復讐屋さんの奴隷くん④
復讐屋さん第四話、更新しました。毎日更新だとあっという間ですね。
もうここに住み始めてしばらく経つが、初めてこの家に来た時のようにリビングに通された。そばにあるポールハンガーに、メイドさんが俺のカバンを引っ掛けた。
「あら、遅かったわね」
そして俺の方に見向きもせず、白々しくそんなことを言ってのける、とばり姉の姿があった。相変わらず現実感のない白ゴス姿が俺を迎えた。
何かの作業をしているらしく、薄型ノートパソコンの画面に釘付けになっている。
「とばり姉……俺をおちょくって何がしたいんだよ?」
とばり姉に対するように、ソファに腰かけた。こうして面と向かって彼女と話すのも、実はあの日以来だった。
「うふふ、何のことかしらね?」
俺からではパソコンに隠れてその顔は見えない。が、間違いなく、画面に笑いをこらえた表情を向けていることだろう。
「そんなことより日鞠、お茶」
「はーい。アキくんは紅茶大丈夫―?」
日鞠と呼ばれたメイドさんが、俺に尋ねる。
そういえば、名前すら聞いてなかったことに今気付いた。
「あ、いいですよ。お構いなく」
「あらー、そんな謙遜しなくていいのにー。さっきのお礼も兼ねてってことで、サービスしちゃうよー」
「は、はい?」
言いたいことはなんとなく分かるが……。
言葉がなんだかちぐはぐだ。戸惑う俺。対して、いつものことなのか、とばり姉が口を開いた。
「……遠慮しなくていい、お詫びを兼ねて、でしょ?」
「あはは、そうとも言うー♪」
「ツッコまないわよ。いいからさっさとお茶を持ってきなさい」
「はーい!」
からからと日鞠は笑いながら、リビングから出ていった。そういえば、キッチンにティーポットがあったから、そこへ行くのだろう。
とばり姉の方をうかがう。ちらりと視線を向けただけのつもりだったが、いつの間にか手を止めてとばり姉も俺を見ていた。見事にとばり姉と視線がかち合った。
「さて、午前中だけ学校ご苦労様。友達は出来たかしら?」
「……心にもない労いの言葉どーも。で、本題は?」
「そうね、じゃあ割愛するわ。どう? アナタの先輩に会ったご感想は? あの子本当に馬鹿でしょう?」
「……いきなり馬鹿って酷いな」
失礼極まりないことを平然と言ってくるとばり姉。本人がいないと分かっていても、思わずぎくりとしてしまう。
「アレが私の奴隷である日比木日鞠よ。頭のねじを全部どっかに落としてきたような子だから、まあ正直アテにならないわ」
「罵倒無しであの人のこと紹介できないのかよ……」
「前にお客様は神様だって言ったら、出会い頭に五体投地し始めるような子が馬鹿じゃないとでも?」
「すまん、反論できんわ」
おそろしく説得力のある実例だった。
「良くも悪くも馬鹿ってことよ、日鞠は。馬鹿だから頼りにはならないけど、馬鹿だから扱いやすいのよね」
「…………」
なんだかんだ、とばり姉も日鞠のことを信頼している……のかもしれない。その信頼の源はさておき、そうでなければ、あのとばり姉が身近に置いておくはずがないのだから。
「一応、復讐代行部の一員としての肩書は持っているけれどね。ほら、これ見て」
「……復讐代行部、ホームページ?」
「そうよ。休業中の今、情報整理のついでにサイトを改装しているのよ。どう? いい塩梅でしょう? ネットからの顧客も着々と増えてきてるのよ」
どことなくとばり姉の語気が強い。どうやら相当入れ込んでいるようだ。
「改装……ねえ」
個人の活動でホームページまで立ち上げて、しかも訪れて依頼する人間がいるのは素直に凄い。
凄い、のだが……。
「…………」
群青色の広がる快晴をバックに、『あなたの復讐、お手伝いします』の大見出し。そして、『貴方の冴えない一生を変える、復讐代行部の理念』や『脳の空っぽな猿人でもわかる簡単な応募要項』といったいくつかの項目に分かれたトップページが映し出されていた。
作りかけなのか、まだ埋まっていない小項目もある。
「とばり姉……あんまりこういうセンスはないんだ」
「なっ!?」
パッと見ても、細かいところまで凝っていてよく出来ている。相当の作業量を要しただろうことも分かる。
でもはっきり言って、かなり胡散臭い。
「ば、馬鹿ね。アキ、アナタ私のこの美的センスが分からないの?」
「いや……まぶしい青空とキラキラ輝く海の背景のせいで『裏切り』とか『殺したいほど』って文字がめっちゃ浮いてんだけど」
フォントの色も全部黒色で、背景との対比がやけに怖い。例えるなら、ウサギやタヌキのような可愛らしい小動物が描かれた借用書でも見たかのような気分だ。
「春休み中何してたのかと思ってたら……こんなん作るためだけに」
「……何よ。言いたいことがあるなら言ってみなさいよ、馬鹿」
しまった。少し言い過ぎたか。
顔をうつむかせ、声を震わせていた。
泣いてる――。
「……ほら、今ならちゃあんと聞いてあげるわよ……? ねえ、アキ? ふ、ふふ……ふふふふふ」
――――なんてこと、とばり姉に限ってあるわけがない。
うん、知ってた。これは間違いなくキレている。
どうやら俺はうっかりとばり姉の逆鱗に触れてしまったらしい。
「い、いや……とばり姉。別に、悪いとは言ってない……」
「へえ、じゃあ何? センスが無いって言ってたじゃない。あれはどういうことなのか、く・わ・し・く説明してくれる?」
「そ、それは……」
表情を見せないまま、声だけが届いてくる。
「……そこの画面に部員紹介の項目があるでしょう?」
「え、あ、ああ……」
確かにそのような、ごく簡潔な人物紹介が羅列したページに飛んだ。人名が全てイニシャル表記だ。
「あるでしょう? で、そこに新任の雑用係A・Nくんがいるわけだけれど」
なんだか先が読めてきた。ちっとも嬉しくないが。
「き、奇遇だなー、俺と同じイニシャルなんて、あははー……」
「なんなら、そこにアナタ一人だけフルネーム・経歴・顔写真その他あることないこともろもろを載せてあげても」
「申し訳ございませんでした!」
これは平謝りするしかない。もし本当にやられたら、洒落じゃなくこれから先の人生が詰む。
「ほら、言いなさいよ。言いたいことがあるんでしょう? 私に。怒らないから」
「い、いや無いですマジで! だからそれは平にご勘弁を!」
「頭が高い。額を床に擦り付けなさい」
「い、イエスマム!!」
我ながらまったく躊躇いが無かった。
今は恥ずかしいとかプライドがとか言ってる場合じゃない。社会的な生命の危機にそんな言葉は甘っちょろいのだ。
「素直になればいいのよ、素直になれば」
「――――ぶっ!?」
だからこうして頭に足を乗せられても、耐えるしかない。踵でぐりぐり踏みにじられても守るべきものがある。
「あら、なかなかいい踏み心地ね。もう奴隷はいいから私専用のマットにならない?」
「そ、それだけは遠慮するよ。悪いけど」
「そう? それは残念ね」
割と本気で残念がってそうで怖い。
「あらー、何だか楽しそうなことしてるねー」
と、そこで妙に間延びした声がした。紅茶の香りが鼻をくすぐる。
日鞠が昼ご飯を持ってやって来たのだろう。見えないが。
「いや別に楽しくはないんすけど……」
「私は楽しいわよ」
「あははー、二人とも、お茶入ったよ。あと簡単なお昼ごはんも」
ことり、と置いたお盆が音を立てた。
「日鞠、ミルク」
「はーい。少なめ、だよねー」
普段もこうした会話があるのか、飲み慣れているようなやり取りだった。見えないが。
「ていうか、俺はいつまでこうしてれば……?」
「さあ? 気の済むまでやればいいじゃない」
「やっぱり好きなんだねー、アキくん」
「いや、やっぱりって何!?」
結局、十数分経って冷めた紅茶と玉子トーストにありついた。
パンがカリッと焼いてあって、冷めてしまったのが残念なレベルで美味しかった。
「あらー、パソコン言ってたの出来たんだ。凄いねー」
「そうよ。ほら、日鞠。アナタの名前も入ってるわよ」
「これ? H・Hって。……な、なんかえっちな子みたいだねー……」
「違うの?」
「ひ、酷い!?」
かしましい二人の会話がゆったりと流れていく。とばり姉の声がして、日鞠が笑う。
その様子は、まるで親友同士のやり取りのようだった。とても主従の関係とは、傍から見れば誰も思わないだろう。
「あら、電話」
ふと、アラームのような電子音が鳴った。とばり姉が、白のスマホを耳にやる。
「もしもし。ああ、鷹取? え? 今から? アナタ、いつから私をこき下ろせるほど偉くなったのかしら?」
そして、今度はポップな音楽が流れた。どこからともなく、別の電話を繋げるとばり姉。
「はい、久代です。はい、その節はどうも。ええ、ええ。もちろん、そちらのバックアップあってのものですわ。はい」
かと思うと、すぐに口調を変える。一瞬、元の鷹取という電話口に対するものだと分からなかった。
「ふむ……そう、仕方ないわね。後で出向くわ、この私がアナタのためにわざわざ、ね」
そして、三つめの着信音が鳴り響いた。もちろん、とばり姉がそれに応じて、青色のスマホを取り出す。
流石にこれ以上は無理だろうと思っていたら、とばり姉は躊躇いもせずその電話にも出た。
「――――もしもし、お久しぶりね。来月? ああ、私はお休みさせてもらうわ。ええ、パソコンの前にへばりつける程暇じゃないの。うふふ、冗談よ。忙しくなりそうなの、しばらくの間ね」
「――――はい、はい。いつもご贔屓にどうもありがとうございます。ええ、ネットの方からでも依頼の方承っているので、どうぞそちらにもお立ち寄り頂ければ、と」
「――――だから、それは本来そっちのミスでしょう? 私の言う通りにやればぎりぎり上手く立ち回れたはず。そうでしょう? とにかく、アナタは前に足りなかった分を今ここで埋めて、私に誠意を見せなさい。話はそこからよ」
……凄い。
本当に何気なく、入れ代わり立ち代わり、三つの電話で会話している。会話の内容は良く分からなかったが、話が噛み合わなくなる様子はまるでない。
三人同時に会話なんて、聖徳太子か何かかと。
「ん、その話は、ここじゃちょっと……いえ、こっちの話よ」
そう言うと、俺の方を見てとばり姉が言った。
「悪いけれど、少し外すわ。好きにしてなさい」
それだけ言って、三つのスマホを器用に持ちながら、出て行ってしまった。
「今の、凄いな……どうやってるんだ……?」
「とばりちゃん、忙しい時はいつもあれやってるよー」
「マジですか……」
「うんー。私もねー、一回やってみたんだけど、変な人呼ばわりされちゃったー、えへ」
「……あれを見て試そうとする日鞠さんも日鞠さんですけどね」
とばり姉がいなくなって、この場にいるのは俺と日鞠だけになった。
とばり姉は、彼女に話を聞けと言った。
だからこそ、と思ったのだろうか。
野暮なことだと分かっていたが、つい聞きたくなってしまった。
日鞠の話を聞いて、知っておきたいという気持ちがあった。ここでの奴隷とは何なのか。
復讐代行部とは、何なのか。
「日鞠さんは……どうして、とばり姉の奴隷になったんだ?」
だが、すぐにはっと我に返った。これじゃ失礼もいいところだ。完全に感覚が麻痺していた。
「あ、えっと……すんません、つい」
「ううん。いいんだよー」
そう言う日鞠は、怒ることは無かったものの、困惑しているようだった。眉を八の字にして、思案げだ。
「……でも、どうなんだろ? 言っちゃってもいい、のかな」
日鞠はしばらくきょろきょろしていた。迷子にでもなったかのように。
俺はと言えば、空気も読めずにいきなりこんな質問をしたことを後悔していた。少し考えれば、それが明るい話題であるわけないのは分かることなのに。
「えっと、アキくんはどうしようか迷ってるんだっけ? とばりちゃんから聞いたんだけど」
「あ、はい。入部……って言うのかな。何か踏ん切りがつかなくて」
言って、少し笑いそうになった。これじゃまるで本当に部活に入るような言い方だ。
「あらー、じゃあやっぱり話しておこうかな。あたしがここにいる理由。とばりちゃんには内緒だよ?」
「…………」
「その話の前にね……実は、アキくんにまず言っておくことがあるの。驚くかもしれないけど、聞いてくれる?」
「あ、はい……」
きちんと膝に手を置き、俺をまっすぐ射抜くように日鞠が向き直った。
今まで見たことのない、彼女の表情。
そこに浮かぶ真剣味に、思わず息を呑んだ。
「実はあたし―――」
「…………」
「―――学校でも一番って言われるほどの大お馬鹿なんです‼」
…………。
…………。
「……あー、はい。それはそれとして、続きは?」
「え? 続きって?」
「い、いや……言っておきたいことの続きっていうか、俺が驚くことっていうのは」
「? 続きなんてないよー? あたし実はすっごい馬鹿なのー! どうどう? 驚いたでしょー?」
……これは本気で言ってるのだろうか。そんなこと、既に知ってるとしか言いようがないが。
何も言えずに固まる俺。
どうやって話そうかなー、とか呟きながら、彼女はしばらく口元に手をやって考え込んでいた。
そして、パンと手をたたいて切り出した。
「えっとー、あたしね。学校じゃイジメられてたんだー。今じゃだいぶましになったんだけどねー、まあどれーだから周りとやっぱり浮いちゃってるんだけど」
「あ、はい……」
思わず、選ぶ言葉をなくした。結果、もごもごと口を動かしながら頷く。
というか、とんでもなく人当たりの良いこの人が、イジメられていたということの方がよっぽど驚くべき事実なのだが。
「二年の頃なんだけど、あたし、学校の成績とかとにかく悪くて……高校二年生になると、受験とか、大学決めとか言われるようになって、担任の先生もそれまでよりもっと厳しくなっちゃって。懇談じゃいつも怒られてた。『お前はどこで何しようが必ず失敗する』とか『正直生きてる意味が人として教師として見出せない』とかねー……」
「……それは」
もはや喝を入れるような励ましでも、やる気にさせる愛の鞭とやらでもない。ただの言葉を模した暴力だ。
「答えが分からないあたしが悪いんだけど、毎日、毎日いつも授業で当てられてずっと立たされて。それをクラスの子に笑われて。気が付けばこっそり誰もいない所で叩かれたり蹴られたり。それも何度か言ってみたけど、信じてもらえなかった。それで、もう誰にも言わなくなっちゃってた」
「酷い、話ですね」
「……うん。正直、辛かったかなー……とばりちゃんに会ったのは、それからしばらくしてだったかな? まあいいや」
日鞠は話を続けた。
「いつだったか忘れちゃったけど、『アナタの中に、復讐したい想いはある?』って最初に訊かれて。何のこと、って聞いたらとばりちゃんは先生のこととか、隠れてイジメられてることも全部知ってたの。本当、びっくりしちゃった。同じ学年の子でも、直接イジメてくる子以外はあんまり知らないことなのにって」
「じゃあどうして、とばり姉は……」
「私にも分かんない。多分、どっかから聞いたんだろうねー。とばりちゃんの情報網は凄いから」
そんな簡単に納得していいことなのだろうか、これは。日鞠は、気にしてこなかったようだが。
「あ、そうそう! えっと、それからとばりちゃんが言ったのは……『契約よ。アナタの状況を一変させてあげる。その代わりアナタ、私の奴隷になりなさい』って」
絶句。凄い言葉だ。まさにとばり姉にしか言えないだろう。
「……そ、それを、日鞠さんは鵜呑みにしたってことですか?」
「うのみ? 湯呑みの進化版?」
……大人しく言い直すことにした。
「……とばり姉のことを信じ切っちゃったんですか?」
「えっ? ううん、流石にその時は信じてなかったよー。でも本当にしばらくしたらそのイジメっ子達が全然イジメなくなって、凄いなーって思って。で、とばりちゃんとけーやくしたの。担任の先生に復讐するって」
「…………」
最後はやけにあっさりと話を終わらせたな、と思った。途中まで、特にとばり姉の言葉は細かいところまで話していたのに。
一体どうやって日鞠のイジメをとばり姉が止めさせたのか。個人的にかなり気になるところは、結局曖昧だ。日鞠にも、そのあたりのことは分からずじまいなのか。
もっとも、今の俺にとって気になりこそすれ、そこは重要な部分ではない。
「担任に復讐って……具体的には?」
一瞬、背筋に寒気が走った。
もし目の前のこの人が、恨みを募らせた復讐鬼だったとしたら。今ここで見ている彼女が、復讐にはなりふり構わずどんな手でも使う人だとしたら。
ほんのさわりだけでも、彼女の悲惨な過去を知った今、それは間違いだと言えるのか。
しかし、返ってきたのは至って普通の言葉だった。
「勉強で先生を見返すこと。その援助の代わりに、ここのメイドとして働くこと。それが、あたしの復讐だよー」
「勉強で……見返す?」
思わず聞き返してしまった。
それはあまりにも、違和感を覚えるほど真っ当な方法だった。どす黒く、非難されても仕方ないような、自身の手を汚す行為とはかけ離れていて、復讐と呼ぶのが大げさに聞こえる。
「それも、復讐なんですか? だって復讐って、もっとえげつないことだとか、してはいけないようなことだとばっかり……」
俺の言葉に、あっさり頷く日鞠。
「うん。あたしも復讐が全部いいものとは思ってないよー。きっとあたしのやり方も間違ってるかも。よく言われるみたいに、復讐は意味がないものなのかもしれない。あたしには難しいことは分からないけど」
「…………」
でもね、と一息置いてから、日鞠ははっきりと述べた。
「その復讐があるから、あたしは今ここで頑張れる。とばりちゃんがいなかったら、あたしはきっと頑張れなかった。だから、あたしは良い復讐をしてるんだって、胸を張って言えるんだよ」
「良い……復讐……」
良い復讐と、悪い復讐。
そんな発想、今の今までなかった。思い付きもしなかった。
物語によくあるような、自分の身を削るような行為ではないと、日鞠は言う。彼女にとって、復讐をすることは目標なのだ。
「そんな、考え方もあるのか……」
――――そのような考えを、俺はまだ知らない。
「それにしても、あれが去年の冬くらいのことだから、結構経ってるんだねー」
しみじみと、遠くを見るような目で日鞠が言う。月日の流れの速さを噛みしめている、といった様子だった。
「あら、何の話?」
ちょうどここで、とばり姉がやって来た。
「あー、うん。えっ、とねー……」
案の定、慌てる日鞠。
「仕事の話とか聞いてたんだ。メイドなんて俺見たこと無かったし」
言葉を濁す日鞠から言葉を継いで、適当なことを言って誤魔化した。内緒と言われた以上、日鞠の話もここまでということだろう。
「ふうん」
興味なさげに、日鞠の方に顔を向けた。
「それで日鞠、話のついでに訊いておくけれど、塾はどうだったの? 春休み返上したかいはあったのかしら?」
「え? えーっとお……」
ふと、その話題を振られた日鞠は、どことなく落着きがなさげになった。目がさっきよりも泳ぎ出している。
「ちゃんと分かったの? 分からないままの所はある?」
「えっと、えっとー……」
「…………」
「いっぱい、いっぱい分からない、かなー? えっへへー……」
照れているのか、顔を赤らめて笑う日鞠。
その様子に、とばり姉がこれ見よがしにため息を吐いた。日鞠の肩が縮こまる。
「ご、ごめんなさーい、とばりちゃん……」
「……そう言うと思ってたわよ。日鞠だもの。塾でもらったプリントは?」
「あ、家にあるよー。取ってくる?」
「三十分で戻ってきなさい。見てあげるわ。そういう契約だし、ね」
「本当に!? わーい、ありがとうとばりちゃん! そんなとばりちゃん大好き!」
「そう、じゃあ十分短縮しても好きでいてね。あと二十分で急ぎなさい。もし一分でも遅れたら……お仕置きよ」
「うえええーん!! とばりちゃんの馬鹿ー!! もう水着で買い出しの罰はいやー!」
悲鳴を上げながら、日鞠はリビングを飛び出して行ってしまった。かわいそうなことに、まだほとんど食べていないトーストを残したまま。
……決してとんでもない内容の罰なんて聞いてない。俺は何も知らない。
「……なんか、面白い人だな。とばり姉と合わせられるめったにない人だって思ったよ」
「馬鹿ね、私の方が合わせてあげてるの。不本意ながら、ね」
そう言って、冗談じゃない、とでも言わんばかりに顔をしかめてみせた。が、そこまで厳しい表情でもない。とばり姉もなかなか素直じゃない。
「はは、そういうことにしとくよ。あの人塾通ってるんだっけ。やっぱりそれも受験か?」
「もちろん。塾の方が手っ取り早く受験の情報が手に入るし。それに、私も一から教えるほど暇じゃないわ」
そう言って、紅茶を一気に呷った。
「え、とばり姉が教えてるのか? 大学受験の勉強を?」
あまりに普通の事のように言うせいで、思わず聞き返してしまう。もちろん聞き間違いでもなんでもなく、きょとんとした表情を俺に向けてきた。
「さっきそう言ったでしょう? たかが大学受験じゃない」
「い、いやいや。たかがって……」
「言っておくけどね。日本に飛び級制度があれば今ごろ私はどこかの大学院にでも入ってるわよ。海外留学の話も持ち上がったことだってあるもの」
「か、海外!?」
声が裏返る。が、今の俺はそんなことを気にしている状態でもない。
「とばり姉、日本からいなくなるのか⁉」
「……ふふふっ」
「へ?」
「ふふっ、ふふふ。馬鹿ね。アナタ、日鞠とおんなじ事言ってるわよ?」
「うっ……」
しまった。勢いでつい変なことを口走ったかもしれない。俺は至って大真面目だったのだが。
とばり姉の表情は遠慮することなく、人を小馬鹿にするように微笑んでいた。
「そんな誘い引き受けてたら、今ここに私がいるわけないでしょう? 丁重にお断りしたわ。その時まで誇らしそうだった理事長やら担任の、魂でも抜かれたかのような顔ったら……ふふっ」
そう言うとばり姉の瞳は、どこかうっとりと恍惚の色をなしていた。
言うまでもないことだが、きっとろくでもない断り方だったのだろう。その時の空気の凍りつきようは想像したくもない。
「で、でもさ。海外だろ、海外。それだけ認められてるってことじゃん。行こうとは思わなかったのか?」
気を取り直して聞いてみても、とばり姉は鼻を鳴らすだけだった。
「海外に興味はないわ。私の目的に何の利益も無いもの」
「目的……?」
「復讐したい人間がいるの、私にも」
とばり姉はぼそりとそう言った。
「えっ?」
「いえ、何でもないわ。昔の話よ」
しかし、話す気はないのか、そのまますぐにお茶を濁されてしまった。
「……さて、と。日鞠が戻ってきたらアナタは食器の皿洗いからよ。それと奴隷宣誓書のこと、忘れないようにね」
どうやらとばり姉は、俺が奴隷宣誓書にサインすると確信しているらしい。
実際その通りだ。サインをしなければ、ここから追い出されるのだから。
「分かってるよ。でもさ、とばり姉の勉強の教え方を見てからでも遅くないだろ? 日鞠さんを参考にしないとだし」
「む……まあ、いいわよ。これも立派な復讐代行部の活動だもの。完璧な『復讐』ならぬ、完璧な『復習』を見せてあげるわ」
「……とばり姉、それは別に上手くもなんともないからな。ていうか少し引く。むしろかなりサムい」
「……わ、分かってるわよ! ただのジョークじゃない‼」
「あー、はいはい。そうだな、ジョークだよなー。知ってる知ってる」
「む……なんだか気に食わない返事だけれど、まあいいわ。アナタの名前をゲイサイトに上げて気晴らしするから」
「すいませんでしたー‼」
――――自分の復讐は、良い復讐だと日鞠は言った。
良い復讐って何だ。間違いなく正しい方法でもなければ、誰も傷つかないわけでもない。
それでも、誰かの生きがいになる。目標になる。そんな復讐も、存在すると言う。
おそらく、とばり姉にそんなつもりはないだろう。良いも悪いも関係なく、やって来た依頼を、とばり姉自身が利益を得るようにこなしているだけのはずだ。
それに、俺自身、奴隷の事も正直納得しきれてはいない。
だが、それを俺は、見てみたいと思った。
そんなものがあるのなら、確かめてみたいと思った。
思ってしまったのだ。
それが出来るのは、彼女たちの元ででしかありえない、と。
だが、この日。
とばり姉が言った、約束の期限に。
――――俺は、奴隷宣誓書にサインすることはなかった。
毎日午後十八時更新です。誤字脱字報告、または感想・批評等あればぜひお願いします。




