ついに
ジュベータの傍らには男がいた。晩夏の日差しをさえぎるための天幕がいくつも立ち並ぶ青果市場に、トマ・テペシは向こうから気づかれないような位置を確保して、男の風貌を確認する。観察している自分の世界が狭まり、ジュベータ(と男)の姿が視界を占領してゆく。
男は金髪で、細身。背を丸めているが伸ばせば自分と同程度かやや高めと見当をつける。年齢は20台後半、服装は華美でも貧相でもない。小規模の商店主といったところか。ジュベータが話しかけながら店から店へ歩みを進める様子から、明らかに連れとわかる。トマは訓練された目で状況を分析しつつ、奇妙な違和感を覚えていた。あの娘は男にたいしてあのように気軽に話しかけるたちだったろうか?思い返せばいつも身を固くして、言葉を選んで絞り出していたような気がする。自分の記憶しているジュベータとの、齟齬。
不意に男が立ち止まり、手で顔を覆った。ジュベータは男に向き直り、片手を男の上腕にかけて、何事かを、話しかける。ついで彼女はその手に気づかわし気に自分の額を寄せ目を伏せる。おい何だあこりゃあ。すれちがう中年男が胡乱げにまなざしをむけるが、二人は気にする様子もない。彼女は男の袖をひかんばかりに、向きを変えさせ、男は顔を覆っていた手を放したがトマには表情はみえないまま、露天商の店の間をぬけて歩むと、二人は細い小路へと姿を消した。
トマは呼吸をすることを思い出した。ここに立ち尽くしているわけにはいかない。踵を返して歩きつつ、今見た光景をあらためて脳内で吟味する。見間違いや他人の空似ではないか?いや、確かにジュベータだ。実際に近隣で働いているという情報がある。つまり彼女は街頭で寄り添うような仲の男がいるということだ。そういうことだ。結婚して子供がいてもおかしくない年齢であるし、許可を求めるべき家族はいないし、何も赤の他人が心配してやることはない。むしろ世間知らずで寄る辺ない娘が居場所を見つけたのだからめでたい話だ。
トマは手の甲で額の汗を拭き、思い出してハンカチを取り出すと両手の平ににじみ出た汗を丁寧にぬぐう。その間努めて冷静に呼吸する。ハンカチをきちんと畳んでポケットにしまい込んだ。よし、俺は大丈夫だ。ただ少し息苦しくて、口の中が渇いている。何か飲むのがいいだろう。しかし河口亭に向かう気は失せた。当分鯰は見たくない。トマは山の方に向けて歩調を整えて歩き始めた。
トマが不愛想で無口なことは、普段通りで、近衛部隊付きの同僚たちの間ではまるで関心をひかなかった。その夏、アルブレヒト・コルムがいつものとおり冴えていれば、トマの異常に気付いたことだろうが、折あしくアルブレヒト自身の精神状態が通常とは異なっており、いろいろと気をとられることが山積していて、つまりトマのことどころではなかった。おかげで、トマは誰にも余計な詮索をされずに<ジュベータのことを忘れる活動>に専念することができた。これは極めて高度な集中力と多くの時間を要する活動である。
かたくなに河口亭に行かず、内心で<活動>を続けながら、秋の国王誕生日のパレードの警護の計画作成だの閲兵式の衣装の虫干だの、準備作業で忙しい日を過ごした。疲れがたまるにつれ、トマは<活動>どころではなくなり、何かの折に、ジュベータのことを気にかけてしまう失点を重ねた。秋風が吹くころには、ジュベータを思い浮かべると、みぞおちの収縮など身体的な反応を伴うようになり、何度かは睡眠中途覚醒までも起こして、自分のふがいなさに枕を抱えてひそかに歯がみする始末であった。人はその反応をを<切なさ>や<渇望>と呼ぶのである。しかしトマは気づかなかった、あるいは自分の状況を分析することを恐れた。
例年通り王都が紅葉で色づき始めるころ、国王誕生日の式典および祝宴が滞りなく終わって、近衛兵付きの部隊はやっと肩の荷を下ろすことができた。トマが非番になったある日、王城の食堂に腰を据えてのんびりと朝食を食べようと思ったが、ここでジュベータの様子を伺った冬の日のことが急に記憶によみがえるので、一瞬、拳を開いたり閉じたりして自分の感情をやり過ごさなくてはならなかった。
「テペシさん」
甲高い娘の声に顔を上げる。侍女が朝食の盆を持って、トマの席の横に立っていた。ミカエラだった。それと、トマの知らない娘だ。
「テペシさん具合悪いんですか」
「え、いや」
「今さっきすごい表情してましたよ」
「胃がな、もう平気だ」
「ちょっと話していいですか」
トマがうなずくと、ミカエラは連れの娘に、
「すぐ行くから席とっといてくれる?」
と頼んで、トマの向かいの席に滑り込んだ。
「ジュベータから手紙が来たんですよ」
トマは、ああ、結婚の報告だな、ちょっと急だが、あの娘もいい年だしななどと心の中で準備していた文句を唱えながらうなずいた。
「なんか、仕事辞めて、遠い親戚の世話になるからトーラスに行くって」
予想外の展開だった。




