すなど。
それもただの敵ではない。
最強の敵にだ。
当代最強の称号『霊王』。
救世者の肩書き『勇者』。
かつて神童と呼ばれ、未だ天才の呼び声高き、ラエス王国第三王子。
エルヴィス=クンツ・ウィンザー。
この世で最も危険な敵の前に、最も守られるべき王が身を晒す――
真っ当な臣下であれば容れるはずもない。
真っ当な王であれば考えもしまい。
しかし、彼らは魔王軍であり、魔王であった。
自他ともに認める、それが彼らの在り方だった。
オペレーターは揃って起立し、無言で敬礼する。
魔王ジャック・リーバーは彼らを眉一つ動かさず見下ろすと、マントを翻した。
「アーロン。あとは任せる」
壁際の椅子に腰掛けた男が「やれやれ」と肩を竦める。
「よくもまあ、たかが残像に大役を任せやがる―――よっ、と」
アーロン・ブルーイットは立ち上がるや、気負いのない声のまま次々に指示を飛ばし始めた。
その声を背中に、ジャックは側近たる青年・ベニーを伴って大指令室を後にする。
「ビニーからの情報は?」
絨毯に覆われた廊下を足早に歩きながら、ジャックは側近に尋ねた。
「我が軍が足を止めた今のうちに、ロウ王国軍が総崩れとなった部隊を立て直しに掛かっているようです」
ベニーはこの魔王城からでは知り得るはずもない情報を当たり前のように口にする。
彼は双子の妹であるビニーと精霊術によって意識を共有しているのだ。
ジャックは報告に頷きだけで応え、さらに質問を重ねる。
「他の3人は?」
「まだ姿を現していません」
「……………………」
ジャックが目指しているのは上階――城の屋上だ。
階段に足を掛けたそのとき、幼い声が彼の背中を掴んだ。
「――陛下!」
ジャックは淀みなく動かしていた足をピタリと止めて、肩越しに背後を見る。
そこには、一人の少女がいた。
第二次性徴も未だ迎えていない、10歳ほどの幼い少女だ。
人形めいた装飾過多なドレスを着せられ、濡れたように黒い髪を花を模した髪留めで結い上げている。
幼い少女は、ドレスの裾を引きずって一歩前に出ると、小さな手をぎゅっと握り締めながら、絞り出すように言った。
「見ていても……いい、ですか?」
これに反応したのは、ジャックではなくベニーだった。
「何を仰られますか、サミジーナ様! 陛下はこれより戦いに赴かれるのです! 第一側室の貴女様を、まさか戦場に立たせるわけには―――」
「好きにしろ」
短く、ジャックは答えた。
それきり、10歳ほどの少女――サミジーナには一瞥もくれず、階段を上ってゆく。
「あっ……ありがとうございますっ」
サミジーナは深く頭を下げると、歩きにくそうにドレスを引きずりながら魔王の背中を追いかけた。
側近ベニーもまた、『仕方がないな』といった表情を打ち消して、己が主とその妻の後ろに続くのだった。
天空魔領ダイムクルド。
ジャック・リーバーに宿る精霊〈尊き別離のアンドレアルフス〉の力によって浮遊する独立国家。
その領土は、かつてラエス王国の一部として領されていた土地と、独立後に侵略・接収された複数の浮島群から構成される。
魔王城はそのうち、元・リーバー伯爵領――
すなわち、現・ダイムクルド本島西寄りに位置する丘の上に居を構えていた。
その最上階。
花々が絢爛に咲き乱れる屋上庭園は、物理的な意味で世界最高の場所である。
妻と側近を連れた魔王は、その端まで移動し、自らの領土と遥か下に広がる大地とを睥睨した。
何気ない様子で、ジャックが前方の空間を掻き分けるように腕を動かす。
すると、前方――ロウ王国首都・ブレイディアとの間を塞いでいた浮島が横に移動した。
この天空魔領のすべては、文字通り魔王の掌中にある。
動かすも落とすも、何もかもジャックの意のままなのだ。
障害物をどけたジャックは、遥か彼方に視線を投げた。
感情の映らない眼の先にあるのは、ロウ王国王城。
その上部にあるバルコニー。
そこに佇んでこちらを見据えている、一人の青年だった。
無論、見えるわけもない。
視線を交わすことのできる距離ではない。
しかし、魔王にとって、勇者にとって、敵が視程内にいるかどうかなど、さしたる問題ではなかった。
「退がっていろ」
ジャックは妻と側近に告げる。
サミジーナとベニーが離れ――
天に開いた『王眼』が、ジャックの姿を捉えた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「――ようやく捉えたよ、ジャック君」
ロウ王国王城のバルコニーで、エルヴィスは淡く笑う。
世界の在り様を直接知覚する『王眼』によって、彼はかつての級友の姿を7年ぶりに視ていた。
「大人になったじゃないか、お互いに。だったら大人らしく、まずは挨拶でも交わすとしようか―――!!」
そして勇者は、すべての過程を省略し、魔王との戦闘を開始した。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
ベゴン!!
と。
ジャックの足元が、唐突に陥没する。
クレーター・クリエイター。
と、かつて呼ばれていた技。
ワイバーンの速度でも5分はかかるだろう距離を無視して、エルヴィスが気圧倍加攻撃を仕掛けてきたのだ。
「ああっ」
という短い悲鳴は、第一側室サミジーナのものだった。
だが、その隣に控える側近ベニーは動じない。
屋上の床に穿たれたクレーターの中心で、しかしジャックだけが、平然と佇んでいるからだ。
彼の精霊術【巣立ちの透翼】は、あらゆる質量を打ち消す力。
数千の大軍を機能不全に貶めた攻撃であっても、ジャックにとってはそよ風同然のものでしかなかった。
ジャックは敵の先制攻撃に対し、何らの感想も口にしない。
ただ――
街の中心に聳える王城に向けて、しなやかな人差し指を差し向ける。
途端、風が唸った。
吸い寄せられているのだ。
空気という空気が、魔王の指の先端に。
サミジーナがドレスのスカートを押さえ、ベニーが髪を手で押さえた。
ジャックのマントがばたばたと棚引く。
世界すべてを喰らわんとするような暴力的吸引は、ほんの数秒で終わりを告げた。
大気を集めた指先に、小さな光が灯ったのだ。
それが合図。
暴力的吸引は、次の瞬間、破壊的排出に反転する。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
光が灯った。
炎でも、雷でもなければ、大きいわけでも、強いわけでもなかった。
だが、エルヴィスは知っている。
それは、他ならぬ彼自身が、ジャックと協力して編み出した技だからだ。
「退がって!」
背後のヘルミーナに鋭く指示したと同時、エルヴィスの王眼が捉える。
ジャックの指先から、膨大な大気が解放されたのを……!!
エルヴィスのいるロウ王城からジャックのいる魔王城までは何キロもの距離がある。
光が届くのは一瞬でも、風が届くのには何秒かを要するはずだ。
しかし、それは必ず来る。
わずか数秒でこの城まで到達し、その上半分を木の葉がごとく吹き飛ばすだろう。
エルヴィスは左腰に佩いた剣の柄に手を触れさせた。
だが、彼がそれを抜き放つ前に。
部屋の中に退がったヘルミーナと入れ替わるようにして、大柄な男がバルコニーに飛び出してきた。
甲冑をけたたましく鳴らしながら、その男はエルヴィスの前に出る。
直後だった。
何キロもの距離をまっすぐに貫いた風の槍が、轟然と襲い来た。
エルヴィスは、腰の剣を――抜かない。
その代わりに。
彼の前に出た大柄な男が、自らの盾を構える。
その盾が、巨大化する。
元より身体の半分を隠すような大盾だった。
それが3倍――いや5倍。
もはやそれは、盾というよりは壁だった。
文字通りの鉄壁が、彼方より飛来した風の槍を受け止める。
「むうううんッッ!!!!」
男が盾を押さえながら、低い声で気勢を上げた。
膨大な衝撃を盾越しに受け止めながら、しかし男の足は、1センチたりとて退がることはない。
「【不撓の柱石】……!? でも、この膨張率は――修復力は――なんて精度……!」
ヘルミーナが呻くように呟く。
巨大化した大盾は風の槍を散り散りに弾いているが、しかし、無傷ではなかった。
むしろ本来ならば、如何に巨大化させて重量を増したとて、たかが鉄ごとき、呆気なく貫かれている。
そうなっていないのは、傷つき、抉られるたびに修復されているからだ。
大柄な男の精霊術【不撓の柱石】が、削られた分を即座に補填しているからだ。
城すら吹き飛ばすだろう風の槍に抗しているのは、硬度ではなく耐久力だった。
そして、その無限にも等しい耐久力は、ついに風の槍の威力を受け止め切ってみせる。
すべての風が大気の中に散るや、男は盾を元の大きさに戻した。
「独断専行が過ぎます、殿下! 少しは御身を案じていただきたい!」
男が振り返るなり口にしたのは、エルヴィスへの小言だった。
エルヴィスはそれを柔らかな微笑で受け止める。
「ごめんね。それにありがとう、ガウェイン君。助かったよ」
「身に余るお言葉です。しかし、それよりも――」
「うん」
大柄な男――ガウェイン・マクドネルの言葉に頷いたエルヴィスは、右手を頭上に振り上げた。
「互いに挨拶は終わった。次は近況報告でもしようか」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
遥か天上、魔王城の屋上庭園からでも、それははっきりと視認できた。
ロウ王城、その直上の空間が――
丸ごと。
すべて。
――反転していた。
「……っあ……?」
呆然としたような声を、サミジーナが小さく漏らす。
ジャックは静かに、その剣を見上げていた。
向こう側の風景を上下反転させているそれは、蜃気楼だ。
局所的に生まれた激しい気圧差によって、光が歪んでいるのだ。
すなわちそれは、超高気圧の塊。
蜃気楼の剣。
だが、サイズがあまりにも桁違いだった。
王城から直上に向かって伸びているそれは、天空魔領たるダイムクルドの標高さえ超えて――そのまま、雲中に消えている。
先端が、見えなかった。
「まさかっ……! 届くのか!? ここまで!!」
悲鳴めいたベニーの叫びは、信じたくないという感情が多分に含まれている。
ロウ王城からこの魔王城まで、直線距離で一体何キロあるだろう。
あの蜃気楼の剣が、もしジャックにまで届くとしたなら。
その刃渡りは。
一体。
何キロメートルあることになる……!?
ジャックは飽くまで表情を変えない。
足を動かす気配もない。
そして、彼の制御下にあるダイムクルドを退避させる気配も、また。
――― オ オ ウ ン ―――
不可思議な唸りが、世界全体に響き渡った。
まるで雲の向こうにいる何か超越的な存在が、深く呼気を吐いたような。
王城から高く高く伸びた蜃気楼が、ゆっくりと傾き始める。
雲が、割れた。
反転した風景でしか視認し得ない剣が、この瞬間、万人の目にはっきりと映された。
その巨大。
その圧迫。
あたかも、神が腕を振り下ろしたようだった。
雲の次は、きっと大地が割れることになる。
それを目撃した人間は、誰もがそう確信したことだろう。
「……ふん」
ただ一人。
魔王ジャック・リーバーを除いて。
軽く、太陽の光を遮るような調子で、ジャックは右手を天に掲げた。
何のためか?
問うまでもない。
雲を割って振り下ろされる、刃渡り何キロメートルもの剣を、その手で受け止めるためである。
サミジーナとベニーが、頭を押さえてその場に伏せた。
直後、ジャックの右手と蜃気楼の剣が激突する。
火花もない。
衝撃もない。
轟音もない。
ただ、風が鳴っていた。
大気が静かに唸っていた。
ジャックの右手の先で起こっているのは、何のことはない。
さっきと同じこと。
彼の手のひらに触れた蜃気楼の剣が、根こそぎ吸い込まれているのだ。
蜃気楼は見る見るうちに消えていく。
神の腕とも見えた剣が、魔王の手のひらに収まっていく。
反転した風景が欠片一つなく消え去ると、ジャックは掌中に収めた大気を、頭上に向けて解放した。
瞬間、迸った轟音は、もはや人の耳で受け止め切れるものではない。
衝撃だけを人の身に残して、超高気圧の塊は空をまっすぐに貫いた。
雲が晴れる。
吹き飛ばされ、散り散りになり、破壊される。
遮るものがなくなった日光が、燦々とジャックに降り注いだ。
光の中で、魔王はゆっくりと、掲げていた右手を降ろす。
当然のように、傷一つない。
彼はそれを誇るでもなく、かつての級友に届きもしない視線を投げた。
「足りないぞ、エルヴィス」
突きつけるように告げてから、伏せたまま顔を上げた側近に命じる。
「『ヴォイド・ボム』を使用する、と大指令室に伝えておけ」
「なっ……!?」
ベニーは顔色を変えて立ち上がった。
「へ、陛下! ブレイディアを――この街を消滅させるおつもりですか!?」
魔王は平然と答える。
「元よりそのつもりだ。この街に限らず――何もかも」




