やせがまん
ジュベータは習慣で、いつもの時間にしっかりと目を覚ました。今日も仕事が待っている。顔を洗う時、頬に涙の跡があった。残さないように念入りにこすり落とす。手早く身ごしらえをして、部屋を出る。狭い廊下の窓を開くと、裏庭で下宿の小父さんが育てているバラの花の香がした。向かい側の建物の上にはよく晴れた空がのぞいている。初夏の過ごしやすい一日になりそうだ。階下の食堂に降りて、下宿の住人達と朝の挨拶を交わすと、テーブルに昨日貰った豆の酢の物の容器を置いた。
「あら、どうしたの、それ」
向かいの席で食べていた寡婦のエレナさんが声をかけてきた。
「は、はい、いただきものです。あの、よろしければ、少し召し上がってください」
ジュベータはエレナさんの皿に豆をよそうと、ついでに周囲の人々にも勧めて、小ぶりの器を速やかに空けてしまう。酢で長持ちするとはいえ、早く食べるに越したことはない。
「ありがとう、さっぱりして食べやすいね」
「あ、お口にあって良かった、です。お豆の酢の物って、珍しいですよね」
「これはこれで有りでしょ」
「エールにも合う味だね」
「あ!そうか、これがそうなんですね」
王城にいた頃に比べて、下宿の住人達は気取らなくて話しやすい。当たり障りのない会話をしながら、簡単な朝食を終えて食器を下げ、酢の物の入っていた器を洗わせてもらう。
部屋へ戻る途中で隣室に住むお針子のマリアさんとすれ違ったので、呼び止めて薬草茶の包みを差しだした。
「あの、マリアさん、薬草茶お好きですか?」
「何、ジャスミン?結構好きよ」
「良かった。じゃあ貰っていただけます?私ちょっと苦手で」
「いいの?これなんとかいう有名な店のじゃない。えー、<恋心ときめく>ね。あ、もしかして男からとか?」
「いっいえ、あの前の職場の同僚が」
「そっか。流石は王城勤めって感じね。いいお友達じゃない」
「はい、あのおおかげ様で」
「ありがたくいただくわね。またわかんないことあったら聞きにおいでよ」
「は、じゃあ、またお邪魔します」
ジュベータは笑顔でマリアさんに会釈した。これでお豆とお茶は片付いた。あとは手紙だ。部屋に戻って大急ぎで便箋に返事をしたためる。
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拝復
この度は暖かいお心遣い誠にありがとうございました。おかげさまで私は元気に働いております。住所をお知らせするのが遅くなりまして、誠に申し訳ありませんでした。諸般思いに任せませず、転居を繰り返しておりますため、ご容赦くださいませ。落ち着き次第改めてご挨拶申し上げる所存です。
なお、この度のように、お忙しい殿方に御文使いのご足労いただくのは誠に心苦しく存じます。都合により数日間王都を不在にすることもままありますので、恐れ入りますがご連絡いただく際はきっと王立郵便のご利用をお願いいたします。では、初夏の候、王城の皆々様におかれましても、益々のご活躍をお祈りいたします。かしこ
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ジュベータは書いた手紙をじっくり読み返さずに、さっさと封をした。仕事の途中で、ちょっと抜け出して郵便を頼もう。こうして、やるべきことを片付けてしまえば、もう何も気に病むことはないし、自分の仕事のことだけに集中できる。誰がどうだろうと、今のジュベータが考えることではない。ジュベータは重々しくうなずいて決意を固めると、封筒とエプロンを手提げにいれて、煙草屋の掃除の続きへ出発した。
煙草屋の掃除はその後数日で終わったが、そのあとの仕事が見つからなかった。何度か農作業を紹介してくれた下宿の小母さんに相談したが折あしく適当な仕事がなく、ジュベータは仕事がないときにいつもやるように、北堀にある口入屋を巡回した。簡単な内職ならすぐに紹介してもらえるという話だったがそれでは暮らしがたちゆかない。ジュベータは唇を噛みしめた。内職は、最後の手段にしたい。もう数日は他の仕事を探してみよう。
翌朝、中央に足を向けた。中央にも口入屋はあるし、北堀より仕事が多いかもしれない。それに豆の酢の物の容器を河口亭に返してしまいたい。何も考えないで、ありがとうございました美味しかったですといって、器を渡して店を出るだけだ。ジュベータは中央の口入屋を3か所回ってみた。うち1か所は歓楽街だったので立ち寄らず、2箇所で登録料を支払ったものの、早朝の魚市場の手伝いしかなく、北堀から通うのは厳しい。保証人がなく、実績も足りないわりに、肩書ばかり大層なジュベータは敬遠される。口入屋の信用を得るまでは、なかなか条件のよい仕事は教えてもらえないのは北堀でも経験済みだ。なにか短期で実績を積みたいと思ったのだが、甘かったようだ。
お昼時になったので、小さな聖堂前の広場に腰を下ろして、途中で買ったパンと林檎でお昼にした。そよ風がここちいいし、鳩が寄ってくるし、パンが思った以上にパサパサで飲み下しにくいし、林檎の皮が歯に挟まるし、北堀に戻ってとりあえずは内職で食いつなごう、などと考えないといけなかったので外で食べても余計なことを思い出さずに済んだのは何よりだった。




