旅籠づとめ
青馬亭の朝は早かった。夏でも夜明け前から厨房で湯を沸かすことで一日が始まる。ジュベータも当番で、四、五日ごとに早起きして火を熾こさなくてはならない。これまで薪や炭に火をつけた経験がほとんどないジュベータには荷が重く、毎回手間取っていたので、ジュベータの番には雇人のヨアキムが様子を見に来てくれるようになった。
ジュベータを青馬亭に取り次いでくれたのが、このヨアキムという男で、河口亭主人夫婦の、古い友人だということだった。ヨアキムは青馬亭の力仕事担当で、宿泊客の馬の世話や水くみ、荷運びなどをしている。ジュベータを紹介した責任上、何かと親身になってくれる。
お湯が沸いた頃、他の従業員も出そろって、お湯を客室に運ぶ者と、パン屋へパンを買いに行くもの、食堂で配膳するもので手分けして作業を進める。宿で出す朝食は簡単で、お茶と焼きたてのパン、少しの冷肉、もし季節の果物があればつけることもある、くらいだ。合間を見て従業員も腹ごしらえをする。
朝食を済ませて引き払うお客の精算は、宿の主人が応対し、ジュベータが計算する。計算が苦手な主人はジュベータが来てくれて、釣銭を出すのが本当に楽になったという。
昼間は掃除やベッドメイクを行い、洗濯するものを業者に出したり、食材の納品や買い付けがある。夕方には新しい客が到着するし、夕食を出さないといけなくなるから、旅籠の従業員が比較的のんびりできるのは、午後の早い時刻だ。
ある日の午後、ジュベータは帳場で肉屋の請求書を集計しながら、主人夫婦の男の子がぐずるのを聞いていた。この子はダニエルといって5歳で、文字を習いには少し早い、くらいの年頃だ。大抵の日はヨアキムの10歳の娘が遊び相手をしてくれるが、今日は女の子同士で遊ぶ約束を優先されたらしく、置いてけぼりになったのだ。
「遊びにいきたいーぃ」
「外は暑いよ。みんな御用してるんだから、お昼寝してなさい」
ヨアキムの奥さんがたしなめたのが気に障ったらしい。
「いきたいーいきたいー」
足を踏み鳴らして本格的に叫びだした。奥の部屋から主人が現れて、さらに叱る。
「ダニエル、大声出すんじゃない。静かにしないとお母さんが休めないだろう」
これを言われるとつらいらしい。ダニエルは泣きべそをかき始めた。女主人は妊娠中だが、体調が悪くて、今はほとんど一日中横になっている。ダニエルはお母さんに甘えることもできないのだ。ジュベータは懸命に声を押さえようとする子供が不憫になって声をかけた。
「じゃあ、ダニエル、小母さんの御用手伝ってくれる?旦那さん、お肉屋さんへ支払いに行きますので、ダニエルについてきてもらっていいですか?」
主人は焦燥した目をしばたいてジュベータを見た。
「暑い中、すまんね。いくらになる?」
ジュベータが集計した額を告げると、主人は幾分上乗せした額を渡した。
「ついでに薬屋で砂糖を買ってくれないか。あとはこの子に何か菓子でも」
「あら、ダニエル、お父さんがお菓子買ってもいいって。良かったねえ。ジュベータと行っておいで」
ヨアキムの奥さんが盛り上げにかかる。ダニエルはジュベータとまだ馴染みが薄いので、幾分躊躇していたが、意を決して帽子をかぶった。
ジュベータはダニエルと手をつないで、商店街に続く坂道を上っていった。ダニエルはむっつりとしている。坂道の途中で足を止めて振り返ると、港に高くそびえる白帆が近づいてくるのが見えた。
「ダニエル、あれバークなの?」
ダニエルはつながれていた手を引き抜いて帽子のつばの上にのせ、まびさしを作って、じっくりと船を検分すると
「マスト三本だから、クリッパーだよ」
と宣言した。
「そうか、よく知っているね」
と持ち上げておく。
「そんなの見たらすぐわかるよ」
もう一度手をつないで、歩き出す。
「小母さんは船のこと知らないから、これからダニエルに教えてもらうね」
「まったく、女はしょうがないなあ。何にもわかってないんだから」
「そうなの」
ジュベータは笑いを押し殺した。5歳でもこんなに一人前の口が利けるものなのだ。自分が5歳の頃はどうだったのだろう。まだ元気だった母に向かって、威張っただろうか。父が厳しかったので、その頃から、すでに気兼ねばかりしていたような気がする。それでも何かの拍子に両親が破顔するようなこともあった。その時の気恥ずかしさは、なんとなく覚えている。
商店街で、肉屋と薬屋と菓子屋を回り、毒々しい色の菓子を手にしたダニエルを連れて、ジュベータは小さな聖堂に足を向けた。建物の前の広場には公共の泉がある。ジュベータはハンカチを濡らしてダニエルの顔や首筋を冷やしてやろうとしたが、ダニエルは肘から脇腹まで濡れるほど泉に手をつっこんでいるので、しばらく好きにさせることにした。
ひとしきり遊んだところで、
「ダニエル、お参りしようか」
ジュベータは自分の財布から、小さな蝋燭を2本購入してダニエルと1本づつお供えして祈りをささげた。
「ダニエルのお母さんが早く元気になりますように」
帰り道はダニエルもだいぶ調子がでてきて、石段から飛びおりたり、草笛を吹いて見せたりでじっとしていなかったので、ジュベータは青馬亭に帰りついてダニエルが手を離れると、実のところ、うれしく感じたほどだった。砂糖とダニエルを主人に引き渡し終えると、ヨアキムの奥さんが
「ジュベータに、お客さんが来てるよ」
という。ぎくっとした。




