トマ・テペシの主人
夜遅くなったが、トマ・テペシは構わず主人の部屋の扉をノックした。
「テペシか、どうした?お前今日は非番だろう?」
主人が不審な顔をするのもきにせず、その前に直立すると
「お願いがあって参りました。自分をトーラスへ使いに出して下せえ」
と告げる。
「トーラス?それどこ?何で?」
「王都の北、馬で約一日にある男爵領です」
「いやだから何でそんなところへ使いを出さねばならないんだ?俺は覚えがないぞ?」
「若様もご存じの通り、自分はお家に代々お仕えして参りましたもんで、若様が近衛に任ぜられた際にお供することになりました。その折、大殿様より直々にお言葉をいただきまして、若様の務めぶりに問題でもあればすぐに大殿様へご報告するよう、任を受けております」
「それがトーラスとやらに関係するのか?」
「関係ごぜえません。ただここ<半年>ばかり、大殿様にご報告を怠っておりましたので、そろそろ何かしら申し上げることがねえか、と考えております。しかしながらトーラスへ行かねばならねえなら、大殿様へご報告どころではごぜえません」
<半年>と強調すると、若い主人は顔色を変えて言葉をつまらせた。
「お、お前、主人をきょ、脅迫」
「大殿様は若様のことを大層心配していなさるので」
トマは何食わぬ顔で答える。主人は腕組みしてしばらく考えていたが、ため息をついて、
「それで、何だってそこへ行きたいんだ」
と歩み寄る姿勢を見せた。
「決着をつけてえ相手が、そちらで奉公しているとわかりまして」
「なんだ、喧嘩か?テペシにしては珍しいな。それなら公にするな。休みやるから片付けてこい」
「それが、ご領主さまの縁続きということで、屋敷うちで勤めていると思われます。中へ入り込むのに、使者で行きてえと存じます」
「お前、それは無理!使者が先方の身内に乱暴なんぞできるわけないだろう」
「いえ、乱暴はしません。話すだけ、です」
主人は目を上げてトマの冷静な表情を確認すると、おどかすなよ、とつぶやいた。
「あー、事情は大体わかったが、そう簡単にはいかないぞ。まず、俺は使者を送る相手がわからない」
「男爵様でよろしい、でしょう」
「父上や兄上ならともかく、俺は知りあいじゃないし、そもそも用事がない」
トマは黙っている。
「それにお前だって、先方に行って、使いを果たして、都合よく相手に出会えるのか?」
トマは黙っている。
「いや、お前をやりたくないわけじゃないからな」
トマが答えないので、主人は眉間を掻くと、立ち上がって物入の鍵を開き、酒瓶を取り出した。
「よし、お前は非番だし、一杯付き合え、ほら」
トマはつき出されたグラスを慌てて受け取り、蒸留酒の匂いに目を剥いた。
「若様、こんな強い酒は」
「ちっとだけ、ちっとだけ。故郷の酒だで、懐かしいだろう」
主人はそのへんの木箱にトマを掛けさせ、干魚を握らせると、自分からグラスに口をつけた。
「ああ、いい香りだなあ、トマあん」
子供のころの呼び方をされて、トマの肩から力が抜けた。
「ご馳走になります」
素直に、強い酒を舐める。飲みこむと、胃の中にぬくもりが生まれた。そのぬくもりが鼻から抜ける。
「トマあんよ、その、決着つけねばならない相手とは、どういうわけで揉めているんだ。話し合いで済むんだろう?普通に訪ねて行けばいいでないか」
トマはグラスを手の中で揺らす。薄黄色の蒸留酒から香りが立ちのぼる。
「それが、女のことで、行って簡単に会えるとは」
「女?」
主人は口の中の酒を慌てて飲みくだした。
「お前まさか亭主持ちの女を寝取ったりとか、そういう話でないだろうな?犯罪だぞ」
「ちげえます」
「んじゃ、こうか?惚れた女の親父だか、兄だか、身内に反対されて、話をつけたいと」
「いや、反対ってわけでは、まだ」
「お、じゃあ結構でないか。結婚の了解をもらうのか?そりゃそりゃ何よりだ。故郷のテペシの皆も喜んでるべ」
トマは骨太の身体を縮めてグラスの中を見つめながら
「故郷には、知らせてねえです」
という。少し顔が朱いのは、酒のせいばかりではないだろう、と主人は年嵩の家臣を微笑ましく見る。
「よし、したら、こうしよう。そちらのご領主に仕える誰殿の娘御に、うちの家臣が求婚するお許しをいただきたく候、って手紙を書くから、それ持って行けば、直接知り合いでないとはいえ、まあ軽くは扱われねえべ」
「お」
トマは威勢よく立ち上がり、座っていた木箱にグラスを置くと
「若様、申し訳ねえ」
と頭を下げた。
「堅いばかりのトマあんにやっと春が来たみてえだし、これくらいはする。俺もここしばらく面倒かけたことだしな」
主人は軽く流して、机に向かうとペンをインクに浸した。
「明日明るいうちにちゃんと書くから、とりあえずその相手の名前やら肩書やら、聞いておく」
「エ、エルジュベート・ノシク」
「女か」
「そりゃあ」
「領主殿の遠縁とか」
「多分」
「多分てなんだ、ちゃんと聞いてないのか」
トマは口を結んでしまう。
「へで、娘御の名前は」
「だから、エルジュベート・ノシク」




