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こらえていた涙が

 以前女主人がジュベータに話したとおり、お産婆さんの家に移ってからというもの、青馬亭の業務はあちこちで停滞するようになってきた。まず女主人が大きなお腹で移動するのが大変だった。馬車などで揺られてはよくないので、主人と、女主人の母と古参のメイドの3人がかりで付き添ってゆっくりと歩いていったのだが、出血したということで、向こうで本格的に寝付かなくてはならなくなってしまった。ダニエルは祖母につれられて毎日産婆さんの家までお母さんの顔を見に行ったが、やっぱり寂しいらしく、毎日ぐずぐずと駄々をこねるようになった。主人も気が気でなく、仕事を差し置いて向こうにでかけ、帰ってきても青い顔のまま、お客に出す料理を焦がしたりした。


主人夫婦の結婚前を知っている気安さで、古参のメイドが、

「旦那さん、大丈夫かい?」

と、お茶をだして気遣った。

「ごめんよ。最近眠れないんだ」

「あんたまで体を壊さないでおくれよ」

というメイドの言葉に、主人はぼんやりと首を振った。

「嫁さんに万一のことがあったら、生き残ってもしかたないだろ」

「何馬鹿な事言ってるんだ。縁起でもない」

主人がお茶を飲み残して席を立った後で、メイドはジュベータに向けて顔をしかめてみせた。

「料理人様っていうのは、細かいことを心配してよくよするようにできてるらしいね。ダニエル坊が生まれるときもあんな様だったよ」

ジュベータは、答える言葉がなくって困っていると

「まあ、案ずるより産むがやすし、だね」

とメイドは自分に言い聞かせるように古いことわざを唱えた。


女主人は結局、予定より早く産気づいて、主人も女主人の母もそちらにかかりきりになり、青馬亭では泊り客には近所の宿に回ってもらったりして、最悪の数日間を乗り切った。月足らずの小さい女の子が産声を上げたものの、女主人は体調がなかなか回復せずお産婆さんの家で寝付いたままとなり、乳が足りないし、いろいろと心配事はつきなかった。


 赤子が生まれて数日たっても憔悴しっぱなしの主人が買い出しに行くというので、たまたま手があいていたジュベータがついていくことにした。宿の厨房では野菜や肉は店から届けてもらうことが多いが、鮮度が肝心の魚や果物は主人が店頭で見定めるものもある。近くの野菜市場まで、日差しの中を連れだって歩いた。何か話して、主人の気を不安からそらさないとまずい気がする。


「桃の綺麗なのがあれば、奥様のところへもお持ちしましょうか。宿のお客さんには桃より梨の方がいいですね」

商品を眺めながらジュベータは主人に声をかけた。

「杏は、もう終わりか。うちでは毎年杏ジャムを作るんだが、今年はそれどころじゃなかったな」

主人はジュベータの言葉が耳に入っていないかのようにぼそぼそと答えた。

「これから、どうしよう」

ジュベータが驚いて振り返ると、主人は泣き声になっていた。

「嫁さんがこのまま帰ってこれなかったら、なにもかも、駄目になっちまう」

「旦那さん、ちょっと、お、落ち着いて」

人前で大の男が泣いているのをほおっておくわけにもいかない。ジュベータは主人の前腕に手をかけてなだめようとした。しかし主人が、

「赤んぼなんかのせいで、俺はまた一人だ」

と泣き声をだしたので、情けなくてくずれそうになった。赤んぼのせいって、子供できるのはご自分のせいじゃないですか?と嫁入り前の娘らしからぬ文句を言いたい気持ちを飲み込んで、ジュベータは顔を上げ、主人を引きずってその場を離れた。

「何を勝手なこと言ってるんです。奥様は一人ぼっちの旦那さんに家族を作るために命をかけているんですよ、それをさも、余計なことみたいに。旦那さんの言ってることはわがままだし、勝手だし。ダニエルと大差ないじゃないですか。奥様にお詫びするべきです。大体、子供のダニエルがつらい思いをしてるのをほったらかして、自分ばっかり惨めぶって、いいかげんにしてほしいですよ。旦那さんはダニエルのお父さんなんですよ。お父さんの仕事ちゃんとしてくださいよ」

ジュベータは支離滅裂に主人を叱りつけながら、青果市場の脇の路地を運河にむかった。


「なんであんたに叱られるんだ」

「私が母を亡くした時に、父に無視されて、寂しくて悲しかったからです。旦那さんはダニエルの力になってあげてください。抱っこして、慰めてあげてください。お父さんなんだから」

ジュベータも、主人を引きずりながら、泣き声になっていた。夏の日差しが照り付ける運河沿いの道にでると、海から吹く風が瞼に沁みた。


「旦那さんが一人がつらいなら、ダニエルは独りにならないようにしてあげてください」

ジュベータと主人は、道の端の手すりにもたれて行き交う曳舟を眺めた。主人は、ずっとぼんやりしていた目に少し力を戻して、

「あんた、果物を買って戻れるか」

と尋ねた。

「俺は嫁さんのところに寄ってから、帰って夕食の支度をするから。それと、ダニエルのこと、あんたのいうことがこたえたよ。すまんね」

「あの、差し出がましいこと、申しまして、すみません」

「俺もどうかしてたと思う。ありがとうよ」

ジュベータは、あらためて頭を下げて、少し軽い心でもう一度青果市場へ向かったが、自分がトマ・テペシにどんな衝撃を与えたのかには、気づきもしなかった。




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